サムエル記第一25−26章 「神の訓練」

アウトライン

1A 人を通して教えられる主 25
   1B ナバルの悪 1−13
   2B アビガイルの知恵 14−35
   3B 主のさばき 36−44
2A 復讐をとどめるダビデ 26
   1B 主のご計画の理解 1−12
   2B 本当に愚かなこと 13−25

本文

 サムエル記第一25章を開いてください。今日は25章と26章を学びます。ここでのテーマは、「神の訓練」です。前回の学び、24章を思い出してください。エン・ゲディにて、ダビデがほら穴に隠れていましたが、そこにたまたま、ダビデを追っているサウルが入ってきました。サウルが仮眠を取っているときに、ダビデはその部下から、「今が、主があなたの手に敵を渡されたときです。」と言って、サウルを殺すようにすすめられましたが、ダビデは、「油注がれた方に手を下すなど、絶対にできないことだ。」と言って、断わりました。彼は、サウルが死ぬことも、自分が王になることも、すべて主がなさることであり、自分が行なうことではない、と考えていたのです。イスラエルとユダの王となるダビデは、自分自身が王である神ご自身の主権の中に生きていました。

 けれども、そのようなダビデにも、失敗があります。彼が初めから完璧にすべてをこなしたのではありません。聖書に出てくる信仰の偉人がそうであったように、ダビデも、失敗しては学び、そして成長していきました。今日は、ダビデが失敗しそうになるところを、アビガイルという女によって守られた箇所を読んでいきます。

1A 人を通して教えられる主 25
1B ナバルの悪 1−13
 サムエルが死んだとき、イスラエル人はみな集まって、彼のためにいたみ悲しみ、ラマにある彼の屋敷に葬った。ダビデはそこを立ってパランの荒野に下って行った。

 神がイスラエルを導き、支配するために用いられた器、サムエルが死にました。生まれた時から主にささげられ、御声を聞き、神のことばを忠実に民に伝えていました。そして彼は祈りの人でした。イスラエルを愛し、彼らのために主に叫んで、祈りました。今彼が死に、そして次の指導者であるダビデに話が移行していきます。ダビデがパランの荒野に下っていった、とありますが、そこは、現在のイスラエルの、最南端エイラトの町よりさらに南東にある砂漠です。彼はサウルの手から逃げていたのです。

 そして、ここでダビデが25章において、失敗をしそうになる遠因になっています。イスラエルにおける霊的指導者がいなくなった今、イスラエル全体を覆っている霊的な守りも弱まりました。民はさらに主に拠り頼み、この時を乗り越えねばなりませんが、しばしば御霊によって自分を制するのではなく、肉の思いに自分を任せてしまいがちになります。 

マオンにひとりの人がいた。彼はカルメルで事業をしており、非常に裕福であった。彼は羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。そのころ、彼はカルメルで羊の毛の刈り取りの祝いをしていた。 

ここの「カルメル」は、エリヤがバアルの預言者と対峙したカルメル山のことではありません。ヘブロンより少し南にある町です。マオンはこのカルメルの隣接したところにあります。そこに非常に裕福な人がおり、家畜を数多く有し、羊毛の刈り取りの祝いをしていました。刈り取りの祝いは、ちょっとしたお祭りであり、神が自分にこんなにも祝福してくれたことをお祝いするパーティーです。そして、気前良く人々に贈り物を渡す時でもあります。

この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。

「ナバル」という名の意味は、「愚か者」です。ものすごい名前を両親はつけたと思いますが、聖書の話で興味深いのは、その人の名前が往々にして、その人の人生の特徴を物語っていることです。例えばヤコブは、「かかとをつかむ者」ですが、彼はエサウが空腹のときに彼の長子の権利を取り、またエサウに変装してイサクから祝福を受けました。ナバルもその名前にふさわしい、頑迷で行状が悪い男でした。 

それとは対照的に妻のアビガイルは聡明で美人でした。おそらくは大富豪のナバルが、かわいい女の子をお金でアビガイルの両親から買い取ったような状況だったのでしょう。美人であるということだけで結婚したのでしょうが、彼女には神から与えられた知恵がありました。

ダビデはナバルがその羊の毛を刈っていることを荒野で聞いた。それで、ダビデは十人の若者を遣わし、その若者たちに言った。「カルメルへ上って行って、ナバルのところに行き、私の名で彼に安否を尋ね、こうあいさつしなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。』」

ダビデに六百人の男がいましたから、糧食がたくさん必要でした。そこでダビデは、贈り物を交換する刈り取りの時に、ナバルからそのいくぶんかを受け取りたいと願いました。これはずうずうしいことではなく、当時、おそらくは報酬として要求することができる習慣があったのでしょう。ペリシテ人の襲撃が羊飼いたちに多かったなかで、ダビデたちが守ってやったのですが、その護衛としての見返りを求めるのは、至極もっともなことでした。

ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」 

 ナバルは、二つの面で愚かなことを行なっています。一つは、祝いの時に人々に気前良く分け与えねばならない時に惜しんでいることです。彼は「私のパンと私の水・・・」と言って、自分の所有であることを強調しています。本来、神から恵まれたものであるのに。私たちは神から祝福を受けているのに、それを自分だけのものにして自分を肥やしていると、それは愚かなことです。霊的祝福も同じです。神が私たちに罪の赦しを与えておられるのに、それを他の人々にも分け与えない、つまり他の人の罪は赦さないという態度を取ると、それは非常に愚かなことです。神の愛を受けて、それを他の人々に示すことなく兄弟を憎めば、愚かなことです。

 もう一つの愚かさは、ダビデに与えられた油注ぎを無視していることです。「ダビデとは、いったい何者だ。」というのは、以前、パロが「主とは、いったい何者だ。」といって拒んだのと同じです。そして彼はさらに、「主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。」と言っていますが、これはダビデのことをサウルから脱走した奴隷であると当てこすっているのです。全体の流れ、いや神の御霊が全イスラエルをダビデの王位に徐々に向かわしめている時に、彼はその反対の方向を進みました。 

それでダビデの若者たちは、もと来た道を引き返し、戻って来て、これら一部始終をダビデに報告した。ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ。」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、二百人は荷物のところにとどまった。

ダビデは先に、「平和のために来ました」と使いに言わせましたが、今は「剣を身につけよ」と言っています。人間的には至極当たり前の反応です。もしダビデがかたっぱしから彼らを殺したとて、大きな罪になることはないでしょう。けれども、神の前ではそうではありません。ダビデは確かに、平和の君キリストを表すために選ばれた器です。敵に対して復讐するのは世が当然だと思っても、キリスト者は神の召しがあります。

そしてなぜダビデはここで誤ってしまったのでしょうか?サウルに対してはこのような思いは出てきませんでした。それは、人が異なるからです。サウルであれば、彼は油注がれた王であることを心得ていました。けれども、このような事態に彼の心は整えられていなかったのです。同じ仕打ちを受けているのですが、まさかこの裕福な、誰とも知らない人から受けるとは想定外だったのです。私たちはしばしば、主の許しによって自分にある品格を試されます。自分の生活と思いのあらゆる面で、キリストの御霊を受けていているのかを試されるのです。

2B アビガイルの知恵 14−35
 けれども主は、憐れんでくださいます。アビガイルという女を通して、ダビデが犯そうとしている過ちを止めて、守ってくださいます。

 そのとき、ナバルの妻アビガイルに、若者のひとりが告げて言った。「ダビデが私たちの主人にあいさつをするために、荒野から使者たちを送ったのに、ご主人は彼らをののしりました。あの人たちは私たちにたいへん良くしてくれたのです。私たちは恥ずかしい思いをさせられたこともなく、私たちが彼らと野でいっしょにいて行動を共にしていた間中、何もなくしませんでした。私たちが彼らといっしょに羊を飼っている間は、昼も夜も、あの人たちは私たちのために城壁となってくれました。今、あなたはどうすればよいか、よくわきまえてください。わざわいが私たちの主人と、その一家に及ぶことは、もう、はっきりしています。ご主人はよこしまな者ですから、だれも話したがらないのです。」

 若者が主人をよこしまな者といっています。そこまで言わせてしまうほど、相当な悪者であり、愚か者だったのでしょう。 

そこでアビガイルは急いでパン二百個、ぶどう酒の皮袋二つ、料理した羊五頭、炒り麦五セア、干しぶどう百ふさ、干しいちじく二百個を取って、これをろばに載せ、自分の若者たちに言った。「私の先を進みなさい。私はあなたがたについて行くから。」ただ、彼女は夫ナバルには何も告げなかった。

 ここから、彼女の聡明さが明らかにされます。ダビデの過ちを正しながら、なおかつ非常にへりくだった姿で彼の前で出ます。 

彼女がろばに乗って山陰を下って来ると、ちょうど、ダビデとその部下が彼女のほうに降りて来るのに出会った。ダビデは、こう言ったばかりであった。「私が荒野で、あの男が持っていた物をみな守ってやったので、その持ち物は何一つなくならなかったが、それは全くむだだった。あの男は善に代えて悪を返した。もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。」

ダビデは本当に腹を立てていました。復讐心でいっぱいでした。彼の立場になれば、そりゃそうだろう、と思います。けれども、アビガイルは非常に霊的に冴えていました。今ナバルを殺したら、その後どうなるのかが見えていたのです。 

アビガイルはダビデを見るやいなや、急いでろばから降り、ダビデの前で顔を伏せて地面にひれ伏した。彼女はダビデの足元にひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。」低い姿勢でダビデに近づきました。ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。

アビガイルもナバルのことを辛辣に表現しています。彼は愚か者だ、と

今、ご主人さま。あなたが血を流しに行かれるのをとどめ、ご自分の手を下して復讐なさることをとどめられた主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。どうか、あなたの敵、ご主人さまに対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。

彼女は信仰をもって、ダビデに近づいています。ダビデが血を流しにいかないこと、復讐はしないことを確信し、またナバルが害を受けることも予期していました。「ご主人さまに害を加えようとする者どもが、ナバルのようになるように」と言っています。 

どうぞ、この女奴隷が、ご主人さまに持ってまいりましたこの贈り物を、ご主人さまにつき従う若者たちにお与えください。これが、ダビデがナバルに求めていたものでした。どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。たとい、人があなたを追って、あなたのいのちをねらおうとしても、ご主人さまのいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれており、主はあなたの敵のいのちを石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。

 アビガイルは、ダビデの上に置かれている主の御手を見ていました。彼が主によって守られており、主が彼のために戦っていてくださり、またイスラエルの王となることを見ていました。それを、いのちの袋と、ダビデが羊飼いのときにいつも携帯していた投石袋を例として表現しています。 

主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。

 ここですね、非常に大切な点です。ダビデが王となるために主が必要なことを成し遂げてくださいます。けれども、ダビデが王の務めをはたすときに、「あのときに、復讐心に任せて、主にさばきを任せることをしなかった。」という、良心の咎めと悔いを残してしまいます。そうすれば、主から与えられたその務めを全うするときに妨げになります。キリストにある良心を私たちは精いっぱい保つべきです。

 アビガイルは、知恵の御霊に満たされています。また信仰と預言の賜物にも満たされています。彼女は、神の御霊がダビデを王にしようとしていることをいろいろな状況を見て知っていました。そして信仰をもって、ダビデが必ず敵の手から守られることを知っていました。これらの信仰の言葉が預言の言葉と、ダビデに知恵を与えている言葉となったのです。

 ダビデはアビガイルに言った。「きょう、あなたを私に会わせるために送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますように。あなたの判断が、ほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように。アビガイルの行ないを、ダビデはほめています。私をとどめて、あなたに害を加えさせられなかったイスラエルの神、主は生きておられる。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったなら、確かに、明け方までにナバルには小わっぱひとりも残らなかったであろう。」

 ダビデはすぐに、主がアビガイルを通して、自分が行なっていることを止めさせてくださったことを知りました。彼は先ほど、「もし私が、あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように。(22節)」と言いました。神は単なるエロヒムでしたが、ここではヤハウェなる方として呼んでいます。彼は、自分に与えられた神の契約を知っていたのです。そして、彼は心の奥底では、自分が間違ったことをしていることを少しは気づいていたのでしょう。けれでも、鉄槌を下すことで頭をいっぱいにしてしまいました。そこで、アビガイルのおかげで、主のみこころを再び思い起こすことができたのです。

 ダビデはアビガイルの手から彼女が持って来た物を受け取り、彼女に言った。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた。」

 ダビデは謙遜な人でした。女の言うことは・・・とあしらうことをせず、その助言を快く受け入れました。神に属する事柄には、彼は敏感に反応していました。そこに謙虚さがあります。

3B 主のさばき 36−44
 アビガイルがナバルのところに帰って来ると、ちょうどナバルは自分の家で、王の宴会のような宴会を開いていた。ナバルが上きげんで、ひどく酔っていたので、アビガイルは明け方まで、何一つ彼に話さなかった。朝になって、ナバルの酔いがさめたとき、妻がこれらの出来事を彼に告げると、彼は気を失って石のようになった。十日ほどたって、主がナバルを打たれたので、彼は死んだ。

 なんと、ダビデはナバルに手を下しませんでしたが、主が下されました。彼はおそらくは、心臓発作になり、それから昏睡状態に陥り、そして死んだのでしょう。 

ダビデはナバルが死んだことを聞いて言った。「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように。主はナバルの悪を、その頭上に返された。」

ダビデも、主がさばいてくださったことを喜んでいます。これがダビデの生涯に一貫して出てくる神の原則です。さばくは人のすることではなく、神のすることだ、ということです。パウロがこう言いました。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』・・・悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:19,21

 その後、ダビデは人をやって、アビガイルに自分の妻になるよう申し入れた。 

 ここを読んだとき、私はちょっと極端だなあと思いましたが、非常に知恵のある申し出でだと後で思いました。アビガイルのように、霊的に聡明である人をいつも自分のそばに置いて妻としておくことは、ダビデ自身がいつも主に目を注ぐことができるのを助けます。夫がいつも神に取り組むことができるように助けている妻は、アビガイルのような祝福された人です。箴言に、「家と財産とは先祖から受け継ぐもの。思慮深い妻は主からのもの。(19:14)」とあります。 

ダビデのしもべたちがカルメルのアビガイルのところに行ったとき、次のように話した。「ダビデはあなたを妻として迎えるために私たちを遣わしました。」彼女はすぐに、地にひれ伏して礼をし、そして言った。「まあ。このはしためは、ご主人さまのしもべたちの足を洗う女奴隷となりましょう。」アビガイルは急いで用意をして、ろばに乗り、彼女の五人の侍女をあとに従え、ダビデの使いたちのあとに従って行った。こうして彼女はダビデの妻となった。

アビガイルは、「女奴隷になりましょう」と言っていますが、行動はすぐに取りました。霊的な事柄、主にとって良いと思われることは、すぐに行なうところに、その聡明さがあります。

ダビデはイズレエルの出のアヒノアムをめとっていたので、ふたりともダビデの妻となった。サウルはダビデの妻であった自分の娘ミカルを、ガリムの出のライシュの子パルティに与えていた。

覚えているでしょうか、ミカルはダビデの妻でした。けれどもダビデがサウルの手から逃げたので、ミカルはサウルのところにいて、離れ離れになっていました。そこでサウルは他の男にミカルを与えてしまっていたのです。ダビデは、その欠けた部分を埋めるかのようにアビガイルを自分の妻にしました。けれども、ダビデが後でミカルを取り戻すことになります。しかしミカルは主の前で踊るダビデを見下します。御霊の流れを受け取ったアビガイルとそうではないミカルは対照的です。

2A 復讐をとどめるダビデ 26
 そして再び、エン・ゲディで起こったのと似たような出来事が起こります。

1B 主のご計画の理解 1−12
 ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」

 ジフ人は、ちくり魔です。以前もダビデが隠れているのを、サウルに言いつけました。

 そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。ダビデもサウルの同行を斥候によって把握していました。ダビデは、サウルが陣を敷いている場所へ出て行き、サウルと、その将軍ネルの子アブネルとが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ており、兵士たちは、その回りに宿営していた。そこで、ダビデは、ヘテ人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイとに言った。「だれか私といっしょに陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」するとアビシャイが答えた。「私があなたといっしょに下って行きます。」 

アビシャイが、危険をも顧みないで、勇気をもってダビデと行くことにしました。

 ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」 

 以前のエン・ゲディのときと同じです。違うのは、エン・ゲディのときは部下が、「あなたがサウルを倒してください。」と言ったのに対して、アビシャイは、「私が刺し殺します。」と申し出ていることです。ダビデが殺すことに心の咎めを感じるのであれば、私が行なえばそんなことはないでしょう、という彼の気遣いなのかもしれません。またここはアビシャイの弱さでもありました。能力と情熱が非常に大きい人だったので、後にアブネルを殺すために追っていったら、アブネルに殺されてしまいます。

 
しかしダビデはアビシャイに言った。「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。」ダビデは、それでも殺させませんでした。ダビデは言った。「主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。」

 ここに、ダビデの信仰が強められているのを見ます。彼は、油注がれた方に手を下すことができない、という主への恐れだけではなく、自分が将来王となること、そしてサウルが主によって必ず打たれることを知り、確信を持つようになってきました。彼がその生涯の終わりに死ぬか、戦いで死ぬかのどちらかで、主がそのいのちを取られると言っています。 

私たちも同じように、神の恵みによる、信仰の成長があります。主が約束を与え、そして主は私たちを試されます。そのときに私たちが約束にしがみつくなら、主はご自分の真実によって私たちを試みから免れさせてくださいます。その経験によって、さらに自分は主に信頼するようになり、約束が必ず実現するという確信を強めることになります。 

こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。

 主の御手が彼らに置かれています。深い眠りを、主が与えられていました。

2B 本当に愚かなこと 13−25
 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しにはいり込んだのに。おまえのやったことは良くない。主に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、主に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」

 ダビデは威勢良く、サウル王のかたわらにいる将校アブネルをたしなめました。

 サウルは、それがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」

 サウルは深い眠りから、突然の声で目を覚ましました。その時の第一声が、「わが子ダビデよ」です。つまりサウルは、潜在意識の中ではダビデが悪者だとは思っていなかったのです。自分の良心を押し殺して、彼を悪者に仕立て上げていただけなのです。

 そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが主であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、主の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。」 

 ダビデは、さばきを主に任せています。本当に神から出ているものであれば、受け入れるべきものである、と言っています。後にダビデが息子アブシャロムによって、エルサレムから出て行かなければいけなくなったとき、シムイというものがダビデをののしりました。アビシャイは、「あの者の首をはなさせてください。」と言いましたが、ダビデは、「もしかしたら、主がそれを言わせているのかもしれない。」と言って、殺させませんでした(2サムエル16参照)。ダビデが神のすべての事柄をお任せする心がありました。

 けれどもダビデが、「人によるのであれば」と言っています。それは、神が呪われるとあります。理由が大切です。いろいろなことは主に委ねるけれども、もしこのことを行なったら神が呪われると警告しているのです。それは、「主のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っている」ということです。イスラエルの真ん中に契約の箱があります。主がおられます。自分の勝手な思惑でダビデを追い回しているのであれば、それはダビデに対する罪というよりも、主が与えておられる地からダビデを追い出すことであり、そこで主を礼拝することができないように妨げていることだ、と言っているのです。キリストの御霊が働かれているのに人間の思惑で動けば、必ず他の人をつまずかせます。そしてそれは、その人を結果的に他の神々へ仕えさせるきっかけを作ることとなります。

 私は、いろいろな人から「あの人の、これこれの教えは正しいのですか?」という質問を受けます。私は、その点については同意できないことがあります。けれども、その人の言っていることが全体の流れの中ではさほど大きな事ではない時には、目くじらを立ててはいけないと思っています。私が裁くのではなく、主が裁かれるからです。

 けれども大きな流れの中で、確実に逸脱していると思われる教えがあります。その時には、これでは多くの人をつまずかせる、と思う時があります。その時は、事を荒立てるつもりは全くありませんが、けれども自分に与えられている神の責任において真理を語ります。例えば、神道の儀式に加わりながらキリストの話をしている人がいます。もしそれを他の人々も行えば、まさに主に仕え、同時にバアルに仕えたイスラエルの民と同じ過ちを犯してしまいます。

どうか今、私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。

 以前と同じように、こんなつまらない者のためにイスラエルの王が追いかけているなど、本当に無意味である、ということです。

サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」

ここに、サウルの生涯を一言で言い表したような、告白の言葉があります。「ほんとうに私は愚かなことをした」という言葉です。自分が神によって王として召されたことを知りながら、それにしり込みをし、王となってからは、主に拠り頼むのではなく、自分のパフォーマンスで王としてふるまっていき、ついに高ぶりから、主の命令を公然と拒絶するような過ちを犯しました。そのときに、静かに退けばよかったのに、主が選ばれたダビデを見てねたみ、そして今彼のいのちをねらっているという愚かなことをしています。ナバルは愚かでしたが、サウルも愚かでした。 

そしてダビデは、どちらの愚かさにも、自分の手を加えませんでした。ナバルの愚かな侮辱に反応しましたが、神のあわれみによって圧しとどめられました。サウルの愚かさにも、彼は応答しませんでした。箴言には、「人は自分の愚かさによってその生活を滅ぼす。(箴言19:3」とあります。愚かなことに自分が関わらなくて良いのです。

ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」

ダビデは大胆に、自分が主によって守られることを告げました。心が直な人が救われることを、聖書はたくさん約束してくれていますが、ダビデは自分の良心がきよく保たれていることに注意し、それゆえ主が必ず報いてくださることを信じていました。 

サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。

 この時から、サウルがダビデを追う場面はもう出てきません。サウルがダビデを追うのを止めたのかどうかわかりませんが、これ以上は出てきません。先ほどサウルは、「わが子ダビデ。帰って来なさい。」と言いました。けれどもダビデは信用しませんでした。確かに悔いている思いをサウルが本当に持っているか確かめることは必要でしょう。

 けれども、彼は失敗を次の章で行ないます。サウルが自分を追ってくることを、主によってこれまで救われてきたのに、敵陣の中に入って救われようとしていることです。主のゆずりの地から離れて、他の神々に仕えさせる者は神が呪われると言ったばかりなのに、それを自ら行ってしまうという過ちを犯します。その教訓は次回学びたいと思います。

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