サムエル記第二11−12章 「ダビデの罪」

アウトライン

1A 罪への道 11
   1B 目の欲、肉の欲、暮し向きの自慢 1−5
   2B 隠蔽できない罪 6−13
   3B 増幅する罪 14−27
      1C 殺人 14−25
      2C 表面的な解決 26−27
2A 罪示された後 12
   1B 同じさばきの量り 1−6
   2B 罪の刈り取り 7−14
   3B 悔い改めるダビデ 15−31
      1C あわれみへの信頼 15−25
      2C 元の仕事 26−31

本文

 サムエル記第二11章です。私たちはこれまで、ダビデが神の主権の中に服することによって、神の国がイスラエルに広がっていたこと、そしてダビデ自身が自分自身から出るキリストを表す型となっていたことを知りました。しかし、その頂点と思われるような時に彼はその歩みから足を踏み外してしまいます。ダビデの姦淫の罪、殺人の罪に私たちは目を留めてしまいますが、この物語での最大の問題は、「神の栄光に陰りが与えられた」ということです。ダビデによって神の国、そしてキリストご自身を見えなくなった、という傷がもっとも大きいです。

 同時に、神は新たな働きを行なわれます。それは、神はご自分の裁きにおいても栄光を表す、ということです。人が行なっている罪を公正に裁かれることによって、神は人の不従順の中でもご自分の真実を表されます。「では、いったいどうなのですか。彼ら(ユダヤ人)のうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。(ローマ3:3-4」これをダビデのこれからの生涯の中で、見ることができます。

1A 罪への道 11
1B 目の欲、肉の欲、暮し向きの自慢 1−5
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

 覚えていますか、イスラエルはアモン人と戦っていました。ダビデがアモン人の王ハヌンに恩義を感じていて、彼の死んだ後、その子ハヌンに悔やみの言葉を言わせるため家来を送りました。ところがハヌンは家来を辱めて送り返しました。それだけでなくハヌンは、兵士を用意し、またアラム人も雇って戦いの備えをしました。けれども、イスラエルは彼らに打ち勝ちました。アモン人は自分たちの町に逃げ込んだので、イスラエルはエルサレムに戻りました。

 そして「年が改まり」とありますが、口語訳では「春になって」とあります。当時の戦いは冬は休戦状態となりました。雨がたくさん降るので、地面もぬかるみ、戦いにならないからです。秋のうちに終わらなかった戦いは、春に再開させます。そしてアモン人の首都ラバを包囲しました。この攻略の様子は、1226節以降に出てきます。その直前に起こった出来事が11章と12章であります。

 そして、「しかしダビデはエルサレムにとどまっていた」というのが、彼の霊的後退の一番の始まりと言えます。イスラエル王国はほとんど確立しているかに見えました。周囲の民をほとんど征服しているかに見えました。けれども、まだだったのです。私は性格的に、ほとんど成し遂げた仕事があるのにその最後をしないで立ち止まってしまう傾向がありますが、これを霊的に行なってしまうと致命的です。自分が求めていたことが、神の恵みによってほとんど成し遂げられている時に、「私は到達した」と考えることが、とても危険な領域に入ることになります。

 パウロは、そのことを避けるために次のような信仰の姿勢を表明しています。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14」黙示録のサルデスにある教会を思い出してください。彼らは生きているようで、実は死んでいるとイエス様に宣言されました。なぜか?「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。(黙示3:2

 信仰生活は電流や血流と同じです。血液が体中に存在しているから人は生きるのではありません。流れているから体を生かします。電流も同じように、絶えず流れているから電気製品が動くことができるのです。どんなに高い霊的状態に自分が達したと考えても、生きた信仰を絶えず働かせていかねばならぬのです。ですから、さらにキリストを追い求める必要があるし、もし何か神が成し遂げてくださったものを見れば、感謝し、礼拝し、そして主が成し遂げてくださった恵みを覚えることによって信仰を生かすことができます。

11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

 「夕暮れ時」まで、ダビデは寝ていました。世界のいろいろなところで「昼寝」は日常のことになっているので、一度朝起きて、それから昼寝をしていたのかもしれませんが、それでも夕暮れまで寝ていたのは、単にまどろんでいたに他なりません。

 イスラエルでは、今のエルサレム旧市街でもそうですが、屋根はいろいろな活動の場となっています。平らになっているので、洗濯物を干したり、その他、必要なことを行なっています。それで彼が屋上を歩いていたら、この女が見えました。

11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。

 「人をやって、その女について調べたところ」とあります。目の欲、また肉の欲に引き寄せられています。「見えた」ところまでは何の問題もありません。「非常に美しかった」というのも、それは事実ですから仕方がありません。しかし、「人をやって、その女について調べた」というところに行動に移したという罪があります。「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。(マタイ5:28」と主は言われました。ここの「見る」は、「見えること」でも、「見えて反応する」ことでもありません。「見て、そしてまたじっくりと見る」という意志を伴ったものです。そこでそれが、情欲とみなされるのです。

 実は、彼の女性との関係には伏線がありました。少なくとも、サウルの娘ミカルとはうまく言っていませんでした。ダビデが神の箱をエルサレムに運んできたとき、主の前で踊りましたが、それをミカエルはさげすみました。そしてダビデは気分を害しましたが、サムエル記第二623節には、「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった。(2サムエル6:23」とあります。つまり夫婦関係をダビデは一切持たなかった、ということです。このような夫婦間のもつれが、目で見える美しい女性にひかれる時に妻を忘れるきっかけとなります。

 そして報告を受けましたが、決してダビデはこの女に触れてはいけませんでした。「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」とあります。「ヘテ人ウリヤ」は、自分の部下です。サムエル記第二23章にダビデの勇士三十名が列挙されています。その最後にウリヤの名が出てきます。そして、妻も実は近しい人でありました。バテ・シェバの父「エリアム」もまた、同じく勇士三十名の中の一人でした。しかもエリアムの父が「アヒトフェル」です(34節)。アヒトフェルは、ダビデの議官であり、親友の一人でした。バテ・シェバは、アヒトフェルの孫娘だったのです。もちろん、他人の男の妻と寝ること自体、それが罪でありますが、ダビデは親しい友や、大切な部下を裏切ることになります。

11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。・・その女は月のものの汚れをきよめていた。・・それから女は自分の家へ帰った。11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

 ダビデは、「他人の妻と寝たところでそれだけのことだ」と考えていたかもしれません。けれどもそうではありませんでした。バテ・シェバは身ごもりました。それもそのはず、彼女が月の汚れをきよめていました。(ところで、月の汚れをきよめるのは、衛生的な意味合いだけでなく、聖書のレビ記で定められている神からの命令です。レビ記15章に書かれています。)ということは、排卵期に入っているということです。このときに性的関係を持ったら妊娠する可能性は大です。ダビデはそのような危険を考えることができたはずですが、自分の肉の欲はそうした冷静な判断を狂わせていました。サムソンがデリラと寝ていたときもそうでした。

2B 隠蔽できない罪 6−13
11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。11:7 ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。

 これからダビデは、次に過ちを犯します。「罪を隠そう」とすることです。しかし、隠すことができません。これは神の憐れみによります。聖書では、「罪は必ず明らかにされる」という原則があります。ヨルダン川の東に相続地がほしいと言った、ルベンとガドに対してモーセが、「あなたたちは主に対して罪を犯すのであり、その罪は身に及ぶことを知るがよい。(民数32:23 新共同訳)」と言いましたが、罪が身に及ぶ、あるいは罪が自分に追いついてくる、ということです。

11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

 ウリヤがバテ・シェバのところに入れば、生まれてきた子はウリヤとの子であるとごまかすことができます。それでウリヤを労うふりをしましたが、ここはウリヤのほうが、倫理観が高いです。彼は苦しみと戦いを共にしている者たちと一つにある、という、とても大切な神を信じる者としての特質を持っていました。ある意味、ダビデがこのような勇士たちに育て、それによって彼の罪の隠蔽の試みが阻まれています。

11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。

 ダビデはこの時点で、自分の罪を神の前に言い表わし、神からの憐れみを求めれば良かったのですが、そうしませんでした。罪は、その一つの罪だけで終わらせられない性質を持っています。そこで彼は新たな罪を犯します。少量のパン種をパンの粉に入れると、パン種が粉全体に広がるようなものであることが、コリント第一に書いてあります。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。 (1コリント5:6

3B 増幅する罪 14−27
1C 殺人 14−25
11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

 なんとダビデはウリヤを殺すことを企みました。殺人の罪です。しかも、分からないように戦場で死ぬように考えていました。サウルがかつてダビデをペリシテ人の手に陥るように仕向けたのと同じです。そして、よりによって、ウリヤ殺害の命令の手紙をウリヤ本人に渡しています。

11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか。』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』と言いなさい。」

 アビメレクとは、士師ギデオンがそばめとの間で生んだ子です。彼はギデオンの息子70人を虐殺しました。けれども一人だけ逃れて、彼がアビメレクに対する神ののろいを宣言しました。はたしてその通りになり、アビメレクはひとりの女が城壁から投げたひき臼の上石によって殺されました。ダビデが、そこから教訓を学び取ることができなかったのか、と叱責するかもしれないと、ヨアブが使いの者に言いつけました。

11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」

 ダビデは何事もなかったかのように返答しています。

2C 表面的な解決 26−27
11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を生んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。

 ダビデと数人の使いの者、またヨアブ以外は、このことについての真実は知らなかったでしょう。けれども、もちろん、ウリヤが死んだこと、ダビデがその妻を迎え入れたことについては、何か変だと勘付いていた人たちもいたかもしれません。いずれにしても、人間的には上手に罪を覆い隠すことができました。そして当時は、やもめになると、自分を支える人がいなくなり、物乞いに近い貧しい生活を強いられます。勇士の死によって残された妻をめとることは、逆に称賛された可能性もあります。ダビデはなんと弱い者に目を留める人なのか、すばらしい、という称賛があったかもしれません。

 おそらくはこの時の心情を書き記しているであろう箇所が、詩篇の中にあります。ダビデが罪を隠していたときの心情です。詩篇32篇3−4節です。「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ」彼は霊的に、また感情面に渇きをおぼえていました。また肉体の疲労までももたらしていました。表向きは、情け深い王を演じながら内側では、姦淫、殺人、そして裏切りの罪を覆い隠さなければいけないわけです。聖書ではこれを、「偽り」と言います。偽りとは、単に言葉で真実と異なることを言うことだけではなく、自分のあり方、自分の生き方に一貫性がなくなったときのことを言います。このような人生は人の魂を疲れさせ、渇き与えます。

2A 罪示された後 12
 そして預言者であり、友人であるナタンがダビデを叱責しに来ます。箴言に、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる。(27:5」とあります。彼は真の友人として、ダビデをあからさまに責めます。

1B 同じさばきの量り 1−6
12:1 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

 これはもちろん、多くの妻がいるダビデが、たった一人の妻しかいないウリヤからその妻を取り上げたことのたとえです。

12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。12:6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」

 ダビデは、自分自身が羊飼いであったことからも、たった一匹の子羊をねんごろに育てているその貧しい人の気持ちがより一層わかったのでしょう。その富んでいる男は死刑であり、また、四倍にして償わなければいけないと言っています。出エジプト記221節に、羊を盗んだ場合は、羊四頭で償いをしなければいけない、と書かれています。

 けれども、ダビデはこれが自分自身に対することであることに気づきませんでした。自分が責め立てている事は、少し状況を変えて自分に当てはまれば、全く同じように自分も行なっていたことに気づいていなかったのです。これが、イエスさまが言われた、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」という戒めです。またパウロがローマ人への手紙2章でこう言っています。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。(1節)

 そして、なぜダビデが「死刑だ」と叫んだか分かります。律法に従えば、四倍の償いは必要ですが、死刑までする必要はありません。けれども彼が叫んだのは、それだけ良心の咎めを自分の心の中に持っていたからです。昔の話ですが、あるテレビ伝道者が、姦淫の罪を犯したほかのテレビ伝道者を手厳しく批判していましたが、実は本人が姦淫の罪を犯していた、ということが発覚しました。自分の心が責められているので、かえってその罪を犯している人を責めているのです。

2B 罪の刈り取り 7−14
12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。12:8 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。12:9 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。

 預言者ナタンのこの言葉が、ダビデが犯した過失の本質を教えています。私たちはこれまで、ダビデがいかに神の主権に服する人物であるかを見ていきました。サウルが彼を追っている時も、サウルを殺すことができる機会が二度もあったのに、油注がれている者を殺すことはできないと言って、手を出さなかったダビデがいました。そして、サウルの死後、サウルを殺した者、サウルの息子イシュボシェテを殺した者をかえって死刑に処しました。そしてヨナタンの子メフィボシェテを王と同じ食卓で食事をさせ、サウルの地所を回復し、その生涯は、まさにイエス様が言われた、「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐからです。」の言葉だったのです。

 ダビデに与えられたものは全て神の恵みでした。彼はすべてを神に明け渡していたので、神ご自身が彼に必要なすべてを与えてくださり、ついには神の国をダビデの家が受け継ぎ、世継ぎの子からキリストを与えられることを約束されたのです。ここでナタンが、「あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところにわたし」と言っていますが、ダビデは主人サウルから自分が何かを取ってしまうのではないかと、サウルへの忠誠心とその愛から大きくためらっていたのでしょう。けれども、主は基本的にそれを心配しなくてよいのだと、基本的に言われていて、気前良く王権を渡してくださったのです。まさに、この世界です。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ローマ8:32

 それなのに、彼は手を出したのです。姦淫の罪を犯したこと、殺人の罪を犯した自体、それは悪いことなのですが、それよりも本質的には、「神の主権に服さなかった」ということでした。あるいは、「神の恵みをないがしろにした」と言えるでしょう。ナタンは、「主のことばをさげすみ」と言っています。もちろんこれは、「姦淫してはならない」「殺してはならない」の掟を破ったことです。

 けれども、神は「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」と言われました。多くの聖書注釈書には、ダビデが複数の妻を持っていることが姦淫の罪であるとか情欲によることだ、と書いてあります。けれども、当時は王がその座についているときに複数の妻を持つ事は文化的に許されていることでした。それ自体が問題ではありませんでした。今で言えば、牧師が車を所有することでしょうか?あるいは家を所有することでしょうか?高級車を乗り回したら大きな問題です。ソロモンが千人の女を娶っていたのは、この問題でした。けれども、二人以上の妻を持つ事は、今で言うならば普通の自動車を購入するようなもので、文化的に許容されています。けれども、もし、教会のお金を横領して購入していたとしたらどうでしょうか?ダビデが犯した罪はこういう類のものです。

 神にすべてを明け渡し、そして神が惜しみなく恵みを施してくださるという世界を壊すのは、自分の手を出すことによって可能です。イエス様は、「さばいてはいけません。さばかれないためです。」と言われました。その裁く量りで、裁かれると言われました。ダビデがこれから経験するのは、これです。自分のしたことの刈り取りを行なうことであります。

12:10 今や剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。

 ダビデはウリヤを剣で殺しました。ゆえに今度は、剣がダビデの家から離れなくなります。自分の息子アムノンが、同じく息子アブシャロムによって殺されます。アブシャロム自身も後に殺されます。そしてアドニヤも、ソロモンが王位に着いてから処刑されます。

12:11 主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。

 ダビデの子アブシャロムが、エルサレムにダビデが残したそばめ十人と、王宮の屋上で、全イスラエルの目の前で寝ました。

12:12 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行なおう。

 ウリヤの妻と寝たことは隠れて行ないましたが、それが明るみに出されます。イエスさまが同じことを言われました。「おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ12:2-3」これが、神が私たち人間を裁かれる方法です。

12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。

 これから、ダビデのもう一つの模範を見ることができます。それは、「罪の告白と悔い改め」です。多くの人がダビデの過失をことさらに咎める意見を言うのですが、私はむしろ、彼が罪を告白する者、罪を悔い改める者としての模範を、彼の後半の人生から学ぶことができると考えています。列王記の著者はこう言いました。「それはダビデが主の目にかなうことを行ない、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。(1列王15:5」彼は再び、神の主権の中で生きていく人生を歩みます。

 その始まりが、罪の告白です。「私は主に対して罪を犯した」という言葉は、とても短いですが、ものすごい重みを持っています。自分が敬い、愛している主。この方こそが自分の神であり、自分の王であられるのに、私はこの主に対して罪を犯した、ということです。短いからこそ、その告白が真実であることを見て取れます。サウルの罪の告白と比べると、それがよく分かります。彼が、アマレク人の王を殺さず、また家畜も生かしておいたことについて、サムエルに言った言葉です。「サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」(1サムエル記15:24-25」言葉が多い分、主の命令に背いたという告白が言葉だけであることが表れています。

 ダビデがこの告白を後に、詩篇の中で書き記していますね。51篇です。読んでみましょう。

51 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。51:3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。51:4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

 ダビデは、罪は主に対して犯したものであることを認めました。バテ・シェバに害を与えたでしょう。またウリヤに対しても害を与えました。その周りの人にも害を与えています。しかし、ダビデがすべてのことが神から来ていることを知っていました。バテ・シェバとウリヤの夫婦を主が与えられました。そこに主が境界を設けられ、「姦淫の罪を犯してはならない」という掟を与えられました。すべてが主から来ていると信じているからこそ、その領域を侵害したことに対するそむきの罪であることを認めたのです。

 そして、「主が宣告される時に、あなたは正しい」というのは、まさに罪の告白の定義です。主が言われることに同意することが告白の意味です。これからのダビデの人生は、主が彼を裁かれることについて、その全てを甘んじて受け入れていく姿勢に満ちています。

51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。51:6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。51:8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。51:9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

 ダビデは自分の犯した罪が一過性のものではなく、その深い部分、罪の性質が母の胎にいるときから持っていたことを、このことをきっかけにして確認しています。その性質を主が取り除いてほしい、そして清めてほしい、と願っています。サウルと異なり、単なるその時に間違いを犯した、というレベルではないのです。

51:10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。51:11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。51:12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

 罪を犯したことによって失ってしまうのは、救いではありません。救いの喜びです。ダビデに主は、サウルのように退けることはないと約束されたように、救いは失われませんが、救いの喜びは失われるのです。

51:13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。51:14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。51:15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

 ダビデは、今の状態でいけにえを捧げても、自分の血の罪を拭い去ってくださらない限り、無意味であることを訴えています。サウルは、サムエルに「私は主を礼拝します」と言って聞きませんでした。罪の悔恨なしに、そして罪の赦しの確信なしに礼拝などできないのです。

 そして大切なのが、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」であります。砕かれた心こそが、主へのいけにえです。

 そして次に、ナタンの言葉も大切です。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」姦淫の罪、殺人の罪を犯したダビデは死ななければいけません。そしてダビデ自身が、この者は死罪であると宣告しました。けれども主がその罪を赦してくださいました。このことについても、ダビデは詩篇で書き記しています。32篇を読みます。

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

 罪を告白しないことの疲れを言い表しています。そして罪が赦されたことの幸せを述べています。そして罪の告白にともなう神の赦しは、このようにすぐに与えられます。これは、大事ですね。少しずつ罪を赦してくださるのではありません。少し苦しめて、徐々にその度合いを少なくするのではありません。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9」すべての悪からきよめてくださいます。そして「「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ書1:18」白くなるのは、雪のように、また羊の毛のようになるのです。

12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」

 ダビデの罪は赦されました。しかし、ダビデの罪には結果が伴います。神はご自分の憐れみによって、その結果をも取り除かれる時があります。けれども、罪は赦しても、その結果はそのままにされるときがあります。ここの違いを知るのはとても大切です。ダビデに対する罪の赦しは、神がダビデによせる好意と言ってよいでしょう。ダビデが主に愛された者として、主が彼に与えておられる恵みを彼から引き離さない、ということです。神はダビデを退けません。ダビデを見捨てることはありません。

 けれども、結果というのはそのまま残る場合が多いです。例えば、私はアメリカでエイズにかかった女性が、イエス様を信じて、救いの証しをしているのを新しい信者の会で聞きました。その姉妹は自分が行なった愚かな行為によってエイズにかかり、それは癒されてはいませんでした。けれども彼女はそれで神から罰を受けているとは思っていません。癒されたらよいだろうと思っていますが、それよりも、自分の罪が赦されて、神とともにいることができるという喜びがあるのです。その喜びは今の肉体がエイズによって滅んでも続くものであり、終わりには新しい体を与えられるものであります。

 殺人の罪を犯した女性が、死刑判決を受け、それからイエス様を信じたという場合もあります。その女性はまったく人生が変わりました。殺人鬼から、愛に満ちる優しい人になりました。けれども、死刑が執行されました。彼女の罪は赦されなかったのでしょうか?いいえ、今、彼女は主と共にいます。けれども、自分が人を殺したということに対して、政府が死刑判決を下すという結果は伴ったのです。

 ナタンは、「主の敵に大いに侮りの心を起こさせた」と言っています。ダビデを選んだヤハウェは、どうしようもないな、というような侮りです。ゆえに主は、ご自身の正しさを表さなければいけません。それが、この子が死ぬという裁きでありました。裁きの中に神の栄光が表れるのです。

3B 悔い改めるダビデ 15−31
1C あわれみへの信頼 15−25
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。

 家来たちは、ダビデの悲しみが、その死を告げ知らされることによって増し加わると心配していました。けれどもダビデは正反対の反応を取ります。

12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。12:21 すると家来たちが彼に言った。「あなたのなさったこのことは、いったいどういうことですか。お子さまが生きておられる時は断食をして泣かれたのに、お子さまがなくなられると、起き上がり、食事をなさるとは。」12:22 ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。12:23 しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

 ここに、ダビデの悔い改めの心がよく表れています。彼は神が憐れんでくださるかもしれない、と願いました。神は時に憐れみをかけてくださり、そしてその結果をも取り除かれる時があります。けれども、子が死んだということは、神の裁きはそれで変わらなかったことを彼は知ったのです。先ほどの悔い改めの祈りで、「あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。」とありましたね。神の裁きを甘んじて受けたのです。

 とても大切な教理ですが、神の裁きにはいくつかの種類があります。罪に対して罰を与える、有罪であると宣告する裁きもありますが、もう一つは懲らしめがあります。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:31-32」分かりますか、信者が罪を犯すことによって神が裁かれる時は、それは罪に定められるための裁きではなく、むしろその罪から離れることができるように懲らしめることであり、それによって罪定めから救われるためであります。

 ヘブル書にも同じことが書いてあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(12:11」罪を自ら憎み、二度とそれを行なうことのないように自ら選択ができるよう、罪の結果をその人が味わうようにされることがあります。ダビデは、この懲らしめと訓練を受けていくようになります。それが彼の後半の生涯です。

 ところで、ダビデが、「私はあの子のところに行く」と言っているところから、乳児や幼児で死んだ子は天国に行ける、というのが一般的な考えになっています。私はこのことについては、分からない、と答えます。ダビデがここで「あの子のところに行く」というのは、旧約時代における陰府のことであると考えられます。死者が行くところであり、旧約時代には、新約にあるような明確な、天国と地獄のビジョンが与えられていません。ですから、この箇所から、すべての乳児が天に行けると断言することはできません。なぜなら、私たちには福音の真理があり、先にダビデが言ったように、母の胎にあるときから罪人であったという告白があるからです。

 もし福音を知的に理解できる年齢に達していない間に死んだら天国に行けるというのであれば、年を取らないで早死にしたほうが良いことになります。同じように、福音を聞く機会がなかった人、また知的に福音を認識することができない乳児や、知的障害者の人たちについても、もし無条件で天国に行けるのであれば、福音を伝える必要がない、ということになります。ゆえに私は、天国に行けるのか、行けないのかということは神に任せなければいけない、と考えます。

 それよりも、ダビデがここで強調しているのは、「死者は生きる者たちのところには戻らない」という真理を伝えていることです。生きた者は死者のところいくが、その反対はない、ということです。例えばヨブはこう言いました。「私が、再び帰らぬところ、やみと死の陰の地に行く前に。(10:21」そしてソロモンは伝道者の書で、「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道12:7

 日本人の死生観は、「人は肉体が死んでも霊魂は戻ってくる。」と言うものです。そこで、ダビデの態度とは正反対に、死んだ人のことで悔やみ、死んだ人に対して語りかけ、死んだ人のために踊り、死者と自分との結びつきを求めます。多くの人が、「この場合は救われるのか?この人は天国に言ったのか?」など、その人の永遠の居場所について詮索するのですが、それらはすべて神の主権の中にあるのであり、私たちは人の死に対して、その人を神にゆだねて、むしろ自分自身が神を見上げ、神に礼拝すべきなのです。キリスト教の結婚式が、二人を祝う以上に神を礼拝しているのと同じように、キリスト教の葬儀も、その人との最後の出会いではなく、神を礼拝するのです。

 ダビデは主にすべてを明け渡しました。主の裁きに委ねました。主ご自身を見上げて、礼拝することを彼は生涯の中心にしていました。人の死に対しても彼はそのように対処したのです。

12:24 ダビデは妻バテ・シェバを慰め、彼女のところにはいり、彼女と寝た。彼女が男の子を産んだとき、彼はその名をソロモンと名づけた。主はその子を愛されたので、12:25 預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。

 ここから、神の恵みの働きを見ることができます。ダビデは懲らしめを受け、裁きを受けましたが、それは恵みがないということではありません。むしろ、神の恵みは神の懲らしめと共に働くことも可能です。

 まずダビデはバテ・シェバを慰めました。彼は、この結婚を聖なるものとみなしました。たとえ姦淫によって結ばれても、神はそれを聖なるものとされているとみなしました。ゆえに、離婚するのではなく、むしろ彼女を生涯大切にし、いたわったのです。

 そして産まれたのが、平和を意味するソロモンです。ソロモンがダビデの世継ぎの子となっていきます。そしてバテ・シェバは、イエス・キリストの系図の中にその名が表れます。罪が増し加わるところに、恵みがあふれるという言葉の実現です。

2C 元の仕事 26−31
12:26 さて、ヨアブはアモン人のラバと戦い、この王の町を攻め取った。

 話は11章の初めに出てきた、アモン人との戦いも戻ります。ヨアブは、その王の町を攻略しました。

12:27 ヨアブはダビデに使者を送って言った。「私はラバと戦って、水の町を攻め取りました。12:28 しかし今、民の残りの者たちを集めて、この町に対して陣を敷き、あなたがこれを攻め取ってください。私がこの町を取り、この町に私の名がつけられるといけませんから。」

 町を包囲したとき、水の供給を断ち切れば、その町はもう生き延びられなくなります。水の供給ラインが、包囲戦の勝敗を決定します。ヨアブは水の町を攻め取った、つまりその供給ラインを断ち切ることに成功しました。あとは勝利があるのみです。王に、やってきてほしいと頼みます。

12:29 そこでダビデは民のすべてを集めて、ラバに進んで行き、これと戦って、攻め取った。

 エルサレムで一人だけ王宮に残っていたダビデとは違って、ダビデは再び戦いの中に自分の身を投じます。

12:30 彼は彼らの王の冠をその頭から取った。その重さは金一タラントで、宝石がはめ込まれていた。その冠はダビデの頭に置かれた。彼はまた、その町から非常に多くの分捕り物を持ってきた。

 1タラントは34.3キログラムあります。ものすごい思い王冠ですね。

12:31 彼はその町の人々を連れてきて、石のこぎりや、鉄のつるはし、鉄の斧を使う仕事につかせ、れんが作りの仕事をさせた。ダビデはアモン人のすべての町々に対して、このようにした。こうして、ダビデと民のすべてはエルサレムに帰った。

 こうしてアモン人を制圧しました。ダビデは神に立ち返りましたが、先ほど話したように、自分の家の中でたいへんなことが起こります。13章以降に、ダビデが犯した罪の影響が自分の息子たちに及んでいくのを読みます。

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