列王記第二16−17章 「初めの状態へ」


アウトライン

1A 南ユダの退廃 16
   1B 忌むべきこと 1−9
   2B 異教の祭壇 10−20
2A 北イスラエルの破壊 17
   1B 捕囚 1−6
   2B 主の戒めからの逸脱 7−41
      1C エジプトからの救い 7−23
      2C 形式だけの礼拝 24−41

本文

 列王記第二16章を開いてください、今日は16章と17章を学びます。今日読むところで、とうとう、北イスラエルが捕囚になる部分を読みます。ここでのテーマは、「初めの状態へ」です。

1A 南ユダの退廃 16
1B 忌むべきこと 1−9
16:1 レマルヤの子ペカの第十七年に、ユダの王ヨタムの子アハズが王となった。16:2 アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、彼の神、主の目にかなうことを行なわず、16:3 イスラエルの王たちの道に歩み、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。16:4 さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。

 南ユダの王アハズの紹介です。前回私たちは、アマツヤの子ウジヤの死後、ヨタムが王となったところまで読みました。ヨタムの子がアハズです。これまでのユダの王たちの主な特徴は、ダビデの道に歩んで、主の目に正しいことを行なったが高き所は取り除かなかった、という表現でした。けれども、このアハズ王は違います。北イスラエルの王たちと同じように、偶像礼拝と、それにともなう忌むべきならわしをまねました。

 ここで気づいていただきたいのは、「主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民」とあることです。これは、700年ぐらい前のヨシュアの時代に戻ります。「ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民」と申命記7章1節でモーセが言ったところの民です。主がこれら先住民をイスラエルによって滅ぼすように意図されたのは、彼らが行なっていた、忌むべき行ないのゆえでした。その代表的なならわしは、産まれて来たばかりの乳幼児を、過熱して赤くなっている鉄で出来た偶像の上に乗せて、その神に祈願するものでした。最近でも遺跡に発掘で、数々の幼児の遺骨が発見されています。これらの忌むべきことのゆえに、主はイスラエルの前からこれらの民を追い払われたのです。

 ところが、こともあろうにアハズは、このならわしをみなユダの中に持ち込みました。落ちるところまで落ちた状況です。

16:5 このとき、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに戦いに上って来てアハズを包囲したが、戦いに勝つことはできなかった。16:6 そのころ、アラムの王レツィンはエラテをアラムに取り返し、ユダ人をエラテから追い払った。ところが、エドム人がエラテに来て、そこに住みついた。今日もそのままである。

 今、イスラエルとユダ、その二国を取り巻く状況は、前回も話しましたように、アッシリヤの台頭があります。これまではアラムあるいはシリヤとの戦いが中心でしたが、そのシリヤの北上に、現代のイラク北部からアッシリヤ国が力を増し、シリヤにも北イスラエルにも、また南ユダにも攻めて来たのです。そこで、当時のシリヤの王レツィンとイスラエルの王ペカが、アッシリヤを牽制するために同盟を結びました。そして南ユダにも仲間に加わるようにけしかけましたが、ユダはその誘いには乗らなかったので、二国はユダに戦いをしかけました。そして、エラテをレツィンが取り返した、とありますが、ユダの領土が削り取られていくようになりました。

16:7 アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」16:8 アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、16:9 アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕え移した。彼はレツィンを殺した。

 ユダは、アッシリヤからも圧力を受けていたのですが、シリヤと北イスラエルから攻められるという危急的状況の中で、アハズはアッシリヤに助けを求めました。主の宮から金銀を取り出して、それを貢物にしたとあります。前回、領土や富が削り取られる状況を霊的に私たちの生活に当てはめることができる、と言いましたが、私たちが肉の行ないや罪の生活をしていると、主にある尊い霊的富、つまり罪の赦しや、神の子らにある祝福、聖霊の実などの霊的富を敵に奪い取られる結果を招きます。けれども、アッシリヤに援助を頼むことによって、アッシリヤはシリヤ王を殺し、その住民を捕囚の民としました。

2B 異教の祭壇 10−20
 霊的な正攻法は、敵に攻められたら主に拠り頼む、ということですが、偶像礼拝の深みにまで入っていたアハズの念頭には、そのような発送は毛頭なかったでしょう。そればかりか、彼はアッシリヤとの接触で、とんでもないことをしでかします。

16:10 アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。16:11 祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから送ったものそっくりの祭壇を築いた。祭司ウリヤは、アハズ王がダマスコから帰って来るまでに、そのようにした。

 アッシリヤにある祭壇です。むろん、これは異教の神にささげるための祭壇です。これにアハズは魅了されました。そして、これと同じものをエルサレムでも造るように祭司に命令します。そして祭司ウリヤは、その異教の祭壇を命じられたとおりに造りました。

16:12 王はダマスコから帰って来た。その祭壇を見て、王は祭壇に近づき、その上でいけにえをささげた。16:13 彼は全焼のいけにえと、穀物のささげ物とを焼いて煙にし、注ぎのささげ物を注ぎ、自分のための和解のいけにえの血をこの祭壇の上に振りかけた。16:14 主の前にあった青銅の祭壇は、神殿の前から、すなわち、この祭壇と主の神殿との間から持って来て、この祭壇の北側に据えた。

 とてつもない背教です。まず、祭司のみが行なう、祭壇でのささげ物を王本人が行ないました。そして、主によって命じられて造った青銅の祭壇は、その新しく造った異教の祭壇のために、横に追いやられました。

16:15 それから、アハズ王は祭司ウリヤに命じて言った。「朝の全焼のいけにえと夕方の穀物のささげ物、また、王の全焼のいけにえと穀物のささげ物、すべてのこの国の人々の全焼のいけにえとその穀物のささげ物、ならびにこれらに添える注ぎのささげ物を、この大祭壇の上で焼いて煙にしなさい。また全焼のいけにえの血と、他のいけにえの血はすべて、この祭壇の上に振りかけなければならない。青銅の祭壇は、私が伺いを立てるためである。」

 アハブは自分が偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、ユダの国のすべてのいけにえを偶像礼拝にするように仕向けました。ユダの人々が持ってくるものはみな、アハブが自分の趣味でこしらえた、自分勝手な神にささげられたのです。

16:16 祭司ウリヤは、すべてアハズ王が命じたとおりに行なった。

 これが、ヤハウェのみに仕える王の命令であれば、すばらしい祭司ですが、偶像礼拝をヤハウェの礼拝場で推進したのですから、とんでもない従順です。

16:17 アハズ王は、車輪つきの台の鏡板を切り離し、その台の上から洗盤をはずし、またその下にある青銅の牛の上から海も降ろして、それを敷石の上に置いた。

 列王記第一の前半部分に書かれていた、ソロモンが建てた神殿の説明の部分を思い出してください。動物のいけにえを洗うための十の洗盤がありました。車輪付きで、移動可能のものでした。また、非常に大きい、青銅の洗盤もありました。牛や海が装飾されている洗盤です。これらすべてをアハズは解体しました。

16:18 彼は宮の中に造られていた安息日用のおおいのある道も、外側の王の出入口も、アッシリヤの王のために主の宮から取り除いた。16:19 アハズの行なったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。

 王が、ヤハウェを礼拝するために特別に設けられた道や出入り口などを、アッシリヤの王がここで参拝するために取り除きました。主との関係の根幹を形成する、主の宮のものをすべて偶像礼拝と、偶像礼拝者のために取り替えたのです。

 人がここまで堕落できるのか?と思ってしまいますが、けれどもこれが人間の現実なのです。このことはキリスト者と言えども、いやキリスト者が気をつけていなければいけない、神の戒めなのです。神によって霊肉の汚れから救われたのに、再びその行ないに舞い戻って来る危険です。ペテロは第二の手紙で、イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさいと勧めている手紙において、次のような強い戒めと勧めを行なっています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る。』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる。』とかいう、ことわざどおりです。(2:20-22」救われた初めの場所、世の汚れに戻るのは、吐いた物に戻る犬や洗ったのに泥に転がる豚と同じように非常に皮肉なことです。

16:20 アハズは彼の先祖たちとともに眠り、先祖たちとともにダビデの町に葬られた。彼の子ヒゼキヤが代わって王となった。

 ここに、南ユダに対する、神のあわれみの御業があります。それは、アハブがユダの中でマナセに並ぶ極悪王であったのに対して、その子ヒゼキヤは、ユダの中でもっとも主を愛した、善王であったことです。次回18章以降を学ぶときにヒゼキヤによる宗教改革を見ていくことができますが、なぜこうも、極悪王の子どもが善王になることができるのでしょうか?ヒゼキヤが父の姿を見て、反面教師にしていたという面はあるでしょう。けれども、何よりも、預言者イザヤの影響力が大であたっと考えられます。イザヤは王室に出入りすることができる、王へのアドバイザー的な役目を果たしていました。ヒゼキヤがイザヤから主のことを学んだ可能性は大です。

2A 北イスラエルの破壊 17
 そして北イスラエルへと話が移ります。

1B 捕囚 1−6
17:1 ユダの王アハズの第十二年に、エラの子ホセアがサマリヤでイスラエルの王となり、九年間、王であった。

 前回の学びで、北イスラエルが謀反から謀反へと、王が次々と殺されて、変わっていったところを読みました。ホセアも主君への謀反によって王になりました。ペカが王であったとき、イスラエルはアッシリヤによって、かなりの住民が捕え移されていました。その時にペカを殺して王となったのがホセアです。

17:2 彼は主の目の前に悪を行なったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。

 偶像礼拝を行なっていたけれども、ヤロブアムが行なったようなように行なわなかった、ということでしょう。

17:3 アッシリヤの王シャルマヌエセルが攻め上って来た。そのとき、ホセアは彼に服従して、みつぎものを納めた。17:4 しかし、アッシリヤの王はホセアの謀反に気がついた。ホセアがエジプトの王ソに使者たちを遣わし、アッシリヤの王には年々のみつぎものを納めなかったからである。それで、アッシリヤの王は彼を逮捕して牢獄につないだ。

 ホセアは密かにエジプトに頼って、アッシリヤに対抗しようとしましたが、それがアッシリヤに気づかれました。彼は牢獄につながれました。

17:5 アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。17:6 ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。

 ペカの時代に取り残されていた、イスラエルの首都サマリヤは、三年間、包囲された後に、破壊されました。紀元前721年のことです。

 アッシリヤが、イスラエル人をアッシリヤの町々に住まわせたとありますが、これがアッシリヤが征服した国々に対して行なった方法でした。征服した民を大量に、他の地域に移動させて、そこに住まわせることによって、その民がアッシリヤに反抗する力がなくなるようにする政策を取っていました。例えば日本人がある国によって征服されて、シベリヤに大量移民を強いられたとします。私たちはロシア語を話せませんし、その気候、環境、社会、文化に慣れていませんから、生きることで精一杯になります。日々の生活で大変なので、集まってその征服した国に反発しようとする気が失せるのです。このような方法で、アッシリヤが北イスラエルの民を移動させたのです。

2B 主の戒めからの逸脱 7−41
1C エジプトからの救い 7−23
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。

 列王記の著者は、北イスラエルのアッシリヤ捕囚、また将来に起こる南ユダのバビロン捕囚のことについて、それが起こった理由をこれから話していきます。その理由は、自分たちが救われた、その初めの状態に彼らが戻ってしまったからです。エジプトの支配下にいて、その奴隷とされていたところから連れ出されて、自由になったのに、その自由を自分たちの欲望を満たすため、偶像礼拝をするために用いたことでした。

17:9 イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、17:10 すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、17:11 主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。

 イスラエルの前から追い出された異邦人というのは、先に話したカナン人などの先住民のことです。ヤハウェを礼拝していると言っていながら、隠れたところでは、先住民が行なっていた忌まわしい偶像礼拝を行なっていたのでした。見張りから城壁にある町にいたるまで、とあるように、彼らの生活にこれらの悪い行ないが日常化していたからでした。

 小高い丘の上や茂ったところに偶像を立て、香をたいた、というのは、私たち日本人なら容易に想像がつくでしょう。山の上や、林の中に、数多くの偶像が立てられ、拝まれています。ただ現代の状況と異なるのは、これらの宗教行為と直接的に連結して、乱れたことが行なわれていたことです。アシェラ像は豊穣の女神であるとしばしば説明されますが、簡単に言ってしまうと、ポルノグラフィーです。人の情欲を駆り立てるように造られた、乳房がたくさんついている像です。今日、巷に氾濫している、ポルノなどの汚れたものを考えれば、イスラエルの人たちが置かれていた誘惑がどのようなものだったか、想像できるのではないでしょうか?

17:12 主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。

 イスラエルがエジプトから連れ出されて、ヤハウェとの契約を結ぶときの初めの戒めが、他の神々を持ってはならないこと、また偶像を造ってはならないことでした。初めにしてはならない、と言われたその基本をくつがえすようなことを行ない続けたのです。

17:13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」

 列王記に入ってから、いわゆる預言者がたくさん輩出されました。アブラハム、モーセ、またダビデも、神の言葉を預かった預言者でありましたが、預言をするためだけの務めが任されていた人々が、イスラエルとユダの王が主に背き始めてから、どんどん出てきました。イザヤ書から始まる旧約聖書の預言書のほとんどが、この時期に預言されたものです。

17:14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。

 かつてのイスラエル人たちは、モーセの律法にそむいて罪を犯しましたが、列王記の時代のイスラエルの民は、モーセの律法だけでなく預言者らの声も無視して、さらに心をかたくなにしました。私たちは、神の警告があったとき、それを無視してはいけません。警告があるのは、まだ希望があるからです。立ち返ることができるからです。主が私たちに注意を引き寄せようとして、必死になっておられるのです。けれどもこれを無視したら、ついに、声も何も聞こえない状態になり、自分が征服した罪や肉の欲望に、征服された状態になってしまいます。だから、警告を受けるときに向きを変えるのが必須なのです。

17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。

 偶像はむなしいものであるが、彼ら自身も偶像に似て、むなしくなっていった、とあります。詩篇115篇には、偶像のむなしさを詩篇の著者が書いていますが、こう言っています。「彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(4-8節)」偶像は手も足も口もみなあるのに、何もできないむなしい存在です。けれども、これを造ったり、信頼したりすると、自分も同じようになるのです。むなしい行ないをしていくようになります。

 ローマ1章の後半部分に、偶像礼拝をしている者たちが、自分の心の欲望のままに行き、滅びへと定められていることが具体的に書かれています。「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。(ロ1:22-23,26-31」最近、ひどい殺人事件が起こり、何がいけない、かにが行けない、と喧喧諤諤、その原因を議論していますが、当たり前なのです!まことの生ける神を認めず、自分たちを神とし、また偶像に仕えているからです。この反抗が、あらゆる悪をはびこらせる結果となっています。

17:16 また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。17:17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。

 二頭の子牛とは、もちろんヤロブアムが造ったものです。そして天の万象を拝んでいる、ともありますが、占星術もこれに関わります。バアルは、アハブ王がイゼベルを通してイスラエルに持ち込みました。そしてユダのアハズ王は、忌まわしい異教徒らのならわし、息子や娘を火のいけにえとしてささげることを行ないました。現代も、中絶を合法化している日本は、形を変えて全く同じことを行っています。

17:18 そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。

 アッシリヤ捕囚のことです。ユダ族とベニヤミン族で成り立つユダ国は、イスラエルがなくなった後もしばらく続きました。

17:19 ユダもまた、彼らの神、主の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ。17:20 そこで、主はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。

 バビロン捕囚のことです。列王記の著者は、バビロン捕囚後にこの記録を書いていますから、ユダもイスラエルと同じ道を辿ったことを、この時点で書いています。

17:21 主がイスラエルをダビデの家から引き裂かれたとき、彼らはネバテの子ヤロブアムを王としたが、ヤロブアムは、イスラエルを主に従わないようにしむけ、彼らに大きな罪を犯させた。17:22 イスラエルの人々は、ヤロブアムの犯したすべての罪に歩み、それをやめなかったので、17:23 ついに、主は、そのしもべであるすべての預言者を通して告げられたとおり、イスラエルを御前から取り除かれた。こうして、イスラエルは自分の土地からアッシリヤへ引いて行かれた。今日もそのままである。

 ヤロブアムが初めに強いた路線から、はみ出して主に仕える王は、とうとう現われませんでした。そして、預言者たちによって警告されていたイスラエルの上に下る神のさばきが、その通りになりました。

2C 形式だけの礼拝 24−41
 そして次から、アッシリヤ捕囚後の北イスラエルの土地で起こったことが、記されています。

17:24 アッシリヤの王は、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムから人々を連れて来て、イスラエルの人々の代わりにサマリヤの町々に住ませた。それで、彼らは、サマリヤを占領して、その町々に住んだ。

 イスラエルの民が、他のアッシリヤの地域に大量移住させられたのと同じように、他の征服された国々の民も、同じようにして他地域へと移住させられました。北イスラエルにも、いろいろな地域からたくさん人々が送り込まれてきました。

 イスラエルの首都サマリヤの町にも住み始めましたが、これが後に出てくる「サマリヤ人」の始まりです。しばしば、「失われたイスラエル10部族」という説がキリスト教界内で語られます。北イスラエル10部族がアッシリヤによって捕え移されたので、彼らは存在しなくなってしまった、という説です。けれども、アハズの子ヒゼキヤが王になっているとき、北イスラエルからも、少数だけれどもヤハウェのみを拝んでいる十部族の人々がエルサレムに来て、主を礼拝しにくる様子が描かれています。失われていないのです。理由は、アッシリヤが捕え移したと言っても、文字通り、一人残らず移動させたわけではなく、絶対数からするとかなり住民がそこにとどまり、残っていました。そこで、新しく移住してきた人々がいるので、イスラエル人はその移民たちと婚姻関係に入り、イスラエル人と異邦人の混血である、「サマリヤ人」が現われるようになったのです。

 エズラ記やネヘミヤ記を見ますと、バビロンからエルサレムに帰還したユダヤ人たちに対して、サマリヤ人が接近してきます。あなた方のエルサレムの町の再建工事を手伝おうか、と言っていますが、ユダヤ人たちがきっぱりと断わりました。「あなたがたには、まったく関係のないことだ。」と言いました。彼らは、ソロモンが犯した外国人との婚姻関係によって、捕囚の民となったという苦い経験を良く知っていたのです。それで、サマリヤ人たちは敵愾心をあらわにして、何とかしたユダヤ人たちの働きを阻止しようとしたのです。

 そして新約時代には、ユダヤ人とサマリヤ人との間で敵意がありました。ユダヤ人は、ユダヤ地方からガリラヤ地方に行くときに、その中間にあるサマリヤ地域を通らないで、遠回りをしました。それは互いに敵意を抱いていたからです。そこで、イエスさまがサマリヤの女と会話された、あの話につながります。これは驚くべきことだったのです。そして、使徒の働きには、ピリポがサマリヤの地域に行って、福音を宣べ伝え、多くの者が信じて、バプテスマを受けた、とあります。

17:25 彼らがそこに住み始めたとき、彼らは主を恐れなかったので、主は彼らのうちに獅子を送られた。獅子は彼らの幾人かを殺した。17:26 そこで、彼らはアッシリヤの王に報告して言った。「あなたがサマリヤの町々に移した諸国の民は、この国の神に関するならわしを知りません。それで、神が彼らのうちに獅子を送りました。今、獅子が彼らを殺しています。彼らがこの国の神に関するならわしを知らないからです。」17:27 そこで、アッシリヤの王は命じて言った。「あなたがたがそこから捕え移した祭司のひとりを、そこに連れて行きなさい。行かせて、そこに住ませ、その国の神に関するならわしを教えさせなさい。」

 非常に興味深いことですが、イスラエル人よりもアッシリヤ人のほうが、ヤハウェなる神を恐れていました。ライオンによる被害が、ここの地域の神を敬っていないことによるものだ、と彼らは理解したのです。もちろん、多神教の中で主なる神を受け止めていたのですが。

17:28 こうして、サマリヤから捕え移された祭司のひとりが来て、ベテルに住み、どのようにして主を礼拝するかを教えた。17:29 しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした。17:30 バビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クテの人々はネレガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、17:31 アワ人はニブハズとタルタクを造り、セファルワイム人はセファルワイムの神々アデラメレクとアナメレクとに自分たちの子どもを火で焼いてささげた。17:32 彼らは主を礼拝し、自分たちの中から高き所の祭司たちを自分たちで任命し、この祭司たちが彼らのために高き所の宮で祭儀を行なった。17:33 彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。17:34 彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。

 厄払いのようにして、イスラエル人の祭司を連れて来ましたが、結果は、表面的な行儀作法だけヤハウェ礼拝を取り入れただに終わりました。彼らは自分たちの祖国にあった神々を基本的に拝んでおり、付け足しのようにヤハウェを拝んでいたに過ぎません。

17:35 主は、イスラエル人と契約を結び、命じて言われた。「ほかの神々を恐れてはならない。これを拝みこれに仕えてはならない。これにいけにえをささげてはならない。17:36 大きな力と、差し伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から連れ上った主だけを恐れ、主を礼拝し、主にいけにえをささげなければならない。17:37 主があなたがたのために書きしるしたおきてと、定めと、律法と、命令をいつも守り行なわなければならない。ほかの神々を恐れてはならない。17:38 わたしがあなたがたと結んだ契約を忘れてはならない。ほかの神々を恐れてはならない。17:39 あなたがたの神、主だけを恐れなければならない。主はすべての敵の手からあなたがたを救い出される。」17:40 しかし、彼らは聞かず、先の彼らのならわしのとおりに行なった。17:41 このようにして、これらの民は主を恐れ、同時に、彼らの刻んだ像に仕えた。その子たちも、孫たちも、その先祖たちがしたとおりに行なった。今日もそうである。

 列王記はバビロン捕囚後に記されましたが、ある人は、エズラが書いたのではないか、と言っています。だれであっても、その当時、依然として偶像礼拝を行なっていたようです。

 著者は、エジプトからイスラエルが連れ出された時に初めに主が与えられた、その戒めを書き記しています。そこから離れてしまった、と嘆いています。せっかく救われたのに、契約の民となったのに・・・、という悲しみです。私たちも同じです。せっかく、罪から、死から、地獄から救われたのに、なぜ以前の生活を何ら変わっていないの?という問いかけが出来るのではないでしょうか?私たちがクリスチャンになったのは、天国行きの切符をもらって、あとは何をしても良いためのものではありません。「世にある欲がもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかるものとなるため(2ペテロ1:4」とペテロは言いました。すべては基本です。イスラエルがモーセの律法を思い起こさなければいけなかったように、私たちは、新しい契約、すなわち主が流された血を思い出し、その流された血を無駄にすることのないように、日々、思いを新たにしていただくことです。

 次回は、ヒゼキヤの宗教改革を見ていきます。今回は神からの警告でしたが、次回は、その警告に聞いて、主に立ち返った、リバイバルを読んでいきます。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME