サムエル記第一8−10章 「神から王へ」


アウトライン

1A 王の要求 8
   1B 動機 1−9
      1C 継承者の不在 1−3
      2C 神の王権の拒否 4−9
   2B 結果 10−22
      1C 奴隷化 10−18
      2C 異邦人化 19−22
2A 最善の選択 9−10
   1B 召しにおいて 9
      1C 状況 1−14
         1D 出自 1−2
         2D 日常生活 3−14
      2C 神からの声 15−27
         1D 予見 15−21
         2D 接待 22−27
   2B 任命において 10
      1C 油注ぎ 1−16
         1D 確認のしるし 1−8
         2D 御霊の満たし 9−16
      2C 公の任命式 17−27
         1D 霊的臆病 17−24
         2D 一部のさげすみ 25−27

本文

 サムエル記第一8章を開いてください。今日は10章まで学びますが、ここでのテーマは「神から王へ」です。イスラエルが、神が自分たちを統治されるのを拒んで、人間の王を要求します。

1A 王の要求 8
1B 動機 1−9
1C 継承者の不在 1−3
 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤである。彼らはベエル・シェバで、さばきつかさであった。この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。

 前回、サムエルの預言の働きによって、イスラエルがペリシテ人から救い出され、平和を保つことができるようになったところを読みました。彼が生きている間、そのようであったのですが、今彼は年老いています。後継者を探すのに、彼は自分の息子をさばきつかさにしようとしました。けれども、息子たちは悪いことばかりをしていました。

 正直、神の人であるサムエルがどうして、息子たちを主にあって訓練できなかったのか、と思います。けれども現実の世界でも十分起こっていることです。どんなに信仰的にすばらしい人であっても、その子供が悪い場合を、しばしば聞きます。例えば、伝道者ビリー・グラハムの息子フランクリン・グラハムは、大人になってからイエスさまに自分をささげる決断をするまでは、酒飲みや女遊びをしていたということを、彼自身の口から聞きました。サムエルの息子たちは悪者でした。

2C 神の王権の拒否 4−9
 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 長老たちの要求は、一見妥当なものです。確かにサムエルが、よこしまな息子たちを士師にすることは間違っていました。けれども間違っているのは、ほかの国民のように王を立ててください、と世的な方法によってこの問題を解決しようとしたことです。主にこの問題を解決していただくように、祈り求めませんでした。

 前回7章で学んだように、イスラエルは、心から主に仕えることを決心し、自分たちの間からアシュタロテやバアルを取り除くこともしました。サムエルが語る神のみことばによって、信仰的に復興し、霊的に成長しました。けれども、行き過ぎた行動を取りました。教会の中でも、似たようなことが起こります。霊的に成長した人たちが、教会の中で起こっている問題を、「このようにすればよい、あのようにすればよい。」といって意見を出していきます。それは、もっともらしく聞こえるので、教会の中で大きな影響力を持ちます。けれども、自分たちが今の自分たちでいられるのは神の恵みによるのであり、御霊の働きによることを忘れてしまっています。人間的な方法で、肉によって神の働きを完成させようとする過ちを犯します。

 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。」

 サムエルは、これまで預言者として、士師として働いてきましたが、イスラエル人たちの要求は、その働きを全面否定するような類いのものでした。ですからサムエルの心は傷つきました。けれども主は、「彼らは、あなたを退けたのではなく、このわたしを退けたのだ。」と言われて、彼を慰めています。イスラエルがイスラエルである所以は、その民族が神を王として、神によって支配されていることです。それを拒んでいるわけですから、本質的にはサムエルを拒んでいるのではなく、神を拒んでいます。

 イエスさまも、ご自分のことを証しするクリスチャンに対して、似たような慰めの言葉をかけておられます。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。(ルカ10:16」イエスさまのことを伝えて、そのことが拒まれたとき、また、皮肉めいたことを言われたり、嫌がらせを受けたりするとき、それを個人的に受けとめなくていいのだよ、と言われています。あなたを拒んだのではなく、このわたしを拒んでいるのだから、ということです。

 
わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。

 イスラエルが人間の王を要求することが、なぜ悪いことなのでしょうか?それは、彼らはみことばを通して、神ご自身から支配を受けなければいけないのに、それを拒んでいるからです。士師やモーセなどこれまで現れた指導者は神のことばを語りましたが、あくまでも彼ら自身が、神のみことばによって自分たちを律して生きていくところにおいて、だれからも自由でした。同じ人間に支配されることはありませんでした。これを神政政治と呼びます。神が王である政治形態です。

 けれども、彼らは神の支配を拒みました。同じようなことを、イエスさまを十字架刑に定めるように働きかけたユダヤ人指導者たちが、ローマ総督ピラトに次のように叫んでいます。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。(ヨハネ19:15)」ローマをとことん毛嫌いしていたけれども、それでイエスを王とするよりは、ローマに支配してもらったほうが良い、と判断したのです。恐ろしいことですが、私たち人間にも、イエスを主として生きるぐらいなら、罪の中で死んでも構わないとする人たちがいます。

2B 結果 10−22
1C 奴隷化 10−18
 そこでサムエルは、彼に王を求めるこの民に、主のことばを残らず話した。そして言った。「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。」

 サムエルは、異邦人と同じような王の支配を受ければその王の奴隷となることを、具体例を出して警告しました。王によって敵から守られるという利点がある反面、王によって自分たちのものが取られていく不利益を被らなければいけません。

 これはまた人間の統治と、神の統治の違いでもあります。イエスさまがこう言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:42-45」イエスさまは、しもべの姿を取られて、人から取るのではなく与えることによって、私たちを支配されます。イエスを主とすることはそういうことです。恵みがあり、いのちがあり、自由があります。けれども、異邦人の王たちの支配は異なります。

 その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。

 あなたたちが判断する前に、よく考えてみなさい、とサムエルは警告しています。神の警告・・・大事ですね。耳を傾けなければいけません。

2C 異邦人化 19−22
 それでもこの民は、サムエルの言うことを聞こうとしなかった。そして言った。「いや。どうしても、私たちの上には王がいなくてはなりません。私たちも、ほかのすべての国民のようになり、私たちの王が私たちをさばき、王が私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」

 彼らは、「ほかのすべての国民のようになり」という理由を強調しています。イスラエルが神から特別に選ばれた民であることを、自ら放棄しています。かつて主はイスラエルに、「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。(出エジプト19:5」あらゆる国民の中から、選び別たれた民がイスラエルです。

 サムエルは、この民の言うことすべてを聞いて、それを主の耳に入れた。主はサムエルに仰せられた。「彼らの言うことを聞き、彼らにひとりの王を立てよ。」そこで、サムエルはイスラエルの人々に、「おのおの自分の町に帰りなさい。」と言った。

 ここに、神が人に与えられた自由意志の、一種の恐ろしさを見ます。それは、私たち人間が自分たちがしたいことを主張して、神が警告をしても聞かないなら、彼らが願うとおりにさせる、ということです。神は強制される方ではありません。けれども、その自由は、蒔いた種は自分で刈り取る原則において働きます。

 イスラエルは今、王が欲しいと主張しつづけたので、神はそれを許されるという形で王をお選びになります。それが次の章から登場するサウルです。

2A 最善の選択 9−10
1B 召しにおいて 9
1C 状況 1−14
1D 出自 1−2
 ベニヤミン人で、その名をキシュという人がいた。・・キシュはアビエルの子、順次さかのぼって、ツェロルの子、ベコラテの子、アフィアハの子。アフィアハは裕福なベニヤミン人であった。・・キシュにはひとりの息子がいて、その名をサウルと言った。彼は美しい若い男で、イスラエル人の中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

 神がイスラエルの王として選ばれるサウルは、ここで読むとおり、人間的には王として非常にすばらしい要素を持っています。まず彼は裕福な父親の息子でした。そして彼は容姿も抜群でした。ハンサムで、イスラエルの中で一番ハンサムだと書いてあります。また背も高かったようです。女の人たちが一番結婚したい理想の男性、というところでしょうか。

 けれども、もちろん人間的には王としてすばらしい素質を持っている、ということです。神の選びと、人の選定は違います。本当に純粋に神がご自分が望まれる王として選ばれるのは、後に出てくるダビデです。彼もまた美少年でしたが、しかし主はサムエルに、「人は外見を見るが、主はその心をご覧になられる。」と言われました。ですから、人の選定と神の選びは異なります。

 けれども、イスラエルが願っているとおりに、見た目にいかにも王さまにふさわしい人を神は選ばれたのです。彼らが望んでいるとおりのものを、神は用意されました。

2D 日常生活 3−14
 あるとき、サウルの父キシュの雌ろばがいなくなった。そこでキシュは、息子サウルに言った。「若い者をひとり連れて、雌ろばを捜しに行ってくれ。」そこで、彼らはエフライムの山地を巡り、シャリシャの地を巡り歩いたが、見つからなかった。さらに彼らはシャアリムの地を巡り歩いたが、いなかった。ベニヤミン人の地を巡り歩いたが、見つからなかった。彼らがツフの地に来たとき、サウルは連れの若い者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が雌ろばのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」

 サウルは父の羊を養う仕事をしていましたが、父のことを気づかって、もう帰宅しようと言っています。親に従順でした。彼は、外見は良いけれども中身は駄目、というような人ではなく、内面の素質も備えていた人です。

 すると、彼は言った。「待ってください。この町には神の人がいます。この人は敬われている人です。この人の言うことはみな、必ず実現します。今そこへまいりましょう。たぶん、私たちの行くべき道を教えてくれるでしょう。」

 神の人とはもちろんサムエルのことです。当時サムエルは、全イスラエルに神の預言者であると認められていた人です。

 サウルは若い者に言った。「もし行くとすると、その人に何を持って行こうか。私たちの袋には、パンもなくなったし、その神の人に持って行く贈り物もない。何かあるか。」その若い者はまたサウルに答えて言った。「ご覧ください。私の手に四分の一シェケルの銀があります。私がこれを神の人に差し上げて、私たちの行く道を教えてもらいましょう。」

 日本と同じように、当時のイスラエルにも贈り物を用意する習慣があったようです。敬うべき人には贈り物を持っていきます。

 
ただ、ここから推測できることは、サウルはサムエルのことを、若い者から初めて聞いていた、ということです。つまり、神のことばについてのこと、神を求めることについて、彼は非常に飢え渇いていた、というわけではなさそうです。あらゆる人に敬意を払うような、自然にそなわった穏やかさはあるようですが、霊的な事柄に対する欲求が強烈にあるわけではありませんでした。

 これは、神が後に王として選ばれるダビデとは違う点です。彼は、生けるイスラエルの神については、非常な飢え渇きを持っていました。ゴリアテと戦うとき、大胆に神の御名によって対峙しました。また琴を奏でるとき、主のことを思いながら奏でました。彼は礼拝する人でした。その点で、サウルには違います。

 ・・昔イスラエルでは、神のみこころを求めに行く人は、「さあ、予見者のところへ行こう。」と言った。今の預言者は、昔は予見者と呼ばれていたからである。・・するとサウルは若い者に言った。「それはいい。さあ、行こう。」こうして、ふたりは神の人のいる町へ出かけた。彼らはその町の坂道を上って行った。水を汲みに出て来た娘たちに出会って、「ここに予見者がおられますか。」と尋ねた。すると、娘たちは答えて言った。「ついこの先におられます。今、急いでください。きょう、町に来られました。きょう、あの高き所で民のためにいけにえをささげますから。」

 イスラエルの中で一番ハンサムで、背の高いサウルに声をかけられたのですから、若い女性たちは、心を躍らせて答えているに違いありません。

 町におはいりになると、すぐ、あの方にお会いできるでしょう。あの方が食事のために高き所に上られる前に。民は、あの方が来て、いけにえを祝福されるまでは食事をしません。祝福のあとで招かれた者たちが食事をすることになっています。今、上ってください。すぐ、あの方に会えるでしょう。

 このいけにえは、和解のいけにえのようです。和解のいけにえは、ちょうど食事の前の祈りのように、礼拝でありながら、かつ食事をとって交わる意味を持っています。

 彼らが町へ上って行って、町の中央にさしかかったとき、ちょうどサムエルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た。

2C 神からの声 15−27
1D 予見 15−21
 主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて仰せられた。「あすの今ごろ、わたしはひとりの人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたは彼に油をそそいで、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救うであろう。民の叫びがわたしに届いたので、わたしは自分の民を見たからだ。」サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。「ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 サウルは前もって、サウルのことを聞かされていました。そして、高き所に上ろうとしていたそのときに、主が再びお語りになって、彼がその人だ、と言われています。そうとも知らず、サウルはサムエルに声をかけます。

 サウルは、門の中でサムエルに近づいたとき、言った。「予見者の家はどこですか。教えてください。」サムエルはサウルに答えて言った。「私がその予見者です。この先のあの高き所に上りなさい。きょう、あなたがたは私といっしょに食事をすることになっています。あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。あなたの心にあることを全部、明かしましょう。三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。」

 サムエルは、自分が予見者であることをサウルに確かにさせるため、雌ろばのことを話しています。

 イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。

 これは、あなたがイスラエルの王になる、と言っているのと同じです。

 サウルは答えて言った。「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。」

 ここにもサウルの特質が表れています。自然に備わった謙遜です。王になるのは謙遜さは必要です。人格と品性においてすぐれていなければ、王としての務めを果たすことができません。

2D 接待 22−27
 しかし、サムエルはサウルとその若い者を広間に連れてはいり、三十人ほどの招かれた者の上座に彼らを着かせた。サムエルが料理人に、「取っておくようにと言って渡しておいた分を下さい。」と言うと、料理人は、ももとその上の部分とを取り出し、それをサウルの前に置いた。そこでサムエルは言った。「あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。お食べなさい。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです。」その日、サウルはサムエルといっしょに食事をした。

 サムエルは、最高のもてなしをサウルに対して行なっています。というより、すでに彼を王になる人として、丁重に接しています。他に招待された人たちの中に彼らを座らせ、上等のももの肉を与えました。

 それから彼らは高き所から町に下って来た。サムエルはサウルと屋上で話をした。朝早く、夜が明けかかると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きてください。お送りしましょう。」サウルは起きて、サムエルとふたりで外に出た。

 屋上は、涼むことができるハイクラスの部屋です。そこにサウルを寝かせました。

 彼らは、町はずれに下って来ていた。サムエルはサウルに言った。「この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」

 神のことばを聞かせるために、サムエルはサウルと二人だけになることを望みました。若い者を先に行かせるようにしています。

2B 任命において 10
1C 油注ぎ 1−16
1D 確認のしるし 1−8
 サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」

 サムエルは、サウルが君主に任じられていることを、油を注ぐことによって彼に伝えました。油注ぎは、神が王を任命されるときだけでなく、祭司が任命されるときにも行なわれました。そこでメシヤ、あるいはキリストは、「油注がれた方」という意味を持っています。イエス・キリストというのは、「油注がれた方イエス」という意味であり、ナザレ人イエスが神から油注がれた王であり祭司であられる、ということです。

 あなたが、きょう、私のもとを離れて行くとき、ベニヤミンの領内のツェルツァフにあるラケルの墓のそばで、ふたりの人に会いましょう。

 サムエルは、これからサウルの身に起こることを前もって告げています。そうすることによって、サウルが油注がれた王であることのしるしを与えます。

 そのふたりはあなたに、『あなたが捜して歩いておられるあの雌ろばは見つかりました。ところで、あなたの父上は、雌ろばのことなどあきらめて、息子のために、どうしたらよかろうと言って、あなたがたのことを心配しておられます。』と言うでしょう。あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。

 サウルがいなかったので父が安否を気づかっています、と告げる人が出て来ます。

 その後、ペリシテ人の守備隊のいる神のギブアに着きます。あなたがその町にはいるとき、琴、タンバリン、笛、立琴を鳴らす者を先頭に、高き所から降りて来る預言者の一団に出会います。彼らは預言をしていますが、主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

 覚えていますか、モーセが荒野でイスラエルを世話する重荷には耐えられない、と主に訴えたとき、主が長老70人にモーセに与えられた御霊を分け与えられました。そのとき会合の天幕に来なかった長老がいたのですが、自分たちの天幕の中で彼らは預言していました(民数記11章)。したがって、旧約の時代は預言をすることが、聖霊が上に臨まれるときのしるしになっていたようです。新約では、異言を語ることが顕著になっています。使徒行伝を読むと、聖霊に満たされた人たちが、異言や預言を語っているのを見ることができます。

 けれども、これらは自分のうちで行なわれる御霊の働きとは異なります。自分を通して、自分の周りの人々が主に触れられるための、聖霊の外側の働きです。近々サウルは聖霊に満たされて、王の働きを始めますが、それが彼と神との個人的な関係を保証するものではありませんでした。

 このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

 いいですね、「神があなたとともにおられる」、英語ならGod is with you.ですが、この単純な真理によって、すべてが変わります。私たちが行なうこと、話しているところに主がともにおられるのか、おられないかによって、大きく変わってきます。

 あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私があなたのなすべき事を教えます。

 ギルガルは、ヨシュアたちがヨルダン川を渡って、神との契約を更新し、戦いに出て行った場所です。そこでサウルはサムエルを待って、いけにえを彼がささげてもらわなければいけません。このように、サウルは王になった後でも、神のみことばに優先することは決してなく、彼自身が神からの支配を受けなければいけない存在です。

 
けれども、13章8節以降にサウルがサムエルの言ったことを守っていない姿が出てきます。

2D 御霊の満たし 9−16
 サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた。こうして、これらすべてのしるしは、その日に起こった。

 御霊に満たされて、サウルは新しい心が与えられました。

 
彼らがそこ、ギブアに着くと、なんと、預言者の一団が彼に出会い、神の霊が彼の上に激しく下った。それで彼も彼らの間で預言を始めた。以前からサウルを知っている者みなが、彼の預言者たちといっしょに預言しているのを見た。民は互いに言った。「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか。」そこにいたひとりも、これに応じて、「彼らの父はだれだろう。」と言った。こういうわけで、「サウルもまた、預言者のひとりなのか。」ということが、ことわざになった。サウルは預言することを終えて、高き所に行った。

 ちょうどイエスさまがナザレの会堂でお語りになられたときと似ています。ナザレの人々の反応が、「彼は、ヨセフの子、マリヤの子ではないか。私たちは彼の兄弟たちを知っているではないか。」というものでした。イエスさまはもちろんキリストであり神の御子ですからサウルとは次元が異なるのですが、聖霊に満たされた人は、その人自身を知っている人から驚き怪しまれることがあるようです。

 サウルのおじは、彼とその若い者に言った。「どこへ行っていたのか。」するとサウルは答えた。「雌ろばを捜しにです。見つからないのでサムエルのところに行って来ました。」サウルのおじは言った。「サムエルはあなたがたに何と言ったか、私に話してくれ。」サウルはおじに言った。「雌ろばは見つかっていると、はっきり私たちに知らせてくれました。」サウルは、サムエルが語った王位のことについては、おじに話さなかった。

 王になったことは、こわくなって父に話せなかったのでしょうか。まだ自分の身に起こっていることのすべてを完全に受けとめられていなかったのかもしれません。

2C 公の任命式 17−27
1D 霊的臆病 17−24
 サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、イスラエル人に言った。ミツパは、以前にも出てきましたが、イスラエル人全体が集まる場所の一つでした。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。』ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください。』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。」

 サムエルは、一貫して「あなたがたが神を退けた」ということを話しています。

 こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。

 くじによって王を任命するのですが、旧約時代におけるくじの方法は、実際どのように行なわれたのかは分かりません。いろいろなところで用いられています。最後に登場するのは、使徒行伝1章、イスカリオテのユダの代わりに使徒を選ぶときです。

 それで人々がまた、主に、「あの人はもう、ここに来ているのですか。」と尋ねた。主は、「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われた。人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。

 この箇所を読んで、みなさんはどう思われるでしょうか?サウルは謙遜な人物と見るでしょうか、それとも臆病な人と見るでしょうか?私は、霊的な事柄、神の召しに対してまだ応答することができていない、臆病な人と見ます。自然にそなわったあらゆる素質を備えています。しかしサウルには、何か欠けたものがありました。先ほどから観察しているのでもうお分かりかもしれませんが、その欠点とは、霊的な神とのつながりです。これを、これからのサウルの生涯から観察していくことができます。

 サムエルは民のすべてに言った。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」民はみな、喜び叫んで、「王さま。ばんざい。」と言った。

 民が望んだとおりの人を、神は与えられました。そこで「ばんざい」と叫んでいます。けれども、それでも満足できない人たちが出てきます。

2D 一部のさげすみ 25−27
 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。しかし、よこしまな者たちは、「この者がどうしてわれわれを救えよう。」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。

 初めからサウルをさげすんでいる人々がいました。けれどもサウルは黙っています。これはとても良いことですね。自分を批判する人がいても、いちいち相手にしないという点においてよいことです。けれども、何か違うものを私は感じます。神に任命された預言者や王を見ていると、例えば、エリシャは、自分のはげ頭をばかにする子どもたちをのろって、二頭の雌熊に子供たちは引き裂かれました。ダビデは、ナバルという者が彼の使いをあしらったので、怒って戦いに出て行こうとしました。このこと自体、復讐すること自体は間違っていましたが、しかし、神に立てられた権威をあなどるのは、自分ではなく、神をあなどられたことになるのですから、そのような反応に出てもおかしくないはずです。

 けれどもサウルは黙っています。むろん人間的には正しいし、そのような素質を王はもちろん備えていなければいけません。けれども何かが違う、のです。それは、神が、イスラエルが望まれるとおりに、他の国民と同じように王を選ばれたからです。彼らが望んでいるものの、最善の、最高のものを用意されました。

 神は、私たちが神の理想に届く努力を拒んだら、神が私たちのレベルにまで降りてきてくださいます。そしてそのレベルで最善のものを用意してくださいます。けれども、それは残念なことなのです。神に降りてきていただくのではなく、私たちが変えられて、神が願われていることを自分の願いとしていくべきです。神を王としていくことは、私たちの肉が許しません。自分が王座に着きたいのです。けれども、神の方法がベストなのです。私たちがベストと思っていることは、実はベストではありません。


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