アモス書4−6章 「自分だけの生活と宗教」
アウトライン
1A 裁き主の到来 4
1B 放縦と蹂躙の女 1−5
2B 呼びかけに応えない民 6−13
2A 「生きる」ことへの呼びかけ 5
1B 「主を求めて生きよ」 1−6
2B 苦くなる公義と正義 7−17
3B 主の嘆き 18−27
3A 虐げられる大きな領土 6
1B 諸国より優れていないイスラエル 1−7
2B 忌み嫌われる誇り 8−14
本文
アモス書4章を開いてください、今日は6章まで学びたいと思います。今日のメッセージ題は、「自分だけの生活と宗教」です。私たちは、アモスが、当時、大国になっていた北イスラエルに対して預言しているところを読んでいます。具体的にはヤロブアム二世の時代です。軍事的にも、経済的にも強くなっているイスラエルが陥っている罪をアモスは明らかにしています。
1A 裁き主の到来 4
1B 放縦と蹂躙の女 1−5
4:1 聞け。このことばを。サマリヤの山にいるバシャンの雌牛ども。彼女らは弱い者たちをしいたげ、貧しい者たちを迫害し、自分の主人たちに、「何か持って来て、飲ませよ。」と言う。
アモスは3章1節でも、「聞け。このことばを。」という言葉から預言を語りました。5章1節の新しい説教でも「聞け」と呼びかけています。なぜなら、聞いていなかったからです。反応が鈍く、何も聞いていないので、注意喚起のために呼びかけているのです。
そしてサマリヤの町に対して語っています。サマリヤはもちろん北イスラエルの首都です。そして山々に取り囲まれて、自然の要塞になっていました。そこで行われていることを、「バシャンの雌牛」に例えています。バシャンは、ギルアデの北、ヘルモン山の南にある高原で、今のゴラン高原です。そこは放牧に非常に適したところで、かつてイスラエルの部族の一部が、モーセに「ヨルダン川のこちら側で住ませてください。」と言わしめたほどです。牛を放牧するのに豊かな地でした。
つまり、非常に物質的に肥えている状態です。その豊かさは「弱い者たち、貧しい者たち」を虐げることによって成り立っていました。そして、「自分の主人たちに」とありますが、これはもちろん夫のことです。放縦と豪奢を極めている、高慢な女の姿を表しています。これはもちろん、当時のサマリヤの町にそのような女たちがいたことも事実ですが、サマリヤの町全体がそのような放縦と虐げに満ちていたことを表しています。
私たちは、これは現代の文化を表していることに気をつけなければいけません。「人権」という言葉が近代から使われるようになりました。神が与えておられる基本的人権について私は100%支持します。人権が蹂躙されている国々がいつか解放されて、幸せに暮らせるようになることを願ってやみません。
けれども、それは「自分が良ければ」という利己主義に取って変えられました。例えばここで女が夫に、自分に酒を持ってくることを要求している姿は、そのことを如実に表しています。キリスト者はこれに対抗する文化を持っています。パウロは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人々を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。(1コリント9:19)」と言いました。だれにも支配されない自由をキリストにあって私たちは持っています。けれども愛ゆえに、その自由を人々に仕えるために用いていくのです。
ですからあらゆる社会関係、人間関係において、使徒たちは「従いなさい」という命令を行っています。「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21)」という言葉から初めて、パウロは妻が夫に従うこと、また夫が自分自身のように妻を愛すること、そして子供が親に従うこと、そして雇用関係では奴隷が真心から主人に従うことを告げました。教会の中でも、互いに仕え合うこと、そして指導者を敬い、その指導に従うことを教えています。
現代の私たちは、これらの命令に対して生理的な拒否反応を示すのです。「それは私が自由にできる権利を脅かしてしまう。」と恐れるのです。そして社会は便利になっているので、共同体を持たずとも独りで何でもできる便利な社会になりました。キリスト教会でさえ、インターネット放送などで自宅で礼拝をしている人々までいるのです。ですから、ここのサマリヤの女たちを私たちは他人事のように捉えることはできません。自分に仕えさせる文化を私たちは持っているからです。
4:2 神である主は、ご自分の聖にかけて誓われた。見よ。その日があなたがたの上にやって来る。その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く。4:3 あなたがたはみな、城壁の破れ口からまっすぐ出て行き、ハルモンは投げ出される。・・主の御告げ。・・
主は「ご自分の聖にかけて」と言われます。主の聖なるご性質によれば、弱者を犠牲にした豪奢な生活は耐えられないものだったのです。それで主は、アッシリヤがサマリヤを滅ぼすようにされます。ここにある「釣り針」とは、文字通りのことです。彼らは鼻や口に鉤輪を付けて捕らえ移したのでした。そして「城壁の破れ口」とはサマリヤの城の破れ口です。「ハルモン」とありますが、「ヘルモン山」のことかもしれません。彼らがまっすぐ、サマリヤからシリヤ、そしてアッシリヤの遠く彼方に引き連れられてしまいます。
4:4 ベテルへ行って、そむけ。ギルガルへ行って、ますますそむけ。朝ごとにいけにえをささげ、三日ごとに十分の一のささげ物をささげよ。4:5 感謝のささげ物として、種を入れたパンを焼き、進んでささげるささげ物を布告し、ふれ知らせよ。イスラエルの子ら。あなたがたはそうすることを好んでいる。・・神である主の御告げ。・・
「ベテル」は、北イスラエルの南端にある町で、北端の町ダンと並んで金の子牛があったところです。そして「ギルガル」は、以前も説明しましたように、ヨルダン川をヨシュアたちが渡った後、エリコに行く前のところにある町か、あるいはエフライムにあった町(2列王2:1)であります。(私はおそらく後者ではないかと思います。なぜなら、北イスラエルの中にある町だからです。)
ここでアモスが問題にしていることは、「宗教的にはしっかりと儀式を守っているのに、その礼拝対象が完全に間違っている。」ということです。朝ごとのいえにえ、十分の一のささげ物、感謝のささげ物、種を入れたパン、進んでささげる捧げ物など、モーセの律法の中に、特にレビ記の中に定められていることです。これだけしっかりと細かいことは守っていたのに、肝心の礼拝対象がまことの神ではなく、偶像なのです。
アベルとカインの捧げ物のことを思い出してください。なぜアベルのささげ物が受け入れられて、カインの物が受け入れられなかったのか?それは、カインが自分なりの、自分の思いをかなえるところのささげ物を神に捧げようとしたからです。ある意味で主に捧げたと言いながら、自分自身に捧げている、自分の偶像に捧げていると言えます。自分の世界の中の礼拝、自分の都合に合わないことをいっさい受け付けない礼拝など、これらはみな偶像礼拝なのです。
2B 呼びかけに応えない民 6−13
そして次に主は、何度も何度も、「わたしの方に帰ってきなさい」と呼びかけておられます。それでもなお戻ってこないイスラエルの姿が描かれています。
4:6 わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
ここの「歯をきれいにしておき」というのは、歯を磨いてあげるという意味ではありません。「何も食べさせない」という意味です。食べるものがなくなった、ということで、「主の名を呼び求めなければいけない。」と彼らは思わなかったのです。
4:7 わたしはまた、刈り入れまでなお三か月あるのに、あなたがたには雨をとどめ、一つの町には雨を降らせ、他の町には雨を降らせなかった。一つの畑には雨が降り、雨の降らなかった他の畑はかわききった。4:8 二、三の町は水を飲むために一つの町によろめいて行ったが、満ち足りることはなかった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
分かりますか、主は全ての町に雨を降らせないこともおできになるのです。けれども、あえて一つの町には雨を降らせました。これもまた、彼らに注意を喚起して、主のところに立ち戻ってほしいからでした。
似たような災いが黙示録8章にも書き記されています。地上の野原の三分の一が焼け、海の生命の三分の一が死に絶え、水源もその三分の一が、そして太陽の光も三分の一に減じます。したがって、言い換えれば三分の二は残っているのです。このことによって、彼らが完全な滅びを受ける前に悔い改めて、ご自分に立ち返ってほしいと神が願われているからです。
私たちは、不思議な思考を行ないます。コップに水が半分しかないと、「半分しかない」としか思いません。けれども、「半分は残っている」とは思わないのです。この半分が神の憐れみであって、神が私たちにご自分のことを気づいてほしいと思われて、半分少なくされたのです。
この発想の転換を、エルサレムの破壊を目撃したエレミヤがしました。哀歌にて、エルサレムに襲った悲惨を嘆いて、泣いているところでこう言いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(3:32-33)」エルサレムは滅んでしまったと言っている自分、残されたわずかな民がいる。これ自体が神の憐れみだ、と気づいたのです。つまり、毎日、目を覚まして起きること自体が神の恵みなのです。
4:9 わたしは立ち枯れと黒穂病で、あなたがたを打った。あなたがたの果樹園とぶどう畑、いちじくの木とオリーブの木がふえても、かみつくいなごが食い荒らした。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
初めは食の窮乏、雨が降らないこと、そしてここでは植物が害を受けている災いです。これらは全て、主が彼らを約束の地に導きいれる前に、モーセを通して前もって警告しておいたことです。申命記28章に書いてあります。
自分の周りの世の中が、神の言葉通りになっていると徐々に、徐々に気づくべきなのです。私たちが生きている世界はどうでしょうか?聖書の預言に書かれているとおりに、徐々に徐々になっているのに、それでも気づかず、神を信じ、イエスを信じることをしない世代は、このイスラエルの民となんら変わらないのです。
4:10 わたしは、エジプトにしたように、疫病をあなたがたに送り、剣であなたがたの若者たちを殺し、あなたがたの馬を奪い去り、あなたがたの陣営に悪臭を上らせ、あなたがたの鼻をつかせた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
エジプトに疫病が家畜にはびこりました。イスラエルを救うために、主がエジプトに対して行なわれたことです。イスラエル人の頭の中では、「これは敵が受ける災いだ。神は敵を滅ぼすために、災いを下される。」と思っています。ところが、自分たちがエジプト人と同じことをしているなら、自分たちも同じ災いを受けることを知らなかったのです。
神にはえこひいきがありません。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」私たちは、自分たちが同じことをしていれば、神の裁きを免れないことを知らなければいけません。
4:11 わたしは、あなたがたをくつがえした。神がソドムとゴモラをくつがえしたように。あなたがたは炎の中から取り出された燃えさしのようであった。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
エジプトと同じく、主は神の裁きを受けた異邦人の国としてソドムとゴモラを挙げておられます。サマリヤの周辺にある町々は、アッシリヤ軍によって火をつけられて、全焼してしまいます。それでも、彼らが主のところに帰ってこなかった、というものです。
4:12 それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。
ここの「神に会う」というのは、祝福を受けるためのものではありません。むしろ怒りの神に会う、ということです。主に立ち返ることを全て拒んだ民は、ただ燃える怒りをもって望まれる神に会うしか他ありません。
イエス様はご自分を拒む者、「イエスなんか知らない」という者には、「お前など知らない」という神の拒絶が待っていることをお話になりました。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32-33)」
4:13 見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主。
主は、ご自分がどのような方であるかを思い起こさせるために、天地創造にある栄光、そして人の思いをすべて知っておられる方であることを言い表しておられます。私たちは、ややもすると、神がどのような方かを忘れてしまいます。まさに北イスラエルの人々が忘れていたことですが、被造物に現れている神の力と永遠性です。私たちは神を思い出すために、自然の中に行ってみると良いでしょう。晴れた夜空を見上げると良いでしょう。この主が、私たちに悔い改めの呼びかけを行なっておられるのです。したがって、主に対して健全な恐れを抱いて、その警告の御言葉を真剣に受けとめなければいけません。
2A 「生きる」ことへの呼びかけ 5
1B 「主を求めて生きよ」 1−6
5:1 イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。
主がアモスに、歌をうたうように命じられます。それは賛美や感謝を表す歌ではなく、死んだ者を悲しむ時に歌う「哀歌」を命じておられます。つまり、今まだヤロブアム二世の時代なのに、すでにイスラエルが倒れたものとして預言します。
5:2 「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。」
「おとめ」と書いてあるのは、イスラエルがまだ外敵の侵略を受けていない状態です。けれどもイスラエルの国がなくなってしまう倒れ方をすることを、ここでは「二度と起き上がれない」と言っています。もうイスラエルの国が再建されないことを意味するのではありません。なぜならアモス書も他の預言書と同様、最後は町々が建て直される預言をもって終わっているからです。
5:3 まことに、神である主はこう仰せられる。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」
千人が百人、百人が十人ということは、九割が戦争で倒れたということです。もはやアッシリヤに抵抗する力はありません。けれども主はこう言われます。
5:4 まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。5:5 ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」5:6 主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。
主はなおも、ご自分に立ち返る余地を残していてくださっています。「わたしを求めて生きよ」と言われます。彼らは主ご自身以外のところにはどこにでも行きます。ベテルに行きます。ギルガルに行きます。そしてユダの町であるベエル・シェバにまでも行きます。けれども、主ご自身のところには行かないのです。
これが人間のありのままの姿です。人間は、主のところに行く以外の道であれば、どんな犠牲を払ってでもそれを行なおうとします。数多くの人がお金を出して、自分の家族で起こっていること、病気のことなど解決してもらおうと、占いをしたりします。宗教に走る人がいます。こういう人たちがなぜか、キリスト教会の戸を叩くことはありません。なぜでしょうか?
宗教ができないからです。「あなたは、救いを得るために何もしなくてよいのだ。主イエス・キリストを信じなさい。自分の罪を認めて、悔い改めなさい。」と言われるからです。主を求めることには、どんなささげ物も必要ありません。ただ必要なものは、自分の砕かれた魂だけです。へりくだった心だけです。「神は、砕かれた、悔いた心をさげすまれない。」という言葉が詩篇51篇にあります。
私たちは本当に、主を求めているでしょうか?主は、「まことに仰せられる」と言われます。本当のことだとして主は言われているのです。そうすれば、もしかしたらイスラエルの民も救いにあずかるのかもしれない、と主は言われます。私たちに対しても同じです。
2B 苦くなる公義と正義 7−17
5:7 彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。
ここからいかにイスラエルが公義と正義を台無しにしているかを主は責め立てられます。「公義」というのは、英語ではjusticeで「公正」だとか「判決」と訳したほうが分かるかもしれません。そして正義は正しいことですね。これを「苦よもぎ」のように変えている、と言うのですが、苦よもぎは薬草とも言われますが、多く摂取すると精神撹乱も来たします。非常に苦しい、苦い経験のことをここでは意味しています。
本来は、弱い者、貧しい者が守られて癒しが与えられるようにするのが、正しい判決であるべきです。メシヤが来られることを預言者マラキは、「義の太陽」と呼んでいます。そして「その翼には癒しがある。(4:2)」と言いました。これがまことの正義です。
5:8 すばる座やオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、海の水を呼んで、それを地の面に注ぐ方、その名は主。5:9 主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
もう一度、主は、ご自分がどのような力を持っておられるかを、自然界への支配を通して示しておられます。
5:10 彼らは門で戒めを与える者を憎み、正しく語る者を忌みきらう。
当時の町は、城壁の門のところで行政の手続き、また裁判を行なっていました。イスラエルの人々はそこに正しい裁き司がいるのを非常に嫌がりました。自分たちが不法行為を行なうことができないからです。
5:11 あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。
4章にもありましたが、貧しい者を踏みつけて自分の富を増し加えていました。
5:12 私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。
小作料を違法に取り立てているのを裁かれないために、裁判官に賄賂を渡します。贈賄も悪いですが、収賄も悪いです。主は賄賂を受け取ったイスラエルの裁判官に対しても責めておられます。
5:13 それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。
なぜ賢い者、知恵ある者が黙ってしまうのでしょうか?知恵ある人が沈黙してしまうような時代は本当に悲惨です。「時代が悪い」とあります。あまりにも悪くなっているので、黙っていることが知恵になっている、ということです。イエス様が十字架につけられる前、ヘロデの前で一切口を開かず、またピラトに対してもご自分を弁明する言葉は話されませんでした。
知恵があるからこそその時代は救われます。けれどもその知恵を拒み続けると、その知恵が語られなくなり、ただ滅びが待っているだけになります。
5:14 善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたが言うように、万軍の神、主が、あなたがたとともにおられよう。5:15 悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。万軍の神、主は、もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない。
主は再び、この国を裁かなければいけないと分かっていながら、なおも悔い改めの機会を与えておられます。もしかして、この中の数少ない者たちが呼びかけに応えるかもしれないと思っておられるかもしれません。これが神の心です。「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)」
5:16 それゆえ、主なる万軍の神、主は、こう仰せられる。「すべての広場に嘆きが起こり、すべての通りで、人々は『ああ、ああ。』と言い、農夫を呼んで来て泣かせ、泣き方を知っている者たちを呼んで来て、嘆かせる。5:17 すべてのぶどう畑に嘆きが起こる。それは、わたしがあなたがたの中を、通り過ぎるからだ。」と主は仰せられる。
ちょうどイスラエルがエジプトを出たときに、主はエジプトを通過されました。死の御使いをもって通られました。それでエジプト中に嘆きが起こりましたが、同じことが今度はイスラエルの中で起こります。「泣き方を知っている者たち」というのは、葬式のときに雇うプロの泣き屋のことです。
3B 主の嘆き 18−27
5:18 ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。
「ああ」と、主ご自身が嘆きの声を上げておられます。これは再び6章1節にも出てきます。
「主の日」は私たちがヨエル書で学んだように、神が終わりの日にこの地の不義に対して行なわれる裁きの期間です。これをイスラエルの民は知っていました。けれども間違って知っていました。それは、「この日は我々の敵に対して主が行なわれることだ。」と思ったことです。「我々は、神の民だ。だから我々の敵は神の敵であり、神は彼らをことごとく滅ぼされる。」と思ったのです。けれども、彼らが同じことを行なっていれば、彼らも大患難の中で滅びなければいけないのです。
5:19 人が獅子の前を逃げても、熊が彼に会い、家にはいって手を壁につけると、蛇が彼にかみつくようなものである。5:20 ああ、まことに、主の日はやみであって、光ではない。暗やみであって、輝きではない。
このような恐怖は想像できませんね。せっかく獅子の前を逃れても、熊が襲う。手が壁に触れると、蛇が噛みつく。「幸運」という言葉が一切なくなってしまう世界です。
5:21 わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。5:22 たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。5:23 あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。5:24 公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。
私たちが正義を行なっていないときの礼拝を、主がどのように感じておられるのかここから分かります。一言でいうならば「嫌悪感を抱いておられる」です。私たちは、礼拝を行なっていればそれが主を喜ばせていると思ってしまいます。
けれども、私たちの生活で正義を行なっていないことがあるならば、不義を行なっていることがあるならば、主はそれをまず正してから、ささげ物をしなさい、と優先順位をはっきりさせておられます。イエス様が言われました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24)」
5:25 「イスラエルの家よ。あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか。5:26 あなたがたはあなたがたの王サクテと、あなたがたのために造った星の神、キウンの像をかついでいた。5:27 わたしはあなたがたを、ダマスコのかなたへ捕え移す。」とその名を万軍の神、主という方が仰せられる。
イスラエルの民はシナイ山のふもとで金の子牛を造り、それを拝みました。それと同じことをあなた方は行なっていると、主は糾弾されています。「サクテ」も「キウン」も天体を拝む神々です。それゆえにダマスコに捕え移される、つまりアッシリヤに連れて行かれる、ということです。
実はここを、ステパノがユダヤ人議会で弁明したときに引用した言葉です(使徒7:42-43)。ですから、来ていたユダヤ人指導者は、「あなたがたが誇るイスラエルの先祖が偶像礼拝を犯したぐらいなら、ましてやあなたがたは偶像礼拝と等しい罪を犯している。」と責められたと理解しました。それでステパノを石打ちにすることを決めたのです。
けれども神の民が偶像礼拝の罪を犯すという可能性が、十分にあるのです。ユダヤ人がそれを認められなかったけれども、事実、ユダヤ教徒が神殿そのものに信仰を置いていたことは偶像礼拝だったのです。キリスト者はどうでしょうか?パウロは言いました。「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:12)」
3A 虐げられる大きな領土 6
1B 諸国より優れていないイスラエル 1−7
6:1 ああ。シオンで安らかに住んでいる者、サマリヤの山に信頼している者、イスラエルの家が行って仕える国々の最高の首長たち。6:2 カルネに渡って行って見よ。そこから大ハマテに行き、またペリシテ人のガテに下って行け。あなたがたはこれらの王国よりすぐれているだろうか。あるいは、彼らの領土はあなたがたの領土より大きいだろうか。6:3 あなたがたは、わざわいの日を押しのけている、と思っているが、暴虐の時代を近づけている。
これは、イスラエルの指導者らが自分たちの国の強さを誇っている姿です。ヤロブアム二世の時はソロモン以降もっとも大きな支配権を得たことを前回学びました。けれども主は今、他の国々で起こっていることを見なさい、と言われます。「カルネ」というのはシリヤの町、そして「大ハマテ」も同じです。ですからシリヤとペリシテですが、そのどちらもアッシリヤによって攻められます。イスラエルは、それでも自分たちは無敵だと思っていたのです。
彼らに起こったことがあなたがたに起こらないでいる、と考えるのはよしなさい、ということです。イエス様は、ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげ物に混ぜたという知らせを伝えてきた人々にこう言われました。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:2-3)」
私たちはどこかで、「自分は何を行なっても裁きから免れるのだ」という幻想を抱いています。他の人には災いが下っても、自分たちだけは大丈夫だと思っているのです。けれども、そうではありませんね?主を恐れることは知恵の始まりです。主ご自身の御業をすべて自分のものとして受け入れることが必要なのです。
6:4 象牙の寝台に横たわり、長いすに身を伸ばしている者は、群れのうちから子羊を、牛舎の中から子牛を取って食べている。6:5 彼らは十弦の琴の音に合わせて即興の歌を作り、ダビデのように新しい楽器を考え出す。6:6 彼らは鉢から酒を飲み、最上の香油を身に塗るが、ヨセフの破滅のことで悩まない。6:7 それゆえ、今、彼らは、最初の捕われ人として引いて行かれる。身を伸ばしている者どもの宴会は取り除かれる。
イスラエルの指導層が何をしているかを、主は具体的に示しておられます。貧しい人々の家畜を奪い取って、それで自分たちのご馳走にしています。自分たちの家にはたくさんの家畜がいるにも関わらず、です。そしてダビデのように新しい楽器を考え出す、とありますが、もちろんダビデの心と彼らの心は正反対です。このように神の人の名でさえもが、快楽に用いられることがあります。
そして「ヨセフのことで悩まない」とあります。私たちはしばしば、「思い煩ってはいけない」という神の命令を聞きます。けれども心配しなければいけない時があります。それは神に背いている時です!「心配しないで、幸せに(Don't worry. Be happy.)」なんていう歌がありますが、罪を犯しているなら大いに悩まなければいけません。
ヤコブがこのことを次のように言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:9-10)」
2B 忌み嫌われる誇り 8−14
6:8 神である主は、ご自分にかけて誓われる。・・万軍の神、主の御告げ。・・わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す。
主が忌み嫌っておられるのは「誇り」です。言い換えれば「高慢」です。これまで見てきた、自分のことしか考えていない態度です。他の弱った人を助けることをせず、重荷を互いに担うことをせず、自分自身のことしか考えないことです。そしてさらに、礼拝や他の宗教活動によってむしろ正当化してしまう、それに満足している姿です。
もし私たちが、教会によって人々に仕えることを行なっていないなら、この罪を犯している可能性があります。もちろん、初めに救われた人は受けることがその生活の多くを占めるでしょう。けれども、いつまでも受けることしか考えておらず、他の人々に助けの手を伸ばすことを考えず、自分の生活に満足しているならば、同じ罪を犯しています。それは、ヤコブが言う「行なわない罪」です。「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(4:17)」
6:9 一つの家に十人残っても、その者たちも死ぬ。6:10 親戚の者でこれを焼く者が家から死体を持ち出すために、これを取り上げ、その家の奥にいる者に向かって言う。「あなたのところに、まだいるか。」彼は言う。「だれもいない。」また言う。「口をつぐめ。主の名を口にするな。」
興味深い発言ですが、なぜ「主の名を口にするな」と言っているかと言いますと、生き残っている人がいることがわかれば、主はさらにその人々をも殺すのではないか、と恐れたからです。もちろん主はご存知ですから、その心配は無用なのですが、それでもこれは主が行なわれたことだという非常に大きな恐怖が、名前さえ言及させないという発言を引き起こしています。
6:11 まことに、見よ、主は命じる。大きな家を打ち砕き、小さな家を粉々にせよ。6:12 馬は岩の上を走るだろうか。人は牛で海を耕すだろうか。あなたがたは、公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えた。
「海」というのは、原文にはないようです。ですから馬だけでなく、牛も岩の上で耕すだろうか?と書いてあるのではないかとも言われています。いずれにしても、「絶対にありえない」例としてあげています。公義を毒に変え、正義の実を苦よもぎに変えることは、神にあってはあってはならないのです。
6:13 あなたがたは、ロ・ダバルを喜び、「私たちは自分たちの力でカルナイムを取ったではないか。」と言う。
「ロ・ダバル」という町は実はありません。けれども、「ロ・デバル」という町はあります。ヨルダン川の向こう側にあります(2サムエル6:14)。ヤロブアム二世の時代、こちらの地域も北イスラエルのものになっていました(2列王14:28)。
けれども、アモスはこの町を微妙に変えて「つまらぬ物」という意味の「ロ・ダバル」と言ったのです。そして「カルナイム」とは「力」のことですが、彼らの力はつまらない物、虚しい物だ、ということです。
6:14 「まことに、イスラエルの家よ、今、わたしは一つの民を起こしてあなたがたを攻める。・・万軍の神、主の御告げ。・・彼らはレボ・ハマテからアラバの川筋まで、あなたがたをしいたげる。」
自分たちの領土を誇っていた北イスラエルです。そして大きな領土を有していたイスラエルです。列王記第二14章によれば、まさに「レボ・ハマテからアラバまで」がヤロブアムの支配下に入ったとあります。それがすべてアッシリヤの手に陥るのです。
アモスは、「主が語っておられる。あなたがたは聞こえるのか?」という神の叫びの預言を行ないました。それを鈍らせるのが、「自己満足」です。自分だけの生活、自分だけの宗教です。この罪を犯すとき、私たちは近視眼になります。目の前に迫っているものが何か、見えるはずのものが見えなくなるのです。最後に、使徒ペテロの励ましの言葉を読んで終わりましょう。
こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。(2ペテロ1:5-10)