列王記第二3−4章 「命の預言者」
アウトライン
1A 戦いの勝利 3
1B イスラエル王の不信仰 1−12
2B 異教への嫌悪 13−27
2A 必要の満たし 4
1B 借金 1−7
2B 不妊 8−37
1C 足りないもの 8−17
2C 心の悩み 18−28
3C 慰め 29−37
3B 食糧 38−44
1C 解毒 38−41
2C 増幅 42−44
本文
列王記第二3章を開いてください、今日は3章と4章を学びます。ここでのテーマは、「命の預言者」です。前回、私たちは、「義の使者」という題でエリヤの最後の預言活動を見ました。そして、預言活動はエリシャに引き継がれたのですが、エリシャの預言活動は、エリヤのそれとは対照的に命と恵みに満ちたものでした。それでは本文を読みましょう。
1A 戦いの勝利 3
1B イスラエル王の不信仰 1−12
3:1 ユダの王ヨシャパテの第十八年に、アハブの子ヨラムがサマリヤでイスラエルの王となり、十二年間、王であった。
前回の学び1章にて、ユダの王はヨシャパテからその子ヨラムになったことを話したときに、それは共同摂政であることを話しました。ヨラムが王でありましたが、その父ヨシャパテも同時にユダを治めています。そして、ヨシャパテの治世の第18年目に、イスラエルでアハズヤが死に、ヨラムが王となりました。イスラエル王のヨラムはユダの王と同名ですが、別人です。
3:2 彼は主の目の前に悪を行なったが、彼の父母ほどではなかった。彼は父が造ったバアルの石の柱を取り除いた。3:3 しかし、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を彼も犯し続け、それをやめようとはしなかった。
ヨラムの父母は、アハブとイゼベルです。彼はアハブが導入させたバアル信仰は排除しました。けれども、北イスラエル初代の王であるヤロブアムが始めた、金の子牛をヤハウェ神とする信仰は捨てませんでした。これはつまり、外国の神々は捨てたのですが、イスラエルの信仰の偶像化は捨てなかったことを意味します。私たちに当てはめて例えるなら、ヒンズー教の神々を拝むのはやめたけれども、仏壇や先祖供養を捨てないで教会に通っているようなものです。あからさまな偶像礼拝や罪は捨てたのですが、信仰の妥協を行なっている姿です。
3:4 モアブの王メシャは羊を飼っており、子羊十万頭と、雄羊十万頭分の羊毛とをイスラエルの王にみつぎものとして納めていた。3:5 しかし、アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王にそむいた。
実はこの話は、列王記第二の一番最初のところに出て来ていました。アハブの治世では比較的イスラエルの勢力は大きかったのですが、アハブが死んだので、モアブ王はこの時に貢物をやめることができると判断したのでしょう。
3:6 そこで、ヨラム王は、ただちにサマリヤを出発し、すべてのイスラエル人を動員した。3:7 そして、ユダの王ヨシャパテに使いをやって言った。「モアブの王が私にそむきました。私といっしょにモアブに戦いに行ってくれませんか。」ユダの王は言った。「行きましょう。私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。」
ヨシャパテは、再び同じ間違いを犯しています。アハブ王がヨシャパテに、シリヤから町を奪還するためにいっしょに戦ってくれないかと誘ったとき、ヨシャパテは同じように答えて協力しました。彼は善王であるにも関わらず、悪に対して奇妙な好奇心があったように思われます。
3:8 そして言った。「私たちはどの道を上って行きましょうか。」するとヨラムは、「エドムの荒野の道を。」と答えた。
死海の北側からモアブに入ることもできますが、南側のルートであるエドムの荒野をヨラムは選びました。
3:9 こうして、イスラエルの王は、ユダの王とエドムの王といっしょに出かけたが、七日間も回り道をしたので、陣営の者と、あとについて来る家畜のための水がなくなった。
エドムは南ユダの勢力の中にあったのでしょう、エドムもまたモアブとの戦いに加わっています。
3:10 それで、イスラエルの王は、「ああ、主が、この三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだったのだ。」と言った。
イスラエルの王は不信仰に陥っています。ちょうど同じ地域で、かつてモーセに率いられたイスラエルの民が、同じつぶやきをしました。ホル山からエドムの地を迂回していたときに、モーセに対して「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。(民数21:5)」と言いました。
3:11a ヨシャパテは言った。「ここには主のみこころを求めることのできる主の預言者はいないのですか。」
かつてアハブ王に対して話しかけたように、主の預言者はここにはいないのかと、ヨシャパテは尋ねています。
3:11bすると、イスラエルの王の家来のひとりが答えて言った。「ここには、シャファテの子エリシャがいます。エリヤの手に水を注いだ者です。」3:12 ヨシャパテが、「主のことばは彼とともにある。」と言ったので、イスラエルの王と、ヨシャパテと、エドムの王とは彼のところに下って行った。
ヨシャパテはエリシャのことを知っていたようです。彼は、エリヤの手に水を注いだ、つまりエリヤの世話をする仕え人だった、ということです。
2B 異教への嫌悪 13−27
3:13a エリシャはイスラエルの王に言った。「私とあなたとの間に何のかかわりがありましょうか。あなたの父上の預言者たちと、あなたの母上の預言者たちのところにおいでください。」
エリシャはイスラエルの王に関わることに、嫌悪感を抱いていたようです。あなたの父母の預言者たちというのは、バアルのことです。
3:13bすると、イスラエルの王は彼に言った。「いや、主がこの三人の王を召されたのは、モアブの手に渡すためだから。」3:14 エリシャは言った。「私が仕えている万軍の主は生きておられる。もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったなら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」
エリシャはイスラエルの王に関わることを避けたかったのですが、このイスラエル王の不信仰的な言葉を聞いて、イスラエルの王のためではなく、主の栄誉が引き落とされるのを懸念したようです。ヤハウェなる神が、三人の王を召しておきながらモアブの王の手に引き渡されるような、ひどいことはしません。そして、そこには善王であるヨシャパテがいます。ヨラムのためではなく、主の御名のゆえに、またヨシャパテのゆえに奇蹟を行ないます。
3:15 「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、3:16 彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』」
かつて悪霊につかれたサウルが、その気を鎮めるためにダビデに立琴をひいてもらいましたが、エリシャも、精神的に静まるために立琴を用意させました。よほど、イスラエルの王のこと、諸国の勢力争いのような政治的な事に関わりたくなかったのでしょう、自分の気を静めてから預言しています。
3:17 「主がこう仰せられるからだ。『風も見ず、大雨も見ないのに、この谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、獣もこれを飲む。』3:18 これは主の目には小さなことだ。主はモアブをあなたがたの手に渡される。3:19 あなたがたは、城壁のある町々、りっぱな町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石ころでだいなしにしよう。
モアブの南側の国境にゼレデという谷があります。おそらくそこに水が、あふれ出ることを預言しました。さらに、イスラエル・ユダ・エドム連合軍がモアブを攻め込むことも預言しています。
3:20 朝になって、ささげ物をささげるころ、なんと、水がエドムのほうから流れて来て、この地は水で満たされた。3:21 モアブはみな、王たちが彼らを攻めに上って来たことを聞いた。よろいを着ることのできるほどの者は全部、呼び集められ、国境の守備についた。3:22 彼らが翌朝早く起きてみると、太陽が水の面を照らしていた。モアブは向こう側の水が血のように赤いのを見て、3:23 言った。「これは血だ。きっと王たちが切り合って、同士打ちをしたに違いない。さあ今、モアブよ、分捕りに行こう。」
モアブはすでに、連合軍が攻めてくることを知って、国境を防御していました。けれども、朝日に照らされた、そこの谷にある水が真っ赤になっていました。それで同士打ちであると勘違いしました。それで分捕り物を取りに行くために、エドムのほうに行きます。
3:24 彼らがイスラエルの陣営に攻め入ると、イスラエルは立ってモアブを打った。モアブはイスラエルの前から逃げた。それで、イスラエルは攻め入って、モアブを打った。3:25 さらに、彼らは町々を破壊し、すべての良い畑にひとりずつ石を投げ捨てて石だらけにし、すべての水の源をふさぎ、すべての良い木を切り倒した。ただキル・ハレセテにある石だけが残ったが、そこも、石を投げる者たちが取り囲み、これを打ち破った。
エリシャが預言した通りになりました。
3:26 モアブの王は、戦いが自分に不利になっていくのを見て、剣を使う者七百人を引き連れ、エドムの王のところに突き入ろうとしたが、果たさなかった。3:27 そこで、彼は自分に代わって王となる長男をとり、その子を城壁の上で全焼のいけにえとしてささげた。このため、イスラエル人に対する大きな怒りが起こった。それでイスラエル人は、そこから引き揚げて、自分の国へ帰って行った。
忌まわしいことが行なわれました。モアブ王は最後の抵抗を試みて、精鋭部隊をエドムに送り込もうとしましたが、失敗しました。けれども、イスラエル人を撤退させるのに、結果的に効果的な方法を取りました。自分の息子を、モアブの神ケモシュにささげることです。人間の生贄は、当時、異教の中ではごく普通に行なわれていました。戦況が悪化したので、モアブ王はケモシュ神が怒っていると判断したのだと考えられます。それでケモシュをなだめるための全焼のいけにえをささげたのだと思われます。そしてこれを城壁の上で行なっています。イスラエル人らに見せることによって、嫌悪感を引き起こそうとした意図があったのかもしれません。
それでイスラエル人は引き返しましたが、バアル神を捨てていたヨラムは、自分の息子をいけにえにするほど良心が汚されていなかったようです。これを唾棄すべきものとみなしたようです。けれどももちろん、北イスラエルは、もっともっと良心が汚され、異教のならわしを再び行なっていくようになります。
私たちが住んでいる社会では、どうでしょうか?初めは忌まわしい、唾棄すべき、と怒らせるような出来事も、あまりにも蔓延しているので、日常生活の一場面ほどにしか反応しないようになってきてしまいます。かつては信じられず、あまりにも驚愕する事柄も現在では平気になっています。けれども、罪は悲しまなければいけません。また、戦わなければいけません。
2A 必要の満たし 4
こうした諸国の王の戦いを読みましたが、エリシャの預言活動が4章からずっと書かれています。それらを読むと気づくことは、エリヤに願ったとおり、エリヤの霊の二倍を分け前が確かに与えられていることです。エリヤが行なった奇蹟と似たような出来事がいくつか出てきます。けれども、エリヤとは異なる、対照的な奇蹟も見ることになります。
第一にエリヤは主に、アハブ王やその子アハズヤ王に対する預言を行ない、国レベルでイスラエルを神に立ち返らせる働きを行ないました。けれどもエリシャは、それよりも個人レベルで人々の信仰を建て上げる働きに重点を置いています。4章から読んでいくのは、個々人の必要に対する世話です。そして第二に、エリヤは、神の義に基づくさばきと悔い改めを人々に呼びかけ、火がその特徴になっていたのに対して、エリシャは、神の恵みといのちが人々に流されているような、いのちのミニストリーに特徴があります。たった今、読んだところでも、喉が渇いているところで、谷に水を満たしたような働きです。そして実はこれは、バプテスマのヨハネとそれに続く主イエスの宣教活動に類似しています。バプテスマのヨハネは罪の悔い改めを説き、イエスさまは恵みの到来を宣言されました。それでは4章を読んでみたいと思います。
1B 借金 1−7
4:1 預言者のともがらの妻のひとりがエリシャに叫んで言った。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは、主を恐れておりました。ところが、貸し主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」
エリヤの時から、預言者のともがら、つまり預言者学校が、いくつかの地域にありました。その中で、預言者の一人の夫が死に、残された妻と子どもたちが取立て屋に追われている窮状を、エリシャに訴えています。当時は、福祉制度がなく、母子家庭に対する生活保護もなく、やもめはひどく貧しい状況に陥りました。そして当時は、借金を払わない代わりに、奴隷になることも習慣としてありました。それで、このこともエリシャに訴えています。
4:2 エリシャは彼女に言った。「何をしてあげようか。あなたには、家にどんな物があるか、言いなさい。」彼女は答えた。「はしための家には何もありません。ただ、油のつぼ一つしかありません。」4:3 すると、彼は言った。「外に出て行って、隣の人みなから、器を借りて来なさい。からの器を。それも、一つ二つではいけません。4:4 家にはいったなら、あなたと子どもたちのうしろの戸を閉じなさい。そのすべての器に油をつぎなさい。いっぱいになったものはわきに置きなさい。」
エリヤが行なったのと似たような奇蹟です。けれども違いがあります。エリヤは、そのやもめに対して、「残りの油と粉とで私のためにパンを作りなさい。それから、あなたがたも食べなさい。」と言い、また、「そのつぼから油と、かめの粉は尽きない。」と預言しました。一方エリシャは、油がつぼからどんどん出てきて、いくつもの器を持ってこなければいけない、と預言しました。
4:5 そこで、彼女は彼のもとから去り、子どもたちといっしょにうしろの戸を閉じ、子どもたちが次々に彼女のところに持って来る器に油をついだ。4:6 器がいっぱいになったので、彼女は子どもに言った。「もっと器を持って来なさい。」子どもが彼女に、「もう器はありません。」と言うと、油は止まった。
興味深いです。空の器を持ってくるときには、油は出てくるのに、持ってこなくなったら油は止まりました。これを霊的に適用できるのではないかと思います。主は私たちに、神の御霊を心の奥底から、生ける水としてあふれ出させると約束されました。けれども、この約束を自分のものとするのは、自分が主によって満たされる、飢え渇いた心を持っていかなければいけないでしょう。少し与えられて満足するような心ではなく、「もっと、もっと!」と、主が与えられているものを全部取り逃がすようなことはしまいという、霊的に良い意味で貪欲になっている必要があります。
4:7 彼女が神の人に知らせに行くと、彼は言った。「行って、その油を売り、あなたの負債を払いなさい。その残りで、あなたと子どもたちは暮らしていけます。」
油がそれだけ用意されたのは、自分たちが使うというよりも、それを売って負債に宛がうためのものでした。
2B 不妊 8−37
1C 足りないもの 8−17
4:8 ある日、エリシャがシュネムを通りかかると、そこにひとりの裕福な女がいて、彼を食事に引き止めた。それからは、そこを通りかかるたびごとに、そこに寄って、食事をするようになった。
再び女性の登場人物が現われました。男女同権論者は、聖書のことを男尊女卑などと言いますが、とんでもない間違いであって、このように主が、一人一人の女性に心を留めておられることを聖書は描いています。けれども、先ほどの貧しいやもめではなく、対照的な裕福な女性です。
シュネムは、イッサカル族の割り当て地の中にある、ガリラヤ湖とイズレエル平野の間にある町です。エリシャはサマリヤやカルメル山によく行き来していたので、その途中でこの家庭に招かれ、食事をするようになったのでしょう。
4:9 女は夫に言った。「いつも私たちのところに立ち寄って行かれるあの方は、きっと神の聖なる方に違いありません。4:10 ですから、屋上に壁のある小さな部屋を作り、あの方のために寝台と机といすと燭台とを置きましょう。あの方が私たちのところにおいでになるたびに、そこをお使いになれますから。」
この女性は、物質的豊かさにうずもれることなく、むしろ、その豊かさを用いて、主のお役に立ちたいと願っているような人でした。夫よりも、霊的には飢え渇きをもっているようです、夫に、エリシャのための部屋を一つ作ってほしいと言いました。英語では、「エリシャの部屋」という言葉がありますが、それは、自分が住んでいる地域にやって来た、牧師・宣教師・伝道師が寝泊りすることができるような部屋を、自分の家に設けているときに使います。私も、カリフォルニアに行くときに、そのようにして作られた部屋に寝泊りするもてなしを受けます。それは、主を本当に愛していて、それが主の奉仕者へのもてなしとして表れているためです。
4:11 ある日、エリシャはそこに来て、その屋上の部屋にはいり、そこで横になった。4:12 彼は若い者ゲハジに言った。「ここのシュネムの女を呼びなさい。」彼が呼ぶと、彼女は彼の前に立った。4:13 エリシャはゲハジに言った。「彼女にこう伝えなさい。『ほんとうに、あなたはこのように、私たちのことでいっしょうけんめいほねおってくれたが、あなたのために何をしたらよいか。王か、それとも、将軍に、何か話してほしいことでもあるか。』」彼女は答えた。「私は私の民の中で、しあわせに暮らしております。」4:14 エリシャは言った。「では、彼女のために何をしたら良いだろうか。」ゲハジは言った。「彼女には子どもがなく、それに、彼女の夫も年をとっています。」
主に祝福されて、何の不自由もないように見える女でしたが、実は、心の奥底に痛みを持っていました。不妊であったのです。ここから、一見、不自由がないように見える人であっても、どこかで欠乏している部分、心のもだえ苦しみがあることを知ります。欠如があることを、自分は満足しているからという理由をつけてあえて目を向けないでいますが、実は欠乏していたのです。
4:15 エリシャが、「彼女を呼んで来なさい。」と言ったので、ゲハジが彼女を呼ぶと、彼女は入口のところに立った。4:16 エリシャは言った。「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱くようになろう。」彼女は言った。「いいえ。あなたさま。神の人よ。このはしために偽りを言わないでください。」4:17 しかし、この女はみごもり、エリシャが彼女に告げたとおり、翌年のちょうどそのころ、男の子を産んだ。
あまりにも良すぎる話なので、「嘘を言わないで下さい」という言葉にあります。けれども、エリシャの言葉どおりに、彼女は身ごもりました。
2C 心の悩み 18−28
4:18 その子が、大きくなって、ある日、刈り入れ人といっしょにいる父のところに出て行ったとき、4:19 父親に、「私の頭が、頭が。」と言ったので、父親は若者に、「この子を母親のところに抱いて行ってくれ。」と命じた。4:20 若者はその子を抱いて、母親のところに連れて行った。この子は昼まで母親のひざの上に休んでいたが、ついに死んだ。
たぶん、日射病にかかったのでしょう、なんとこの子が死んでしまいました。
4:21 彼女は屋上に上がって行って、神の人の寝台にその子を寝かし、戸をしめて出て来た。
もう死んでいることは分かっているのに、彼女はとっさに、この子をエリシャの部屋の寝台の上に寝かしました。ここから彼女の、貪欲なまでの神への飢え渇きがあることを読んでいくことができます。
4:22 彼女は夫に呼びかけて言った。「どうぞ、若者のひとりと、雌ろば一頭を私によこしてください。私は急いで、神の人のところに行って、すぐ戻って来ますから。」4:23 すると彼は、「どうして、きょう、あの人のところに行くのか。新月祭でもなく、安息日でもないのに。」と言ったが、彼女は、「それでも、かまいません。」と答えた。
夫は、宗教的行事程度にしか、エリシャのことを見ていなかったのでしょう。そして妻は、死んだ息子を生き返らせるためにエリシャのところに行くと夫に行ったら、決して理解してもらえないことを分かっていました。ある人の話を聞きましたが、その人が生まれる前に、まだ赤ちゃんだったお姉さんが瀕死の状態で、お母さんは近所の教会に彼女を運んでいきました。そして牧師に祈ってもらいました。けれども夫も信仰者ですが、その牧師を殴って、その子を病院に連れて行かせようとしました。ところが、もうその子はいやされていました。奇蹟が起こったのですが、妻が病院ではなく教会に連れて行った、これと同じことを今、シュネムの女は行なっているのです。
4:24 彼女は雌ろばに鞍を置き、若者に命じた。「手綱を引いて、進んで行きなさい。私が命じなければ、手綱をゆるめてはいけません。」4:25 こうして、彼女は出かけ、カルメル山の神の人のところへ行った。神の人は、遠くから彼女を見つけると、若い者ゲハジに言った。「ご覧。あのシュネムの女があそこに来ている。4:26 さあ、走って行き、彼女を迎え、『あなたは無事ですか。あなたのご主人は無事ですか。お子さんは無事ですか。』と言いなさい。」それで彼女は答えた。「無事です。」
エリシャはゲハジに、彼女を迎えるように言いつけていますが、彼女はほとんどゲハジを無視しています。彼女は知っていました、エリシャの祈りによって奇蹟が起こることを、です。
4:27 それから、彼女は山の上の神の人のところに来て、彼の足にすがりついた。ゲハジが彼女を追い払おうと近寄ると、神の人は言った。「そのままにしておきなさい。彼女の心に悩みがあるのだから。主はそれを私に隠され、まだ、私に知らせておられないのだ。」
エリシャの興味深い発言です。彼はあまりにも頻繁に、人の思いや隠された事柄について、主から示されていました。そこで今、主が示されないので、それをあえて話しています。私たちであれば、一生に数回、主がはっきりと示されたことを驚き喜ぶところですが、エリヤは示されなかったことを驚いているようです。
4:28 彼女は言った。「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか。」
彼女は打ちしおれています。子が与えられて死ぬぐらいなら、初めから与えられなかったほうが良いではないか?という訴えです。
3C 慰め 29−37
4:29 そこで、彼はゲハジに言った。「腰に帯を引き締め、手に私の杖を持って行きなさい。たといだれに会っても、あいさつしてはならない。また、たといだれがあいさつしても、答えてはならない。そして、私の杖をあの子の顔の上に置きなさい。」4:30 その子の母親は言った。「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたを離しません。」そこで、彼は立ち上がり、彼女のあとについて行った。
この子が瀕死の状態であることを悟ったエリシャは急いでゲハジに、自分の杖を置いていくように言いつけました。あいさつをすれば、時間が長びきますから、あいさつをしないで、とにかく杖をあの子の頭の上に置きなさいと命じています。ところが、その子の母親はエリシャ自身が来なければいけない、と訴えています。
4:31 ゲハジは、ふたりより先に行って、その杖を子どもの顔の上に置いたが、何の声もなく、何の応答もなかったので、引き返して、エリシャに会い、「子どもは目をさましませんでした。」と言って彼に報告した。
ゲハジが置いただけでは、直りませんでした。
4:32 エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。4:33 エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。
祈りに集中するために、ふたりだけになりました。
4:34 それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。
ちょうど息をしなくなった人に、人工呼吸をするかのように、エリシャは子どもの上に身をかがめ、自分の口と目をその子の口と目に合わせました。奇蹟を行なうとき、イエスさまがそうでしたが、いろいろな方法があります。特定の方法ではなく、その時に示された方法があります。大事なのは、信仰と祈りであり、その時の具体的な身振り手振りは二の次です。
4:35 それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。
七回というのは、神の御業だからでしょう。「七」は聖書の中で、しばしば神ご自身のわざを指しています。
4:36 彼はゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲハジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。4:37 彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。
これをイエスさまの言葉を借りるなら、「あなたの信仰が、救ったのです」でしょう。彼女は、エリシャが聖なる神の人であることを認めて、この人の祈りによっていやされるという信仰を持っていました。だから、引き下がらず、ゲハジのあいさつや、ゲハジが持っていった杖では直らないと言い張ったのです。このように、いやしや奇蹟には、双方の信仰が要求されることが多いです。いやしのために祈る人の信仰と、また、この人の祈りによっていやされると信じる人のどちらもの信仰が必要です。ゲハジのように、ただ言われたことだけを行なうのでは、奇蹟は起こりません。
3B 食糧 38−44
そして38節から、食糧が足りなくなっているときに起こった問題について、エリシャが関わる場面を読んでいきます。
1C 解毒 38−41
4:38 エリシャがギルガルに帰って来たとき、この地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前にすわっていたので、彼は若い者に命じた。「大きなかまを火にかけ、預言者のともがらのために、煮物を作りなさい。」
列王記第二を読み進めると、サマリヤにききんがあったことが記されています。そのために、預言者学校の生徒たちも、食べ物に事欠きました。
4:39 彼らのひとりが食用の草を摘みに野に出て行くと、野生のつる草を見つけたので、そのつるから野生のうりを前掛けにいっぱい取って、帰って来た。そして、彼は煮物のかまの中にそれを切り込んだ。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。4:40 彼らはみなに食べさせようとして、これをよそった。みながその煮物を口にするや、叫んで言った。「神の人よ。かまの中に毒がはいっています。」彼らは食べることができなかった。
ここの「毒」は「死」が直訳です。「こんなの食べたら、ぜったいに死ぬ!」と言って驚きました。
4:41 エリシャは言った。「では、麦粉を持って来なさい。」彼はそれをかまに投げ入れて言った。「これをよそって、この人たちに食べさせなさい。」その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。
エリシャが再び、奇蹟を行ないました。エリヤが、大ぜいのイスラエル人の前で天から火を下らせたときは、目を見張るものですが、エリシャの奇蹟はこのように人目につかないところで、しかも人々の個々の必要に応じるようにして行なわれました。
2C 増幅 42−44
4:42 ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい。」と命じた。4:43 彼の召使は、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう。」と言った。この召使はゲハジのことでしょう。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。主はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」4:44 そこで、召使が彼らに配ると、彼らは食べた。主のことばのとおり、それはあり余った。
預言者のともがら百人に、大麦のパン二十個と一袋の新穀によって、満腹になるほど食事を与える、という奇蹟です。似たような、そしてもっと大きな規模の奇蹟を覚えておられると思います、イエスさまの群衆に対する給食ですね。五千人の男に、五つのパンと二匹の魚によって空腹を満たされました。次回は、異邦人ナアマンに対するエリシャの働きを見ます。
こうやって見ますと、初めに話したように、エリヤからエリシャに移行する預言的働きは、ちょうどバプテスマのヨハネからイエスさまご自身に移行する働きに似ています。ヨハネは、メシヤが来られるのであなたがたはさばかれる。けれども、悔い改めて罪の赦しを得なさい、というメッセージでした。けれども、使徒ヨハネによる福音書1章には、「この方は恵みとまことに満ちておられた。(14節)」とあります。御子は世をさばくためではなく、救うために来られたのです。
したがって、イエス・キリストの証人となっている私たちも、恵みの分かち合いにおいて宣教の働きをする必要があります。もちろん、来る神のさばきについて宣べなければいけないでしょう。けれども、苦しんでいる人、霊的にも物質的にも飢え渇いている人、必要がある人、心に痛みを持っている人など、神のいのちと恵みを必要としている人たちがたくさんいます。私たちは、神の恵み深さをその人たちに伝えるために召されています。そのために、必要ならばエリシャのようにいやしが奇蹟が行なえるよう、聖霊の賜物が与えられるよう祈ることができると思います。
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