サムエル記第一21−22章 「逃げるダビデ」


アウトライン

1A 逃亡の開始 21
   1B 祭司のところへ 1−9
   2B 異邦人のところへ 10−15
2A 仲間の形成 22
   1B 困窮者 1−5
   2B 犠牲者 6−23
      1C サウルの被害妄想 6−10
      2C 事情を知らないアヒメレク 11−19
      3C 残された祭司 20−23

本文

 サムエル記第一21章を開いてください。今日は21章と22章を学びます。ここでのテーマは、「逃げるダビデ」です。私たちは前回、サウルが本当にダビデを殺すことを意図しているかどうかを試すために、新月祭の食事の席にダビデが出席しなかったところを読みました。サウルは、怒ってダビデは死ななければいけないと反応したことで、ダビデはヨナタンと最後の別れを告げて、逃亡生活を始めます。ここから第一サムエル記の最後にサウルが死ぬときまで、その逃亡生活が続きます。

1A 逃亡の開始 21
1B 祭司のところへ 1−9
 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」

 ダビデが逃げてから初めに行ったところが、祭司がいるノブという町でした。ここにダビデの心が現われていると思いますが、彼は礼拝する人、神を心から愛している人であることが分かります。けれどもダビデはたった一人だったので、アヒメレクは異変を感じました。

 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない。』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。」

ダビデは、祭司アヒメレクに、サウルが自分を殺そうと思っているなんて決して言うことはできないと思っていたでしょう。イスラエルの神を愛して、そして王に仕えるしもべをその王が殺すということは、ダビデ自身にとっても考えたくないことでありますが、知らない人たちにはなおさらのことです。

 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。

 ダビデは逃げてきたので、食べ物をずっと口にすることができていませんでした。

 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」

 聖別されたパンとは、主の天幕の中の聖所の中にある机の上にある供えのパンのことです。

 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」

 女から遠ざかっているかどうか、ということは必ずしも道徳的なことを聞いているのではありません。自分の妻と寝たことを、ここでは話しています。ここでは祭儀における規定の話をしています。レビ記15章にて、女と寝て漏出があったとき次の日になるまで汚れていると書かれています。

 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

 こうして祭司は、聖別されたパンをダビデに与えました。新約聖書の福音書にて、イエスさまがこの出来事について言及されています。イエスが安息日に麦畑を通られたとき、随行していた弟子たちがひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めました。けれども、パリサイ人たちがやってきて、弟子たちが、働いてはならないという安息日のおきてに反するとしてイエスを非難しました。けれどもイエスは、こう言われています。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。(マタイ12:3-4」レビ記24章によると、供えのパンは祭司の分け前であることが書かれています。けれども主は、人間の基本的な必要を満たすというあわれみの行為が、そうした祭司についての規定よりも優先されることがあることを教えられました。

 ・・その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった。・・

 ドエグという人物が出てきています。ここの「主の前に引き止められていた」というのは、彼もまた主の幕屋に来て、礼拝の儀式に参加していたと考えられます。けれども彼は、これを心からではなくサウルの下で働くために義務として行なっていました。 そして彼はエドム人です。エドム人の先祖は、ヤコブの兄エサウです。彼らはずっとイスラエルに敵対してきましたが、彼もまた例外ではありません。

 ダビデはアヒメレクに言った。「ここに、あなたの手もとに、槍か、剣はありませんか。私は自分の剣も武器も持って来なかったのです。王の命令があまり急だったので。」祭司は言った。「あなたがエラの谷で打ち殺したペリシテ人ゴリヤテの剣が、ご覧なさい、エポデのうしろに布に包んであります。よろしければ、持って行ってください。ここには、それしかありませんから。」ダビデは言った。「それは何よりです。私に下さい。」

 ダビデは逃げている身ですから、当然ながら護身用の武具が必要です。それで剣がないか聞きましたが、なんと主の幕屋に彼が倒したゴリヤテの剣がありました。おそらくは、主が戦ってくださったことを記念するために、この剣が奉献されていたのでしょう。

2B 異邦人のところへ 10−15
 ダビデは祭司のところに行ったあと、今度は異邦人のところに行きました。ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

 ガテは、ペリシテ人の主な五つの町の一つです。またここは、ゴリヤテの出身地でもあります。ダビデは敵陣に来てしまいました。このときの様子をダビデは、そのときの自分の気持ちを詩篇34篇と56篇にて言い表わしています。56篇を読むと、彼はガテに逃れたのだけれども、ペリシテ人に見つかってしまい、捕まえられたことが書かれています。

 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。」ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。

 ダビデは匿名でいられると思っていましたが、家来たちは気づきました。それでダビデは非常に恐れました。

 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。アキシュは家来たちに言った。「おい、おまえたちも見るように、この男は気違いだ。なぜ、私のところに連れて来たのか。私が気違いでもほしいというのか。私の前で狂っているのを見せるために、この男を連れて来たのか。この男を私の家に入れようとでもいうのか。」

 ダビデはとっさの判断で、きちがいを装いました。これによってその場から救われたことを、彼は詩篇の34篇に記しています。彼が主にあって苦しみ、また主にあってその救いを喜んでいたようすを詩篇から伺うことができます。 けれども拠りによって、なぜ異邦人のところに、敵陣のところに行ってしまったのか、と疑問に思われるかもしれません。けれども、彼にとってイスラエルの地は、自分の敵であるサウルが支配しているところなのです。イスラエルにいては危険なのです。そこでペリシテ人のところに行きました。神を愛し、またイスラエルを愛しているダビデが、異邦人のところにいなければいけないというのは、実に皮肉です。

 それにダビデは、恐れています。主がともにおられたダビデは、ペリシテ人に連勝していきましたが、そのダビデの姿がここには見えません。これもまた、彼が神を愛しているがゆえにジレンマなのです。油注がれており、自分の王であると信じているサウルが、自分に敵対しているという事実が、彼をそうさせているのです。もしペリシテ人が相手なら、彼は勇敢に戦ったことでしょう。けれども彼には、サウルに手を出すことなど決してできないと考えたのです。サウルを愛し、敬っているからです。

 このように、自分がイスラエル人でありながら、イスラエルから出て行かなければいけないというジレンマを抱えておられたのが、私たちの主イエス・キリストです。主は、「ご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:11)」とヨハネは書きましたが、主がイスラエル人のために来られたのに、イスラエルがこの方を受け入れなかったので、主は彼らへの熱い思いを持っておられながら、なおかつイスラエル人といっしょにおられなくなり、異邦人にも救いの御手を伸ばされた、という経緯があります。ダビデの生涯は、往々にしてこのように、ダビデの子としてお生まれになるキリストを指し示していました。

2A 仲間の形成 22
1B 困窮者 1−5
 ダビデはそこを去って、アドラムのほら穴に避難した。彼の兄弟たちや、彼の父の家のみなの者が、これを聞いて、そのダビデのところに下って来た。

 ダビデのところに、いろいろな人たちがやってきました。初めのグループは、ダビデの家族のメンバーです。ダビデをサウルが殺そうとしているのだから、ダビデの家族をも殺そうとするのは明らかです。それで彼らが、アドラムのほら穴にいるダビデのところにやって来ました。

 また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。

 ダビデが今サウルから受け入れられていませんが、同じようにサウルの王国に不満であったり、見捨てられていたり、困っている人々が彼のところにやって来ました。そして、彼はたった一人ではなく四百人の者たちといっしょに動くようになりました。

 この点も、ダビデの子であられるイエス・キリストに通じるものがあります。主が宣教活動を行なわれたその拠点は、ガリラヤ地方でした。当時の宗教の中心地はもちろんエルサレムでしたが、エルサレム住民からは片田舎と思われていたガリラヤで、ご自分のわざを行なわれました。そして、集まってきて弟子になったのは、収税人、漁師、熱心党員など、既存の社会からあまり受け入れられているとは思われない人々でした。女性でも、七つの悪霊にとりつかれていたマグダラのマリヤもいます。ユダヤ人の王であられたイエスは、このような人々とともに旅をしておられたのです。

 ダビデはそこからモアブのミツパに行き、モアブの王に言った。「神が私にどんなことをされるかわかるまで、どうか、私の父と母とを出て来させて、あなたがたといっしょにおらせてください。」こうしてダビデが両親をモアブの王の前に連れて来たので、両親は、ダビデが要害にいる間、王のもとに住んだ。

 覚えておられるでしょうか、ルツ記の最後のところに短い系図がありましたが、そこにルツとボアズの間に生まれた子がオベデであり、オベデの子がエッサイで、エッサイの子がダビデとありました。つまりダビデはルツの曾孫に当たります。今、ダビデは、曾おばあさんに当たるルツの故郷、モアブに来ています。そして自分の父母を養ってくれるようにお願いしています。ここでもダビデは、イスラエルから離れ、異邦人とのかかわりを余儀なくされている様子をうかがい知ります。

 そのころ、預言者ガドはダビデに言った。「この要害にとどまっていないで、さあ、ユダの地に帰りなさい。」そこでダビデは出て、ハレテの森へ行った。

 ユダの地に戻ることは、危険がともなうことです。イスラエル人に見つけられてしまう可能性があります。事実、次の話からユダの地に戻ったことによってサウルがダビデがどこにいるかを見つけ、その結果、ノブにいる祭司たちが虐殺されるという結果をこうむります。けれども、そうであっても預言者ガドは、ユダの地に帰りなさい、という主のことばを告げました。それは先ほどから話しているように、ダビデの本望はユダの地、イスラエルの地にあるからです。彼がユダとイスラエルで王となるからです。ここから離れて、無関係のまま生きることは許されないのです。イエスさまが、ユダヤ人から離れて、ユダヤ人を見捨てて異邦人に救いの手を伸ばされたわけではないことと同じように、ダビデはユダの地に戻らなければいけませんでした。

2B 犠牲者 6−23
1C サウルの被害妄想 6−10
 サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。そのとき、サウルはギブアにある高台の柳の木の下で、槍を手にしてすわっていた。彼の家来たちはみな、彼のそばに立っていた。

 サウルはいつものように槍をもっていました。自分の気にさわる者は、だれでも殺すことができるためです。

 サウルは、そばに立っている家来たちに言った。「聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。

 サウルはベニヤミンの出身です。自分と同じ出身地の者で家来をかためていたようです。そして、ダビデが王になろうとも、お前たちに畑を与えることができるのか、彼はそんなに富と力を持っているのか、と聞いています。

 それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。

 サウルの自己憐憫と被害妄想は、はなはだひどいです。謀反を企てているのは、ダビデではなくサウルです。ダビデがサウルにはむかっているのではなく、サウルがダビデに敵対しているのです。自分が加害者なのに、被害を受けていると思っています。

 すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。「私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。」

 サウルの家来たちは、サウル王のしていることは良くないことを知っていたので、だまっていました。けれども神をも、イスラエルをも顧みないエドム人ドエグは、自発的にサウルに協力しました。

2C 事情を知らないアヒメレク 11−19
 そこで王は人をやって、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全部、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せたので、彼らはみな、王のところに来た。サウルは言った。「聞け。アヒトブの息子。」彼は答えた。「はい、王さま。ここにおります。」

 祭司という身分でありながら、アヒメレクは王に敬意を表明しています。

 サウルは彼に言った。「おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のために神に伺ったりしている。」アヒメレクは王に答えて言った。「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。」

 そうです、アヒメレクはこのことについていっさい知りません。それにダビデがこのことを知らせなかったのです。

 しかし王は言った。「アヒメレク。おまえは必ず死ななければならない。おまえも、おまえの父の家の者全部もだ。」それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。「近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。」しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。

 ここで恐ろしいのは、サウルが「主の祭司たちを殺せ」と言っているところです。彼は自分が王として油注がれたのですが、これら祭司たちも神から油注がれた存在です。彼らを殺すということは、無実のものを殺すこと以上の、重大な意味があります。サウルが神をも人をも敬わない、恐ろしい人になってしまったということです。ですから、いくらサウルの家来といっても、近衛兵たちは手を出すことができなかったのです。

 それで王はドエグに言った。「おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。」そこでエドム人ドエグが近寄って、祭司たちに撃ちかかった。その日、彼は八十五人を殺した。それぞれ亜麻布のエポデを着ていた人であった。彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。牛もろばも羊も、剣の刃で打った。

 エドム人ドエグだけが手を出すことができました。それも老若男女、家畜までも惨殺しました。思い出してください、サウルはイスラエルの敵であるアマレク人を聖絶せよと神から命令されたとき、王を生かしておき、家畜も殺すのを惜しんで残しておきました。今、主の祭司たちはすべて殺し、家畜もみな殺しています。

3C 残された祭司 20−23
 しかし、神の守りとあわれみがありました。ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤタルに言った。「私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。

 アヒメレクの息子エブヤタルがサウルの手から逃れることができました。そしてダビデは、自分のために全員が殺されたのだ、と言っています。本当に悲惨なことです。そして彼は、自分のせいではないのに、大きな責任を感じています。

 私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。

 こうしてエブヤタルは、ダビデの傍らにいる祭司となります。

 こうしてサウルの被害妄想に基づく悲惨を見ましたが、イエスさまがユダヤ人たちのために来られたことによる悲劇も私たちは思い出します。東方から来た博士たちが、幼子イエスを見にきたとき、ヘロデ王はベツレヘムにいる二歳以下の男の子を皆殺しにさせました。主は世に来られたのですが、世がこの方を認めなかったのです。

 私たちの心はどうなっているでしょうか?主は私たちを愛しておられます。そして私たちの心のうちで住まわれたいと願われています。けれども、私たちがこの方を拒むのであれば、主は中にはいることはおできになりません。でも主はあきらめたりせず、見捨てたりせず、私たちに届こうとされています。


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