サムエル記第二17−18章 「苦みとうぬぼれ」

アウトライン

1A 頓挫する計画 17
   1B 主の介入 1−14
      1C 個人的怨念 1−4
      2C 時間稼ぎ 5−14
   2B 守られる伝達 15−23
   3B 折にかなった助け 24−29
2A 哀れな死 18
   1B 最善を尽くした対策 1−8
   2B 宙ずり 9−18
   3B 子を思う悲しみ 19−33
      1C 伝言のない伝達者 19−30
      2C 自分が引き起こした死 31−33

本文

 サムエル記第二17章を開いてください。今日は17章と18章を学びます。ここでのメッセージ題は「苦みとうぬぼれ」です。

 17章は15章16章の続きの話になっています。アブシャロムがイスラエル人の心をダビデから盗むのに成功しました。ヘブロンの町で自分が王であることを宣言させました。ダビデとその家来たちは、エルサレムを離れてオリーブ山を越えて逃げました。そしてダビデの耳に、自分の議官であり友であったアヒトフェルがアブシャロムについている知らせが入りました。彼は、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。(2サムエル15:31」と祈っています。そして、アブシャロムと彼につくイスラエルの民はエルサレムに入りました。そしてアヒトフェルはアブシャロムに助言をします。ダビデの宮殿の屋上に天幕を張って、ダビデが残した十人のそばめのところにおはいりください、とアヒトフェルは言いました。そして、イスラエルの衆目の前で、アブシャロムはダビデのそばめを陵辱しました。

1A 頓挫する計画 17
 そしてアヒトフェルは続けてアブシャロムに助言をします。

1B 主の介入 1−14
1C 個人的怨念 1−4
17:1 アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。「私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、17:2 彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。17:3 私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。」

 アヒトフェルの助言は、ただひとり、ダビデを殺すことに集中しています。そして、彼自身がダビデを追って彼を襲う、と言っています。これは紛れもなく、アヒトフェル自身がダビデに怨念を抱いているからです。前回話しましたが、彼の孫娘がバテ・シェバだと考えられます。自分の孫娘からその夫を奪い取って、自分のものにしてダビデを見て、彼は失望し、絶望し、怒りと憎しみへと変わっていったのでしょう。

 聖書の中に、持続する怒りについて、つまり「苦み」について書かれてある箇所があります。エペソ人への手紙4章31節です。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」日本語の聖書では「無慈悲」と訳されている言葉は、苦みとも訳せます。子の手紙の著者パウロが、エペソの人たちに、苦みや憤り、怒り、叫びなどを捨て去りなさい、いっさいの悪意とともに捨て去りなさい、と勧めています。

 その理由の一つは、何よりも、苦みは自分に滅びをもたらすからです。自分が不当な仕打ちを受けたのだから、怒り、憤り、苦みを抱くその権利はあります。けれども苦みを心のうちで抱いていたところで、相手が被害を受けるのではなく、自分自身が蝕まれていきます。自分の感情、心がずたずたになっていき、肉体にも悪影響がでるときがあります。神は私たちを愛しているからこそ、私たちの益のために、苦みを捨て去りなさい、と命じておられるのです。ですから、神は、赦すことを非常に重要視しておられます。イエスが私たちの模範として残された祈りの中で、「私たちが罪を赦すように、私たちの罪をもお赦しください。」とあります。赦すことが必要です。

2C 時間稼ぎ 5−14
17:4 このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入った。17:5 しかしアブシャロムは言った。「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」

 覚えていますか、前回の学びでフシャイが、逃げているダビデのところにやって来ました。けれどもダビデは、アヒトフェルがアブシャロムにくみしたことを聞いたので、フシャイを自分のスパイとしてエルサレムに送ることにしました。フシャイは、アブシャロムの前に来て、私は仕えます、と言いました。それで今、アブシャロムは、アヒトフェルとフシャイの二人の議官の前で、これからすべきことを考えています。

17:6 フシャイがアブシャロムのところに来ると、アブシャロムは彼に次のように言った。「アヒトフェルはこのように言ったが、われわれは彼のことばに従ってよいものだろうか。もしいけなければ、あなたの意見を述べてみなさい。」17:7 するとフシャイはアブシャロムに言った。「このたびアヒトフェルの立てたはかりごとは良くありません。」

 フシャイは、アヒトフェルの助言を聞いて、内心あせっていたかもしれません。前の章にはアヒトフェルの助言は「人が神のことばを伺って得ることばのようであった。(16:23」とあります。アヒトフェルは、ダビデに対する憎しみを持っていましたが、その天才的な洞察力を持って、非常に有効な戦法をアブシャロムに提案したに違いありません。フシャイは、とにかくアヒトフェルの計画を頓挫させようと、彼の助言に対抗する戦法を語りはじめます。

17:8 フシャイはさらに言った。「あなたは父上とその部下が戦士であることをご存じです。しかも彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。また、あなたの父上は戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさないでしょう。」

 アヒトフェルが、ダビデたちは疲れていると言ったのに対して、フシャイは気が荒くなっていると言っています。

17:9 きっと今、ほら穴か、どこか、そんな所に隠れておられましょう。もし、民のある者が最初に倒れたら、それを聞く者は、「アブシャロムに従う民のうちに打たれた者が出た。」と言うでしょう。17:10 そうなると、たとい、獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。全イスラエルは、あなたの父上が勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知っています。

 犠牲者が少しでも出たならば、ダビデは非常に強いので知られているから、イスラエルの民の士気が一気に落ちるでしょう、と警告しています。

17:11 私のはかりごとはこうです。全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです。17:12 われわれは、彼を見つけしだい、その場で彼を攻め、露が地面に降りるように彼を襲い、彼や、共にいるすべての兵士たちを、ひとりも生かしておかないのです。17:13 もし彼がさらにどこかの町にはいるなら、全イスラエルでその町に綱をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。

 フシャイはここで、アブシャロムの虚栄心に訴えています。一万二千人というアヒトフェルの助言に対して、イスラエル全地域から数多くの兵士を集めてください、と言っています。そして、あなたのところに集めてください、そしてあなたがその戦いの将軍となられるのです、と言っています。さらに、町の中に隠れていても、その町ごと動かしてしまいましょう、と威勢の良いことを言っています。アブシャロムが、見た目やカリスマ性を使って、人々の気を引いていったことを思い出してください。フシャイはこのうぬぼれた心を利用したのです。

17:14 アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。

 フシャイは自分の考えられる方法を話しました。知恵をふりしぼって、考えました。けれども、主がこの(はかりごとを成功させてくださっています。アブシャロムが自分のうぬぼれによって判断力を鈍らせましたが、主がそのようになることをお許しになりました。主が介入されたのです。

 前にダビデが、このことについて祈ったことを思い出してください。「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。(2サムエル1531」主は、ダビデの祈りを聞いておられました。祈りは、聞かれます。

2B 守られる伝達 15−23
17:15 フシャイは祭司ツァドクとエブヤタルに言った。「アヒトフェルは、アブシャロムとイスラエルの長老たちにこれこれの助言をしたが、私は、これこれの助言をした。

 覚えていますね、ダビデは祭司ツァドクとエブヤタルに、エルサレムに戻って待機していなさいと命じました。そしてエルサレムの動静をつかみなさい、と命じました。そこでフシャイがこの二人に、自分の助言とアヒトフェルの助言を伝えています。

17:16 今、急いで人をやり、ダビデに、「今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。ほんとうに、ぜひ、あちらへ渡って行かなければなりません。でないと、王をはじめ、いっしょにいる民全部にわざわいが降りかかるでしょう。」と告げなさい。

 今、フシャイは、ヨルダン川の東側に渡ってください、と言っています。フシャイがアブシャロムに助言したとき、おそらく全イスラエルから軍隊を招集するのに時間がかかる、と読んでいたのでしょう。アブシャロムが招集しているうちに、ダビデたちがさらに逃げて、戦いの準備ができます。

17:17 ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、ひとりの女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。これは彼らが町にはいるのを見られることのないためであった。

 ヨナタンとアヒアマツは、ツァドクとエブヤタルの言葉をダビデのところまで伝えるように、言いつけられていました。

17:18 ところが、ひとりの若者が彼らを見て、アブシャロムに告げた。そこで彼らふたりは急いで去り、バフリムに住むある人の家に行った。その人の庭に井戸があったので、彼らはその中に降りた。17:19 その人の妻は、おおいを持って来て、井戸の口の上に広げ、その上に麦をまき散らしたので、だれにも知られなかった。17:20 アブシャロムの家来たちが、その女の家に来て言った。「アヒマアツとヨナタンはどこにいるのか。」女は彼らに答えた。「あの人たちは、ここを通り過ぎて川のほうへ行きました。」彼らは、捜したが見つけることができなかったので、エルサレムへ帰った。

 見つかりそうになりましたが、一人の女が井戸の中に二人をかくまったことによって、助かりました。主がこの諜報行動を守ってくださっています。

17:21 彼らが去って後、ふたりは井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに言った。「さあ、急いで川を渡ってください。アヒトフェルがあなたがたに対してこれこれのはかりごとを立てたからです。」17:22 そこで、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちとは出発して、ヨルダン川を渡った。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者はひとりもいなかった。

 まだこの時点では、アヒトフェルの助言を採用するか、フシャイの助言を採用するか、確定していなかったようです。「アヒトフェルがあなたがたに対して、これこれのはかりごとを立てた」とふたりは言っています。どちらのはかりごとが採用されても良いように、ダビデたちはヨルダン川を渡りました。

17:23 アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた。

 先ほど話したように、アヒトフェルの苦みは自分を滅ぼしました。彼を自殺へと追い込みました。

 そして、ここは聖書の中で数少ない、自殺の記事の一つです。ペリシテ人に打たれて、自分の剣を使って死んだサウルがいます。また、新約聖書では、イエスを裏切って首をくくって死んだイスカリオテのユダがいます。(興味深いことに、アヒトフェルの裏切りについて書かれてる詩篇の箇所は、新約聖書にて、イスカリオテのユダの裏切りの預言になっていたことを前回学びましたが、アヒトフェルが予表であるかのように、イスカリオテのユダも自殺しています。)士師記に自爆行為をしたサムソンがいますが、彼の動機は少し違うようです。ペリシテ人が滅びるように願っていたのであって、自分のいのちを取ることはその結果でした。

 けれども自殺する者たちに特徴的なのは、悔い改めを拒んでいることでしょう。サウルは、無割礼のペリシテ人に殺されたと思われないように、と自殺する直前に言いました。つまり、死んだあとにも人からよく見られたいという、虚栄心がありました。そして、イスカリオテのユダはどうでしょうか?彼は、罪のない人を売り渡してしまったという後悔がありましたが、そもそもイエスを自分の救い主、主であるとしていなかったようです。そして、ここアヒトフェルは、自分が神に対して罪を犯したことを悔いているのではなく、自分のはかりごとが実行されず、ダビデを殺すことに失敗したことに絶望して、それで自殺しました。

 ですから大切なのは、悔い改めです。神は、へりくだり、悔い改める者には、豊かなあわれみと、ありあまる恵みを注いでくださいます。パウロがこう言いました。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10」神のみこころに添った悲しみが必要です。

3B 折にかなった助け 24−29
17:24 ダビデがマハナイムに着いたとき、アブシャロムは、彼とともにいるイスラエルのすべての人々とヨルダン川を渡った。

 ダビデは、ヨルダン川の東、ガド族とマナセ族の相続地の境にある町、マハナイムを拠点としました。マハナイムは、ダビデがまだヘブロンで王であったとき、サウルの息子イシュ・ボシェテがこの町を拠点としてイスラエルを支配していたところです(1サムエル2:8)。ダビデがこの町を選んだのは、おそらく要塞がしっかりしていたことと、また、イシュ・ボシェテにダビデが害を加えなかったことを覚えている人々がいたことからだと思われます。

17:25 アブシャロムはアマサをヨアブの代わりに軍団長に任命していた。アマサは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚したイシュマエル人イテラという人の息子であった。17:26 こうして、イスラエルとアブシャロムはギルアデの地に陣を敷いた。

 ギルアデの地は、ガドとマナサの相続地の地域です。ダビデのところに近づいてきました。

17:27 ダビデがマハナイムに来たとき、アモン人でラバの出のナハシュの子ショビと、ロ・デバルの出のアミエルの子マキルと、ログリムの出のギルアデ人バルジライとは、17:28 寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、17:29 蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た。彼らは民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。

 このような苦境にいる中で、三人の首長がダビデのところに支援物資を携えてきました。ここで聞き覚えのある人物は、アモン人のナハシュです。彼の息子ハヌンに真実を尽くそうとしましたが、ハヌンはダビデに歯向かいました。ショビはつまり、ハヌンの兄弟です。ショビはおそらく、ダビデの寛大さを横目で見ていたのでしょう。そして、マキルという人物も前に出てきました。イシュボシェテを自分の家屋に住まわせていた人物です。ダビデの親切を彼も経験しています。そして地元の首長であるバルジライがいます。彼は後にも出てきますが、非常に高齢で、非常に富んでいました。ダビデがいつまでも覚えていて、晩年に息子ソロモンに、バルジライの子らには良くしてあげるようにと命じているほどです。

2A 哀れな死 18
1B 最善を尽くした対策 1−8
18:1 ダビデは彼とともにいる民を調べて、彼らの上に千人隊の長、百人隊の長を任命した。

 支援物資によって力づけられたダビデは、戦うための組織づくりを始めました。

18:2 ダビデは民の三分の一をヨアブの指揮のもとに、三分の一をヨアブの兄弟ツェルヤの子アビシャイの指揮のもとに、三分の一をガテ人イタイの指揮のもとに配置した。

 ダビデが逃げるときに忠誠を誓ったガテ人イタイを、ここで指揮官の一人として採用しています。

王は民に言った。「私自身もあなたがたといっしょに出たい。」18:3 すると民は言った。「あなたが出てはいけません。私たちがどんなに逃げても、彼らは私たちのことは何とも思わないでしょう。たとい私たちの半分が死んでも、彼らは私たちのことは心に留めないでしょう。しかし、あなたは私たちの一万人に当たります。今、あなたは町にいて私たちを助けてくださるほうが良いのです。」

 この説得は全くその通りです。彼らが狙っているのはただひとり、ダビデ王です。王が死んでしまっては、すべてが終わりです。ですから、町にいて私たちを助けてくださいと説得しています。

 また、ここからダビデが歳を取って、体力や戦うための気力が衰えてはじめているのではないか、とも考えられます。アヒトフェルの助言が正しかったようです。それにダビデたちは疲れていたようです。支援物資がなければ、このような軍の再編成はできなかったでしょう。

18:4 王は彼らに言った。「あなたがたが良いと思うことを、私はしよう。」王は門のそばに立ち、すべての民は、百人、千人ごとに出て行った。18:5 王はヨアブ、アビシャイ、イタイに命じて言った。「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」民はみな、王が隊長たち全部にアブシャロムのことについて命じているのを聞いていた。

 実はダビデは、一つのことしか考えていませんでした。それは彼らを倒すことではなく、アブシャロムに悪いことが降りかからないでほしいという、親心でした。アブシャロムがこれほど反抗していても、ダビデは息子のことを愛していました。

18:6 こうして、民はイスラエルを迎え撃つために戦場へ出て行った。戦いはエフライムの森で行なわれた。

 ここの「エフライムの森」は、マハナイムの町の北にある森です。エフライム領にはないのですが、そのように呼ばれているようです。

18:7 イスラエルの民はそこでダビデの家来たちに打ち負かされ、その日、その場所で多くの打たれた者が出、二万人が倒れた。18:8 戦いはこの地一帯に散り広がり、この日、剣で倒された者よりも、密林で行き倒れになった者のほうが多かった。

 ダビデの精鋭部隊はイスラエル人の多くを倒しましたが、エフライムの密林がもっと多くの者を倒しました。

2B 宙ずり 9−18
18:9 アブシャロムはダビデの家来たちに出会った。アブシャロムは騾馬に乗っていたが、騾馬が大きな樫の木の茂った枝の下を通ったとき、アブシャロムの頭が樫の木に引っ掛かり、彼は宙づりになった。彼が乗っていた騾馬はそのまま行った。

 なんとアブシャロムは宙吊りになりました。彼の髪の毛は非常に長かったので、髪の毛が枝にひっかかったのかもしれません。けれども、ここでは「」が引っかかったとありますので、首が枝と枝の間にはさまったのかもしれません。それにしても、騾馬に乗っているとは、彼は戦う気があったのでしょうか?自分を格好良く見せるために、ただ乗っかっていただけなのかもしれません。

18:10 ひとりの男がそれを見て、ヨアブに告げて言った。「今、アブシャロムが樫の木に引っ掛かっているのを見て来ました。」18:11 ヨアブはこれを告げた者に言った。「いったい、おまえはそれを見ていて、なぜその場で地に打ち落とさなかったのか。私がおまえに銀十枚と帯一本を与えたのに。」18:12 その男はヨアブに言った。「たとい、私の手に銀千枚をいただいても、王のお子さまに手は下せません。王は私たちの聞いているところで、あなたとアビシャイとイタイとに、『若者アブシャロムに手を出すな。』と言って、お命じになっているからです。18:13 もし、私が自分のいのちをかけて、命令にそむいていたとしても、王には、何も隠すことはできません。そのとき、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう。」

 この男の言い分はその通りです。王が、生かしておきなさいと命令していました。そして自分が殺したとしても、ダビデはかつて、サウルを殺したと言った者と、イシュ・ボシェテを殺したと言った者を死刑にしました。自分が咎められるのは目に見えています。そしてその時に、ヨアブはそしらぬふりをするでしょう、と言っています。

18:14 ヨアブは、「こうしておまえとぐずぐずしてはおられない。」と言って、手に三本の槍を取り、まだ樫の木の真中に引っ掛かったまま生きていたアブシャロムの心臓を突き通した。18:15 ヨアブの道具持ちの十人の若者たちも、アブシャロムを取り巻いて彼を打ち殺した。18:16 ヨアブが角笛を吹き鳴らすと、民はイスラエルを追うのをやめて帰って来た。ヨアブが民を引き止めたからである。

 私たちは、ダビデの生涯を追っていますが、ヨアブの人物像にも触れています。彼は非常に有能な戦士でした。それゆえ、ダビデはヨアブが独断で行なうことに対しても、何も処罰することができませんでした。けれどもダビデは晩年に、ヨアブが平和の時に流した血について、報いをしなさいと息子ソロモンに命じています(1列王2:5-6参照)。ヨアブは、ダビデのように有能であり、非常に実際的な人間でしたが、ダビデの心と一つになっていませんでした。つまり、神への愛、そしてその愛から流れ出る、平和への希求、寛大さが彼にはありませんでした。これが彼に過ちを犯させます。

 今回のアブシャロムの場合も、ダビデはこれが自分の罪のために起こっていることだと考えて、自分でさばきを行なう勇気が出ませんでした。息子への愛がありました。けれども、ヨアブにとって、戦いの中での仁義、正義が最も大事です。王国への反乱を犯した人物が、殺されなければ、どうやって国民を納得させることができるのか、という正義感が強かったのです。

18:17 人々はアブシャロムを取り降ろし、森の中の深い穴に投げ込み、その上に非常に大きな石くれの山を積み上げた。イスラエルはみな、おのおの自分の天幕に逃げ帰っていた。

 アブシャロムを見せしめとして、イスラエル人の士気を完全にくじくようにさせました。

18:18 アブシャロムは存命中、王の谷に自分のために一本の柱を立てていた。「私の名を覚えてくれる息子が私にはいないから。」と考えていたからである。彼はその柱に自分の名をつけていた。それは、アブシャロムの記念碑と呼ばれた。今日もそうである。

 今日、エルサレムのケデロンの谷のところに「アブシャロムの墓」というのがありますが、これはマカバイ家の時代のもので、実際のアブシャロムの墓ではないそうです。アブシャロムには息子がいたはずですが、おそらく早死にしてしまったのでしょう。父の愛も知らずに、たった独りでいたアブシャロムのことを哀れに思います。

 けれども、彼もこのような最後にならなくても良い選択もあったのです。自分のうぬぼれは、たとえ、父のしつけがなかったこと、アムノンを懲らしめなかったことという過ちがあっても、正当化できるのではありません。主によって油注がれた王に反逆して、自分を引き上げようとした罪は、罪として残りました。

 アヒトフェルも、アブシャロムも、その行なったことは、ダビデの罪が遠因になっています。同じように、家庭や社会にある多くの問題は、遠因がだれか他の人の罪になっています。けれども、それを理由に自分のいのちを台無しにする、罪と愚かさでだめにしていく必要はないのです。愛と赦しの道が備えられています。イエスさまが、敵を愛して、敵のために祈られました。この方を受け入れれば、境遇はひどいものであっても、境遇の奴隷とならず、自由人として生きることができる力と希望が与えられます。

3B 子を思う悲しみ 19−33
 そしてアブシャロムの死が、ダビデにも伝えられます。

1C 伝言のない伝達者 19−30
18:19 ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。」18:20 ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。」18:21 ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。

 ヨナタンとともにダビデに、フシャイの言葉を伝えたアヒアマツが、戦いの勝利も伝えたいと申し出ています。けれどもヨアブにはわかっていました。アブシャロムが死んだことを知らせるのは、王にはあまりにも過酷であることを知っていました。それに、悪い知らせを携えていったら、何か罰をダビデ王から受けるかもしれないと案じました。それで、ヨアブは代わりに、名前も記されていないクシュ人(つまりエチオピア人)に、この知らせを携えていくよう命じています。

18:22 ツァドクの子アヒマアツは再びヨアブに言った。「どんなことがあっても、やはり私もクシュ人のあとを追って走って行きたいのです。」ヨアブは言った。「わが子よ。なぜ、あなたは走って行きたいのか。知らせに対して、何のほうびも得られないのに。」18:23 「しかしどんなことがあっても、走って行きたいのです。」ヨアブは「走って行きなさい。」と言った。アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。

 クシュ人が、険しいエフライムの山道を通ったのに対して、アヒアマツは回り道ですが低地のほうを走っていき、クシュ人よりもはやく到着しました。

18:24 ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。18:25 見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、18:26 見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」18:27 見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」

 かわいそうに、ダビデは吉報だと思って、心をおどらせています。

18:28 アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」18:29 王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」18:30 王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。

 王の関心ごとは、ただ一つでした。アブシャロムのことだけでした。ところがアヒアマツはその肝心な知らせを携えていません。知らせたいと思っているのに、知らせるものがありませんでした。私たちにも、似たようなことが起こります。伝道をすることには熱心だけれども、何を伝えるのかきちんと理解しないで伝えようとすることがあります。よく整えられた者が、福音を伝えることができます。

2C 自分が引き起こした死 31−33
18:31 するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」18:32 王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」18:33 すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」

 ここの、「身震いした」という言葉は、体が激しく揺れ動いた、という意味があります。ダビデはアブシャロムの死を聞いて、痙攣が起こったかのように身を震わせました。彼が悲しんだのは、息子アムノンを失い、そしてアブシャロムを失ったことです。「私がおまえに代わって死ねばよかったのに」と言っていますが、彼は自分の罪が、この惨事を招いたことを知っていたのです。だから彼は、アブシャロムを憎むどころか、申し訳ない思いでいっぱいになったのです。

 ここに愛する父の悲しみが描かれています。ダビデは自分の罪の結果であることを知って悲しみましたが、父なる神も同じように、反逆する者たちのために泣いて、悲しんでおられます。罪人のために御子を遣わし、この方を死に渡されました。ダビデのように、反逆している罪人を神は愛しておられます。けれども、正義は行なわなければいけません。悔い改めず、反逆するならば、その人は滅びなければいけません。メッセージ題は、「苦みとうぬぼれ」でした。罪を犯せば滅びを招きます。けれども父なる神は、私たちが滅びることを決して望まれず、私たちのために泣いてくださっています。


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