列王記第二20−21章 「滅びの始まり」
アウトライン
1A 命乞い 20
1B 人間的な願い 1−11
1C 時定められた死 1−7
2C 神からのしるし 8−11
2B 安住の生活 12−20
1C 富への誇り 12−15
2C 自己中心 16−21
2A あらゆる罪悪 21
1B 取り消されないさばき 1−18
1C 民を巻き込む行ない 1−9
2C 流血 10−18
2B 繰り返される罪 19−26
本文
列王記第二20章を開いてください、今日は20章と21章を学んでいきます。ここでのテーマは、「滅びの始まり」です。前回私たちは、ヒゼキヤ王による宗教改革と、アッシリヤからの奇跡的な救いについて読みました。ところが、ヒゼキヤの晩年とマナセの治世によって、南ユダは北イスラエルと同じように、拭い去られることが定められます。なぜ、そのようなことが起こってしまったのか、その理由を考えながら読んでいきたいと思います。
1A 命乞い 20
1B 人間的な願い 1−11
1C 時定められた死 1−7
20:1 そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。そこへ、アモツの子、預言者イザヤが来て、彼に言った。「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。』」
「そのころ」とありますが、エルサレムがアッシリヤによって包囲されて、主が救ってくださったころであります。ヒゼキヤは40歳でした。エルサレムが守られ、救われたその直後に、イザヤによって自分の死が宣告されました。死ぬ準備のための、家の整理をせよ、と命じられています。
20:2 そこでヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈って、言った。20:3 「ああ、主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたがよいと見られることを行なってきたことを。」こうして、ヒゼキヤは大声で泣いた。
ヒゼキヤは、自分がこんなにも早く死ぬことは、どうしてもできないと思いました。自分がこんなに、あなた様に仕えてきたのに、どうして命を取られるのですか?と主に訴えています。
20:4 イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。20:5 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。20:6 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」
主は、ヒゼキヤの祈りを聞かれました。もう十五年生きる、という約束です。その間も、アッシリヤから攻められることは決してない、と約束されています。
20:7 イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。
干しいちじくが、当時、腫瘍の治癒として使われていたのでしょうか?分かりませんが、大事なのは、いやされるための信仰です。聖書では、旧約でも新約時代でも、いろいろな方法でいやしが行なわれましたが、あるときは、口に息を吹きかけて死人を生き返らせました。またある時は、土につばきをかけて泥をつくって、盲人の目を開かせました。あるときは、主は、遠いところから言葉を話されて、いやされました。いろいろな方法があります。大事なのは、その特定の方法ではなく、信仰を働かせることです。
人間的な言い方ですが、しばしば「病気は気から」と言いますね。うどん粉を医者が薬として渡したら、そのうどん粉を通して風邪が直る、なんていう話があります。それはお医者さんへ信仰を置いているからであり、薬に信仰を置いているからで、医者や薬はその信仰を働かせる媒体でしかない、ということです。主はいやされる方です。この方に信仰を置いて、いやしていただくことができます。
ところで、ヒゼキヤの祈りを主が聞かれましたが、これは本当に良かったことなのでしょうか?列王記を読み進めますと、次の章の始めに、ヒゼキヤの子マナセが十二歳で王となった、と書かれています。つまり、ヒゼキヤがさらに生きた十五年の間に、マナセを生んだことになります。そしてこのマナセが、取り返しのつかない悪を行ない、ユダとエルサレムを滅ぶように定められるその原因を作ることになります。ヒゼキヤの祈りを主は聞かれましたが、はたしてそれが、神の直接的なみこころであったのか、分からなくなる理由がここにあります。
主は私たちの意思を非常に尊重される方です。それは主ご自身が自由意志を持っておられ、人をご自分に似せて造られたからです。そこで、私たちがどうしても自分である事を行ないたいと強く願うとき、主は強いて止めさせようとはされません。私たちの自由な選択を尊重されるからです。けれども、それが、主が最も願われているわけではないことがあります。
例えば、以前、まじない師バラムが、モアブの王バラクに雇われて、モアブまで来て、イスラエルをのろおうとしました。彼は主から、「イスラエルをのろってはならない」との命令を受けたのに、お金欲しさに、その良心に逆らってモアブへと向かったのです。その時、神は、民数記22章20節ですが、「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。」と言われています。ところが次の日、バラムがろばに乗ってモアブへ出発すると、次の節ですが「神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちふさがった。」とあります。バラムが行きたいとどうしても願ったので、主はそのままにされたのですが、けれどもそれを是認されたのでは決してなく、むしろ怒っておられたのです。
私たちは、自分の願いをかなえてほしいと主にねがって、かなえられない時がありますが、むしろそれで良い時があるのです。主のみこころは最善ですが、私たちが最善以下のことを願っている可能性があるからです。私たちは信じて祈りつつ、なおかつ、主に自分をゆだねていくような祈りをしていなかければいけません。自分の願いがかなえられる時だけあなたを信じます、というような祈りをしてはいけません。
2C 神からのしるし 8−11
20:8 ヒゼキヤはイザヤに言った。「主が私をいやしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか。」
主が約束されたとおりにしてくださるのかどうか、しるしを下さいと願っています。しるしを求めること自体は悪いことではありません。(昔、ユダのアハズ王がしるしを求められたのにそれを断わりましたが、イザヤはそのことを怒りました。イザヤ書に書かれています。)
20:9 イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」20:10 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」
主がここにおられることを確かにするために、時計が逆回りになることを願いました。かつてギデオンが、羊の毛だけの部分に露が降りて、土はかわいたままにしてください、とお願いしたのと似ています。
20:11 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。
天地創造の神であるからこそ、行なうことができる奇蹟です。かつて、主はヨシュアの祈りを聞かれて、日が一日中沈むことがないようにされました。このような記事を読むと、聖書は信じられないという人たちがいますが、ヒゼキヤの時代に、天の現象がおかしくなったという記事は残されているそうです。私たちは、創世記1章1節の「はじめに、神は天と地を創造した。」という箇所を信じていれば、信じるのに何の苦労もあります。
2B 安住の生活 12−20
1C 富への誇り 12−15
20:12 そのころ、バルアダンの子、バビロンの王メロダク・バルアダンは、使者を遣わし、手紙と贈り物をヒゼキヤに届けた。ヒゼキヤが病気だったことを聞いていたからである。20:13 ヒゼキヤは、彼らのことを聞いて、すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。20:14 そこで預言者イザヤが、ヒゼキヤ王のところに来て、彼に尋ねた。「あの人々は何を言いましたか。どこから来たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「遠い国、バビロンから来たのです。」20:15 イザヤはまた言った。「彼らは、あなたの家で何を見たのですか。」ヒゼキヤは答えた。「私の家の中のすべての物を見ました。私の宝物倉の中で彼らに見せなかった物は一つもありません。」
当時、アッシリヤの国がもっとも強力であり、バビロンはユダや他の国々と同じく、アッシリヤに占領されるのを必死に抵抗していました。それゆえ、バビロンとユダは共通の敵からの脅威を受けていたということで、友好関係にあったようです。ヒゼキヤが病気になって、直ったことを聞いて手紙を送りました。そしてヒゼキヤは自分の富のすべてを見せました。
ヒゼキヤはこのとき、高ぶっていたと考えられます。歴代誌下32章に、ヒゼキヤが病気が直った後に高ぶったことが書かれています。彼はアッシリヤに打ち勝つことができたため、国々から尊敬され、その財宝に恵まれたのですが、そのため彼は高ぶったのです。そのためバビロンに、自分の富のすべてを見せのだと思われます。
2C 自己中心 16−21
20:16 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「主のことばを聞きなさい。20:17 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。20:18 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」
イザヤは、後に起こるバビロン捕囚のことを預言しています。まだバビロンが台頭することは考えられなかったその時期に、バビロンによってユダが滅ぼされることを予告しました。ヒゼキヤが高ぶっているので、これから試みを受けることを、戒めの意味も込めて預言したのでしょう。ところがヒゼキヤは、かえって「ありがたい」と言っています。
20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。
自分が生きている間は平和で安全なのだろうから、ありがたいと思ったのです。なんという自己中心でしょうか。彼は、激しい信仰の戦いを戦い抜いた後、自分の命の救いを求めたために、かえって霊的には命が失われることを行なってしまいました。賞を得るために走る、信仰の競走を最後まで走りぬくことがなかったのです。
ヒゼキヤの後世は、主が言われた次のことばが当てはまるでしょう。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。(ルカ9:24)」自分のいのち、というのは、文字通り、自分の肉体の命でもありますが、生活全般の安全、保証、生き残るための本能とも言えるでしょう。私たちが、そうした自分のいのちを救おうとするなら、最後は失ってしまう運命にあるのです。私たちが、主のゆえに、自分のいのちを失わせていく方向に行けば、主のいのちにあって生きていく、つまり霊の救いを確かなものとしていくことができます。
20:20 ヒゼキヤのその他の業績、彼のすべての功績、彼が貯水池と水道を造り、町に水を引いたこと、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。
前回話しましたが、ヒゼキヤはアッシリヤによる包囲を予測して、エルサレムの町、その城壁の中に地下の水道を造りました。現在でも「ヒゼキヤのトンネル」として、観光旅行者でも中に入ることができます。通り抜けるのに、一時間弱かかるでしょう。水があって、時にはもぐらなければいけないところもあります。この水道が、ヒゼキヤが残した大きな業績の一つでした。
20:21 こうして、ヒゼキヤは彼の先祖たちとともに眠り、その子マナセが代わって王となった。
次はマナセの生涯です。
2A あらゆる罪悪 21
1B 取り消されないさばき 1−18
1C 民を巻き込む行ない 1−9
21:1 マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼の母の名はヘフツィ・バハといった。
先ほど話したように、ヒゼキヤが延ばされた最後の十五年の間に生まれた子です。もし、寿命が延ばされていなかったら、どれだけ良かったろうに、と思わされることが次から書かれています。
21:2 彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。21:3 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。21:4 彼は、主がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く。」と言われた主の宮に、祭壇を築いたのである。21:5 こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。
マナセはなんと、ヒゼキヤが行なった宗教改革のすべてを台無しにしただけでなく、これまでこの地で行なわれていたあらゆる忌まわしいならわしを行ない始めました。ヨシュア率いるイスラエルが先住民を聖絶するときに行なわれていた、忌まわしい行ない、またイスラエルの王アハブが導入したバアル、アシェラ崇拝、それに加えて太陽・月・星などを拝むことも取り入れて、なんと主の宮の中で、天の万象を拝むための祭壇を築きました。
21:6 また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。
自分の子を火の中にくぐらせる儀式は、以前に話しましたが、考古学の発見で、実際に行なわれていたことが明らかにされています。幼児の遺骨がたくさん出てきました。それをマナセは自分の息子や娘に対して行ないました。またあらゆる占い、チャネリング、死者の霊との会話など、オカルトにもはまりました。
21:7 さらに彼は、自分が造ったアシェラの彫像を宮に安置した。主はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに言われた。「わたしは、この宮に、そしてわたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。21:8 もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしのしもべモーセが彼らに命じたすべての律法を、守り行ないさえするなら、わたしはもう二度と、彼らの先祖に与えた地から、イスラエルの足を迷い出させない。」
主はご自分の宮について、とてもすばらしい約束を与えておられました。なぜ神殿のような固定式の、移転が不可能な建物を選ばれたのかと言いますと、二度と、ここから離れることはない、あらゆる敵から守るということを保証してくださっていたからです。けれどもそれには条件があったのです。主に従っていく、という条件です。こんなにもすばらしい約束があるのは、主のうちにとどまっていればのことであって、もし主を見捨てるのであれば、主は彼らからご自分の守りの手を引き上げることもおできになるのです。
私たちも気をつけなければいけません。私たちは行ないではなく、恵みによって信仰によって救われました。そして、永遠の救いが保証されています。しかし、もし私たちが主のうちにとどまることなく、主から離れて生きたらどうなるでしょうか?主は、「実を結ばない枝は、集められた火に投げ込まれる。(ヨハネ15:6参照)」と言われました。すばらしい約束があっても、その約束を与えられた方を見捨てるのであれば、意味がなくなってしまうのです。
21:9 しかし、彼らはこれに聞き従わず、マナセは彼らを迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。
マナセの罪は、自分が悪を行なっただけではなく、それを民にも行なわせたことです。ヤハウェの神を礼拝するために神殿にやって来るユダヤ人たちは、天の万象のための祭壇でいけにえをささげなければならなくなり、また、アシェラ像の前でひれ伏さなければならなくなったからです。さらに、先住民よりもさらに悪いことを行なわせた、とあります。これは本当にひどいことです。
2C 流血 10−18
21:10 主は、そのしもべ預言者たちによって、次のように告げられた。21:11 「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行ない、その偶像でユダにまで罪を犯させた。21:12 それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。
あまりにもびっくりして、耳が鳴る、ということです。
21:13 わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。21:14 わたしは、わたしのものである民の残りの者を捨て去り、彼らを敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵のえじきとなり、奪い取られる。21:15 それは、彼らの先祖がエジプトを出た日から今日まで、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの怒りを引き起こしたからである。」
マナセの行ないによって、ユダのバビロン捕囚が定められてしまいました。彼は、ユダが霊的に回復する余地のないほど、致命傷を与えてしまったのです。後にヨシヤが宗教改革を行ないますが、それでもマナセが行なったことによって、わたしはこの町をこの宮を退ける、と主は言われています(2列王23:27)。
21:16 マナセは、ユダに罪を犯させ、主の目の前に悪を行なわせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。
マナセは、主にしたがって、罪を犯さない者たちを迫害しました。マナセに対して警告した多くの預言者も殺されたことでしょう。ヘブル書11章で、迫害と拷問を受け、殉教した聖徒たちの記録がありますが、こう書いてあります。「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました。また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、・・この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。・・荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。(ヘブル11:35-38)」ここの、「のこぎりで引かれる」というのは、言い伝えによりますとイザヤではないか、と言われています。イザヤがマナセによって、のこぎりを引かれて、殺されたと言われています。
21:17 マナセのその他の業績、彼の行なったすべての事、および彼の犯した罪、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。21:18 マナセは彼の先祖たちとともに眠り、その家の園、ウザの園に葬られた。彼の子アモンが代わって王となった。
こうして、取り返しのつかない状況となりました。興味深いのは、歴代誌第二を読みますと、マナセがアッシリヤによってバビロンに捕え移される場面が出てきます。そこで彼はへりくだって、主こそ神であると知るようになった、と書かれています。回心の体験をしたのです。そしてなんと、主はマナセを受け入れられて、再びエルサレムに、王位に戻してくださった、とあります。その後の彼は、主の宮から偶像を取り除いて、主の祭壇を築いて、いけにえをささげた、とあります。(2歴代33:10−17参照)なんという、主のあわれみと恵みでしょうか!
ヒゼキヤにもマナセにも共通して言えることは、主は、私たちの義を求めておられるのではなく、へりくだりと、主への信頼を求めておられる、主に対して砕かれた心、柔らかい心を求めておられることが分かります。私たちがいかにできているか、ではなく、いかに主の中にとどまっているか、が問われているのです。
2B 繰り返される罪 19−26
21:19 アモンは二十二歳で王となり、エルサレムで二年間、王であった。彼の母の名はメシュレメテといい、ヨテバの出のハルツの娘であった。21:20 彼は、その父マナセが行なったように、主の目の前に悪を行なった。21:21 彼は、父の歩んだすべての道に歩み、父が仕えた偶像に仕え、それらを拝み、21:22 彼の父祖の神、主を捨てて、主の道に歩もうとはしなかった。
マナセの子、アモンは、父と同じ罪を繰り返しました。
21:23 アモンの家来たちは彼に謀反を起こし、その宮殿の中でこの王を殺した。21:24 しかし、民衆はアモン王に謀反を起こした者をみな打ち殺した。民衆はアモンの子ヨシヤを代わりに王とした。21:25 アモンの行なったその他の業績、それはユダの王たちの年代記の書にしるされているではないか。21:26 人々は彼をウザの園にある彼の墓に葬った。彼の子ヨシヤが代わって王となった。
アモンはたった二年の治世でした。かつてイスラエルの王が謀反によって殺され、その謀反を起こした者が再び殺されたように、同じ道を辿っています。そしてアモンの子ヨシヤが王となります。第二回目のユダにおける宗教改革です。
こうしてユダの最後の姿を観てみますと、善王が現われ、そしてとてつもない悪王が現われ、また善王が現われるという、かなり起伏のある霊的状況にあることが分かります。これはおそらく、時代がさらに悪くなっていくにしたがって、主がその悪に打ち勝つだけの力を、ご自分に従う人々に与えられるからではないか、と思われます。主が戻って来られる前夜も、似たような状況です。悪がはびこりますが、クリスチャンたちは光の子として歩むことが勧められています。そして黙示録の最後には、このような御言葉があります。「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(22:11)」不正を行なう者と、正しく生きる者とが、真っ二つに別れる、ということです。中間はなく、ますます聖なる者にされるか、それともますます汚れた者になるかのどちらかしかありません。だから、ヒゼキヤが心を油断させたとき、その子マナセが極悪となってしまったのです。悪の力が働いています。けれども、主の愛と恵みの中にとどまれば、私たちは悪から守られるだけでなく、圧倒的な勝利者とさせていただくことができるのです。
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