サムエル記第一23−24章 「開かれた心」


アウトライン

1A 主に伺う心 23
   1B 柔軟さ 1−14
      1C 目的思考 1−5
      2C 主のみへの信頼 6−14
   2B 御名による慰め 15−18
   3B 神の守り 19−29
2A へりくだった心 24
   1B 油注がれた者 1−7
   2B さばかれる主 8−15
   3B 表面的な謝罪 16−22

本文

 サムエル記第一23章を開いてください。今日は23章と24章を学びます。ここでのテーマは、「開かれた心」です。私たちは前回から、ダビデがサウルの手から逃げ始めた箇所を読んでいます。ダビデが祭司アヒメレクのところに行き、パンと剣を受け取り逃げましたが、そのことがサウルに知られて、サウルは祭司たち85人を虐殺しました。一人だけエブヤタルという祭司が生き残りダビデのところに来ましたが、そのときからエブヤタルはダビデとともにいることになります。

1A 主に伺う心 23
1B 柔軟さ 1−14
1C 目的思考 1−5
 その後、ダビデに次のような知らせがあった。「今、ペリシテ人がケイラを攻めて、打ち場を略奪しています。」

 ダビデは死海のそばにいましたが、ユダの地に戻っていました。そのときに、ユダの地のケイラという町で、ペリシテ人が彼らの収穫を略奪しているという話を聞きました。「打ち場」というのは、穀物を刈り取った後、それをたたいて籾殻と実を選り分け、それから、それを空中に撒き散らして、籾殻が風で飛んでいくようにさせ、実だけが落ちるようにさせます。そのときに、穀物を倉庫に入れるまで積み上げておくのですが、それがペリシテ人に狙われ、奪い取られていました。

 そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」

 今、ダビデは主に伺っています。そのときに、おそらくは祭司エブヤタルがいるので、祭司が持つ、ウリムとトンミムの二つの石を使って、主にうかがったと考えられます。祭司の装束に胸当てがありますが、そのポケットの中に二つの石があり、それを使って、主が何をお考えになっているのか聞いていました。

 しかし、ダビデの部下は彼に言った。「ご覧のとおり、私たちは、ここユダにいてさえ、恐れているのに、ケイラのペリシテ人の陣地に向かって行けるでしょうか。」

 ユダにいることは、非常に危険です。サウルに襲われる恐れがあります。それに加えて、ペリシテ人のところに行けば、自分たちの命はさらに危うくなる、ということです。

 ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」

 ここが、ダビデが優れたところです。彼は自分の理解や、判断を頼りにしませんでした。主が何をお考えになっているのかを先ず聞いて、それから行動に移しました。私は、この領域で多くの間違いを犯します。今、自分が行なっていること、しなければいけないこと、スケジュールというものがあり、それ以外のことについて、御霊が語りかけ、働きかけているのかもしれないのに、それを自分の思いで退けてしまっているかもしれないからです。けれども、ダビデは御霊の導きに大きく心が開かれていました。

 ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。

 主がダビデに勝利をもたらしてくださいました。ダビデはサウルの手から逃れていましたが、彼が何の目的で生きていたのかを忘れることはありませんでした。異邦人の地にいるのではなく、ユダの地に戻り、そしてペリシテ人と戦い、イスラエルに自由と解放をもたらすという自分に与えられた使命を忘れていなかったのです。

 私たちはしばしば、目的をふと忘れてしまいます。自分の仕事、勉強、周りのことで忙しくなっているうちに、クリスチャンとして福音を伝えることを忘れてしまいます。御霊の導きによって、自分では考えもしなかった人と会うことができ、その人と知り合いになり、福音を語ることができるかもしれないのです。けれどもダビデはサウルの手から逃れている間も、使命を忘れていませんでした。

2C 主のみへの信頼 6−14
 アヒメレクの子エブヤタルがケイラのダビデのもとに逃げて来たとき、彼はエポデを携えていた。

 これが、今話しましたウリムとトンミムがある着物です。エプロンのようなエポデに、胸当てがついています。

 一方、ダビデがケイラに行ったことがサウルに知らされると、サウルは、「神は彼を私の手に渡された。ダビデはとびらとかんぬきのある町にはいって、自分自身を閉じ込めてしまったからだ。」と言った。そこでサウルは民をみな呼び集め、ケイラへ下って行き、ダビデとその部下を攻めて封じ込めようとした。ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知り、祭司エブヤタルに言った。「エポデを持って来なさい。」

 ダビデは再び主に伺いを立てています。

 そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」主は仰せられた。「彼は下って来る。」ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」

 普通でしたら、ケイラにいる人たちに恩を売ったのだから、彼らは必ず自分を守ってくれるに違いないと考えますが、ダビデは違いました。彼は、人々の弱さを良く知っていました。祭司85人を平気で殺したサウルなら、ケイラの人々を虐殺することは容易に考えられます。自分たちが死ぬ事を恐れて、ダビデをサウルの手に引き渡すことも考えられます。

 ですからダビデは主に伺いを立てました。私たちはとかく、自分の判断で「これは大丈夫だろう」と考えて、すぐに行動に移してしまいがちです。けれども、このようにつねに、こうであろうという思い込みを退けて、主の御霊に敏感であることが必要です。

 そこでダビデとその部下およそ六百人はすぐに、ケイラから出て行き、そこここと、さまよった。ダビデがケイラからのがれたことがサウルに告げられると、サウルは討伐をやめた。ダビデは荒野や要害に宿ったり、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。

 ダビデが主が言われたとおりに動くことによって、彼は守られました。主が導かれるところにいると、主が守ってくださいます。自分で動くと、自分で守らなければいけなくなりますね。主が私たちの隠れ場であり、安全な塔です。

2B 御名による慰め 15−18
 ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。

 ヨナタンがサウルの陣から離れて、ダビデのところまでやって来ました!最後に口づけして、涙を流して別れたとき以来です。そして、「神の御名」によってダビデを力づけています。

 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」こうして、ふたりは主の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家へ帰った。

 以前ヨナタンは、父はダビデを殺すことなんか考えていない、と言いましたが、今はもちろん父が本当に殺そうと思っていることを知っています。けれども、同じようにして、「サウルの手があなたの身に及ぶようなことはないからです」と励ましています。なぜなら、ダビデこそイスラエルの王になるから、です。これは以前、父サウルがサムエルから告げられた預言に基づくものであり、サウルが退けられ、主の御心にかなう人を求め、ご自分の民の君主に任じられる、とサムエルが話していたからです(1サムエル13:14)。

 神の御名によって励ますことは、とても大切です。私たちには、神から数多くの約束が与えられています。主がこう言われたのだから、あなたは大丈夫だ、必ず守られる、と私たちは互いに励まし、慰めることができます。

3B 神の守り 19−29
 さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。「ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。」

 ジフ人たちはサウルに言いつけをしました。

サウルは言った。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。さあ、行って、もっと確かめてくれ。彼がよく足を運ぶ所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。」

 非常にいやな奴です。自分のことを思ってくれているから、主の祝福があるようにと、神の御名を使っています。自己憐憫に陥っています。また、「彼は非常に悪賢いとの評判だから」とまったく逆のことを言っています。善を悪とし、悪を善とする態度です。

 彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたといっしょに行こう。彼がこの地方にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出そう。」こうして彼らはサウルに先立ってジフへ行った。ダビデとその部下はエシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。サウルとその部下がダビデを捜しに出て来たとき、このことがダビデに知らされたので、彼はマオンの荒野の中で、岩のところに下り、そこにとどまった。サウルはこれを聞き、ダビデを追ってマオンの荒野に来た。サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕えようと迫って来ていたからである。

 危機一髪です。

 そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。「急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。」それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、「仕切りの岩」と呼ばれた。ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。

 ダビデは、神の主権的な守りによって、助かりました。ペリシテ人が攻めてくることを神がお持ちになって、彼を守ってくださったのです。たしかに、神がダビデをサウルの手から守っていてくださっています。

 そしてダビデは再び、ユダの地から離れて、死海の西岸にあるエン・ゲディというところに身を隠しました。そこは、有名な詩篇「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、私は生ける神を求めて慕いあえぐ」とうたった、滝や水があるところです。たくさんの洞窟がありますので、隠れるには好適な場所です。

2A へりくだった心 24
1B 油注がれた者 1−7
 サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。そこでサウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビデとその部下を捜しに出かけた。サウルが、エンゲディのところまで来ました。彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中にはいった。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。

 用を足す、とありますが、直訳は「足をおおう」です。この後の話から、これは寝ていると考えられます。

 ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。

 ダビデたちが隠れていたほら穴のところに、ちょうどサウルが入って、しかも寝ていました。ずっとほら穴にいたダビデたちは、暗やみの中で目が慣れて、サウルであることを認めることができたのでしょう。これが絶好のチャンスだ、とだれもが考えるでしょう。

 こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。

 ここにダビデの心が非常によく示されています。彼は、サウルのねたみを買い、殺されそうにまでなっても、復讐することを考えませんでした。それどころか、主が一度サウルを油注がれたことを思って、彼に手を出すことを拒みました。彼のすそを切り取ったことさえ、彼にとって心を痛める原因だったのです。

 この後の話を読んでいきますと、ダビデは再びサウルを殺すことができる機会がありましたが、それをしませんでした。そしてサウルがペリシテ人の手に落ちたとき、彼はなんとそのことをひどく悲しみ、サウルとヨナタンのための哀歌をうたったほどでした。

 人間的に考えれば、一度油注がれた者と言えども、すでに御霊が去り、悪意に満ちたものを尊ぶことなど、愚直なことはありません。けれども、ここにダビデの優れたところがあり、彼は自分自身で自分の立場を良くしようとか、引き揚げようとせず、すべて主がなされることに任せたのです。心を大きく神に開き、その主権を全面的に受け入れていたのがダビデでした。ここに彼が、神に選ばれた王としての霊的素質があります。

 ペテロが手紙の中で若い者たちに、こう書きました。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(1ペテロ5:6)」私たちの身にいろいろなことが起こっても、ダビデのように理不尽なことが起こっても、自分で仕返しをしない。そして、自分の悪いことであっても良いことであっても、すべてを主に明け渡し、主に知っていただく、主に対して隠し事をしないその心です。ダビデは、ちょうど良い時に神が高くしてくださるという約束のとおりに、後にイスラエルの王として立てられます。

2B さばかれる主 8−15
 その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ。」と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている。』と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから。』と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。」

 ダビデは、油注がれた王に対する精一杯の抗議をしました。心を痛めながら、です。

 どうか、主が、私とあなたの間をさばき、主が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。昔のことわざに、『悪は悪者から出る。』と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。

 主がさばかれるのであり、自分はさばきません、と言っています。

 イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておられるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

 自分のような何でもないものを追ってくるとは、ほんとうにむなしいことですよ、と訴えています。

 どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。

 本当に大事な真理です。自分がさばかず主がさばいてくださり、自分ではなく主が弁護してくださり、救ってくださいますように、という祈りです。私たちは悪いことを行なわれたとき、自分で何とかして解決しようと思ってしまいます。けれども、自分が一生懸命弁護するようになり、大変になってきます。主が弁護してくださいます。そして、真実は必ず後に明らかにされます。

3B 表面的な謝罪 16−22
 ダビデがこのようにサウルに語り終えたとき、サウルは、「これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。」と言った。サウルは声をあげて泣いた。

 サウルは泣いています。サウルはあれほど執拗にダビデを追っていましたが、今は号泣しています。これは愛憎とでも言いましょうか、彼がダビデをねたんでいることの現われです。

 そしてダビデに言った。「あなたは私より正しい。あなたは私に良くしてくれたのに、私はあなたに悪いしうちをした。あなたが私に良いことをしていたことを、きょう、あなたは知らせてくれた。主が私をあなたの手に渡されたのに、私を殺さなかったからだ。人が自分の敵を見つけたとき、無事にその敵を去らせるであろうか。あなたがきょう、私にしてくれた事の報いとして、主があなたに幸いを与えられるように。あなたが必ず王になり、あなたの手によってイスラエル王国が確立することを、私は今、確かに知った。」

 ヨナタンがダビデに言ったように、サウルがダビデに対して王位の預言が実現することを知りました。

 さあ、主にかけて私に誓ってくれ。私のあとの私の子孫を断たず、私の名を私の父の家から根絶やしにしないことを。ダビデはこれをサウルに誓った。サウルは自分の家へ帰り、ダビデとその部下は要害へ上って行った。

 ヨナタンとダビデは、同じ誓いを立てていました。けれども今、サウルが申し出ました。サウルはすでに、ヨナタンがダビデとこの誓いを立てていることを聞いていたのでしょう、同じことを約束させています。

 ところで、この後サウルは、ダビデを追わなくなったかと言いますと、全然違います。再び変わらず、執拗に追いまわします。理由はサウルの言葉は、そのときの一時的な感情に基づくものであり、心からの悔い改めではないからです。感情だけが左右に、上下に動いても、それは真実に悔い改めているわけではありません。

 大事なのは「心」です。箴言4章23節には、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」と書いてあります。私たちの表面的な行動や言葉、感情の動きではなく、心がすべてのいのちが流れ出る源泉になっています。したがって、心を主にあって変えていく必要があるのです。サウルのような表面的なものではなく、ダビデのように心から主を受け入れていることが必要です。


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