サムエル記第二21−22章 「ダビデの晩年」

アウトライン

1A 残された仕事 21
   1B 対処すべき罪 1−14
      1C 約束違反 1−9
      2C 神の呪い 10−14
   2B 対処すべき敵 15−22
2A 救いの賛歌 22
   1B 苦しみからの救い 1−30
      1C 盾なる主 1−7
      2C 超自然的な介入 8−20
      3C 救いの経験 21−30
   2B 主による31−51
      1C 賞揚 31−35
      2C 勝利 36−51

本文

 サムエル記第二21章を開いてください。今日は21章と22章を学びます。ここでのテーマは、「ダビデの晩年」です。サムエル記第二も残り4章になりましたが、ダビデも年老いて来ています。その彼から私たちが、主にあって学べることを学んでいきましょう。

1A 残された仕事 21
1B 対処すべき罪 1−14
1C 約束違反 1−9
21:1 ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。「サウルとその一族に、血を流した罪がある。彼がギブオン人たちを殺したからだ。」

 イスラエルの国は三年間の飢饉を経験しました。そこでダビデが、何かがおかしいと思って、主を求めました。すると、案の定、イスラエルの中で、まだ対処していなかった罪が残っていたために、飢饉が起こっていることがわかりました。

 主はときに、このようにして、私たちの注意を寄せようとされます。私たちが取り組まなければいけない罪や課題を、このようなしるしをもって示されます。ダビデは、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24」と詩篇の中で書いています。自分に何か曲がった道がないのか、イスラエルには傷ついた道がないのか、主に調べていただく姿勢をダビデは持っていました。

21:2 そこで王はギブオン人たちを呼び出して、彼らに言った。・・ギブオンの人たちはイスラエル人ではなく、エモリ人の生き残りであって、イスラエル人は、彼らと盟約を結んでいたのであるが、サウルが、イスラエルとユダの人々への熱心のあまり、彼らを打ち殺してしまおうとしたのであった。・・

 この出来事は、ヨシュア記に書いてあります。ヨシュア率いるイスラエル軍が、エリコとアイを攻略したあと、ギブオンという町に住むエモリ人たちが、自分たちも滅ぼされることを知って、計略を立てました。自分たちは遠い国からやって来て、今、イスラエルと盟約を結びたいと申し出ました。ヨシュアとイスラエルは、主に伺うことをせずに、その契約を結んでしまいました。三日後に彼らがすぐそばに住む者たちであることがわかりましたが、主の前で行なわれた誓いは果たさなければいけません。それ以来、ギブオン人はイスラエル人の中に住みました。

 そして、サムエル記には記録されていないのですが、サウルが周囲の敵と戦っているときに、ギブオン人らをも次々と殺していきました。このことのゆえに、主はききんをイスラエルに送られて、ダビデに祈ることを促しておられたのです。主は、約束を大切にされる方であることがここから分かります。なぜなら、ギブオン人たちとの盟約は、はるか400年ぐらい前に結ばれたものです。それを破ったことを、主はよしとされなかったのです。イエスは私たちに対して、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と言いなさい、と言われました。言ったことを守る、自分の言葉を守ることは大切です。

21:3 ダビデはギブオン人たちに言った。「あなたがたのために、私は何をしなければならないのか。私が何を償ったら、あなたがたは主のゆずりの地を祝福できるのか。」

 ダビデは、ギブオン人たちが敵意を持っているために、飢饉が起こっていることを知っていたので、彼らが和解してくれれば、この地が祝福されることを知っていました。

21:4 ギブオン人たちは彼に言った。「私たちとサウル、およびその一族との間の問題は、銀や金のことではありません。また私たちがイスラエルのうちで、人を殺すことでもありません。」そこでダビデが言った。「それでは私があなたがたに何をしたらよいと言うのか。」21:5 彼らは王に言った。「私たちを絶ち滅ぼそうとした者、私たちを滅ぼしてイスラエルの領土のどこにも、おらせないようにたくらんだ者、21:6 その者の子ども七人を、私たちに引き渡してください。私たちは、主の選ばれたサウルのギブアで、主のために、彼らをさらし者にします。」王は言った。「引き渡そう。」

 ダビデはこの要求を飲みました。

21:7 しかし王は、サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテを惜しんだ。それは、ダビデとサウルの子ヨナタンとの間で主に誓った誓いのためであった。

 ダビデは、約束を守る人でした。ギブオン人との盟約を守るために、彼らの要求であるサウルの子らを殺さなければいけませんが、ダビデはヨナタンとの契約によって、ヨナタンの子らを生かすことを約束しました。その約束に基づいて、メフィボシェテはダビデと同じテーブルで食事を取り、サウルの地所も与えられました。

21:8 王は、アヤの娘リツパがサウルに産んだふたりの子アルモニとメフィボシェテ、それに、サウルの娘メラブがメホラ人バルジライの子アデリエルに産んだ五人の子を取って、21:9 彼らをギブオン人の手に渡した。それで彼らは、この者たちを山の上で主の前に、さらし者にした。これら七人はいっしょに殺された。彼らは、刈り入れ時の初め、大麦の刈り入れの始まったころ、死刑に処せられた。

 大麦の刈り入れの始まりは4月です。その時に彼らは、さらし者にされました。「主の前で」とありますから、主がこのことを承認しておられる、ということです。

2C 神の呪い 10−14
21:10 アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。

 サウルの妻であったリツパは、殺されて、さらし者にされている七人の死体を猛禽から守るために、そこにずっといました。「雨が天から彼らの上に降るときまで」とありますが、イスラエルは地中海性気候の中にいて、乾季と雨季があります。秋と冬に雨季がありますが、その時期に雨が降らなければずっと雨が降らず、飢饉になってしまいます。今、彼女はだいたい五ヶ月の間、再び雨季になる9月ごろまで、そこにいたことになります。

 そしてもう一つ興味深いのは、彼女がこのように、さらし者になっている死体を猛禽に食べられないようにして、そのまま人が見ることができるようにしたことによって、雨が降り出したことです。申命記には、「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(21:23」とあります。主の祝福の雨が降るまで、七人が神の前でのろわれた者として、さらし者になっていました。ここにイエス・キリストの贖いを見ます。なぜならガラテヤ書3章13節に、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。」とあるからです。この七人のように、イエスが六時間、あの木の上で、神にのろわれた存在になってくださったことにより、アブラハムに約束された祝福が、キリストを信じる者すべてに注がれるようになりました。

21:11 サウルのそばめアヤの娘リツパのしたことはダビデに知らされた。21:12 すると、ダビデは行って、サウルの骨とその子ヨナタンの骨を、ヤベシュ・ギルアデの者たちのところから取って来た。これは、ペリシテ人がサウルをギルボアで殺した日に、ペリシテ人が彼らをさらしたベテ・シャンの広場から、彼らが盗んで行ったものであった。

 ダビデは、七人の子がさらし者になっていることで、ペリシテ人によってさらし者になったサウルとヨナタンのことを思いだしたのでしょう。けれども、ここに書いてあるとおり、ヤベシュ・ギルアデの人たちは、二人の死体をペリシテ人から盗んで、自分たちで二人を丁重に葬りました。今、その骨をダビデが回収しようとしています。

21:13 ダビデがサウルの骨とその子ヨナタンの骨をそこから携えて上ると、人々は、さらし者にされた者たちの骨を集めた。21:14 こうして、彼らはサウルとその子ヨナタンの骨を、ベニヤミンの地のツェラにあるサウルの父キシュの墓に葬り、すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた。

 ダビデは、サウルの父の墓に、サウルとヨナタンを葬ったことにより、神が祈りに答えてくださるようになりました。ダビデは、神との関係がしっかりしていました。自分が罪を犯しているのに、祈りを聞いてくださるわけがないことを、知っていました。初めに、自分の罪を悔い改めることを行なってから、罪を告白して、それを捨てることを行なってから初めて、神との良い関係が持てることを知っていました。イスラエルの中にある罪を取り除いたことによって、ギブオン人の敵意を取り除き、和解をしたことによって、主が祈りに答えてくださいました。

2B 対処すべき敵 15−22
21:15 ペリシテ人はまた、イスラエルに戦いをしかけた。ダビデは自分の家来たちを連れて下り、ペリシテ人と戦ったが、ダビデは疲れていた。

 ギブオン人との和解が果たせた後に、ペリシテ人がイスラエルを攻めてきました。ペリシテ人は、イスラエル国の圧倒的に従属する形になっていましたが、反逆の戦いを仕掛けてきています。

21:16 それで、ラファの子孫のひとりであったイシュビ・ベノブは、ダビデを殺そうと考えた。彼の槍の重さは青銅で三百シェケル。そして彼は新しい剣を帯びていた。

 ラファの子孫は、巨人で有名な人たちです。その一人が彼を殺そうと考えました。

21:17 しかし、ツェルヤの子アビシャイはダビデを助け、このペリシテ人を打ち殺した。そのとき、ダビデの部下たちは彼に誓って言った。「あなたは、もうこれから、われわれといっしょに、戦いに出ないでください。あなたがイスラエルのともしびを消さないために。」

 覚えていますか、ダビデに彼をのろったシムイのことで、「彼を打ち殺させてください」と言って怒っていたのが、アビシャイです。アビシャイが気づいて、ダビデは間一髪で殺されかけそうになりました。そこで、「もう戦いに出ないでください」とアビシャイは言っています。ダビデは戦うにはもう、歳を取りすぎていたのです。ゴリヤテを倒したダビデにも、このように老年期によって肉体が弱まる時期に来ました。けれども、アビシャイをはじめ、ダビデの部下たちは勇士でありました。

21:18 その後、ゴブでまたペリシテ人との戦いがあり、そのとき、フシャ人シベカイは、ラファの子孫のサフを打ち殺した。21:19 ゴブでまたペリシテ人との戦いがあったとき、ベツレヘム人ヤイルの子エルハナンは、ガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミを打ち殺した。ラフミの槍の柄は、機織りの巻き棒のようであった。

 かつてダビデが倒したゴリヤテの兄弟も戦いに来ていました。

21:20 さらにガテで戦いがあったとき、そこに、手の指、足の指が六本ずつで、合計二十四本指の闘士がいた。彼もまた、ラファの子孫であった。21:21 彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。21:22 これら四人はガテのラファの子孫で、ダビデとその家来たちの手にかかって倒れた。

 このようにして、ダビデは弱まっていたのですが、その家来たちが見事に、ペリシテ人の巨人らを倒すことができました。ダビデは自分だけが強かったのではなく、その下で働いている人たちも強かったのです。パウロが、教える能力がある忠実な人たちにゆだねなさい、とテモテに言ったように、自分に与えられた使命を後の世代に受け継がれていったのです。

2A 救いの賛歌 22
 そして次から、ダビデの賛歌が書かれています。彼が晩年になり、自分の生涯をふりかえり、そしてそこに主がおられたことを知り、主を讃美している歌です。この歌はほとんど同じ姿で、詩篇18篇にも記録されています。

1B 苦しみからの救い 1−30
1C 盾なる主 1−7
22:1 主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。

 ダビデの歌は、主の救いについての歌でした。彼が敵に追いまわされたとき、特にサウルによって殺されそうになっていたのに救われたことを、主の救いとして歌っています。

22:2 彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。

 ダビデは、主のことを、巌、とりで、救い主、岩、盾、角、やぐら、そして救い主、逃げ場と呼んでいます。けれども、単に呼んだだけでなく、「わが巌」と、自分のものとして呼んでいることに注目してください。ダビデは、神について知っていただけでなく、神を知っていました。神の救いについて、見たり聞いたりしただけでなく、神の救いを経験しました。それゆえ、神が抽象的な存在ではなく、私の救い主として個人的な存在として歌うことができました。パウロも同じように、死の危険から救われる経験をして、このように話しています。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10」主が救ってくださいます。

22:4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。

 ダビデは、敵からの救いを思い出して、主が救ってくださったこととして思い出しています。私たちはとかく、何か良いことを経験して、救いや回復、守りやいやし、祝福を経験して、必ずしも主がそうしてくださったと認めることを行なっているわけではありません。忘れてしまうのです。イエスのところに十人のらい病人が来て、いやされたとき、イエスに感謝したのはたった一人のサマリヤ人でありました(ルカ17:12-18)。けれどもダビデは、主が自分を救ったという意識が強くありました。自分の前にいつも主を置いていたのです(詩篇16:8)。

22:5 死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。22:6 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。

 ダビデは、自分に死の危険が立て続けて襲ってきたことを、死の波、滅びの川、よみの綱と、詩的に表現しています。

22:7 私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。

 彼は、主に助けを呼ぶことを恥としませんでした。私たちはとかく、自分がきちんとしているときに、静かな時、きちんとデボーションを持っているとき、教会にいるときなど、祈る体勢が整っているときにだけ、主の御名を呼び求めてしまいがちですが、ダビデは違いました。必死に逃げているとき、苦しみの中で主を呼び求めました。そして、主が「その宮で祈りを聞かれ」たとダビデは言っていますが、私たちが世の中でもみくちゃにされているとき、その時に叫ぶ祈りはしっかりと、天にある神の御座に届いています。

2C 超自然的な介入 8−20
22:8 すると、地はゆるぎ、動いた。また、天の基も震え、揺れた。主がお怒りになったのだ。

 主は時に、自然界への介入をとおして、ダビデを助け出されました。地がゆるぎ、動いたといっていますが、地震が起こったようです。

22:9 煙は鼻から立ち上り、その口から出る火はむさぼり食い、炭火は主から燃え上がった。22:10 主は、天を押し曲げて降りて来られた。暗やみをその足の下にして。22:11 主は、ケルブに乗って飛び、風の翼の上に現われた。22:12 主は、やみを回りに置かれた。仮庵は水の集まりと、濃い雲。22:13 御前の輝きから、炭火が燃え上がった。22:14 主は、天から雷鳴を響かせ、いと高き方は御声を発せられた。22:15 主は、矢を放って彼らを散らし、いなずまで彼らをかき乱された。

 黒雲がおおって、雷雨になったようです。

22:16 こうして、海の底が現われ、地の基があらわにされた。主のとがめにより、その鼻の荒いいぶきによって。22:17 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。

 まるで、エジプトで紅海が分かれて、海の底が現われたときのような情景です。

22:18 主は、私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私より強かったから。22:19 彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった。22:20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。

 ダビデは、わざわいの時にも主に拠り頼むのをやめませんでした。それは彼に深い確信、主が自分を喜びとされている、という意識があったからです。この真理を知ることは、非常に大事です。パウロは、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31」と言いました。そして、患難があっても、危険があっても、キリストにある神の愛から引き離すことは出来ない、目に見えない悪の勢力も、決して神の愛から私たちを引き離すことはできない、とローマ8章で言っています。私たちが苦しみに会うとき、神が自分を置き去りにされているのか、あるいは嫌いになられたのか、少し意地悪して懲らしめておられるのか、などと思ってしまうのは、サタンからの惑わしです。私たちは、主が自分を喜んでおられる、愛しておられるという確信があるから、主にそのまま自分の叫びを聞いていただくことができます。

3C 救いの経験 21−30
22:21 主は、私の義にしたがって私に報い、私の手のきよさに従って私に償いをされた。

 ここから、ダビデは自分が潔癖であったから、主が自分を守ってくださることについて話しています。けれどもダビデはもちろん、その生涯の中で罪を犯しました。失敗を多くしました。けれども大事なのは、そうした個々の失敗ではなく、全生涯の中で主に対して彼が抱きつづけた心です。彼は主を愛していました。そのことが、「私の義」という言葉に現われています。創世記のノアにも使われた言葉ですが、神を信じているから、義とみなされること、信仰による義によって、ダビデは自分の義と話しました。

22:22 私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。22:23 主のすべてのさばきは私の前にあり、そのおきてから私は遠ざからなかった。22:24 私は主の前に全く、私の罪から身を守る。22:25 主は、私の義にしたがって、また、御目の前の私のきよさにしたがって私に償いをされた。

 自分の心が神に対して開かれているとき、敵によって苦しめられても、主がともにいてくださるという確信を持つことができます。ペテロが、キリスト者が迫害を受けることについてこう話しています。「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。(1ペテロ2:19-20

22:26 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、22:27 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。

 この原則は、主による山上の垂訓にも見ることができるものです。あわれむ者は、神からあわれみを受ける。人の罪を赦すように私の罪を赦してください、などです。私たちが、主にあって歩むときに、主がご自分を私たちに示してくださいます。

22:28 あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。

 聖書に何度も出てくる原則です。心の貧しい者、悲しむ者は幸いですが、高ぶりは滅びに先立ちます。

22:29 主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。22:30 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。

 主にあって救われたダビデは、主にあって敵に勝利します。城壁を飛び越えるときでさえ、彼は神がそこにおられることを感じとっていました。

2B 主による31−51
1C 賞揚 31−35
22:31 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。22:32 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。22:33 この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。

 ここまで主を信頼しきれることは、本当に幸いです。主の道が完全であり、御言葉が純粋である、そしてこのような方の他に神はない、と自身を持っていうことができました。

22:34 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。

 この言葉の言い回しはハバクク書にも出てきますが、雌鹿は、なんでこんな崖をぴょんきょん跳ねて、登っていくことができるのか、なぜそんな高い所に立つことができるのか、と驚いてしまいます。同じように、主がともにいてくだされば、自分では考えられないようなところをどんどん進む自分を発見することがあります。

22:35 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。

 戦いでも主は強くしてくださいました。

2C 勝利 36−50
22:36 こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの謙遜は、私を大きくされます。22:37 あなたは私を大またで歩かせます。私のくるぶしはよろけませんでした。22:38 私は、敵を追って、これを根絶やしにし、絶ち滅ぼすまでは、引き返しませんでした。22:39 私が彼らを絶ち滅ぼし、打ち砕いたため、彼らは立てず、私の足もとに倒れました。22:40 あなたは、戦いのために、私に力を帯びさせ、私に立ち向かう者を私のもとにひれ伏させました。22:41 また、敵が私に背を見せるようにされたので、私は私を憎む者を滅ぼしました。

 自分が敵に圧倒的に打ち勝っていく様を歌っています。もちろん、自分がそれだけすばらしいから、ということではなく、主がそのようにしてくださったこと、主がそれだけすばらしい方であることを歌っています。

22:42 彼らが叫んでも、救う者はなかった。主に叫んでも、答えはなかった。22:43 私は、彼らを地のちりのように打ち砕き、道のどろのように、粉々に砕いて踏みつけた。

 敵が、自分たちの神々に頼んでも、答えがありませんでした。そして、試しに主の名を呼び求めましたが、それでも答えがありませんでした。主との愛の関係と契約の中に入っていないで、名前だけ使っても、そこには力がありません。

22:44 あなたは、私の民の争いから、私を助け出し、私を国々のかしらとして保たれます。私の知らなかった民が私に仕えます。22:45 外国人らは、私におもねり、耳で聞くとすぐ、私の言うことを聞き入れます。22:46 外国人らはしなえて、彼らのとりでから震えて出て来ます。

 ダビデはことごとく敵に打ち勝っていきましたから、異邦人の諸国がダビデに従属するようになりました。

22:47 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。22:48 この神は私のために、復讐する方。諸国の民を私のもとに下らせる方。22:49 私の敵から私を携え出される方。あなたは私に立ち向かう者から私を引き上げ、暴虐の者から私を救い出されます。

 彼は、とことんまで主をほめたたえています。敵に救われて、その敵が今、自分のしもべになっていること、これらはみな主が成されたことであると、歌っています。

22:50 それゆえ、主よ。私は、国々の中であなたをほめたたえ、あなたの御名を、ほめ歌います。

 ダビデが、国々の前で主をほめたたえたように、クリスチャンたちもいろいろな民族の中にいて、キリストの御名をほめたたえています。

22:51 主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。

 ダビデが必要なものは、とこしえの恵み、あわれみでした。恵みがなければ、ダビデもその末裔も決して、救いを体験することはできないことを知っていました。

 こうしてダビデは、晩年に歌いましたが、これだけの讃美が出てくるほど、全生涯を通して主を見ることができることは、本当にすばらしいです。私たちが、どれだけ自分がふりかえって、主を認めることができるか、主が自分に良くしてくださり、こんなときにも助けてくださり、こんなときに救いを与えてくださり・・・と思い返すことができるでしょうか?


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME