1サムエル記17章4547節 「主の御名による戦い」

アウトライン

1A 戦陣の神
   1B 征服された状態
   2B 膠着した状態
2A 敵との対峙
   1B イスラエル軍 ― 恐れ
   2B ダビデ ― 関心と確信
3A 大きな違い
   1B 主への確信
   2B 正しい比較
4A 信仰の戦い
   1B 主の偉大さ
   2B 味方なる主
      1C 保持する力
      2C 願いをかなえる能力

本文

 サムエル記第一17章を開いてください。私たちはついに、ダビデの生涯に入っていきます。聖書の神の言葉を愛する人は、ダビデという名をどれだけ主が愛しておられるかを覚えていてください。日本語訳の聖書では彼の名は991回出てきます。彼の名の意味はそのまま「愛された者」であります。神に愛された麗しい人です。そのダビデの生涯の中で最も大切な出来事を本日読みます。それが17章にあるゴリヤテとの戦いですが、今朝の本文は1745節から47節です。

45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」

 投石袋しか持っていない羊飼いの少年ダビデが、完全武装している巨人ゴリヤテに対峙している時の言葉です。

1A 戦陣の神
 ダビデはここで、主の名を「戦陣の神、万軍の主」と呼んでいます。神が戦われる方であり、軍隊を持っておられる方であるということです。

 私たちは、自分の信じている神が戦われる方、戦争を行なわれる方というのがなかなか受け入れられませんね?私たちは特に戦後の平和教育を受けているので、戦力を保持することさえ戦争につながると思ってしまいます。また東洋人として、西洋のキリスト教にある血みどろの歴史を連想してしまうかもしれません。私たちは戦争と無縁の生活をしたいと思います。そして物理的な戦争でないとしても、人間関係において対立を避けようとします。真実や正義よりも調和を重んじる傾向があります。

 けれども、戦争は現に存在するのであり、聖書の歴史は初めから終わりまで戦いを描いていると言っても過言ではありません。天地を神が創造される前に、神の御座がある天において既に天使を造っておられました。そこには完全な秩序と調和がありました。神の意思のままに仕えている天使しかいませんでした。

 けれども、その中で天使長の中の一人であるルシファーが高慢になりました。神の栄光を近くで受けているので、それに自惚れて高慢になり、神のようになろう、いや神以上になろうと思いました。それで神はその天使を引き落とされました。それがサタンであります。サタンの策略に加担した天使がいましたが、彼らも引き落とされました。そこで絶えず天においては、確執があります。サタンあるいは悪魔は神の御座のところからは追放されましたが、空中と呼ばれる天におり、そこから神に近づくことが許されています。そこで、神の御心と反対することを絶えず行なっています。

 そこで、天においては他の天使長がおり、その天使長の下にも天使がおり、そうした悪の勢力どもと戦っている軍団がいます。ミカエルがそうです。彼はモーセの死体のことでは悪魔と言い争いになりました。そして世の終わりにおいては、彼らはついに天において悪魔の軍勢を追い払うことができます。「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。(黙示12:7-8」ですから、神は「万軍の主」と呼ばれるのです。天の軍勢の主であられる方です。

 世の初めに戻りますと、悪魔は蛇の形をして、神の造られた女エバをだましました。それでアダムが罪を犯して、そのために世界に罪が入り、また死も入ってきました。その罪のゆえに必ず争いが起こります。アダムとエバの間に生まれたカインは、弟アベルを殺しました。そしてカインの子孫から暴虐がはびこりました。神は地に平和をもたらすために、ノアとその家族を箱舟によって救われましたが、他は洪水によって地上に生きているものを滅ぼされました。確かに平穏に生きていたいと思いますが、罪と悪によってその調和は乱れます。したがって、その悪に制裁を与えて滅ぼすということが必要になるのです。

 イスラエルが敵と戦っているのは、神が選ばれたカナンの地をイスラエルが所有しようとしているのに、そこに住まわせないようにする敵がいるからです。敵はその地を奪い取りたいのです。ペリシテ人はいつもそのような欲望を持っていました。その欲望に対してどのように対処すれば良いのでしょうか?対話でしょうか?外交的譲歩でしょうか?いいえ、そのようなことを行なっても相手はかえって貪ります。手段は武力でしかありません。それで主は、イスラエルが武力で戦う時にそれを「救い」と呼ばれているのです。

 そして戦いは、私たちの日常生活にも及びます。主イエス様は、弟子たちに対してこう語られたのです。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。(マタイ10:34-37」家族の中における確執が、イエス様によって始めてもたらされます。もしイエス様を自分の救い主として信じていなかったら、決して起こらなかった出来事です。けれどもそれは、弟子である本人たちがイエス・キリストを主とするだけでなく、周りの家族も自分の人生を主イエス・キリストに明け渡して、降伏することを願っておられるからです。

 そしてイエス様は、世界に平和と秩序をもたらされます。その方法は、戦争によるのです。「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。(黙示19:11」世の終わりには、世界中の軍隊がイスラエル方面に集まってくることが預言されています。そして神とキリストとに反抗することが予告されています。イエス様は、これらの反逆者らをご自分の口から出てくる剣でもって滅ぼし、そしてエルサレムに立たれるのです。世界には天変地異が起こり滅ぼされかけますが、神は世界を刷新し、キリストを王として統治せしめます。新しい世界の秩序と平和の中で生きることができるのです。もし仮に、「平和のために戦ってはならない」とイエス様が自制しておられたら、平和に満ちた神の御国は到来せず地上はいつまでも流血と混乱の中で生きつづけなければいけないのです。

 私たちはそもそも、どうして戦争をしてしまうのでしょうか?ヤコブ書4章にこう書いてあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(1-2節)」欲しがること、この貪りがあるから戦いになります。天使が神に反逆したのもそうだし、カインがアベルをねたんだのもそうだし、ノアの時代、暴虐に満ちたのもそうだし、ペリシテ人が戦うのもそうだし、イエスを主と受け入れた家庭に葛藤が起こるのも、世界の軍隊が集まってくるのも、全てが貪りから始まっています。

 したがって、私たちが受け入れなければいけないのは「戦陣の神、万軍の主」です。主によって、貪りを始めとする罪や悪に制裁を与えていただかなければいけないのです。そのために、主に戦っていただかなければいけないのです。貪りに対話が可能だと思いますか?「貪り君、ちょっと話し合って折り合いをつけようよ。」と語りかけることができるでしょうか?貪りは、断ち切ることしかそれをやめさせる手段はありません。だから、戦いが必要なのです。この戦いがあって初めて平和が与えられます。

1B 征服された状態
 けれども多くの人が、「自分には戦うべき課題がない。」と言います。「今の自分には問題がありません。」と言います。いたって平穏な生活を暮らしています、と言います。それが、主にあって感謝して生きている人が言う言葉であれば、すばらしいことです(2テモテ2:13)。けれどもそうではないならば、それは「敵に完全に征服されているから」と言えることがあります。イスラエルもペリシテ人に服従して生きていれば戦う必要がなかったでしょう。けれども、それは本当の自由ではなくペリシテ人によって奴隷状態であるところの平和だったのです。

 パウロが、イエス・キリストを信じる前は、霊的にこのような奴隷状態であったことをエペソ書2章でこう述べています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(1-3節)

 この状態ですと確かに戦いはありません。けれども、それは罪と罪過の中で死んでいるからです。ある母親が自分の息子にこう諭しました。「生きているのは、流れに逆らっている魚だけだよ。」上流に向かって泳いでいる魚だけが生きています。死んだ魚は流れにまかされるだけです。同じように、自分の罪や咎について「何の問題もありません。」と言う人は、空中で権威を持つ支配者の霊のなすがままになっています。

2B 膠着した状態
 そしてもう一つの平穏な状態は、「膠着状態」からであると言えます。イエス・キリストを自分の救い主として心に受け入れました。イエス・キリストが血を流されたことによって、自分の罪が赦され、罪から解放されました。ですから、悪魔や悪霊の流れに言い逆らう決断をしたのです。けれども、その救いの喜びが次第に失われてきました。それは肉の欲望が自分を打ちつけるからです。それは信仰を持つ前から持っていた問題であるけれども、それに立ち向かう勇気を未だ持っていません。ですから、小康状態ではありますが、いつ何時その問題が再発するかしれません。確かに表向きは、戦いは交えていない状態であるかもしれませんが、解放はされていないのです。

 それが、イスラエルの陣営に起こっていることでした。エラという一つの谷を境にして、イスラエル軍が一方の側に、ペリシテ軍がもう一方の側に位置していましたが、膠着状態にありました。そこで巨人がペリシテ人から出てきました。ゴリヤテです。巨人であるだけでなく完全武装しています。そいつが一日に二度、叫ぶのです。「ひとりを選んで、おれのところによこせ。おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。(1サムエル17:89」そして、彼は、「イスラエルの陣をなぶってやる。」と言いました。これを四十日間行なっていたので、イスラエルの陣営は心理的に限界に近づいており、神経がすり減っていました。

2A 敵との対峙
1B イスラエル軍 ― 恐れ
 イスラエルの心を捉えていたのは、「恐れ」です。11節にこう書いてあります。「サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。24節にも、「イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。」とあります。

 「恐れ」というものは、悪魔が常時用いている有効な武器です。恐れによって、多くの人々が神の救いの知識に至っていないと言ってもよいでしょう。神を信じるというのは、神を信頼することです。誰か人を信頼するのと同じように、信頼することです。キリストにある神の愛を知って、この方に信頼することは、この神が良い方であり、この方は私に何の害も与えることなく、私に益を与えてくださる方であると信じていなければできません。けれども、信頼できなくて恐れ退いてしまうのです。「『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:38-39

 タラントの例えでも、「恐れ」についての問題を主は取り扱われています。主人が旅に出かけるので、しもべに財産であるタラントを渡して、それで旅にでかけました。五タラント預かった者はさらに五タラントもうけました。二タラント預かった者はさらに二タラントもうけました。けれども一タラント受け取った者は、なんと地にそれを隠していました。それで主人が戻ってきて、五タラントのしもべ、そして二タラントのしもべに褒美を与えました。

 ところが一タラントのしもべはこう言ったのです。「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』(マタイ25:24-25」この僕は主人を信頼できなかったのです。蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていた、と言っています。つまり「良い行いをしなさい、と言われて、私はそんな良い人間になれるわけないのに、この神は私にできないことを要求している。」と思い違いしていることです。できないことをあえて要求している意地悪な方だと思った、というのです。それが不信となって、そして恐れとなりました。

 そして神に対してだけでなく、仲間の人間に対して抱く恐れも、私たちには大きな罠となります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25」最後の、「守られる」は、口語訳では「安らかになる」と訳されています。

2B ダビデ ― 関心と確信
 では、このように恐れ退いていたイスラエルの陣営の中で、ただ一人ゴリヤテに立ち向かったダビデは、どのような経緯でそうなったのでしょうか?彼は、初めは戦いに一切関わっていませんでした。まだ兵士としての年齢に達していませんでした。兄さん三人が兵役についていたので、ベツレヘムで羊飼いをしながら、父の言いつけに聞き従って、糧食を運んでいただけです。

 けれども、彼が野営地に到着した時に、ちょうど軍勢がときの声を挙げ、陣地で出かけるところでした。それに引き込まれるようにして、彼は兄さんたちの安否を尋ねるために陣地に近づきました。するとペリシテの陣形から何かが出てきたので、イスラエルの人たちが恐れ逃げ惑っているのです。その姿を見てしまった彼は、いったいそいつは何者だ?という関心を捨てることができなかったのです。

 そして、サウル王がそのペリシテ人を倒す者に大きな報酬を与えるそうだという兵士らの会話を聞いて、彼はそんなことに気にも留めませんでした。こう言いました。「「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。(26節)」彼は、イスラエルの陣をなぶっているということは、生ける神の陣をなぶっていることだと言い放ちました。

 つまり、ダビデには大きな関心があったのです。その関心は神に向けられたものでした。神がイスラエルをご自分の陣営として立てておられるのだという強い関心を持っていました。その関心がお使いをしている羊飼いを陣営にまで引き寄せたのです。

 今のアメリカの大きな教会の多くの牧師が、1960年代にヒッピーと呼ばれる若い世代の人々ですが、ヒッピーとはベトナム戦争の反戦運動を始めとし、既成の制度から離れ、愛と平和を求めて共同生活をするようになった人です。お風呂には入らない、髪の毛は男性も伸ばしっぱなしで、また麻薬に溺れる人が多かったのです。チャック・スミス牧師と奥さんケイがカルバリーチャペルを始めて間もなくして、奥さんのケイがヒッピーたちに異常な関心を示しました。「どうして、この子たちはこういう行動を取るのかしら。何を求めているのかしら。」チャック本人は、あまり関心がなく、「汚い奴らだ。」という否定的な感情しかなかったそうです。けれどもケイに促されて、いまやサーフィンのメッカになっているハンティントン・ビーチまで車で行き、そこで祈りを捧げ、彼らに接する時を待っていました。

 そして、自分の娘たちの彼氏がヒッピーであったので、彼を自分たちに紹介してもらいました。次に彼から既に信仰を持っているヒッピーに出会うことができるようになりました。そのヒッピーたちが共同生活をする家も作りました。そこからヒッピーたちが芋づる式にどんどん彼らのところにやってきたのです。そしてヒッピーの一人が伝道に大いに用いられて、爆発的な霊的覚醒がヒッピーの間で起こったのでした。これは「イエス革命」と呼ばれましたが、この霊的革命がなければ今のアメリカはどうなっていたか知れません。ですから、牧師の奥さんのケイが、その異常なまでの関心を示していたところから始まったのです。

 ダビデは、自分が少年なのでペリシテ人との戦いに対する異常な関心を他の者に阻まれました。一人は、長男エリヤブです。自分の羊飼いの仕事もほったらかしにして、戦いを見物にやってきたのだろう、と叱責しました。けれどもダビデは、サウルのところに連れてこられました。ダビデは「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。(32節)」と言いました。けれどもサウルは、「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。(33節)」と言いました。それでも、彼の関心はそがれることがありませんでした。

 そして彼はとてつもない確信を抱いています。彼はサウルに対して、羊飼いをしていて、獅子や熊が羊を襲ってくる時に素手で羊を奪い取っていることを話し、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。(37節)」と言ったのです。主がこれまで真実を尽くして、勝利を与えてくださったのだから、これからも主は救い出われると確信していました。そしてゴリヤテに対峙します。こう言いました。「きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。(46節)

3A 大きな違い
 なぜこうも違うのでしょうか?おじけているイスラエルの陣と、この少年ダビデの大胆さの違いは何なのでしょうか?

1B 主への確信
 ダビデは、主の救い、主の戦いを見つめていました。対してイスラエルの陣営は、ゴリヤテの強さと力を見つめていました。ダビデの言葉をたどっていくと、それがよく分かります。26節、「生ける神の陣をなぶるとは」、同じく36節にも、「生ける神の陣をなぶったのですから」、そして今読んだ、37節、「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」そして、本文である45節からの言葉です。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」わかりますか、主ご自身だけを見つめ、そして主の救いだけに確信を持っていました。

2B 正しい比較
 ここで大切なのは、ダビデが何と何を比較していたかです。イスラエルの陣営は、自分たちの兵力とゴリヤテのそれとを比較していました。だから、到底勝ち目がないと思っていました。ダビデがもしそのような比較をしていたら、彼らよりもさらに勝ち目がなかったでしょう。武装していない、羊飼い少年なのですから。持っていたのは、獅子や熊に対峙するときに使っていた投石用の袋と石投げだけなのです。

 けれどもダビデが比較していたのは、主ご自身とこのゴリヤテです。彼の眼中にはゴリヤテの愚かさしか見えませんでした。エジプトの川を分けて、エジプトの精鋭部隊を一気に滅ぼした主、エリコの城壁を一気に崩してくださった主、太陽と月を留まらせてくださった主、その他、数々の戦いで戦ってくださった主が、このようなちっぽけな剣や槍で向かってきているのです。そして、主はたった一つの石でゴリヤテを倒してくださいました。

4A 信仰の戦い
1B 主の偉大さ
 皆さんの霊的な小康状態、または膠着状態を考えてみましょう。私たちの前にペリシテのゴリヤテがいるかもしれません。その問題に直面するのを恐れていたかもしれません。けれども、では主はどのようにその問題を見ておられるでしょうか?

 パウロは自分の内に働く罪の法則で悩んでいました。善を行ないたいのに悪を行なっている自分を見ました。それで自分がここから本当に救われるのだろうか?と嘆きました。けれども彼はその問題だけを見つめるのをやめたのです。彼は、十字架につけられたキリストを思い出したのです。自分の肉と同じ肉体をキリストは持っておられたではないか?その肉体において、いま自分が数多く行なってしまった罪の処罰をすべて受けてくださったではないか?「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ローマ8:3」ダビデがゴリヤテを打ち倒したように、神が自分の肉を対してどのようにキリストにあって滅ぼしてくださったかを見つめたのです。

 そして、この肉は確かにアダムから受け継いでいる罪を宿しているが、この肉体にしたがって生きことがないように新しい命を与えられたことも見つめました。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(コロサイ2:12」キリストを死者の中からよみがえらせた力を神が持っておられる。であれば、この罪にまみれた肉体をも神に服従させる力を持っておられる、とみなしたのです。

 ですから、問題から目を離すのです。いや、問題を神が直視しておられるように直視するのです。神がこのとてつもない問題を打ち滅ぼすという信仰を持つのです。

2B 味方なる主
1C 保持する力
 主はすばらしい約束を与えておられます。ローマ831節です。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」神はみなさんの味方です。ですから、神がダビデの味方になってくださったように、自分のうちにある問題、自分の周りにある問題について、神は敵対しておらえれるのではなく、むしろあなたのために戦って、打ち滅ぼすことを願っておられます。

 あなたを支えてくださる神の決意は、あなたを滅ぼそうとしている敵どもの決意よりもさらに強力です。ユダ24節、「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」主が守ることがおできになります。そして主が戻ってこられるときに、大胆に傷のない者として立たすことがおできになります。そしてヨハネ第一44節です。「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(1ヨハネ4:4」主があなたを滅ぼそうと徘徊している悪魔よりも、さらに力ある方です。

2C 願いをかなえる能力
 そして主に願ってください。必ず、いや自分の想像以上にその願いをかなえてくださいます。「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、(エペソ3:20」今は分からのかもしれません、いやわからないのです。なぜなら、自分の思うところを超えたところに、主の御心があるのです。けれどもそれは、自分の願いをかなえてくださる祈りの答えなのです。主の力によって、その巨人を打ち倒すことができます。

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