サムエル記第二9−10章 「王の恵み」
アウトライン
1A 恵みに与った者 9
1B 契約に基づく親切 1−8
2B さらに増し加えられる祝福 9−13
2A 恵みを拒んだ者 10
1B 疑い 1−5
2B 主体的な拒否 6−14
3B 王による制裁 15−19
本文
サムエル記第二9章を開いてください。今日は9章と10章を学びます。ここでのテーマは、「王の恵み」です。私たちは前回、ダビデが、その子であるキリストの統治を指し示す型になっていることを学びました。8章15節に、「ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。」とあります。正しくさばくこと、正義がダビデの統治の特徴でありました。そして、キリストがこの地上で神の国を立てられ、支配されるとき、その特徴は正義であります。イザヤ書の御国についての預言は、正義が浸透している様子を描いています。
そして9章と10章ですが、続けてダビデの統治に、キリストのそれを見出すことができる箇所です。ダビデが、恵みを施したい、真実を尽くしたいと思って、かつて敵であった者たちや、異邦の国に接していく様子が描かれています。そこからキリストの支配に、恵みという特徴があることを見ていくことができます。
1A 恵みに与った者 9
1B 契約に基づく親切 1−8
9:1 ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」
ダビデにとって、サウルはずっと敵でありました。けれどもこれまで読んできて分かりましたように、ダビデはサウルのこと、またサウル家のことを悪く扱いませんでした。サムエル記第二1章にある、サウルとヨナタンの死を悲しむダビデの哀歌にあるように、彼はサウルを愛し、そしてその子ヨナタンを愛していました。
そしてダビデは、サウル家で生き残っている者に対して、「ヨナタンのために、恵みを施したい」と言っています。ヨナタンとダビデは、一つの契約を結んでいたことを覚えているでしょうか?ダビデがサウルのところから逃げようとしていたときに、ヨナタンは彼にこう言いました。「もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。(1サムエル20:14-15)」そしてダビデとヨナタンは、これを契約として、主の御名によって永遠の誓いとしました。
ダビデはヨナタンを友として愛していました。けれどもただ感情的に愛していたのではなく、サウルの子らを断つことはないという契約を結ぶことによって、その愛を示しました。契約にもとづく愛です。これは結婚においてもそうですが、何よりも、キリストが私たちのために結ばれた新しい契約がそれです。イエスさまは、私たちの友となってくださり、友のためにご自分のいのちを捨てられました。そして友の愛だけでなく、「これが新しい契約のために流される、わたしの血です」と言われて、契約を結ばれました。変更不可能な契約です。今、ダビデがヨナタンとの契約に基づいて、サウルの家の者に恵みを施したいと言っています。
9:2 サウルの家にツィバという名のしもべがいた。彼がダビデのところに召し出されたとき、王は彼に尋ねた。「あなたがツィバか。」すると彼は答えた。「はい、このしもべです。」9:3 王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないのか。私はその者に神の恵みを施したい。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの子で足の不自由な方がおられます。」9:4 王は彼に言った。「彼は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「今、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家におられます。」
覚えているでしょうか、サムエル記第二4章にて、足の不自由なヨナタンの子が紹介されていました。彼の名前はメフィボシェテです。サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いによって死んだとき、メフィボシェテの乳母があまりに急いで逃げたので、その子を落としてしまいました(2サムエル4:4)。それで足なえになりました。今彼は、名も明かさずに、マキルという人の家で間借りしていたようです。
9:5 そこでダビデ王は人をやり、ロ・デバルのアミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。9:6 サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は答えた。「はい、このしもべです。」9:7 ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」
ここでダビデが、「恐れることはない」と言っているのは、とても大事です。それは、このメフィボシェテの話がいかに恵みに富んでいるものであるのかを知ることができます。当時の世界では、ある王が他の王によって倒されたとき、新しい王朝は、自分に反逆して自分の国を乗っ取る働きを止めさせるために、前の王朝の、家族の者たちを全員皆殺しにします。ですから、サウルの家からダビデの家にイスラエルの統治が移ったので、メフィボシェテは殺されて当然の立場にいたのです。ダビデが「恐れることはない」と言ったのは、もちろんメフィボシェテが恐れているだろうと思ったからで、メフィボシェテが恐れるのはもっともな理由があるからです。
聖書の中には、二つの国が存在します。一つは神が支配する神の国と、もう一つは神に反逆する、サタンを君とする国です。そして罪人である人間は、神に敵対しており、悪魔の圧制の中に置かれています。十字架と復活のみわざによって、神の国の勝利が確定しました。そして神は、悪魔や悪霊どもに従っていた不従順な者どもを、いくらでもおさばきになることができます。すべての人が神に背いているので、キリストはすべての人を火と硫黄の燃える池に投げ込む権威を持っておられるのです。
そう考えると、メフィボシェテはある意味で、私たちと言うことができます。本来なら、新しい王国が確立した時点で、さばかれて、殺されても当然の身であるにも関わらず、殺されずに済み、それだけでなく、サウルの地所を返還され、ダビデとともに食事することさえ許されたのです。罪人である私たちが神と敵対しているにも関わらず、神は十字架のキリストにその敵意を置いてくださったことによって、私たちに和解を与えてくださっています。そして、ただ死後さばかれずに済むだけでなく、私たちに神の相続が与えられ、またキリストとの食事、親密な交わりをする特権にあずかりました。
9:8 彼は礼をして言った。「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」
メフィボシェテは、感謝して受け取りました。感謝して受け取るしかなかったでしょう、足なえの身ですから、かつてイシュボシェテがダビデと戦ったように、戦うことはできません。また、このようなすばらしい恵みが用意されているのに、それを受け取らない理由はありません。
彼は自分のことを、「死んだ犬のよう」と言っています。私たちにはあまりこの言葉の持つ重みが分かりませんが、「犬」というのは聖書の中で非常に恥ずべきもの、卑しいものを呼ぶときの呼称として用いられます。韓国語では、罵る言葉の一つになっていますが、日本語にはそのような重みはありません。けれども聖書時代にはあります。メフィボシェテは死んだ犬のよう、と言って、自分がいかに卑しい状態にいるかを知っていました。
神の恵みを受け入れる人は、それが恵みであることが分からないと、それを受け入れることができません。自分はすでに豊かであり、充足しており、罪が赦されたり、永遠のいのちが与えられなければいけないという必要を感じなくなっています。ですから、恵みが恵みであることを知るには、本当の自分の姿、心の貧しさを知る必要があります。主による山上の垂訓の八つの「幸いなるかな」は、まさに救いの入口です。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」と言いました。自分が貧しく、惨めな者で、さばきと死に値する者であることを、このメフィボシェテが認めているように、認めなければ、恵みの福音を知ることはできません。
2B さらに増し加えられる祝福 9−13
9:9 そこで王はサウルの若い者であったツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の子に与えた。9:10 あなたも、あなたの息子たちも、あなたのしもべたちも、彼のために地を耕して、作物を得たなら、それはあなたの主人の子のパン、また食物となる。あなたの主人の子メフィボシェテは、私の食卓で、いつも食事をすることになる。」ツィバには十五人の息子と二十人のしもべがあった。9:11 ツィバは王に言った。「王さま。あなたが、このしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。
メフィボシェテは地所を返してもらえました。彼は一度、失ったものを再び得ることができました。私たちも同じように、罪の生活によって失われてしまうものを、主によって回復していただくことができます。そしてメフィボシェテは、地所を返してもらえたばかりでなく、しもべたちがそこを耕して、その作物はメフィボシェテのものになります。今まで失われていたものが回復しただけでなく、それ以上のものを与えられました。
これが、聖書でいう「恵み」です。あわれみは、受けるに値する神のさばきを受けなくても良いようにしてくれることを意味しますが、恵みは、受けるに値しない神の祝福を受けることができるようになることを意味します。私たちが、神の子どもとしての特権にあずかること、神の相続人になること、キリストにあって王また祭司となること、神の家族の中に入れられていることなど、罪の赦しだけではなく、神の数々の祝福の中にあずかっています。
そしてメフィボシェテは王と食事をしますが、先ほど少し言及しましたように、神との和解をすることができた私たちは、キリストとの食事にあずかることができます。ラオデキヤにある教会に対して、イエスさまが彼らを食事を招いておられますが、したしい交わり、共に時間を過ごすことをしてくださいます。
9:12 メフィボシェテにはミカという名の小さな子どもがいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。9:13 メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。
この章の最後が、「彼は両足が共になえていた」で終わっているのは興味深いです。彼は足がなえたままで、王の食卓で食事をする特権にあずかっており、また地所で作物を得る祝福にあずかっていました。彼の足はそのままだったのです。
これは霊的に、私たちの状態をも表していることになります。私たちは取るに足りない者として選ばれたのなら、選ばれた後も取るに足りない者なのです。愚かな者として選ばれたのなら、その愚かな者である状態は何も変わることはありません。前回話しましたが、「ロード・オブ・ザ・リング」のフロードは、その大役に預かっているにも関わらず、いつまでも純粋な少年であり続けたのと同じです。超人化する「マトリックス」のネオとは違うのです。私たちは土の器であり、そこにキリストの栄光が盛られています。メフィボシェテが足なえという事実は変わらなかったのに、ダビデの家の中にいることによって祝福を受けていたように、私たちも私たち自身が良くなることはないのに、キリストのうちにいることによって完全でいることができるのです(コロサイ2:10参照)。
2A 恵みを拒んだ者 10
1B 疑い 1−5
10:1 この後、アモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。10:2 ダビデは、「ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように。」と考えた。
ダビデは、メフィボシェテだけでなく、異邦人の王にも親切にしようとしました。彼はアモン人ナハシュ王のことで、その子ハヌンに真実を尽くそうと考えています。
アモンはヨルダン川のちょうど東に面しているところにいます。前回の学びによると、8章に、ダビデがアラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人から取った者を主に聖別してささげたことが書かれていますが、アモン人も他の周囲の異邦人と同じように、ダビデに負けて、その国に従属しなければいけないものとなりました。けれどもメフィボシェテのように、ダビデの真実を受け入れれば、アモン人は良い待遇を受けることができるようになります。
10:2bそこで、ダビデは家来を派遣して、彼の父の悔やみを言わせた。ダビデの家来たちがアモン人の地に来たとき、10:3 アモン人のつかさたちは、彼らの主君ハヌンに言った。「ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。この町を調べ、探り、くつがえすために、ダビデはあなたのところに家来をよこしたのではありませんか。」
彼らはダビデの意図を疑いました。以前、ナハシュはイスラエルに攻めたことがありますが、サウルの手柄によってそれを止めさせることができました。そのことを何十年経ったその当時も覚えていたのでしょうか、ダビデが遣わした使者はスパイであると考えました。
興味深いことに、ナハシュの別の子であるショビという人がダビデのところに来て、ダビデに良くしている箇所が後で出てきます。ダビデがその子アブシャロムから逃げて、エルサレムを離れていたときに、ショビは寝台と食糧をダビデの一行のために用意したとあります(17:27-29)。彼はダビデの真実を認めたようです。ハヌンと違って、彼は疑うことがなかったようです。さらに面白いことに、その寝台と食糧をダビデのところに持ってきた人たちの中で、メフィボシェテが以前住んでいた、マキルの名も出てきます。マキルも、メフィボシェテに対してダビデが示したあわれみを見て、ダビデに忠誠を尽くそうと思ったのでしょう。このように恵みを恵みであると知って、感謝して受け取ることができるのです。それを拒んだのが、ハヌンの周りにいる議官たちとハヌンです。
10:4 そこでハヌンはダビデの家来たちを捕え、彼らのひげを半分そり落とし、その衣を半分に切って尻のあたりまでにし、彼らを送り返した。10:5 ダビデにこのことが知らされたので、彼は彼らを迎えに人をやった。この人たちが非常に恥じていたからである。王は言った。「あなたがたのひげが伸びるまで、エリコにとどまり、それから帰りなさい。」
当時、ひげを剃り落とすことは、男としてとてつもない恥でありました。今で言うなら、去勢をされるほどのインパクトはあったでしょう。そして、衣も隠しどころが見えるほどに切り取られました。使者たちはあまりにも酷い侮辱を受けたので、ダビデのところに行くことさえ恥じて、ダビデが彼らのところに人を送ったほどでした。
ダビデの真実を拒み、それからこのような酷い仕打ちをするハヌンは、まさにキリストにある神の恵みを受け入れないで、それを踏みにじるようなことをする者たちと似ているでしょう。かつてのユダヤ人宗教指導者たちが、イエスさまに対してそのような仕打ちをしました。また信者に対しても、ヘブル書には「神の御子を踏みつけ、自分を聖なる者とした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに思い処罰に値するか、考えてみなさい。(10:29)」と書いてあります。
ハヌンたちは、ダビデの真実を疑いました。ダビデに従属している身で、彼が自分たちに良くしてくれるとは思いませんでした。これは、神の恵みを拒む者たちにも共通する特徴でしょう。キリストの福音は、キリストがすべてのものの主であられ、自分にとっても主であることを教えます。そのキリストが、自分に恵みを施し、真実を尽くしてくださいます。けれども、キリストの支配に対して抵抗し、自分の領域を脅かされたくないと思う人は、その恵みさえも疑わしいものとして退けてしまうのです。
2B 主体的な拒否 6−14
10:6 アモン人は、自分たちがダビデに憎まれるようになったのを見て取った。そこでアモン人は使いをやって、ベテ・レホブのアラムとツォバのアラムの歩兵二万、マアカの王の兵士一千、トブの兵士一万二千を雇った。10:7 ダビデはこれを聞き、ヨアブと勇士たちの全軍を送った。
見てください、ダビデを侮辱したのは彼らアモン人です。ですからダビデが怒り狂って、彼らを打ち倒したとしてもおかしくありません。けれども戦いをしかけたのはダビデではなく、アモン人でした。アモン人が戦うから、ダビデも戦わなければいけなくなりました。
このように、神の恵みを拒む者は、神の逆上に触れて滅ぼされるのではなく、自ら拒み続けて、自分から反抗します。神は御子を遣わしたのは、世をさばくためではなく、世を救うためだとヨハネの福音書に書かれていますが、神はキリストにあって救うことだけをお考えになっていますが、それを拒み、自ら自分に神のさばきを招いているのです。それでダビデは、ヨアブと勇士たちの全軍を送りました。
10:8 アモン人は出て、門の入口に戦いの備えをした。ツォバとレホブのアラムおよびトブとマアカの人たちは、別に野にいた。
アモン人はアラム、あるいはシリヤ人たちに援軍を頼みました。それで、ヨアブの軍は、北にいるシリヤ人と南にいるアモン人の間に挟まれたことを知りました。
10:9 ヨアブは、彼の前とうしろに戦いの前面があるのを見て、イスラエルの精鋭全員からさらに兵を選び、アラムに立ち向かう陣ぞなえをし、10:10 民の残りの者は彼の兄弟アブシャイの手に託して、アモン人に立ち向かう陣ぞなえをした。10:11 ヨアブは言った。「もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救いに行こう。10:12 強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。」
ヨアブの勇敢さはすばらしいですね。挟み撃ちにされそうになっていたのに、逃げることをせず、冷静にまた勇敢に戦いました。軍を二つに分けて、両方の軍と戦うことに決めました。そしてヨアブは、「強くあれ、われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる」と皆を励ましています。
10:13 ヨアブと彼の部下の兵士たちがアラムと戦おうとして近づいたとき、アラムは彼の前から逃げた。10:14 アモン人はアラムが逃げるのを見て、アビシャイの前から逃げて、町にはいり込んだ。そこでヨアブはアモン人を打つのをやめて、エルサレムに帰った。
アモン人は町の中に入り込んで助かりました。
3B 王による制裁 15−19
10:15 アラムは、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て団結した。10:16 ハダデエゼルは使いを送り、川向こうのアラムを連れ出したので、彼らはヘラムに来た。ハダデエゼルの将軍ショバクが彼らを率いていた。10:17 このことがダビデに報告された。すると、彼は全イスラエルを集結し、ヨルダン川を渡って、ヘラムへ行った。アラムはダビデに立ち向かう陣ぞなえをして、彼と戦った。10:18 アラムがイスラエルの前から逃げたので、ダビデはアラムの戦車兵七百と騎兵四万をほふり、将軍ショバクを打って、その場で殺した。10:19 ハダデエゼルに仕えていた王たちはみな、自分たちがイスラエルに打ち負かされたのを見て、イスラエルと和を講じ、彼らのしもべとなった。アラムは恐れて、それからはもう、アモン人を救おうとはしなかった。
アモン人を助けようとしたシリヤですが、今よんだように、こてんぱんにやられてしまいました。ダビデ自身が陣ぞなえをしました。次回読むところは、今度はアモン人と戦う場面が出てきます。けれどもそこにはダビデの姿はありません。彼はエルサレムで夕方まで寝ていました。そこで罪を犯します。それは次回学びたいと思います。
こうしてダビデを通して、神の恵みの支配について学ぶことができました。恵みを受け入れるなら、神の支配の中で祝福を受けることができ、それを拒むなら、神によって拒まれます。最後に、恵みと正義の支配について書かれている、ローマ5章21節を読みます。「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」
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