サムエル記第二23−24章 「透明なダビデ」

アウトライン

1A 高くあげられる方 23
   1B 義をもって治める者 1−7
   2B 勇士たち 8−39
      1C 三勇士 8−17
      2C その他 18−39
2A 良心のとがめ 24
   1B 人間の弱さ 1−9
   2B あわれみ深い主の手 10−17
   3B 犠牲のささげ物 18−25

本文

 サムエル記第一23章を開いてください。24章も学びますので、今日でサムエル記第二は終わります。ここでのテーマは、「透明なダビデ」です。私たちはダビデの生涯を学び、彼がいかに主に対して透明な人間であったかを知ることができました。成功においても、失敗においても、彼は主に対して正直であり、成功であれば主をほめたたえ、失敗であれば主にその罪を言い表わしました。今日、サムエル記の最後の部分でもこのようなダビデの姿勢を観察することができます。

1A 高くあげられる方 23
1B 義をもって治める者 1−7
23:1 これはダビデの最後のことばである。エッサイの子ダビデの告げたことば。高くあげられた者、ヤコブの神に油そそがれた者の告げたことば。イスラエルの麗しい歌。

 前回の学びで、ダビデが敵の手から救われたこと、特にサウルの手から救われたことを歌った詩を読みましたが、ここでも同じようにダビデがうたった歌が書かれています。

 この一節には、ダビデが今のダビデになったのは、完全に主の恵みによるものであることが歌われています。「エッサイの子ダビデ」という始まりが、それです。彼は、名もない小さな家族であるエッサイから生まれ、しかも最も年下の息子であり、羊飼いでした。サムエルがエッサイのところにやって来たとき、エッセイは息子の一人としてダビデを連れてくるこそさえありませんでした。ダビデは自分をエッサイの子であると言うことによって、自分がどこから来たのかをはっきり認識していたのです。このことを知るのは大切です。私たちがどこから来たのかを、いつも知っている必要があります。パウロは自分のことを、「私はその罪人のかしらです(1テモテ1:15」と言いました。ですから、「それは私ではなく、私にある神の恵みです(1コリント15:10」とも言いました。エペソ書には、キリストによって救われる前の私たちの姿が書かれています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(2:1-3」ですから、いつも自分がどこから来たかを忘れず、神の恵みによって今の自分がいることを知る必要があります。

23:2 「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」

 ダビデは歌をうたうときに、それは主の御霊によってうたっていることを認識していました。彼の歌が数多く記されている詩篇では、ダビデの心の内の表現が書かれているだけでなく、後に来られるメシヤのことが数多く書かれています。神が人となって現われること、十字架の上で死なれること、よみがえられること、そして再び戻ってこられて世界の王として君臨されることなど、遠い将来について預言しました。それはダビデが御霊によってこれらの歌をうたったからです。

 このことは、イエスさまご自身が確認されています。エルサレムにイエスが来られたとき、パリサイ人に聞かれました。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、『主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』と言っているのですか。(マタイ22:43-44下線筆者)」そして使徒ペテロも、ダビデに対する神の霊感を確認しました。「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。・・・実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』(使徒1:16,20 下線筆者)」ですから、ペテロの第一の手紙やパウロのテモテへの手紙第二にあるように、聖書は神の霊感によって書かれたものであり、聖霊によって動かされた人が書いたものであります。

23:3 イスラエルの神は仰せられた。イスラエルの岩は私に語られた。「義をもって人を治める者、神を恐れて治める者は、23:4 太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようだ。雨の後に、地の若草を照らすようだ。」

 人を治めるときは、力によってではなく、正義によって行なわれるべきであり、人の顔色を見るのではなく神を恐れて治めるべきですが、そのように治めることができる人が詩的に形容されています。太陽の上る朝の光、雲一つない朝の光のようであること。ちょうど、今日の天気のようなすばらしい爽快な様子です。さらに、雨の後の若草が太陽に照らされるようなものだ、ともあります。究極的には、このような統治を行なわれる方はメシヤ、イエスです。マラキ書にて、再臨される主が太陽のようであることが預言されています。「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。 4:2

23:5 まことにわが家は、このように神とともにある。とこしえの契約が私に立てられているからだ。このすべては備えられ、また守られる。まことに神は、私の救いと願いとを、すべて、育て上げてくださる。

 ダビデは自分と自分の家に対する、神の約束を思っています。ダビデが神殿を建てたいと願ったときに、主は、「あなたにはできない。けれども、あなたの世継ぎの子がとこしえに治める」と約束してくださいました。ダビデは、このようなすばらしい契約と約束によって自分たちは守られており、そして、そしてその知識によって、自分たちを育て上げてくださる、と歌っています。

 ダビデの子キリストに連なる者たちも、新しい契約の中で同じように、永遠の救いが約束されています。同じように、その知識の中で成長することができます。ペテロが言いました。「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。(2ペテロ3:18

23:6 よこしまな者はいばらのように、みな投げ捨てられる。手で取る値うちがないからだ。23:7 これに触れる者はだれでも、鉄や槍の柄でこれを集め、その場で、これらはことごとく火で焼かれてしまう。」

 契約の中にいないもの、あるいは契約の中に入ろうとしない者たちの結末が書かれています。鉄や槍の柄で集められ、ことごとく火で焼かれてしまうとのことですが、バプテスマのヨハネや、また主ご自身もこのことを多く語られました。永遠の罰があります。

2B 勇士たち 8−39
 そして次から、ダビデのために戦った、精鋭部隊、勇士たちの名前が記録されています。

1C 三勇士 8−17
23:8 ダビデの勇士たちの名は次のとおりであった。補佐官のかしら、ハクモニの子ヤショブアム。彼は槍をふるって一度に八百人を刺し殺した。

 一人目はショブアムです。槍をふるって、一度に八百人を刺し殺しました。

23:9
彼の次は、アホアハ人ドドの子エルアザル。ダビデにつく三勇士のひとりであった。彼がペリシテ人の間でそしったとき、ペリシテ人は戦うためにそこに集まった。そこで、イスラエル人は攻め上った。23:10 彼は立ち上がり、自分の手が疲れて、手が剣について離れなくなるまでペリシテ人を打ち殺した。主はその日、大勝利をもたらされ、兵士たちが彼のところに引き返して来たのは、ただ、はぎ取るためであった。

 勇士の二人目は、エルアザルです。ショブアムと同じく、たった独りで敵と戦いました。そしてすごいのは、手が剣について離れなくなるまで打ち殺したことです。残りの兵士たちは、分捕り物を取るだけで大丈夫でした。

23:11 彼の次はハラル人アゲの子シャマ。ペリシテ人が隊をなして集まったとき、そこにはレンズ豆の密生した一つの畑があり、民はペリシテ人の前から逃げたが、23:12 彼はその畑の真中に踏みとどまって、これを救い、ペリシテ人を打ち殺した。こうして、主は大勝利をもたらされた。

 勇士の三人目はシャマです。彼も同じように独りで戦いましたが、他の民はみな逃げてしまったところ、彼だけは踏みとどまって、ペリシテ人を打ち殺しました。

 この三人に共通することは、たった独りで戦ったことです。これは霊的にも同じことが言えるのではないでしょうか?未開の地に行く宣教師、まだ他の人が福音を宣べ伝えていないところで福音を語る人、主によって新しい働きをする開拓者などは、勇士と同じような勇気が必要です。だれも助けてくれません。むしろ逃げていってしまう人がほとんどです。けれども、その只中で、剣が手について離れなくなるほど戦います。そして大勝利を主がもたらしてくださいますが、その後でいろいろな人が来て、その分捕り物を取っていくのです。分捕り物を取る作業も必要ですが、たった独りでも戦うその勇気、逃げないで踏みとどまるその力が、開拓者らには求められます。

23:13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。

 アドラムのほら穴で思い出せることはないでしょうか?ダビデがサウルの手から逃げて、ペリシテ人アキシュのところに行き、ダビデ恐れて気違いのふりをしました。そしてその後で、彼はアドラムのほら穴に非難しました。彼の家族や親戚がそこにやって来ましたが、同じところにダビデとともにいる者たちが四百人いました。彼らは、「困窮している者、負債のある者、不満のある者(1サムエル22:2」であると書かれています。こうした世捨て人のような人たちがダビデのところにいて、そして三人の勇士のような勇敢な兵士へと変えられていったのです。これはちょうど、キリストの周りにいた弟子たちと似ています。何の変哲もない漁師ペテロ、同じように漁師のヤコブとヨハネ、収税人のマタイ、熱心党員のシモンなど、普通の人や、社会的には周辺にいる人たちがイエスの弟子となり、そして後に、教会を建て上げる使徒たちとなっていったのです。

 今ダビデは、アブドラのほら穴のところで、ペリシテ人との戦いに備えています。

23:14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。23:15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」23:16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、23:17 言った。「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

 ダビデは郷愁に駆られたのでしょうか、自分の故郷ベツレヘムの井戸の水を飲みたい、と言いました。けれどもそこは今、ペリシテ人の最前線になっています。しかし三人の勇士はその中を突き抜けて、ダビデのために水を持ってきました。

 そしてダビデの反応も注目に値します。彼はその水を飲まないで、主への注ぎの供え物にしてしまいました。地面に流したのです。ここにダビデの、主に対する透明さがあります。「こんなに多くの犠牲を払ってもってきたもの、この最善のものを自分の中にとどめておくことは、とてもできません。あなたのものですから、お返しします。」という礼拝の行為をしてしまったのです。私たちは、「こんなに犠牲を払った水なのだから、地面に流すなんて三勇士に失礼だ。もったいない!」と思ってしまいます。けれどもその発送は、イエスに高価な香油を注いでしまった女のことを、弟子たちが「貧しい人に施すことができるのに、なぜもったいないことをするのだ」と言っているのと同じです。今の時代に当てはまるなら、「教会で主にささげる献金をするのは、なんか変です。もっと効率的なお金の使い方があるでしょう。」と言うことです。ダビデは、大きな犠牲を払ったものだからこそ、自分ではなく主におささげしたのです。

2C その他 18−39
 そして次にさらに二人の勇士の名が書かれています。23:18 ツェルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイ、彼は三人のかしらであった。彼は槍をふるって三百人を刺し殺し、あの三人とともに名をあげた。23:19 彼は三人の中でもっとも誉れが高かった。そこで彼らの長になった。しかし、あの三人には及ばなかった。

 ダビデの従兄弟にあたるアビシャイです。ダビデの側近として戦いの指揮を取っていたのを、覚えているでしょうか?彼も勇士でありましたが、あの三人には及ばなかったとあります。

23:20 エホヤダの子ベナヤは、カブツェエルの出で、多くのてがらを立てた力ある人であった。彼は、モアブのふたりの英雄を打ち殺した。また、ある雪の日に、ほら穴の中に降りて行って雄獅子を打ち殺した。

 ベナヤは、ソロモンが王となったときに軍隊長になりました(1列王2:35)。

23:21 彼はまた、あの堂々としたエジプト人を打ち殺した。このエジプト人は、手に槍を持っていた。彼は杖を持ってその男のところに下って行き、エジプト人の手から槍をもぎ取って、その槍で彼を殺した。23:22 エホヤダの子ベナヤは、これらのことをして、三勇士とともに名をあげた。23:23 彼はあの三十人の中で最も誉れが高かったが、あの三人には及ばなかった。ダビデは彼を自分の護衛長にした。

 ベナヤも名をあげましたが、三人の勇士には及びませんでした。

 そして次から他の勇士たちの名前が書いてあります。23:24 あの三十人の中には次の者がいた。ヨアブの兄弟アサエル。ベツレヘムの出のドドの子エルハナン。23:25 ハロデ人シャマ。ハロデ人エリカ。23:26 ペレテ人ヘレツ。テコア人イケシュの子イラ。23:27 アナトテ人アビエゼル。フシャ人メブナイ。23:28 アホアハ人ツァルモン。ネトファ人マフライ。23:29 ネトファ人バアナの子ヘレブ。ギブアの出のベニヤミン族リバイの子イタイ。23:30 ピルアトン人ベナヤ。ガアシュの谷の出のヒダイ。23:31 アラバ人アビ・アルボン。バルフム人アズマベテ。23:32 シャアルビム人エルヤフバ。ヤシェンの子ら。ヨナタン。23:33 ハラル人シャマ。アラル人シャラルの子アヒアム。23:34 マアカ人アハスバイの子エリフェレテ。ギロ人アヒトフェルの子エリアム。23:35 カルメル人ヘツライ。アラブ人パアライ。23:36 ツォバの出のナタンの子イグアル。ガド人バニ。23:37 アモン人ツェレク。ツェルヤの子ヨアブの道具持ちベエロテ人ナフライ。23:38 エテル人イラ。エテル人ガレブ。23:39 ヘテ人ウリヤ。全部で三十七人である。

 ここに出てくる名前は三十二人です。先ほど出てきた三勇士と二人を加えると三十七人になります。けれども、24節には「三十人」とあり三十二人は多すぎます。これはもしかしたら、戦いの途中で死んだ勇士がいるので、その代わりに新たに二人が加えられたからかもしれません。ここに、すでに死んでしまった勇士が少なくとも二名、見つけることができます。一人は24節にあるヨアブの兄弟アサエルです。サウルの将軍アブネルをアサエルは追いかけているときに、アブネルは彼を突いて殺しました。そしてもう一人は、最後39節に出てくるウリヤです。ダビデ自身が、自分の罪を隠すために彼を殺しました。

2A 良心のとがめ 24
1B 人間の弱さ 1−9
24:1 さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。主は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ。」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。

 ダビデはイスラエル人の人口を数えようとしています。ここに主が怒られている、とあり、そして、主が人口を数えよと言って、ダビデを動かした、とあります。けれども同じ出来事が書かれている歴代誌第一21章1節には、「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。」と、サタンがダビデを誘惑したことが書かれています。このことは矛盾しません。まずダビデは自分の欲望から、人口を数えたいと思いました。サタンはダビデのその欲を利用して、数えるように仕向けたのです。けれどもサタンは、究極的には主なる神のしもべです。主が許さなければ何もすることができない存在です。そうゆうわけで、ここでは究極的には主がすべてを掌握されていることを表すために、主が数えよ、と言われたと書かれています。

 同じような箇所が、民数記のバラムのところでも出てきます。モアブの王バラクのところに行ってイスラエルをのろおうとしたのですが、主が、「行きなさい」と言われました。けれども、主は怒られて、抜き身の剣をもった御使いを、彼の前に置かれたのです。主は私たちを誘惑するような方では決してありません(ヤコブ1:13参照)。けれども、私たちが自分でやろうと言い張るとき、神の警告を無視して自分のやり方を貫き通そうとするとき、主はそのままにされることによって、その行為の結末を刈り取らせるようにされます。

24:2 王は側近の軍隊の長ヨアブに言った。「さあ、ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルの全部族の間を行き巡り、その民を登録し、私に、民の数を知らせなさい。」24:3 すると、ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を今より百倍も増してくださいますように。王さまが、親しくこれをご覧になりますように。ところで、王さまは、なぜ、このようなことを望まれるのですか。」

 ヨアブは、このことが間違っていることをすぐに気づきました。主が民を増し加えてくださるのに、なぜあなたは、あたかも民を自分の手中に入れるようなことをされるのですか、ということです。ダビデは、自分のプライドを満たすため、人口調査をさせようとしていたのです。

24:4 しかし王は、ヨアブと将校たちを説き伏せたので、ヨアブと将校たちは、王の前から去って、イスラエルの民を登録しに出かけた。24:5 彼らはヨルダン川を渡って、ガドの谷の真中にある町、ヤゼルに向かって右側にあるアロエルに宿営し、24:6 それから、ギルアデとタフティム・ホデシの地に行き、さらにダン・ヤアンに行き、シドンに回った。24:7 そしてツロの要塞に行き、ヒビ人やカナン人のすべての町々に行き、それからユダのネゲブへ出て行って、ベエル・シェバに来た。

 ヨアブは、時計反対周りでイスラエルを東西南北巡りました。初めに、ヨルダン川の東ガドの方に行き、それから来たに行って西にあるシドン、ツロまで行きました。それから南下してネゲブのほうにいき、ベエル・シェバに着きました。

24:8 こうして彼らは全土を行き巡り、九か月と二十日の後にエルサレムに帰って来た。24:9 そして、ヨアブは民の登録人数を王に報告した。イスラエルには剣を使う兵士が八十万、ユダの兵士は五十万人であった。

 人数が書かれていますが、第一歴代誌には「彼はレビとベニヤミンとを、その中に登録しなかった。ヨアブは王の命令を忌みきらったからである。(21:6」とあります。ヨアブは、あえて大雑把な調査で終わせたのです。

2B あわれみ深い主の手 10−17
24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

 ここにも、再びダビデの特徴が表れています。良心のとがめを感じたら、すぐに彼は、主に自分の罪を告白しました。これがいかに愚かなことで、大きな罪なのかを言い表わしました。ヨアブが行った通りでした。ダビデが望むなら、主がその民をさらに増し加えてくださるのです。ダビデは、アブラハムに与えられた契約を継承している者でもあるのです。主はアブラハムに、「あなたの子孫は、空の星のように、海辺の砂のように多くする。」と言われました。数え切れないほど祝福してくださるその子孫を、数えようとした罪でした。けれども彼はすぐに、罪を認めました。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28:13」とあるとおりです。

24:11 朝ダビデが起きると、次のような主のことばがダビデの先見者である預言者ガドにあった。24:12 「行って、ダビデに告げよ。『主はこう仰せられる。わたしがあなたに負わせる三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』」24:13 ガドはダビデのもとに行き、彼に告げて言った。「七年間のききんが、あなたの国に来るのがよいか。三か月間、あなたは仇の前を逃げ、仇があなたを追うのがよいか。三日間、あなたの国に疫病があるのがよいか。今、よく考えて、私を遣わされた方に、何と答えたらよいかを決めてください。」

 罪を言い表わしたことによって主は、このダビデの罪の結果がどのように出れば良いのかをダビデに選ばせることを行なわせます。

24:14 ダビデはガドに言った。「それは私には非常につらいことです。主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません。」

 ダビデは、主のあわれみを心から確信していました。彼の信仰の土台は、主のすばらしさ、主のあわれみでした。ですから、直接的に主の手に陥る疫病を彼は選んだのです。私たちはここまで、主に信頼していることができているでしょうか?たとえそれが主からの懲らしめであっても、主はあわれみ深い方だ、と思ってそれを甘んじて受けることができているでしょうか?ダビデの心には、このような深い信頼が主に対してあったのです。

24:15 すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。24:16 御使いが、エルサレムに手を伸べて、これを滅ぼそうとしたとき、主はわざわいを下すことを思い直し、民を滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人アラウナの打ち場のかたわらにいた。

 主が御使いに、手を引けと命じられたのには理由があります。次のダビデの祈りがあったからです。

24:17 ダビデは、民を打っている御使いを見たとき、主に言った。「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」

 ダビデは、自分がしてしまった愚かなことのために、自分ではなく他の人たちが害を受けているのを見て、耐えられなくなったのです。ダビデは、主によって王として立てられているその責任のゆえに、七万人が死ぬという大きな結果を見ていますが、私たちも程度の差こそあれ、同じような痛みを受けます。自分が罪を犯したら、それは自分ではなく他の人が苦しむことがあります。その時、自分が痛むよりも、もっと辛いのです。

3B 犠牲のささげ物 18−25
24:18 その日、ガドはダビデのところに来て、彼に言った。「エブス人アラウナの打ち場に上って行って、主のために祭壇を築きなさい。」24:19 そこでダビデは、ガドのことばのとおりに、主が命じられたとおりに、上って行った。

 主はダビデにあわれみを示す方法を設けられました。アラウナという人の脱穀をする打ち場に行きなさい、と命じておられます。アラウナはエブス人です。覚えていますか、ダビデはエルサレムをエブス人から奪い取りました。その生き残りの人がいたのですが、彼はもちろんダビデを王として、仕えている異邦人の一人です。けれどもそこにダビデが「上って行った」とあります。これは、アラウナの打ち場は、ダビデの町のちょうど北にある、現在の神殿の丘のところだからです。

24:20 アラウナが見おろすと、王とその家来たちが自分のほうに進んで来るのが見えた。それで、アラウナは出て来て、地にひれ伏して、王に礼をした。24:21 アラウナは言った。「なぜ、王さまは、このしもべのところにおいでになるのですか。」そこでダビデは言った。「あなたの打ち場を買って、主のために祭壇を建てるためです。神罰が民に及ばないようになるためです。」24:22 アラウナはダビデに言った。「王さま。お気に召す物を取って、おささげください。ご覧ください。ここに全焼のいけにえのための牛がいます。たきぎにできる打穀機や牛の用具もあります。24:23 王さま。このアラウナはすべてを王に差し上げます。」アラウナはさらに王に言った。「あなたの神、主が、あなたのささげ物を受け入れてくださいますように。」24:24 しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。

 アラウナは、ただでこの所有地をダビデに手渡します、所有地だけでなくいけにえのための牛もすべて持って行ってください、と申し出ています。けれどもダビデは断わっています。いけにえは、いけにえである。犠牲がともなっていなければ、それはささげものにならない、という理由からです。先ほど、ダビデがベツレヘムの井戸の水を地面に注いだように、ダビデは、犠牲をともなうからこそ主に対して礼拝をできる、と認識していたのでした。

 私たちの主へのささげ物は、私たちの初物、最良のものでなければいけません。もし、私たちが自分の最も大切なものを主にささげないのであれば、主と自分との関係は深いものになりません。ちょうど、夫婦が自分たちの関係以上に他のものを大切にしているのと同じことです。主にすべてをささげて初めて、主が私たちをご自分の民として、守り、助け、導き、力を与え、戦ってくださいます。このことをダビデは理解していました。

24:25 こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。

 ダビデがいけにえをささげたときに、神罰が起こらないようになりました。そして、この場所がソロモンが神殿を建てる丘となります。そして以前、ここが、アブラハムが愛するひとり子イサクをささげようとした場所であり、同じモリヤ山で主が十字架につけられたところでもあるのです。神殿が建つ場所が、ダビデが罪を犯したことによって、主があわれみを注いでくださった場所と同じであることは、印象的です。主の神殿は、私たち人間の正しさをいけにえとしてささげるところではなく、私たちの不足、過ち、罪を主に明らかにしていただき、赦しとあわれみを請うところなのです。主のあわれみの場所であります。

 こうしてサムエル記を読み終えましたが、ダビデの生涯を通して、いかに主に対して心が開かれ、主にすべてを明け渡す必要があるか、その大切さを知ることがおできになったかと思います。私たちの主との関係が、自分のパフォーマンスによる、自分の演技によって成り立つような浅はかなものではなく、ただすべてを主にゆだねていく、心からのものになりますように。


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