サムエル記第一29−31章 「リバイバル(信仰復興)」
アウトライン
1A 阻まれる敵対行為 29
1B 二人の主人 1−5
2B 神のあわれみ 6−11
2A 主に奮い立つ者 30
1B 惨めな状態 1−6
2B 主にある寛容さ 7−31
1C 主への伺い 7−10
2C 財産の回復 11−20
3C 同じ報酬 21−31
3A 悔い改めぬ者 31
1B 自殺 1−7
2B 丁重な埋葬 8−13
本文
サムエル記第一29章を開いてください。今日は29章から31章、第一サムエル記の最後までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「リバイバル(信仰復興)」です。前回は、「バックスライド」というメッセージ題でしたが、それは信仰的に後退することを意味していました。リバイバルはその逆の意味です。信仰を取り戻し、主に立ち返ることをリバイバルと言います。
1A 阻まれる敵対行為 29
1B 二人の主人 1−5
29:1 さて、ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。
このペリシテ人とイスラエル人の戦いについては、28章から言及されていました。ペリシテ人が自分たちの支配地からイスラエルの地にかなり入ったところまで軍を前進させ、そのためイスラエルも陣を敷きました。けれども、ペリシテ人を見たサウルが恐れたので、彼が霊媒をする女のところに行って、伺いを立てたことを前回学びました。29章は、ペリシテ人の陣営にいたダビデについて書いています。
29:2 ペリシテ人の領主たちは、百人隊、あるいは千人隊を率いて進み、ダビデとその部下は、アキシュといっしょに、そのあとに続いた。29:3 すると、ペリシテ人の首長たちは言った。「このヘブル人は何者ですか。」アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。「確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいて、彼が私のところに落ちのびて来て以来、今日まで、私は彼に何のあやまちも見つけなかった。」
覚えていますか、ダビデはサウルの手から逃れるために、アキシュのところで仕えはじめました。そして、ツィケラグの町をダビデは与えられました。彼がアマレク人やゲゼル人などの町を襲っては、男も女も殺し、その略奪品の一部をアキシュに献納していました。ダビデは、ユダの町々を襲ったと嘘をつくことにより、アキシュの信頼を勝ち得ていました。
29:4 しかし、ペリシテ人の首長たちはアキシュに対して腹を立てた。ペリシテ人の首長たちは彼に言った。「この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするでしょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。29:5 この男は、みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたダビデではありませんか。」
ペリシテ人の首長たちは、正しいことを言っています。彼らが言っていることをまとめれば、イエスさまが言われた、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできない(マタイ6:24)」です。ダビデは、ダビデは二心をもって生きていました。一方でアキシュに仕え、もう一方で同胞の民は殺さないことによって、イスラエルに仕えていました。けれども、このどちらをもすることは不可能です。
この世で一番惨めな人は、この世とキリストのどちらをも取っている人であると言われます。クリスチャンになっても、この世の楽しみを捨てられない人のことです。この世に属していれば、世の楽しみを楽しむことができます(もちろん、世の楽しみはむなしいことですが)。そしてキリストに属していれば、主がともにおられるところにある永遠の楽しみを得ることができます。けれども、世への愛を捨てられず、なおかつキリストに従おうとすると、どちらの楽しみも得られなくなります。罪を犯しているときは罪意識に悩まされることになります。そして教会に行き、礼拝に出れば、自分はなんと偽善者なのであろうと、これまた惨めな思いになります。ふたりの主人に仕えることはできないのです。
2B 神のあわれみ 6−11
29:6 そこでアキシュはダビデを呼んで言った。「主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。29:7 だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちの、気に入らないことはしないでくれ。」29:8 ダビデはアキシュに言った。「私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは。」
ダビデはとんでもないですね、自分からイスラエルと戦うことを強く申し出ています。もし本当に戦うことになったら、彼はいったいどうするのか?と思ってしまいます。けれども罪を犯しているとき、私たちは自分がしていることが分からなくなります。ちょうど泥酔したことが、次の日に何をしているのか分からなくなるのと同じです。
29:9 アキシュはダビデに答えて言った。「私は、あなたが神の使いのように正しいということを知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが、『彼はわれわれといっしょに戦いに行ってはならない。』と言ったのだ。29:10 さあ、あなたは、いっしょに来たあなたの主君のしもべたちと、あしたの朝、早く起きなさい。朝早く起きて、明るくなったら出かけなさい。」29:11 そこで、ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。
ダビデは戦いに出て行くことができませんでしたが、これは神のあわれみでした。ペリシテ人の領主たちをとおして、神はダビデがとんでもない罪を犯すのを許されなかったのです。
2A 主に奮い立つ者 30
そして主は、ダビデが目覚めさせる出来事を許されます。
1B 惨めな状態 1−6
30:1 ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、30:2 そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。
襲ったのは、アマレク人です。アマレク人はもともと、人々を襲撃することで生きていた者たちですが、ダビデもまたアマレク人の町を襲っていたのですから、仕返しをされたと言われても仕方がありません。殺されなかっただけでも良いほうです。
30:3 ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。30:4 ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。30:5 ダビデのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムも、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルも連れ去られていた。
すべてものをダビデは失いました。戦いに参加させてもらえなかったことで、ダビデはおそらく意気消沈していたでしょう。戦士としてのプライドが許せませんから。けれども、ここで、自分たちの財産があとかたもなく奪い取られたのを見ました。そして最悪なのは、自分の愛する妻たちも連れ去られていたことです。ダビデと、彼といっしょにいた者たちは、涙が枯れるほど泣きました。
30:6 ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。
ここで彼はリバイバルを経験しました。彼の神、主によって奮い立った、とあります。彼は、自分の心に語って、それからアキシュのところに行ったことを思い出してください。今は、主にあって自分を奮い立たせました。自分で考えるか、それとも主に立ち返るかの違いです。
私たちにはいつでも、主に立ち返る機会が与えられています。罪を犯しているとき、自分では間違っていると思いながら行なっているのですが、主は御手を伸ばされていて、御名を呼び求めさえすれば、すぐにでも救ってくださいます。けれども問題は、ダビデのように、大変なことが起こることによって初めて御名を呼び求めることです。問題が起こらないと、自分が何をしているのか分からないものです。けれども、問題が起こってからでも遅くありません。主はあわれみ深く、恵み深い方です。そこから再出発ができるのです。
2B 主にある寛容さ 7−31
7節以降を読むと、ダビデの立ち直りの早さに驚かされます。いつもダビデ、いや以前よりもさらに磨きのかかったダビデの姿を見ます。けれども、彼は自分がしてきたことを後悔していないのでしょうか?いいえ、彼は主に赦していただいたことを、確信をもって受け止めているのです。私たちは、自分がしてしまった罪を二度としない意味で、それを覚えておくことは必要です。罪が赦されたことを忘れて、また汚れの中に入ってはいけません。けれども、罪赦されたならば、私たちはただ前進あるのみです。過去のことはすべて主が処理してくださいました。サタンは、「お前は過去にこんなひどいことをしたな。」と囁きますが、主は、「あなたのしたことは、知らない」と、罪を犯したことさえ思い出されないのです。ダビデは、このような主の恵み深さを理解していました。
1C 主への伺い 7−10
30:7 ダビデが、アヒメレクの子、祭司エブヤタルに、「エポデを持って来なさい。」と言ったので、エブヤタルはエポデをダビデのところに持って来た。30:8 ダビデは主に伺って言った。「あの略奪隊を追うべきでしょうか。追いつけるでしょうか。」するとお答えになった。「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。」
ダビデは以前と同じように、自分が何をすべきか、まず主のみこころを求めました。祭司のエポデには胸当てがついており、そこにウリムとトンミムの石が入っています。それを使って、みこころを認めました。私たちはとかく、自分たちの判断で物事を進めます。しかしダビデの心は主に対して大きく開かれていました。
30:9 そこでダビデは六百人の部下とともに出て行き、ベソル川まで来た。残された者は、そこにとどまった。30:10 ダビデと四百人の者は追撃を続け、疲れきってベソル川を渡ることのできなかった二百人の者は、そこにとどまった。
追撃のときに、どのような理由であれ途中で参加を止められてしまうことは、かなりの心理的なプレッシャーです。けれどもダビデはこのことを重荷と感じるようなことはありませんでした。主にゆだねきっています。
2C 財産の回復 11−20
30:11 彼らはひとりのエジプト人を野原で見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。30:12 さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二ふさの干しぶどうをやると、彼はそれを食べて元気を回復した。三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったからである。
アマレク人を追跡しているのに、エジプト人に食糧を与えることまでしています。ここにも、心を狭くせず、だれにでも親切にする柔軟さを見ることができます。
30:13 ダビデは彼に言った。「おまえはだれのものか。どこから来たのか。」すると答えた。「私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。30:14 私たちは、ケレテ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィケラグを火で焼き払いました。」30:15 ダビデは彼に言った。「その略奪隊のところに案内できるか。」彼は答えた。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神かけて私に誓ってください。そうすれば、あなたをあの略奪隊のところに案内いたしましょう。」
主の導きです。聖霊がダビデたちを導いておられます。このエジプト人がアマレク人の奴隷だったことを知らず、彼を助けたのですが、主はこのことを通して、彼らにアマレク人の情報を入手することができるように、してくださいました。私たちが、主にあって正しい心をもっていることが大切です。そうすれば御霊が導いてくださいます。
30:16 彼がダビデを案内して行くと、ちょうど、彼らはその地いっぱいに散って飲み食いし、お祭り騒ぎをしていた。彼らがペリシテ人の地やユダの地から、非常に多くの分捕り物を奪ったからである。30:17 そこでダビデは、その夕暮れから次の夕方まで彼らを打った。らくだに乗って逃げた四百人の若い者たちのほかは、ひとりものがれおおせなかった。30:18 こうしてダビデは、アマレクが奪い取ったものを全部、取り戻した。彼のふたりの妻も取り戻した。30:19 彼らは、子どももおとなも、また息子、娘たちも、分捕り物も、彼らが奪われたものは、何一つ失わなかった。ダビデは、これらすべてを取り返した。
すばらしいです、失われたものは何一つなかった、とあります。これが主の恵みのわざです。私たちは罪によって失われたものがあっても、キリストにある神の恵みは、それを補い、補うだけでなく、満たし、あふれさせます。
30:20 ダビデはまた、すべての羊と牛を取った。彼らはこの家畜の先に立って導き、「これはダビデの分捕り物です。」と言った。
一行は凱旋をしています。家畜の先に立って、「これはダビデの分捕り物だ!」と叫んでいます。
3C 同じ報酬 21−31
30:21 ダビデが、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来たとき、彼らはダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデはこの人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。
ダビデは、勝利に酔いしれるどころか、このように疲れていっしょに来ることができなかったに百人のことを気にかけています。
30:22 そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子供を連れて行くがよい。」30:23 ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。30:24 だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」30:25 その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。
ここに、ダビデの、主にある心の寛大さがあります。戦いは元々、自分たちのものではなく主のものであった。だから勝利は主の恵みによるのであり、私たちの功績ではない。恵みなのだから、それぞれ同じく報酬を受け取るべきである、という考えです。
これと似た話がイエスさまの例えの中にあります。日雇い労働者が朝早くから働いている人も、五時から雇われた人にも、主人は一デナリずつ与えた、という話です。朝から雇われた人は、最後の連中が一時間しか働かなかったのに、労賃を私たちと同じくした、と文句を言いました。主人は、「私はあなたと一デナリの約束をした。不当ではない。私としては最後の人にも、あなたと同じだけあげたいのです。」と言いました(以上、マタイ20:1−16参照)。
私たちが主にあって働くことには、もちろん報いがあります。けれども、その前に、私たちは主の働きの中に参加させていただいている者たちであり、自分たちが主のわざを行なっていること自体、神の恵みなのです。ですから、神にとって、多く働いた人も少なく働いた人も、ただ恵みを施したい、愛する対象にしか過ぎず、みな同様に、永遠のいのちを与えられます。ダビデは、神の恵みを理解していました。彼自身が、神の恵みによって生きていたからです。
30:26 ダビデはツィケラグに帰って、友人であるユダの長老たちに分捕り物のいくらかを送って言った。「これはあなたがたへの贈り物で、主の敵からの分捕り物の一部です。」30:27 その送り先は、ベテルの人々、ネゲブのラモテの人々、ヤティルの人々、30:28 アロエルの人々、シフモテの人々、エシュテモアの人々、30:29 ラカルの人々、エラフメエル人の町々の人たち、ケニ人の町々の人たち、30:30 ホルマの人々、ボル・アシャンの人々、アタクの人々、30:31 ヘブロンの人々、および、ダビデとその部下がさまよい歩いたすべての場所の人々であった。
ダビデは、戦いに行った者たちだけでなく、ユダの町々の長老たちにも分捕り物を分け与えました。私たちもまた、このような、分け与える者、開かれた者、受け入れる者でなければいけません。私たちは神の無償の贈り物を、なぜか独り占めにしようとする傾向があります。そして分派的になり、あの者は祝福を受けるに値しないと考えるのです。しかし、神は、キリストが勝利された十字架のみわざにより、キリストを信じるあらゆる人々に、いのちの冠を与えたいと願われています。
3A 悔い改めぬ者 31
そして最後の章に入ります。ここは、先ほどの話、ペリシテ人がイスラエル人と戦う場面に戻ります。そしてサウルの最期を描いています。
1B 自殺 1−7
31:1 ペリシテ人はイスラエルと戦った。そのとき、イスラエルの人々はペリシテ人の前から逃げ、ギルボア山で刺し殺されて倒れた。
イスラエル軍はイズレエルのところで陣を敷きましたが、ペリシテ人との戦いで後退しました。ギルボア山は、イズレエル平野の南東に接しています。
31:2 ペリシテ人はサウルとその息子たちに追い迫って、サウルの息子ヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアを打ち殺した。
ついに息子たちが死んでしまいました。ヨナタンはダビデを愛していた者、また主を愛していた者です。しかしサウルの下にいたので、神のサウルに対するさばきは、ヨナタンにも被害が及んだのです。
31:3 攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼をねらい撃ちにしたので、彼は射手たちのためにひどい傷を負った。31:4 サウルは、道具持ちに言った。「おまえの剣を抜いて、それで私を刺し殺してくれ。あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」しかし、道具持ちは、非常に恐れて、とてもその気になれなかった。そこで、サウルは剣を取り、その上にうつぶせに倒れた。31:5 道具持ちも、サウルの死んだのを見届けると、自分の剣の上にうつぶせに倒れて、サウルのそばで死んだ。
サウルはこうして自殺しました。自殺について、いろいろな意見があります。これは罪であるかどうか、また罪の告白をする機会がないので、これは赦されない罪、地獄に行く罪だ、という人もいます。私の意見は次のとおりです。もし告白しない罪があるまま死んだら地獄に行くのであれば、救いはいかに告白したか、という行ないに基づくものになってしまい、キリストが十字架の上で成し遂げた御業によるものではなくなる、ということです。もちろん個々の罪を告白することは魂に平安が与えられますが、それが救いに関係するのではありません。
そしてもう一つ、聖書で自殺が出てくる記事を読みますと、そこに神の怒りが下っているとか、特別なさばきが書かれているわけではないことです。サウルが自殺したことは愚かなことであり、哀しく、むなしいものであることがこの箇所から分かりますが、大きな罪を犯しているようには書かれてません。むしろ、罪を犯し続けた結果として、最後まで悔い改めず自殺した、という説明のほうが合っていると思います。第二サムエル記にて、アヒトフェルというダビデの議官が自殺しますが、そこにも自殺そのものを断罪する記事はありません。新約聖書にイスカリオテのユダが自殺しますが、自殺が咎められているのではなく、その前にイエスさまを裏切ったことが咎められています。ですから、自殺そのものに焦点を当てるよりも、自殺に至らせた要因を探るほうが良いと思っています。
サウルが自殺した理由は何でしょうか?「あの割礼を受けていない者どもがやって来て、私を刺し殺し、私をなぶり者にするといけないから。」とサウルは言っています。彼は自分の面子を最後まで気にしていたので、自殺したのです。彼は最後の最後まで、罪を主に申し上げることをしませんでした。へりくだることがありませんでした。その結果、ただ絶望だけが残り、それで自殺したのです。今、言及しましたイスカリオテのユダもそうですね、彼はイエスをユダヤ人指導者に引き渡したことを後悔しましたが、悔い改めることはしませんでした。それが自殺に至らせたのです。
31:6 こうしてその日、サウルと彼の三人の息子、道具持ち、それにサウルの部下たちはみな、共に死んだ。31:7 谷の向こう側とヨルダン川の向こう側にいたイスラエルの人々は、イスラエルの兵士たちが逃げ、サウルとその息子たちが死んだのを見て、町々を捨てて逃げ去った。それでペリシテ人がやって来て、そこに住んだ。
この戦いで、ペリシテ人はさらに東の方に支配領域を増やしました。
2B 丁重な埋葬 8−13
31:8 翌日、ペリシテ人がその殺した者たちからはぎ取ろうとしてやって来たとき、サウルとその三人の息子がギルボア山で倒れているのを見つけた。31:9 彼らはサウルの首を切り、その武具をはぎ取った。そして、ペリシテ人の地にあまねく人を送って、彼らの偶像の宮と民とに告げ知らせた。
サウルが愚かな行為によって、究極的には神の御名が汚されました。サウルの首と武具をはぎとったことを、ペリシテ人の偶像の宮に告げ知らされたからです。現在でも、クリスチャンの愚かな行為によって、未信者の間で、だからキリスト教は恐いのだ、というキリストの御名が汚されることがあります。
31:10 彼らはサウルの武具をアシュタロテの宮に奉納し、彼の死体をベテ・シャンの城壁にさらした。
ベテ・シャンは、ヨルダン川の西側、ちょうどイズレエル平野が広がるその入り口にある町です。ヨルダン川東からイスラエルに入るとき、その平野の入り口を通っていきます。現在、そこに行きますとローマ帝国のときの、町の遺跡があります。大地震によって破壊されたまま残っているのですが、そこを歩くと、まるで都会のショッピング・モールのようではなかったのかと思わせるほどです。そして奥には、小高い丘があります。そこの頂上におそらくは、サウルの死体がさらされたのではないかと思われています。
31:11 ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、31:12 勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。31:13 それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した。
ヤベシュ・ギルアデの町はベテ・シャンからかなり遠くにありますが、彼らは夜通し歩き、死体を取りはずし、丁重に葬りました。後にダビデが、彼らの行為をほめています。
こうしてサウルの最後を見ました。ダビデの信仰復興と比べてみると興味深いです。ダビデも罪を犯しました。そして町を火で焼かれ、財産も家族も奪い取られるという惨めな思いをしました。けれども彼は、その後、まれにみる寛大さをみなに示しました。一方、サウルは自殺し、その頭はもぎとられ、死体は城壁につるされるという悲惨な終わり方をしています。この違いは何でしょうか?ダビデは、主にあって奮い立ちました。サウルはいつまでも心を暗くしました。この違いです。
ペテロとユダのどちらもが主を裏切る罪を犯しましたが、ペテロは激しく泣いて、主を否んだことを後悔しましたが、ユダは主に戻ることはありませんでした。いや、ユダはもともと主を知っていたのかどうかも分かりません。ダビデもサウルも同じだったのです。私たちは心を見なければいけません。同じことを行なっていても、心の動機が違うだけで、こうも人生が変わってくるのです。教会に通っていて、自分はまともであるふりをしているのか、それとも、ただ主を愛して教会に行くのか、の違いです。お祈りしましょう。
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