1サムエル記19−21章 「逃亡生活の始まり」

アウトライン

1A 殺意の公言 19
   1B ヨナタンの勇気 1−7
   2B 制御の利かない殺意 8−24
      1C ダビデの成功 8−10
      2C ミカルの恐れ 11−17
      3C 神の霊の守り 18−24
2A 永遠の誓い 20
   1B 殺意の確認 1−9
   2B 伝達方法 10−23
      1C ダビデの恵み 10−17
      2C 子供を使った暗号 18−23
   3B 殺害の確証 24−34
   4B 最後の別れ 35−42
3A 逃亡の始まり 21
   1B 祭司 1−9
   2B ガテの王 10−15 

本文

 19章を開いてください。私たちは前回、サウルがダビデを疑いの目で見るようになりました。女たちが踊って、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。(18:7」と歌ったからです。サウルは、ダビデにないのは王位だけだ、と言いました。サウルはこれを放棄していくべきでした。すでにサムエルから、王位が自分から退けられて、自分の友に与えられると言いました。ところがそれをできない、というサウル自身の問題だったのです。それで彼はダビデを自分のところから引き離し、かつペリシテ人の手に落とすべく画策しましたが、それがかえってダビデに大勝利をもたらし、かつ自分の娘ミカルまでが彼の妻になったのです。

1A 殺意の公言 19
 心に思っている欲望は、必ず口によって結実します。サウルは公言しました。

1B ヨナタンの勇気 1−7
19:1 サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。19:2 それでヨナタンはダビデに告げて言った。「私の父サウルは、あなたを殺そうとしています。それで、あしたの朝は、注意して、隠れ場にとどまり、身を隠していてください。19:3 私はあなたのいる野原に出て行って、父のそばに立ち、あなたのことについて父に話しましょう。何かわかったら、あなたに知らせましょう。」

 ヨナタンの勇気ある行動をここに見ます。「サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。」とあるのは、通常であれば決してしないことをダビデのために行なった、ことを表しています。ダビデを隠れさせました。「あなたの父と母を敬いなさい」という神の命令のように、ヨナタンは父サウルに逆らうことを願わくはしたくありません。そして、王の殺意を聞いた家来だって、ダビデのことを愛していましたから、これもまた辛かったでしょう。

 けれども他の家来と異なり、ヨナタンはダビデを非常に愛していました。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(箴言17:17」平素の時に付き合っているのが友達ではありません。友情の真価は苦しみの時に試されます。そして、彼はダビデに隠れたことを明かすのをためらいませんでした。これも、午前礼拝で学びましたが友である証拠です。友は、相手に自分のことを明かすことをためらいません。

19:4 ヨナタンは父サウルにダビデの良いことを話し、父に言った。「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとっては非常な益となっています。19:5 彼が自分のいのちをかけて、ペリシテ人を打ったので、主は大勝利をイスラエル全体にもたらしてくださったのです。あなたはそれを見て、喜ばれました。なぜ何の理由もなくダビデを殺し、罪のない者の血を流して、罪を犯そうとされるのですか。」

 ヨナタンは、父よりもダビデを優先させましたが、それは父を大切にしていないとか、神を大切にしていないということではありません。むしろ、「殺してはならない」という神の戒めがあります。そして、父にとってもダビデは益になっているのであり、父をも敬っているからこそ、このように率直に話しているのです。サウルなのかダビデなのか、という二者択一ではなく、神を愛し、それでダビデにとってもサウルにとっても益になることを語っています。

19:6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」

 サウルは、自分の思いを定められていない人です。「主は生きておられる」という思いは、彼は偽っていません。ダビデは殺されるべき罪を犯しておらず、彼がイスラエルの王になることを知っているのです。けれども、その良心にしたがって自分の意志を降ろすことができなかったのです。

 ちょうどパウロがまだ迫害者であった時の心の状態に似ています。イエス様が彼に話しました。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。(使徒26:14」興味深いことに、パウロは以前サウロという名であり、ベニヤミンの出であります。このサウル王と同じ名で同族の者です。「とげのついた棒」とは、畑を耕す牛の足の後ろに取り付けられた突き棒のことです。くびきを嫌がり、それをふるいのけようとして足を蹴ると、その棒に当たるようになります。くびきを振り払うと痛みを伴いますから、そのくびきに身を任すことが自分を休ませることができる方法なのです。それをイスラエルの王サウルも行うべきでした。

19:7 それで、ヨナタンはダビデを呼んで、このことのすべてを告げた。ヨナタンがダビデをサウルのところに連れて行ったので、ダビデは以前のようにサウルに仕えることになった。

 これで和解は成立しました。ヨナタンは、当事者に直接、その過ちを話しました。イエス様は、教会の中でも同じように行いなさいと命じておられます。「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。(マタイ18:15」私たちが問題のある当人に話さず、周りにそれを言い触らしたらこのイエス様の命令に背いていることになります。これができるのは、真に相手の益を思って話す兄弟愛です。

2B 制御の利かない殺意 8−24
1C ダビデの成功 8−10
19:8 それからまた、戦いが起こったが、ダビデは出て行って、ペリシテ人と戦い、彼らを打って大損害を与えた。それで、彼らはダビデの前から逃げた。19:9 ときに主からの悪い霊がサウルに臨んだ。サウルは自分の家にすわっており、その手には槍を持っていた。ダビデは琴を手にしてひいていた。19:10 サウルが槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた。ダビデは逃げ、その夜は難をのがれた。

 サウルは元に戻ってしまいました。ダビデが同じようにペリシテ人との戦いで大勝利を収めていたため、ねたみを抱いたからです。サウルを悩ます悪い霊は、唯一、神の御手に自分を服従させることによってしか追い出すことはできません。霊の戦いについて、多くの人が過ちを犯しています。ヤコブ書には、こう勧められています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。(4:7」悪魔に立ち向かう前に、神に従う必要があるのです。自分が神の御心に服していないのに、悪魔に抵抗し、悪霊を追い出すことなどできないのです。「これはサタンの仕業だ」と思った時は、まずは自分自身が神の命令に従っているかどうか確かめることです。

2C ミカルの恐れ 11−17
19:11 サウルはダビデの家に使者たちを遣わし、彼を見張らせ、朝になって彼を殺そうとした。ダビデの妻ミカルはダビデに告げて言った。「今夜、あなたのいのちを救わなければ、あすは、あなたは殺されてしまいます。」19:12 こうしてミカルはダビデを窓から降ろしたので、彼は逃げて行き、難をのがれた。19:13 ミカルはテラフィムを取って、それを寝床の上に置き、やぎの毛で編んだものを枕のところに置き、それを着物でおおった。

 テラフィムは、家の中に置く偶像です。かつてラケルが自分の父ラバンからそれを盗って、自分のものにしてしまいました。シェケムでディナが犯されて、兄シメオンとレビがシェケム人を虐殺した後に、ヤコブが「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き」なさい、と言いました(創世35:2)。ラケルとしては、幸運が来るという程度の軽いノリでそれを置物にしたかったのでしょうが、立派な偶像だったのです。ミカルもそれを持っていました。

19:14 サウルがダビデを捕えようと使者たちを遣わしたとき、ミカルは、「あの人は病気です。」と言った。19:15 サウルはダビデを見ようとして、「あれを寝床のまま、私のところに連れて来い。あれを殺すのだ。」と言って使者たちを遣わした。19:16 使者たちがはいって見ると、なんと、テラフィムが寝床にあり、やぎの毛で編んだものが枕のところにあった。19:17 サウルはミカルに言った。「なぜ、このようにして私を欺き、私の敵を逃がし、のがれさせたのか。」ミカルはサウルに言った。「あの人は、『私を逃がしてくれ。私がどうしておまえを殺せよう。』と私に言ったのです。」

 ミカルは、ダビデを愛していました。ですから、彼を逃がしたのです。けれどもサウルは問い詰めると、嘘を付いてしまいました。恐ろしかったからでしょう。これが、同じくサウルを父に持つヨナタンとの違いです。ヨナタンは、神を愛し、そしてダビデを愛する思いから、父に対して良心から言う言葉を持っていました。けれどもミカルには、神を愛するという部分が欠けていました。テラフィムを持っていることからも、そのことが伺えます。夫を愛する恋愛感情だけでは、このような時に耐ええる力を持っていないのです。

 ダビデは、ずっと後にサウルとヨナタンがペリシテ人との戦いで倒れて、彼らを悼み哀しむ歌をうたいますが、その中でダビデはこう言いました。「あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。(2サムエル1:26」ヨナタンの友としての愛のほうが、ミカルの女としての愛よりも優っていた、ということです。

 ところでダビデは、この時のことを思って、詩篇59篇を書き記しています。59篇の題名が、「ダビデを殺そうと、サウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに」となっています。初めの1-5節を読みます。「わが神。私を敵から救い出してください。私に立ち向かう者が届かぬほど、私を高く上げてください。不法を行なう者どもから、私を救い出してください。血を流す者どもから、私を救ってください。今や、彼らは私のいのちを取ろうと、待ち伏せています。力ある者どもが、私に襲いかかろうとしています。主よ。それは私のそむきの罪のためでもなく、私の罪のためでもありません。私には、咎がないのに、彼らは走り回り、身を構えているのです。どうか目をさまして、私を助けてください。どうか、見てください。あなたは万軍の神、主。イスラエルの神。どうか目をさまして、すべての国々を罰してください。悪い裏切り者は、だれをもあわれまないでください。セラ

 これからダビデは逃亡生活が始まりますが、数多くの詩篇がこの時からの出来事を背景としています。後でダビデはヨナタンに、「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」と言います。彼が死に直面して、そこからの救いを祈り願っているものであります。ですから、この逃亡生活から彼は、まことの神に飢え渇き、慕い求める姿を見せ始めます。そして、私たちのあらゆる生活の局面に力を与える歌詞を残していくのです。ヨブもそうでしたが、ここに苦しみの意義があります。自分に与えられている「生命」と対面すること、そして命を付与される神との真実な関わりを与えてくれるのです。

3C 神の霊の守り 18−24
19:18 ダビデは逃げ、のがれて、ラマのサムエルのところに行き、サウルが自分にしたこといっさいをサムエルに話した。そしてサムエルと、ナヨテに行って住んだ。

 逃げるには、もっともな所であります。サムエルが、いま起こっていることを霊的に判断することのできる最適な人物です。サウルから王位が退けられてダビデに移ったことを宣言したのがサムエルです。

19:19 ところが、「ダビデは、なんと、ラマのナヨテにいます。」とサウルに告げる者がいた。19:20 そこでサウルはダビデを捕えようと使者たちを遣わした。彼らは、預言者の一団が預言しており、サムエルがその監督をする者として立っているのを見た。そのとき、神の霊がサウルの使者たちに臨み、彼らもまた、預言した。

 サウルは、次世代の預言者を養成するために、預言者の一団を指導していました。今でいう、聖書学校や牧会者訓練校のようなものです。このような一団を預言者エリシャも持っていました。

19:21 サウルにこのことが知らされたとき、彼はほかの使者たちを遣わしたが、彼らもまた、預言した。サウルはさらに三度目の使者たちを送ったが、彼らもまた、預言した。

 サムエルは武器を持っていませんが、さらに強力な守りを持っていました。主の御霊ご自身が、サムエルの家を守っておられました。預言の霊が降り注ぎ、使者たちはダビデを捕えることができませんでした。

19:22 そこでサウル自身もまたラマへ行った。彼はセクにある大きな井戸まで来たとき、「サムエルとダビデはどこにいるか。」と尋ねた。すると、「今、ラマのナヨテにいます。」と言われた。19:23 サウルはそこからラマのナヨテへ出て行ったが、彼にも神の霊が臨み、彼は預言しながら歩いて、ラマのナヨテに着いた。19:24 彼もまた着物を脱いで、サムエルの前で預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていた。このために、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」と言われるようになった。

 サウルは、三度も主からの警告を受けていました。けれども、それに聞き従いませんでした。そして、彼は先の使者たちと同じように行く手を阻まれています。

 ところで、着物を脱いで裸になっている、という表現は全裸になっていることではありません。王族の来ている着物を脱いで平民と同じような姿になっていることを表しています。後にダビデが、神の箱をエルサレムに運んで行く時、亜麻布のエポデをまとっていたのですが、ミカルはそれを見て、「あなたは自分の家来のはしための目の前で裸になって(2サムエル6:20」となじりました。したがってこの文脈では裸になるということはむしろ、主の前に出てへりくだっている表れでした。そして以前、サウルに主の御霊が降った時も、「サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言われましたが、「サウルが牧師になっちゃったよ。」というような言い回しに似ています。宗教にのめり込んだ、というような表現です。

 神の御心に反することを行なっているのに、それでも預言を行なうことのできるというのは事実です。しるしを見るからと言って、その人が主と共に歩んでいる人物だと限らないことを知ることは大切です。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:22-23

2A 永遠の誓い 20
1B 殺意の確認 1−9
20:1 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」

 ダビデ自身が、サウル王の殺意を確信しました。以前、槍を投げつけられて二度交わしましたが、あまりにも状況証拠が揃いすぎました。ヨナタンからサウルが殺意を公言していることを伝え聞き、再び槍を投げつけられ、それから自分の家にまで使者を送られ殺されそうになり、そしてサムエルの家に使者だけでなく本人も近づいたのです。殺されるのであれば、それ相応の罪を自分が犯していなければいけないのだが、それが見当たらない。なぜ命を求めているのかがわからない、という訴えです。

20:2 ヨナタンは彼に言った。「絶対にそんなことはありません。あなたが殺されるはずはありません。そうです。私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょう。そんなことはありません。」20:3 ダビデはなおも誓って言った。「あなたの父上は、私があなたのご好意を得ていることを、よくご存じです。それで、ヨナタンが悲しまないように、このことを知らせないでおこう、と思っておられるのです。けれども、主とあなたに誓います。私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかありません。」

 ヨナタンは、父を尊敬していました。そしてこれまで、二人の間に意志疎通の大きな隔たりはありませんでした。だからこれまでの父の経歴では、父が何か行動を起こす時に息子に語っていたのです。事実、19章の始まりは息子と家来に自分の殺意を語っていました。

 けれどもダビデは、それはヨナタンのことを気づかってのことだ、と言っています。そして今、現実に差し迫っている問題を言っています。「私と死との間には、ただ一歩の隔たりしかない」ということです。私たちは、日常生活においては絶えず「自分はこれから長いこと生きる」という何の保証もない前提で生きています。明日死んだら、たった今死んだら、という想定なしに生きています。だからダビデの切実さは想像しにくいかもしれません。

 皆さんはご自身が、死の危険を味わった方はおられるでしょうか?「もう死ぬかもしれない」と覚悟するような体験は持っておられるでしょうか?また、身近な人が死ぬという経験は持っておられるでしょうか?私に唯一あるのは、自分の母方の祖母が、私が病院に到着したその時に死んだという体験です。着いたら、伯父の夫婦がおられて、「おばあちゃん、今死んじゃったよ。」と言われたのです。そしてそのまま伯父の車に乗せられて自宅に向かい、私の祖母は自分の生活空間であった和室で、葬儀屋の方々が彼女への衣服を着せ整えていきました。私は、「命は続く」という期待がいかに甘い考えであるか、非常に悔いました。それで、今生きている両親に対してこの思いを神に申しあげていかなければいけないと思ったのです。私たちはこれから、こうした「死に迫っている人」であるダビデをサムエル記第一の終わりまでずっと読んでいきます。主に対して真剣に叫び求めることを学んでいきたいと思います。

20:4 するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」20:5 ダビデはヨナタンに言った。「あすはちょうど新月祭で、私は王といっしょに食事の席に着かなければなりません。私を行かせて、三日目の夕方まで野に隠れさせてください。20:6 もし、父上が私のことをとがめられたら、おっしゃってください。『ダビデは自分の町ベツレヘムへ急いで行きたいと、しきりに頼みました。あそこで彼の氏族全体のために、年ごとのいけにえをささげることになっているからです。』と。20:7 もし、父上が『よし。』とおっしゃれば、このしもべは安全です。もし、激しくお怒りになれば、私に害を加える決心をしておられると思ってください。

 サウルの態度を確認するために、彼を試す案を挙げています。新月祭とは、モーセの律法に定められた祭りです(民数28:11)。その時サウルは側近の者たちと食事をしていました。その時に、丸二日間、ダビデが欠席するようにする、というものです。その理由を、実家でいけにえを捧げるためである、とします。ダビデがサウルに対する忠誠をいささか疑わせるようなことを行なって、彼の態度を確かめるのです。

20:8 どうか、このしもべに真実を尽くしてください。あなたは主に誓って、このしもべと契約を結んでおられるからです。もし、私に咎があれば、あなたが私を殺してください。どうして私を父上のところにまで連れ出す必要がありましょう。」20:9 ヨナタンは言った。「絶対にそんなことはありません。父があなたに害を加える決心をしていることが確かにわかったら、あなたに知らせないでおくはずはありません。」

 ダビデがヨナタンに使っている言葉は、自分の曾祖父母であるボアズとルツが数多く使った言葉と同じです。「ヘセド」であります。「真実を尽くしてください」というのがその言葉です。ヨナタンは、本来はしなくてもよいことをダビデは頼んでいます。友として行うべきことの領域を越えています。けれども、相手を敬い愛しているがゆえに、それ以上の親切を行なうのがここの真実です。愛というのは、決められた事以上のことを自分の犠牲を顧みずに行うことのできる源泉であります。

 そしてヨナタンも呼応して、「あなたに知らせないでおくはずはない」と言っています。父と息子との間にある、知らせないでおくことのない関係を、ヨナタンはダビデに対して知らせないでおくことはないと言ってそれと同等の価値を置いています。

2B 伝達方法 10−23
1C ダビデの恵み 10−17
20:10 ダビデはヨナタンに言った。「もし父上が、きびしい返事をなさったら、だれが私に知らせてくれましょう。」

 このことは、簡単に言えばあってはならない極秘事項です。王が何の罪もない婿を、いや王にとって大きな益になっている婿を殺害しようとしていることなど、この時点で誰も知ってはいけない秘匿になります。そしてこれをヨナタンがダビデに伝えているということが知られたら、さらに大変なことになります。そこでどうやって、それを聞けば良いのかをダビデがヨナタンに尋ねています。

20:11 ヨナタンはダビデに言った。「さあ、野原に出ましょう。」こうしてふたりは野原に出た。20:12 ヨナタンはイスラエルの神、主に誓ってダビデに言った。「あすかあさってかの今ごろ、私は父の気持ちを探ってみます。ダビデに対して寛大であれば、必ず人をやって、あなたの耳に入れましょう。20:13 もし父が、あなたに害を加えようと思っているのに、それをあなたの耳に入れず、あなたを無事に逃がしてあげなかったなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰せられるように。主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。

 これは、「もう顔を会わせることができないかもしれない」ということの言い回しです。これが最後の別れになるかもしれないので、ヨナタンは、かつて主がサウルにご自分の霊を注がれて共におられたように、ダビデにも御霊が注がれてイスラエルの王として立ちますように、ということを話しています。

20:14 もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、20:15 あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」

 これは午前礼拝で説明したとおり、王権の移行にともなう権力闘争ことを話しています。前政権の王家は皆殺しにされるのが常でした。それをヨナタンの家は生かしておいてくれと頼んでいるのです。この恵みは、まさにキリストの姿を表しています。ヨナタンがダビデに、自分の王子の権威と位を彼に喜んで差し出しました。同じようにキリスト者は、キリストの自分の王座を喜んで明け渡す存在です。そしてキリストは、本来なら罪によって滅ぼされなければいけない私を恵んでくださり、義と認めて生かしてくださるのです。

20:16 こうしてヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われるように。」20:17 ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである。

 主がダビデの敵に血の責めを問われる、というのは、ダビデが復讐することのないために、という意味でもあります。復讐はすべて神が行なわれます。この誓いの中でダビデは生きていくことのなります。決して彼は復讐のために手を下すことはありませんでした。そして、主は真実で、ダビデの敵が倒れていくようにしてくださいました。

2C 子供を使った暗号 18−23
20:18 ヨナタンはダビデに言った。「あすは新月祭です。あなたの席があくので、あなたのいないのが気づかれるでしょう。20:19 あさってになれば、きびしく問いただすでしょうから、あなたは、あの事件の日に隠れたあの場所に行って、エゼルの石のそばにいてください。

 サウルがダビデを殺すことを言い表した時に、ヨナタンが一時期ダビデに隠れていなさいといった場所です。

20:20 私は的を射るように、三本の矢をそのあたりに放ちます。20:21 いいですか。私が子どもをやって、『行って矢を見つけて来い。』と言い、もし私がその子どもに、『それ、矢はおまえのこちら側にある。それを取って来い。』と言ったら、そのとき、あなたは出て来てください。主は生きておられます。あなたは安全で、何事もありませんから。20:22 しかし、私が少年に、『それ、矢はおまえの向こう側だ。』と言ったら、あなたは行きなさい。主があなたを去らせるのです。20:23 私とあなたが交わしたことばについては、主が私とあなたとの間の永遠の証人です。」

 子どもを使った暗号を交わすことになります。そして、「永遠の証人」とヨナタンは言っていますが、これは大げさに言ったのではなく、永遠の神、主の前で交わす誓いである、ということです。「私はあなたを逃がすことを、主の前で行ないます。」と言っているに等しいです。私たちもある意味、この誓いを立てたのです。つまり、永遠の救いを与えられる神に自分の人生を任せる決断です。

3B 殺害の確証 24−34
20:24 こうしてダビデは野に隠れた。新月祭になって、王は食事の席に着いた。20:25 王は、いつものように壁寄りの席の自分の席に着いた。ヨナタンはその向かい側、アブネルはサウルの横の席に着いたが、ダビデの場所はあいていた。

 新月祭は、サウルとヨナタン以外には、ダビデと将軍アブネルの四人だけの会食でした。

20:26 その日、サウルは何も言わなかった。「あれに思わぬことが起こって身を汚したのだろう。きっと汚れているためだろう。」と思ったからである。

 レビ記223-9節に、汚れたまま聖なるものを受け取ることに対する戒めがあります。それに該当することを行なったのだろうとサウルは思いました。

20:27 しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。「どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。」20:28 ヨナタンはサウルに答えた。「ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。20:29 『どうか、私を行かせてください。私たちの氏族はあの町で、いけにえをささげるのですが、私の兄弟が私に来るように命じています。今、お願いします。どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください。』と言ったのです。それでダビデは王の食卓に連ならないのです。」20:30 サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。「このばいたの息子め。おまえがエッサイの子にえこひいきをして、自分をはずかしめ、自分の母親の恥をさらしているのを、この私が知らないとでも思っているのか。

 ものすごい怒号と罵りです。「ばいたの息子」と自分の息子を呼ばわっています。つまり、このようなことを言う奴は、売春婦から生まれた子であり、正式な息子ではないのだ、という意味合いです。そして、「エッセイの子」と言っているのは、かなり見下しています。ベツレヘムで氏族のためのいけにえのことを話したので、王たる自分の席よりも、そうした貧しく卑しい家のほうを優先していやがるな、という罵倒であります。

20:31 エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。」

 ここにサウルの本音が明らかにされました。なぜ、サウルがダビデの命を狙っているのか、それをヨナタンの前でも明らかにしたのです。王位が危うくなる、ということです。

20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。

 サウルがダビデに槍を投げたように、今度はヨナタンに槍を向けました。これでヨナタンは、ダビデが言っていたことが確かにそのとおりであることを知ったのです。

20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからである。

 そうですね、自分自身のように愛している人が侮辱されて、心を痛めないはずがありません。「愛」というのは、自分を忘れてその愛している対象のことで傷を受ける行為だ、と言っても過言ではないでしょう。その愛している対象が自分に反抗するのであれば、心が痛みます。その愛している対象が、他の者に貶められていても心が痛みます。私は、「心にストレスを溜めないための健康法」であるとか、精神管理には疑念を持っています。それよりも今の社会に必要なのは、むしろ「愛するゆえ、自分も忘れて心を痛める方法」という精神管理が必要だと思います。愛や関心が、神と隣人ではなく自分に向けさせよう、向けさせようとしているのが今の社会です。心を痛めるのは愛があるという健全な心の表れです。

4B 最後の別れ 35−42
20:35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野原に出て行った。20:36 そして子どもに言った。「私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。20:37 子どもがヨナタンの放った矢の所まで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んで言った。「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。」20:38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。20:39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味がわかっていた。20:40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ。」と言った。

 これは緊張の瞬間です。他にばれることなく行っている暗号通信ですが、ばれてしまうかもしれない危険を冒して行なっています。そしてこれは悲しみの瞬間でもあります。ダビデの生涯はここから逃亡者となります。誰にも頼ることのができない、神のみに頼る世界に入っていきます。

20:41 子どもが行ってしまうと、ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。20:42 ヨナタンはダビデに言った。「では、安心して行きなさい。私たちふたりは、『主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です。』と言って、主の御名によって誓ったのです。」こうしてダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

 ヨナタンは幾度、誓いを立てたでしょうか?これだけ、ヨナタンはダビデを愛していました。私たちの主も同じように、約束の言葉、誓いの言葉を語ってくださいます。いかに私たちを愛しておられるのかを、一度ならず、二度も三度も、同じことを語ってくださいます。

3A 逃亡の始まり 21
 21章から、正式な(?)逃亡生活です。彼が初めに言ったところはどこでしょうか?

1B 祭司 1−9
21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

 祭司のところでした。ノブはベニヤミン領にあり、エルサレムの北東の山にあります。今、スコパス山と呼ばれ、そこからエルサレムが一望できます。そこに祭司の住む町があったのです。そして、ここに神の幕屋もありました。ダビデが初めに求めにいくところが祭司のところ、というのが、彼の心を表しています。主を礼拝するところから出発したかったのです。けれどもアヒメレクは、すぐに異変に気づいています。なぜ部下もおらず独りだけなのか、分かりかねたのです。

21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

 ダビデは到底、真実を祭司に明かすことはできませんでした。こんな捻じれ現象をどうして理解してもらえるでしょうか?王の婿であり、かつペリシテ人との戦いで大勝利を与えている勇士が、その王から追われているなどどうして言えるでしょうか?それで極秘任務であると偽りました。

21:3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」21:4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

 ダビデは空腹で苦しんでいました。それでパンを願っていますが、祭司は聖なるパンしかないと言っています。これは幕屋の中で、供えのパンの机にある十二個のパンのことを指しています。それを安息日ごとに整えて、その後のパンは祭司たちが食べなければいけないことが、レビ記245-9節に定められています。けれども、祭司はダビデにパンを与えることを優先させました。そこには、祭司についての規定には神の聖なる目的があるけれども、空腹な人、困っている人に対する神の憐れみがそれに優っているということを彼は知っていたからです。イエス様が、安息日に穂を摘んで食べていた弟子たちを咎めた律法学者たちに対して、この話を持ち出されました。主は言われました、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7

 私たちは時に、神に対して熱心なあまり、人の弱さに対する憐れみを見失ってしまうことがあります。決して神の命じられたことをないがしろにしてはならず、こうした箇所を歪曲して自分の欲やわがままのために利用することは、厳に慎まなければいけません。けれども、熱心なあまり捧げることが中心になり、もっと大切な愛と憐れみを忘れてしまう時があります。ですから私たちは絶えず、自分の心が主の御霊によって満たされるようにしておき、アヒメレクのように時に応じた対応をしなければいけません。

 祭司アヒメレクは、この場におけるその他の判断として、「女から遠ざかっている」ことをしているか問いました。これはレビ記15章に出てくる、漏出物についてのおきてです。夫婦関係を持った後は汚れるが、水による全身の洗いを行なえばその次の日にはきよくなる、という掟です。ダビデは逃げている身ですから、何の問題もありません。

21:7 ・・その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった。・・

 ドエグはユダヤ人ではなくエドム人です。エドム人がその父祖エサウが、長子の権利を取られたことを恨んだのが原型となり、イスラエルに対して復讐をすることしか考えていないことがその民族の特徴となりました。エゼキエル35章には、いつまでもイスラエルに敵意を抱いているエドムに対する神の裁きが書かれています。

 そのエドム人のドエグが、「主の前に引き止められていた」とあります。これはどういう意味なのか?まずドエグが主を礼拝したいからここにいたのではないことは、次の章を読めば明らかになります。彼は祭司たちを虐殺するのを買って出るのです。ここにいるのは、サウル家の一員として義務を果たしている儀礼であります。では、「引き止められていた」というのはどういうことでしょうか?これは、彼が「つわもの」とあるように、ダビデを殺そうと思えばすぐにでも殺すことができたのに、それが引き止められていた、ということです。「主の前」とありますが、主を礼拝しているという手前、彼はそれがその時点ではできないようにされていた、ということです。

 興味深いことに、不法の秘密が働いているのに、引き止める者がいるので不法の人が現れていない、ということがテサロニケ第二2章に書いてあります。「あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(2テサロニケ2:6-7」反キリストの現われがあってもおかしくないのに、引き止めている方がおられるので、出現することができないということです。これは聖霊ご自身であると考えられ、そして聖霊の宿る教会であると考えられます。

21:8 ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」21:9 祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」

 主の配剤でしょうか、自分が打ち殺したゴリヤテの剣が祭司のところにありました。主の勝利を象徴する分捕り物ですが、それをまさかこのような形で自分の護身になるとは思ってもいなかったでしょう。

2B ガテの王 10−15
21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

 ガテはペリシテ人の町です。アキシュというのは名前ではなく、王の称号だと考えられます。なぜダビデが急に、敵陣であるペリシテ人のところに来たのか?それは、サウルの支配しているところでは常に危険が迫っているからです。敵の敵のところにしか安住するところがないと判断しました。ダビデは後で明かしますが、ドエグが自分を見ていたことを彼は知っていました。それでドエグが何かをしでかすかもしれないことも知っていました。ですから、サウルの支配するイスラエルにいる限り、このように自分だけでなく他者にも被害を及ぼすことになります。

 詩篇56篇に、この時のことをダビデが歌にしています。題名に、「ペリシテ人が、ガテでダビデを捕えたときに」とあります。そうです、彼は投降しようとしたのではなく、ただペリシテ人の領域に潜んでいただけです。ところが捕まってしまったのです。

21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」21:12 ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

 あの女たちが歌った歌は、ペリシテ人たちの間にも広まっていました。まさにペリシテ人にとって最大の敵であります。ダビデに恐怖の戦慄が走りました。

21:13 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。21:14 アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。21:15 私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

 ダビデは救い出されました。気違いを装って、救われました。この時のことを、詩篇56篇、また34篇で歌っています。56篇では、恐れの中でそれでも主に信頼することを歌っています。「神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。(56:1-4」そして、34篇では救われた後にほめ歌を歌っています。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。私が主を求めると、主は答えてくださった。私をすべての恐怖から救い出してくださった。(34:1-4」どちらも、主のにみ拠り頼み、主が救い出してくださったことをほめたたえています。

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