歴代誌第二14−16章 「リバイバル」
アウトライン
1A 主への信頼 14
1B 平安 1−8
2B 圧倒的勝利 9−15
2A 新たな献身 15
1B 預言者の励まし 1−7
2B 祭壇へのいけにえ 8−15
3B 家族をも切り分ける愛 16−19
3A 完成しなかった業 16
1B 血肉への信頼 1−10
2B 最後まで続く頑なな心 11−14
本文
歴代誌第二14章を開いてください。今日は14章から16章までを学びます。ここでのテーマは、ずばり「リバイバル」です。リバイバルは信仰復興とか霊的刷新と訳すことができます。今日出てくるユダのアサ王の治世を通して、リバイバルについて学ぶことができます。
もう一度思い起こしていただきたいのですが、歴代誌は、バビロン捕囚からエルサレムに帰還した民が、エルサレムの再建のためにユダヤ民族の再興のために、祭司やレビ人によって編纂されたイスラエルの歴史書です。ここで最も大事だったのは、神がダビデに対して与えられた約束が、バビロン捕囚によって反故にされることなく未だ有効であることを示すことでした。ですから、列王記が、神に背くイスラエルに対する神のさばきが有体に語られている一方で、歴代誌は、それでもなお神は回復を与えてくださり、約束を実現してくださることを強調しています。
そこで、歴代誌はダビデの末裔である王たち、つまり南ユダ国に焦点を当てています。焦点を当てているだけでなく、そこで主がなおのことユダの国に働きかけを行なってくだっておられ、暗やみの中にも光があったことを教えています。前回は、南ユダのレハブアムとその子アビヤの王政を読みましたが、概して主の前に悪を行なっていた二人の王でさえ、主のみことばが語られた時にへりくだり、自分の国の土台をしっかりと敷いて、強固にしていったところを読みました。そして、時が熟して、霊的刷新の時がやって来ます。
1A 主への信頼 14
1B 平安 1−8
14:1 アビヤは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をダビデの町に葬った。彼の子アサが代わって王となった。彼の時代には、この地は十年の間、平安を保った。
アサが王となって十年間は、外敵からの攻撃がなく平安を保っていることができました。その理由が次に書いてあります。
14:2 アサは、彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行ない、14:3 異教の祭壇と高き所を取り除き、柱を砕き、アシェラ像を打ちこわした。14:4 それから、ユダに命じて、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行なわせた。14:5 さらに、彼はユダのすべての町々から高き所と香の台を取り除いた。こうして、王国は彼の前に平安を保った。
霊的刷新を行なったので、王国に平安が訪れていました。私たちのうちに罪があれば、心に困惑があります。けれども罪を告白しそれを捨れば、神の聖霊は私たちを満たして、平安の実を結ばせてくださいます。
アサは、初めに偶像礼拝を破壊しました。アシェラ像は、おそらくはアシュタロテと同じだと考えられますが、アシュタロテは先住の民が拝んでいた豊穣の女神であり、いや、「豊穣の女神」と言ったら聞こえが良すぎますが、はっきり言いますと当時のポルノでした。あらゆる情欲と淫らな行ないが、この像の前で正当化され公然と行なわれていました。アサはまず、アシェラ像など、偶像を打ち壊しました。
それから、主を求めさせ、律法と命令を行なわせています。今、ロイド・ジョーンズの「リバイバル」という本を読んでいますが、その中に、リバイバルが起こるときは、ご聖霊による圧倒的な神の主権が臨んで、自分の罪深さと無力さの中でただ悔い改め、ひれ伏すことしかできないことを話しています。そして、みことばに基づいて自らを省みると話しています。アサが行なったのは、まさに神の御霊が働かれて、罪の悔い改めと主と主のみことばへの回帰だったのです。
14:6 彼はユダに防備の町々を築いた。当時数年の間、その地は平安を保ち、主が彼に安息を与えられたので、彼に戦いをいどむ者はなかったからである。14:7 彼はユダに向かってこう言った。「さあ、これらの町々を建てようではないか。そして、その回りに城壁とやぐらと門とかんぬきを設けよう。この地はなおも私たちの前にある。私たちが私たちの神、主を求めたからである。私たちが求めたところ、神は、周囲の者から守って私たちに安息を下さった。」こうして、彼らは建設し、繁栄した。
主が平安を与えられいるので、彼はおそらくはかつてレハブアムが建てたであろう防備の町々をさらに強固にしました。教会のリバイバルにおいても同じです。主にある平安の中で、さらにキリストによって信仰を堅いものにしていきます。
14:8 アサには、ユダの、大盾と槍を帯びる軍勢が三十万、ベニヤミンの、盾を持ち、弓を引く者が二十八万あって、これらすべてが勇士であった。
これらはいわゆる予備兵です。今は平和だけれども、有事になったときに召集し、臨戦態勢にすぐに入ることができるようにするための人たちでした。けれども、この予備兵よりも圧倒的多数による軍隊がユダを攻めにやって来ます。
2B 圧倒的勝利 9−15
14:9 時がたって、クシュ人ゼラフが、百万の軍勢と三百台の戦車を率いて、彼らに向かって出陣し、マレシャにまで寄せて来た。
ユダの予備兵が合計五十八万人に対して、百万の軍勢と三百台の戦車です。ちなみにクシュ人とは、現在のエチオピアとスーダンのところにあった国ですが、そこからイスラエルに北上して攻めてきています。
14:10 そこで、アサは彼に対抗して出陣し、マレシャにあるツェファテの谷で戦いの備えをした。14:11 アサはその神、主に叫び求めて言った。「主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。」
すばらしい信仰告白です。アサは霊的な改革を敢行して防備を固めた後、このようにして敵からの攻撃がありました。私たちが信仰的に前進すると、同じように霊の戦いの中に入ります。何も信仰的に前進していなければ、悪魔は何も行動を起こしません。けれどもキリストのうちに堅く立ち、それにともなう霊的祝福にクリスチャンがあずかろうとするときに、悪魔はなんとかして私たちの信仰の歩みを阻もうとします。
そのようなとき、アサのように、自分たちの力では到底勝ち目がない困難に直面することになります。けれども、彼は正しい神の見方を持っていました。力強い者を助けるのも、弱い者を助けるのも、主にとってはなんら変わりがない、ということです。同じようなことかつてサウル王の息子ヨナタンが言いました。ペリシテ人の陣営に自分と道具持ちだけで立ち向かいましたが、ヨナタンは道具持ちに、「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(1サムエル14:6)」と告白しました。
私たちは、自分たちの常識と限界を神にも当てはめようとしてしまいます。風邪を直すのと、癌を直すのとででは、神にとっては変わりないことなのですが、風邪が直るために祈るときは大して祈りは熱心にならずに、「どうせ直らなくても、風邪薬があるから」と開き直っています。けれども、医者が余命いくばくもないと告知された癌患者に対しては、深刻になって、ため息をもらしながら、主に真剣に祈ります。自分たちの限界を、神さまにも当てはめようとしているためです。けれども、アサのように、ヨナタンのように、正しい神の見方を持っていなければいけません。
14:12 主はアサの前とユダの前に、クシュ人を打ち破られたので、クシュ人は逃げ去った。14:13 アサおよび彼とともにいた民は、彼らをゲラルまで追いつめた。クシュ人は倒れ、生きている者はなかった。主の前、その宿営の前に、打ち砕かれたからである。そこで、彼らは非常に多くの分捕り物を持ち帰った。14:14 さらに、彼らはゲラル周辺のすべての町々を攻め打った。主の恐れが彼らに臨んだからである。そこで、彼らはすべての町々をかすめ奪った。その中には多くの獲物があったからである。14:15 また、彼らは家畜の天幕も打ち、多くの羊とらくだを奪い去って、エルサレムに帰って来た。
主が勝利を与えられたので、クシュ人は逃げ去りました。百万の軍勢が残していったのですから、相当の分捕り物だったことでしょう。大勝利が与えられました。
2A 新たな献身 15
けれどもアサは有頂天にはならず、むしろ預言者の励ましの言葉によって、さらに奮い立ちます。
1B 預言者の励まし 1−7
15:1 すると、神の霊がオデデの子アザルヤの上に臨んだ。15:2 そこで、彼はアサの前に出て行き、彼に言った。「アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。
預言者は、神と私たちとの関係で、非常に基本的な原理を語りました。それは、主を求めれば主はご自身を示してくだり、主を見捨てれば、主も見捨てられる、つまり私たちが主に対して取った選択を主は尊重される、ということです。自分はキリストなど要らないよ、と言っている人たちに対して、無理強いしてご自分を示そうとはされません。彼らが拒んでいるのだから、ご自分のあわれみと恵みをその人に注ぐことも神は控えられるのです。
15:3 長年の間、イスラエルにはまことの神なく、教師となる祭司もなく、律法もありませんでした。
これはいつの時期のことでしょうか、もしかしたら士師の時代かもしれないし、あるいは北イスラエルが神の律法を捨て去って、好き勝手な宗教を始めたことを話しているかもしれません。いずれにしても、彼らが欠けていたのは神のみことばを教える祭司たちの存在でした。北イスラエルには、祭司はいました。けれども律法を教える祭司ではなく、金銭で買うことができる祭司職であり、宗教行事を行なうだけの存在でした。
けれども、霊的刷新が起こるところには、必ず神のみことばが語られています。これは聖書時代だけでなく、その後の教会史において一貫した動きでした。聖霊が力強く臨まれて、それで神のみことばがしっかりと語られていました。宗教改革しかり、ジョン・ウェスレーを通した英国の信仰復興しかり、みことばが語られていたのです。
私たちが生きている現在、伝道をするためのテクニックは非常に発達しているし、そのために必要な聖句も引っぱり出して来ます。けれども、みことばがそのまま語られているでしょうか?みことばがそのまま語られなければ、そこには神の主権はありません。神の主権がなければ、人々のへりくだりと、罪の悔い改めは起こりません。へりくだりがなければ、いつまでも自分たち人間が中心であり、主に立ち返るなど到底無理です。ですから、主に飢え渇き、そして聖霊が臨まれるのを待ち望み、そしてみことばを心を大きく開いて聞きます。
15:4 しかし、その悩みのときに、彼らがイスラエルの神、主に立ち返り、この方を尋ね求めたところ、彼らにご自身を示してくださいました。15:5 この時期には、出て行く者にも、はいって来る者にも平安がありませんでした。国々に住むすべての人々に大きな恐慌があったからです。15:6 そして彼らは、民は民に、町は町に相逆らい、共に打ち砕かれてしまいました。神があらゆる苦しみをもって、彼らをかき乱されたからです。
アサの治世によって平安がもたらされていたのですが、主を第一としないところには、ここにあるように混乱と争いと戦いがあります。ヤコブは手紙の中で、混乱と平安の対比を次のように述べています。「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。(3:16-18)」
15:7 しかし、あなたがたこそ強くあってほしいのです。力を落としてはなりません。あなたがたの働きには報いが伴っているからです。」
多くの困難があるけれども、気落ちせずに強くあってください。そして、この働きはむだにはならないと預言者アザルヤは励ましました。使徒パウロも、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント15:58)」
2B 祭壇へのいけにえ 8−15
15:8 アサは、これらのことばと預言者オデデによって預言されたことを聞いたとき、奮い立って、ユダとベニヤミンの全地から、また彼がエフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき物を除いた。そして、主の玄関の前にあった主の祭壇を新しくした。
アサは、さらなる霊的刷新を敢行しました。ユダとベニヤミンに残されていた、忌むべきものを一掃し、そして北イスラエルの領域内であるエフライムの山地にまでいて偶像を除去しました。
そして、神殿のところにある青銅の祭壇を新しくしています。主への礼拝を新たにするためです。
15:9 さらに、彼はユダとベニヤミンのすべての人々、および、エフライム、マナセ、シメオンから来て彼らのもとに身を寄せている人々を集めた。彼の神、主が彼とともにおられるのを見て、イスラエルから多くの人々が彼をたよって来たからである。
リバイバルは、北イスラエルにいる人々にまで及んでいます。(シメオン族の土地は元々ユダの領地内に割り当てられましたが、おそらく途中で北の地域に移り住んだのでしょう。)前にも話しましたように、南ユダの国は、ユダとベニヤミンだけでなくイスラエルでヤハウェを神として礼拝したい残された民によって構成されていたのです。
15:10 こうして、アサの治世の第十五年の第三の月に、彼らはエルサレムに集まった。
第三の月はちょうど五旬節、ペンテコステの時期に当たります。
15:11 その日、自分たちが携えて来た分捕り物の中から、牛七百頭と羊七千頭を主にいけにえとしてささげた。
とてつもない量の分捕り物があったのですが、それを自分の楽しみのためではなく、主に対する礼拝としておささげしました。
15:12 さらに、彼らは、心を尽くし、精神を尽くしてその父祖の神、主を求め、15:13 だれでもイスラエルの神、主に求めようとしない者は、小さな者も大きな者も、男も女も、殺されるという契約を結んだ。
ものすごい勢いです。主を激しく求めたことによって、その一途さが契約となって現われました。
15:14 それから、彼らは、大声をあげ、喜び叫び、ラッパと角笛を吹いて、主に誓いを立てた。15:15 ユダの人々はみなその誓いを喜んだ。彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。
主への献身を新たにするとき、そこにある実は喜びです。主を心を尽くして、力を尽くして、思いを尽くして求めるとき、私たちの心は喜びで満たされます。二心には、いつも重荷と疲れが付きまといますが、清めが行なわれたときつまり心が主に一つになるとき、必ず喜びに満ちあふれます。
3B 家族をも切り分ける愛 16−19
15:16 アサ王の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼は王母の位から彼女を退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、粉々に砕いて、キデロン川で焼いた。
アサの霊的刷新は、自分自身の母親にまで及びました。愛する親に対して、主の戒めを適用されることは、自分の身が引き裂かれる思いです。けれども、しなければいけない時があります。イエスさまは、家族の間にも剣が及ぶことを話されています。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。(マタイ10:34-36)」
15:17 高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった。15:18 彼は、彼の父が聖別した物と、彼が聖別した物、すなわち、銀、金、器類を、神の宮に運び入れた。15:19 アサの治世の第三十五年まで、戦いは起こらなかった。
こうしてアサは主に対して全き心を持ち、国には平安と繁栄がありました。ところが長い年月が経って、彼の心は変わってしまいました。
3A 完成しなかった業 16
1B 血肉への信頼 1−10
16:1 アサの治世の第三十六年に、イスラエルの王バシャはユダに上って来て、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにするためにラマを築いた。
主への契約を更新させたのは、アサの治世の第十五年です。ですから、二十一年後の話です。その時、北イスラエルを治めていたのがバシャという人物です。北イスラエルには良い王は出てこなかったのですが、バシャも主の前に悪を行なっていました。ヤロブアムと同じように、北イスラエルにヤハウェを礼拝するのを阻もうとしました。北イスラエルの人たちがエルサレムに行くことがないように、ラマの町を建てていたのです。
16:2 アサは主の宮と王宮との宝物倉から銀と金を取り出し、ダマスコに住むアラムの王ベン・ハダデのもとに送り届けて言った。16:3 「私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間に同盟を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金を送りました。どうか、イスラエルの王バシャとの同盟を破棄し、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。」
アサは、以前のように主に拠り頼むことをせず、なんと主のものである宝物倉の金銀を、アラムつまりシリヤから傭兵を雇うためにシリヤの王に渡してしまったのです。主が祝福として与えてくださった富を使って、主に逆らうようなことを行なっていくという愚行を犯しました。
16:4 ベン・ハダデはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の将校たちをイスラエルの町々に差し向けたところ、彼らはイヨンと、ダンと、アベル・マイム、および、ナフタリに属するすべての倉庫の町々を打った。16:5 バシャはこれを聞くと、ラマを築くのを中止し、その工事をやめさせた。16:6 アサ王はユダの人々をみな連れて行き、バシャが建築に用いたラマの石材と木材を運び出させたうえ、これを用いてゲバとミツパを建てた。
アサの軍事的作戦は見事に成功しました。シリヤの王はアサの言うことを聞き入れて、傭兵をイスラエルの町々に送り、そのためイスラエルはラマから離れて戦わなければいけなくなりました。その間にアサは、ラマにあった石材や木材を持ってきて、町が建てられないようにしました。自分の思惑通りになったのです。軍事的には何ら問題がない、いや実に上手くやったのです。けれども、霊的にはとんでもないことをしでかしました。
16:7 そのとき、予見者ハナニがユダの王アサのもとに来て、彼に言った。「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手からのがれ出たのです。16:8 あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。」
軍事的には成功したけれども、主はもともと北イスラエルのたくらみを阻むだけでなく、シリヤを倒すこともお考えになっていたようです。けれどもアサ王がシリヤに拠り頼んだので、彼らは倒されることなく破滅を逃れるよ、預言者ハナニは言いました。そして、その他の数々の戦いに巻き込まれる、と宣言しました。
ここにリバイバルについての非常に難しい問題、いや課題があります。それは初めは御霊によって導かれ、そのため大きな業を主にあって行なっていくのですが、いつの間にか御霊ではなく自分の肉に頼るようになり、それで肉によって完成させようとするのです。自分がやっていることが上手くいっているように、一時的には、表面的には見えるでしょう。けれども、肉によって行なえば、そこには義や平安の実を結ぶことはありません。日本の多くの教会で、人々が疲れ、燃え尽きてしまうのはそのためです。肉の力で神の事柄を行なおうとしてしまっています。
16:10 すると、アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このことで、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのある者を踏みにじった。
まるでアサが別人のように見えます。この態度は、祖父レハブアムより酷いです。彼は高ぶったとき、主からの叱責を受けて「主は正しい」と言ってへりくだりました。アサは叱責する預言者を敬うどころか、怒りを発しました。今でいう“逆切れ”です。
2B 最後まで続く頑なな心 11−14
16:11 見よ。アサの業績は、最初から最後まで、ユダとイスラエルの王たちの書にまさしくしるされている。16:12 それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。
預言者ハナニが言ったように、アサは数々の戦いに巻き込まれました。三年後には病気にかかりました。そして、残念な一言があります。「その病の中でさえ、主を求めることはしないで、逆に医者を求めた」というところです。主は人を弱くされて、それでご自分の恵みを現わすことを、よく行なわれます。
ところが、その弱くなった時でさえ拒めば、その時ほど惨めなことはありません。ここで「医者」を求めたとありますが、原語のニュアンスではエジプトの医者という可能性があるそうです。もしそうなら、医者というよりも魔術のようなことを行なって病気を直すとされる呪術師です。人は自分が弱いのに、恵みの神に拠り頼まないと、普通では考えられない、似非に飛びつくのです。
16:13 アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。16:14 そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。
香料を満たしてふしどに横たえるのも、異教的要素があったと考えられています。最後の最後のところで、このような結果になってしまったのは残念ですが、けれども多くの人がこうなっています。つまり、最後まで自分の前に置かれた信仰の競走を走らない、ということです。初めはかなり快調に走っているのですが、いやむしろ全速で走るのですが、途中で疲れて、走ることさえも止めてしまう人たちがたくさんいます。大事なのは、その過程でいかに早く走ったかではなく目標地点まで走り終えることです。イエスさまが戻って来られるとき、あるいは自分が死んで主にお会いするとき、これが目標地点ですがそれまできちんと走っているでしょうか、それともアサのように途中で諦めてしまうでしょうか?
リバイバルには、このような危険がいつも付きまといます。人間が主に立ち返って、主が祝福を与えられると、それに満足して主を求めなくなるという危険です。最後にパウロの言葉を引用したいと思います。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14)」
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME