アモス書7−9章 「建て直す神」
アウトライン
1A 三度目の正直 7
1B アモスの執り成し 1−9
2B 王の祭司への裁き 10−17
2A イスラエルの終わり 8
1B 祭りに儲ける者たち 1−6
2B 喪に服させる主 7−14
3A ダビデの仮庵 9
1B 祭壇の破壊 1−6
2B 根絶やしにしない神 7−15
本文
アモス書7章を開いてください。今日でアモス書を終えますがメッセージの題は「建て直す神」です。7章からは、幻による預言に入ります。アモス書は始め、諸国に対する神の裁きを1−2章で、そして3章から6章までに、イスラエルを滅ぼすという神の預言がありました。それから7章で、続けて神の裁きの預言がありますが、最後は回復させてくださるというメッセージです。これらを、幻を通してアモスに示されます。
1A 三度目の正直 7
1B アモスの執り成し 1−9
7:1 神である主は、私にこのように示された。見よ。王が刈り取ったあとの二番草が生え始めたころ、主はいなごを造っておられた。7:2 そのいなごが地の青草を食い尽くそうとしたとき、私は言った。「神、主よ。どうぞお赦しください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」7:3 主はこのことについて思い直し、「そのことは起こらない。」と主は仰せられた。
7章から9章までに五つの幻がありますが、一つ目は「いなご」による災いです。アモス書の中ですでに、4章9節にいなごによって、既に立ち枯れと黒穂病で被害を被っている作物がさらにいなごによって食い荒らされることが書いてあります。けれどもここを単なるいなごの被害ではなく、軍隊が襲ってくる幻ではないか、と見る人もいます。ヨエル書に、いなごの大群の被害から軍隊の洪水が押し寄せる幻に移ったことを思い出してください。
いなごの幻、そして次の火の幻においては、主がアモスの執り成しを聞き入れ「そのことは起こらない」と言われていますが、三回目の「重り縄」の幻で主がイスラエルを裁くことを決めておられます。このことから、北イスラエルに対するアッシリヤの侵略を表しているのではないかと言う人もいます。プル(2列王15:19)、ティグラテ・ピレセル(同29節)、そしてシャルマヌエセル(同17:3)です。シャルマヌエセルがサマリヤを陥落させて、北イスラエルを滅亡させたのですが、三度目の正直でイスラエルが滅ぼされたという見方があります。
いずれにしてもここで大事なのはアモスの執り成しに対して、主が思い直してくださっていることです。「王が刈り取ったあとの二番草」とありますが、これは初めの収穫は王が民の納める貢物として刈り取りますが、その残りを民が刈り取り、自分たちのものとします。したがって、この二番草を失ってしまえば、彼らは食べるものがなくなるわけです。
7:4 神である主は、私にこのように示された。見よ。神である主は燃える火を呼んでおられた。火は大淵を焼き尽くし、割り当て地を焼き尽くそうとしていた。7:5 私は言った。「神、主よ。どうか、おやめください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」7:6 主はこのことについて思い直し、「このことも起こらない。」と神である主は仰せられた。
これはすべてを、大淵まで焼く尽くす火です。これを文字通りではなく、飢饉によって作物が枯れている姿を表している、という人々もいます。
この火による災いにしても、先のいなごの災いにしても、アモスは、「神、主よ。どうぞお赦しください。」と執り成しています。アモスが語る神の言葉は、非常に厳しいものですが、彼自身の心はその裁きが来るのを望んでいません。真の神の預言者は、このように自分が語っている人々への愛に満ちています。エレミヤが民に対する神の裁きを語りながらも、そうなってしまったのをもっとも悲しむ哀歌を書いているのが、その典型です。
私たち御言葉を取り次ぐ人々も同じ心を持っており、厳しいことを語るけれどもそれを喜んで語っているのではない、ということです。パウロが、ユダヤ人がその心をかたくなにしているので神の裁きがあることを語りながらも、自分自身は彼らに代わってでも彼らが救われてほしいと願ったのと同じです(ローマ9:1‐3)。愛しているがゆえに語らざるを得ないのが預言をする者の役割です。
そして主が「思い直」すという言葉に、違和感を抱く人がいるかもしれません。なぜなら、人間ならまだしも神ご自身がなぜ思いを変えることがあるのか?ということです。「この方は人間ではないので、悔いることがない。(1サムエル15:29)」とあるし、「父には移り変わりや、移り行く影はない。(ヤコブ1:18)」とあります。
ここで知らなければいけないのは、聖書の神は運命的に人間の行く末を定めておられる方ではない、ということです。神がすべてを予め知っておられて、そして初めから計画を立てておられるということを聞いて、私たちは、神は遠くにおられて運命のようにあらゆることを定めておられる、と考えてしまいます。
けれども、神は憐み深い方です。神は遠くからすべてを定めておられる方ではなく、人間の細かい感情の動きまですべてを知り、それを感じ、ご自分のことのように背負っておられる方です。神は永遠の計画を立てておられると同時に、人間のすべての営みにいっしょになって関わっておられる方であることを知ってください。イスラエルがエジプトで奴隷としてうめき声を上げていた時、神は、「エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。(出エジプト3:7)」と言われた通りです。
したがって、「思い直された」とありますが、アモスの執り成しは実は神ご自身の心そのものであったのです。神はイスラエルを滅ぼされる時は、ご自身を滅ぼすかのような痛みを覚えておられたのです。裁きよりも憐みのほうが神は強いのです(ヤコブ2:13)。アモスの執り成しを聞いて、神はその裁く意図が憐みの思いによって崩されていくのです。
ですから私たちも運命論的になってはいけません。自分の周りにいる人々が福音に対していくら強情であっても、それでも神に対して救ってくださるように祈るのです。「神は、ご自分が救いに定めておられない人は見捨てておられる。」などと、勝手に決めつけないでください。神の心は、ペテロ第二3章にはっきりと書いてあります。「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(9節)」
7:7 主は私にこのように示された。見よ。主は手に重りなわを持ち、重りなわで築かれた城壁の上に立っておられた。7:8 主は私に仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が「重りなわです。」と言うと、主は仰せられた。「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。7:9 イサクの高き所は荒らされ、イスラエルの聖所は廃墟となる。わたしは剣をもって、ヤロブアムの家に立ち向かう。」
「重りなわ」とは、そのまま「重りが付いている縄」という意味ですが、壁が垂直に建てられているかどうかを測るものです。したがって、ここではイスラエルの民そのものを城壁に喩えています。イスラエルが、重り縄で測ってみたら全く歪んで建てられているので、取り壊さなければいけないということです。
主は彼らのことを「イサク」として呼んでいます。「ヤコブ」または「イスラエル」と呼ぶことは多いですが、その父であるイサクにまでさかのぼって彼らを呼ばれています。これはなぜか?後に、アブラハム、イサク、ヤコブに対するご自分の契約を思い起こされるからです。神は一度、彼らを取り壊されるが、この契約のゆえに再び建て直すことを考えておられることを、ここは暗示しています。
そして「ヤロブアムの家に立ち向かう」とありますが、ヤロブアム二世のことです。アモスが預言をしているとき、まさに彼が生きてイスラエルを治めていました。この預言は、ヤロブアムの子ゼカリヤによって実現しました。ゼカリヤはわずか六か月のみ、イスラエルを治めました。自分の家臣であるシャルムによって暗殺されたからです(2列王15:10)。
2B 王の祭司への裁き 10−17
そしてアモスがこの預言を行っているのが、イスラエルの主要な町ベテルであることを思い出してください。アモスがベテルの神殿の敷地の中あるいは外で預言していたのでしょうか、その神殿から祭司が出てきて、彼を制止しようとしました。
7:10 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わしてこう言った。「イスラエルの家のただ中で、アモスはあなたに謀反を企てています。この国は彼のすべてのことばを受け入れることはできません。7:11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で死に、イスラエルはその国から必ず捕えられて行く。』」7:12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ。ユダの地へ逃げて行け。その地でパンを食べ、その地で預言せよ。7:13 ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のある所だから。」
私はここを読んだ時に、このアマツヤという人物は非常に几帳面な男だと感じました。人間的に、または官僚的に考えれば、彼の行動は尤もであります。彼は王に雇われた祭司です。ですから王を守るために、王にアモスのことを報告し、それからアモスに対して立ち退き命令を出しています。
そして妥協案も親切に出してくれています。「ユダで預言せよ。そこでは預言をした報いとして食事もあてがわれることだろう。」と。アマルヤは自分自身が、この祭司職を雇われて行っていたから、このような提案を出したのです。
そして「王の聖所、王宮のある所だから」預言するな、と言っています。これも尤もな話です。王を尊ぶべきだ、悪いことを言ってはならない、ということです。ではアモスはこれに対して、どう答えているでしょうか?
7:14 アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。7:15 ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。
アモスの召命の証しは、「主の言葉は、場所をも王をも乗り越える」ことを意味しています。アマツヤは王によって雇われた宗教者として模範生ではあったけれども、そのような悪い意味での生真面目さ、律義さは神の御心をむしろ損なうものなのです。
なぜ神があえて、ユダの地にいる、朴訥な羊飼い、いちじく桑の木を栽培する農民を選び取られたのでしょうか?北イスラエルに、神の言葉を語る預言者がいなかったからです。それでも神はイスラエルに対してご自分の事を知らせたかった。それでアモスを呼び出されたのです。
私たちは、御霊に導かれるためにあえて「蚊帳の外」に出る勇気が必要です。イエス様がなされた「良い羊飼い」の話を思い出してください(ヨハネ10章)。イエス様を知っている羊は、イエス様の声を知っていて、呼ばれたら出ていきます。けれども他の者がいくら真似して声を出しても、見向きもしません。そして、イエス様はご自分の命を与えられるほど、ご自分の羊を守っておられます。けれども雇われ羊飼いは、狼が来れば自分の命がかわいいですから逃げるしかないのです。
私たちは、はっきりとした神の召しを知っているでしょうか?「このようにされている」という、状況の中で仕方がないという思いだけで、今の状況の中にいることはないでしょうか?常識にしたがって尤もと思われることだけ行っていないでしょうか?このような囲いを自分で作って、神からの御声を聞いても、そこから出て行こうとしないのです。
7:16 今、主のことばを聞け。あなたは『イスラエルに向かって預言するな。イサクの家に向かって預言するな。』と言っている。7:17 それゆえ、主はこう仰せられる。『あなたの妻は町で遊女となり、あなたの息子、娘たちは剣に倒れ、あなたの土地は測りなわで分割される。あなたは汚れた地で死に、イスラエルはその国から必ず捕えられて行く。』」
アマツヤ個人に対する神の裁きです。イスラエルがアッシリヤに捕え移される時、妻は遊女になり、子息は剣で倒れ、自分の所有の土地は分割されます。また自分自身は「汚れた地」つまり偶像礼拝で汚されたこの神殿のところで殺される、ということでしょう。自分が持っているもの、自分を救おうとしていた生活を、結局は失うことになるのです。
2A イスラエルの終わり 8
主は続けて、イスラエルの神殿に対する裁きを宣言されます。
1B 祭りに儲ける者たち 1−6
8:1 神である主は、私にこのように示された。そこに一かごの夏のくだものがあった。8:2 主は仰せられた。「アモス。何を見ているのか。」私が、「一かごの夏のくだものです。」と言うと、主は私に仰せられた。「わたしの民イスラエルに、終わりが来た。わたしはもう二度と彼らを見過ごさない。8:3 その日には、神殿の歌声は泣きわめきとなる。・・神である主の御告げ。・・多くのしかばねが、至る所に投げ捨てられる。口をつぐめ。」
四つ目の幻は「一かごの夏のくだもの」です。これを見て神は、必ず神殿に悲しみと喚きをもたらす、死体をもたらすと宣言されています。
8:4 聞け。貧しい者たちを踏みつけ、地の悩む者たちを絶やす者よ。8:5 あなたがたは言っている。「新月の祭りはいつ終わるのか。私たちは穀物を売りたいのだが。安息日はいつ終わるのか。麦を売りに出したいのだが。エパを小さくし、シェケルを重くし、欺きのはかりで欺こう。8:6 弱い者を銀で買い、貧しい者を一足のくつで買い取り、くず麦を売るために。」
イスラエルのベテルにおいて、その偶像礼拝を神は裁かれるのはもちろんですが、アモス書において神が問題視されているのは、この貪欲と搾取です。
安息日と新月の祭りは、どちらも休みを取ります。商売をすることができません。彼らは、祭り自体は守っているのですが心は祭りにはありません。むしろ早く終わってくれないか、早く終わってくれないかと心が騒いでいるのです。
それは商売をしたいからなのですが、それが秤を偽って使います。つまり、ぼったくり、詐欺を行おうとしているのです。その相手は貧しい人です。今で言うならば、老人を狙うおれおれ詐欺、まだ右も左も分からない若い子たちを狙うビジネス、麻薬販売などがそれに当たるでしょう。「一かごの夏のくだもの」とは、心が逸る彼らが売ろうとしている籠を表していました。
2B 喪に服させる主 7−14
8:7 主はヤコブの誇りにかけて誓われる。「わたしは、彼らのしていることをみな、いつまでも、決して忘れない。8:8 このために地は震えないだろうか。地に住むすべての者は泣き悲しまないだろうか。地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように、みなぎっては、また沈まないだろうか。
主は、貧しい人たちを虐げる彼らの姿が、もう我慢なりませんでした。そしてこの虐げを基にして、神が地上をナイル川の満ち引きのように動かすと宣言されています。終わりの日の姿です。
私たちは、神の怒りを地上にもたらすその要因をよく考えなければいけません。その中の一つが、貧しい人々を利用して富を得る悪なのです。新約聖書のヤコブ書に、富んでいる者に対して神が終わりの日に裁きを下すことが書かれています。そして、貧しい人に正当な賃金を与えないことも書かれています。「あなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。(5:3)」
私たちは、キリスト者として「与えること」をもっと考えなければならないでしょう。自分たちの持っている物をどのようにして分け与え、使えばよいかを考えなければならないでしょう。貯金して、蓄えて、自分の生活だけを考えていやしないでしょうか?自分の生活の安泰だけを考えてやいないでしょうか?これは終わりの日には、危険な立場なのです。
8:9 その日には、・・神である主の御告げ。・・わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、8:10 あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、すべての人の頭をそらせ、その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、その終わりを苦い日のようにする。
イスラエルの人たちが祭りをしながら、心が貪欲に満たされていたことに対する裁きの預言です。祭りの喜びを、空を暗闇にすることによって悲しみに変えられます。
これは終わりの日に起こることでありますが、しかしこの予兆が、イエス様が十字架につけられた時に現れました。ルカ23章44節から読みます。「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。(44-45節)」この時はまさに過越の祭りの最中でした。まさにこのアモスの預言が実現したのです。
時のユダヤ人の祭司長らは、上町というところに住み裕福に暮らしていました。彼らは自分たちの組織、立場には忠実でありましたが、神の言葉を聞いていたのかと言えば全然違いました。そして神殿の中で商売をしていました。アッシリヤに捕え移される前の、北イスラエルの神殿とさほど変わらない状況だったのです。
8:11 見よ。その日が来る。・・神である主の御告げ。・・その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。8:12 彼らは海から海へとさまよい歩き、北から東へと、主のことばを捜し求めて、行き巡る。しかしこれを見いだせない。8:13 その日には、美しい若い女も、若い男も、渇きのために衰え果てる。8:14 サマリヤの罪過にかけて誓い、『ダンよ。あなたの神は生きている。』と言い、『ベエル・シェバの道は生きている。』と言う者は、倒れて、二度と起き上がれない。」
アッシリヤによって北イスラエルの神殿が破壊されます。「ダン」はベテルと並んで、金の子牛が祭られていたところです。南ユダにあるベエル・シェバも、北イスラエルの人々が好んだ偶像礼拝の場所です。これも破壊されます。
その結果、自分たちが何に拠り求めればよいか分からず、イスラエル中を徘徊している姿を神は描いておられます。「海から海へと」というのは南の死海から東の地中海、ということです。そしてそこから北に行き、東へ回ったが、どこにも主の言葉を聞けるところはなかった、ということです。イスラエルを一周したけれども、どこにも主の預言者はいませんでした。
彼らは、御言葉が語られている時は全然聞いていなかったのに、実際に預言通りになった後でそれを求めているのです。けれども、その時にはすでに遅すぎます。
これが、今日を警告している言葉であると言えないでしょうか?御言葉はたくさん語られています。アモスが獅子のように吼えたように、この世に対する神の声は至る所に聞こえています。主の奉仕者、御言葉を語る者が、もっともたくさん起こされなければいけません。どんどん、御言葉を、神のご計画全体を伝え聞かせなければいけません。こんなに分厚い聖書が、私たちの目の前にあるのです!これを読ませ、教え、悟らせる必要があるのです。
ところが、物理的に御言葉はあるのに、それが他の話に取って代えられているのです。良い話に、違う面白い話に変えられているのです。説教壇で御言葉が宣言されず、ただの人間の言葉が数多く語られているのです。いつか、まったく御言葉が聞けなくなる時が来ます。そのような大患難が来ます。または個々人は、死んだら、地獄に堕ちたらもう二度と神の言葉を聞けなくなります。そうなってからでは遅いのです!
3A ダビデの仮庵 9
1B 祭壇の破壊 1−6
9:1 私は、祭壇のかたわらに立っておられる主を見た。主は仰せられた。「柱頭を打って、敷居が震えるようにせよ。そのすべてを頭上で打ち砕け。わたしは彼らの残った者を、剣で殺す。彼らのうち、ひとりも逃げる者はなく、のがれる者もない。
これが最後の幻、五つ目の幻です。なんと主ご自身が祭壇のかたわらに立っておられます。主の使いであるイエス・キリストご自身でしょう。この偽りの神殿を破壊しなさいと命じておられます。神殿が完全に倒壊するように、柱頭を打てと命じられています。
9:2 彼らが、よみにはいり込んでも、わたしの手はそこから彼らを引き出し、彼らが天に上っても、わたしはそこから彼らを引き降ろす。9:3 彼らがカルメルの頂に身を隠しても、わたしは捜して、そこから彼らを捕え出し、彼らがわたしの目を避けて海の底に身を隠しても、わたしは蛇に命じて、そこで彼らをかませる。9:4 もし、彼らが敵のとりことなって行っても、わたしは剣に命じて、その所で彼らを殺させる。わたしはこの目で彼らを見る。それは、わざわいのためで、幸いのためではない。」
これは、「絶対に裁きから免れることはさせない。」という主の強い意志です。「カルメル山」の斜面にはたくさん洞窟があるそうです。そして海の底の「蛇」とは、ヨブ記などに登場するレビヤタン(41:1)のことです。海の怪獣ですね。どこに隠れてもわたしは引きずり出す、ということです。神の怒りからは、誰も免れることはできません。
9:5 万軍の神、主が、地に触れると、それは溶け、そこに住むすべての者は泣き悲しみ、地のすべてのものはナイル川のようにわき上がり、エジプト川のように沈む。9:6 天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる方、その名は主。
ここでは、終わりの日における天変地異のことを主は語られています。ナイル川の形容が再び出てきましたが、満ち引きが非常に激しいように天地が動きまくることを教えています。
そのような力をわたしは持っている、ということを表すために主は、「天に高殿を建て、地の上に丸天井を据え、海の水を呼んで、地の面に注がれる」と仰っておられます。私たちは、この天地の自然のすばらしさを見るときに、この秩序を保っておられる同じ方が、この秩序を破壊することもおできになるのだ、という健全な恐れを抱かなければいけません。
2B 根絶やしにしない神 7−15
主はこれから、イスラエルをこの大患難の中で救い出されることを語られます。イスラエルを神はこよなく愛されています。そして彼らを選ばれました。けれども、その「選び」という神の行ないが、人間の頭の中で歪曲されていくのです。それが誤った救済観になっていきます。神はまず、その誤った考えを打ち壊すために次の比較を行われます。
9:7 「イスラエルの子ら。あなたがたは、わたしにとって、クシュ人のようではないのか。・・主の御告げ。・・わたしはイスラエルをエジプトの国から、ペリシテ人をカフトルから、アラムをキルから連れ上ったではないか。
「クシュ人」とはエチオピヤ人のことです。今のエチオピヤだけでなく、スーダンと南エジプトを含みます。創世記10章の中で、クシュの子孫からカナン人が現れたことを思い出してください。いわゆる、イスラエルから見れば「取るに足りない」民族であると見られていた人々です。けれども主はあえて、「クシュ人のようではないか」と言われているのです。
そして主は、ペリシテ人とアラム、つまりシリヤ人のことを例に挙げておられます。ペリシテ人は地中海に浮かぶクレテ島から移住してきた民族です。「カフトル」とは「クレテ島」のことです。これを移住されたのは主ご自身です。そして、シリヤ人はメソポタミア地方の「キル」の町から移住してきた民です。これも主が行われました。「だから、わたしは同じようにお前たちをエジプトからカナン人の地に移住させたのだ。」と言われているのです。
これは、「我々がエジプトからカナン人の地に動くことができた、特別な民族だ。選ばれた民だ。」という自負心を砕くために言われたことです。エジプトから移住できたことを自負しているのであれば、あなたがたが見下している他の民族だって移住してきた者たちなのだ、これらをすべて行っているのはわたしなのだ、と神は仰られています。
「選び」というのは、私たちが、神の裁きから免れる既得権益だと考えたら大きな間違いだ、ということです。神の選びは、地獄に行くしかない状態の死に切った私たちを、一方的に憐れんで救おうと選んでくださった、その憐れみの現れなのです。これを、神の憐れみに拠り頼むのではなく、まるで自分が神のあらゆる裁きからの免罪符をもらったかのように勘違いするのが、私たちの肉の弱さなのです。だから、世に対して抱いている物差しを、自分自身に対しては持っていないのに、「いや、私たちは天国に行く切符をもらっているものですから。」と言ってごまかしているのです。
ローマ人への手紙2章を以前も読みましたが、もう一度読みましょう。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:6-11)」神にえこひいきなどありません。
9:8 見よ。神である主の目が、罪を犯した王国に向けられている。わたしはこれを地の面から根絶やしにする。しかし、わたしはヤコブの家を、全く根絶やしにはしない。・・主の御告げ。・・9:9 見よ。わたしは命じて、ふるいにかけるように、すべての国々の間でイスラエルの家をふるい、一つの石ころも地に落とさない。9:10 わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。彼らは『わざわいは私たちに近づかない。私たちまでは及ばない。』と言っている。
主の裁きは全ての民に向けられます。それは、ユダヤ人を含めてのことです。「わたしの民の中の罪人はみな、剣で死ぬ。」とあるとおりです。けれども、残された民がいるのです。へりくだって、主の御名を呼び求める者、悔い改める者が起こされる、ということです。そしてこれら、へりくだる者たちは、どんなに患難がひどくても、「わたしは彼らを必ず救い出す」と約束してくださっています。
ここで私たちは、「選び」について二つの誤謬を知らなければなりません。一つは、先に見ましたように「何をしても選ばれたのだから、救いにあずかることができる。」と考えることです。もう一つは、「選ばれたのは、私が悔い改めたからだ。」と考えることです。へりくだった者のみ、悔い改めた者のみが救われるのはその通りですが、そのへりくだり、悔い改めをも主が備えておられない限り、決してできないことだったのです。
だから、神の一方的な憐れみで私たちは救いに与らせていただいたのです。主はイスラエルを選び、ゆえに残された民を選んでくださり、そして憐れみの器として異邦人もその中に加えてくださいました。
私たちはいつも、「自分がどういう者だったのか」を思い出す必要があります。これは痛いことでしょう。私たちはクリスチャンになって自画像が良くなっています。何か良い人間になったように錯覚するのです。けれども、主の憐れみと恵みになしには、とんでもない、今、言うのが恥ずかしい愚かなことをたくさんしてきた身なのです。この間違った自画像を主にあって崩していただいて、以前は「罪の中で死んでいた、神の怒りを招くのにふさわしい者」であったことを思い出すべきでしょう。
9:11 その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。9:12 これは彼らが、エドムの残りの者と、わたしの名がつけられたすべての国々を手に入れるためだ。・・これをなされる主の御告げ。・・
主は、残りの者を救われるだけでなく、ダビデの「仮庵」を建て直してくださいます。イスラエルの民族が救いに与るだけでなく、国そのものが復興するのです。「仮庵」というのは、その名のごとく仮の住まいです。ダビデが持ち運んできた契約の箱は、天幕の中にありました(2サムエル7:2)。自分は杉材で作られた宮殿に住んでいるのに・・・。ということで、預言者であり友でもあるナタンに神のための宮を造りたいと言いました。
けれども主の答えは、「あなたは、わたしのために家を建てることはできない。けれども、わたしがあなたのために家を造る。」と言われました(同11節)。それは、物理的な家のことではなくダビデ王朝の確立のことです。ダビデの子によって永遠の国を立てることです。これを神は、終わりの日に行ってくださいます。イエス・キリストを王とするイスラエルの国を建て直してくださいます。
そしてこの国はすべての国々を支配することになります。代表的な異邦人の国として「エドム」が挙がっています。なぜか?次のオバデヤ書で詳しく学びますが、エドムはイスラエルに執念深く敵対していた国の代表的な存在だからです。イスラエルの敵をも平定することを主は約束してくださっています。
9:13 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。9:14 わたしは、わたしの民イスラエルの捕われ人を帰らせる。彼らは荒れた町々を建て直して住み、ぶどう畑を作って、そのぶどう酒を飲み、果樹園を作って、その実を食べる。9:15 わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。」とあなたの神、主は、仰せられる。
すばらしいですね、これまで飢饉の天災の言葉をずっと聞いてきたわけですが、主は最後にその反対の祝福を、土地の豊かさを約束してくださっています。「耕す者が刈る者に、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る」というのは、種蒔きや耕作の時期になるまで収穫が続いている、その豊作の姿を表しています。そして農地が豊かになるだけでなく「町々」を彼らは建てます。
この二つのことが、近現代のイスラエル史で実現しました。荒野であった所が緑になりました。そして町々が建てられました。これは奇跡の連続です。イスラエル建国の父ベン・グリオンは、「奇跡を信じない者は、イスラエルでは現実主義者ではない。」と言いました。奇跡を信じることは合理主義的ではないかもしれません。けれども現実主義ではありません。現実に奇跡が起こっているのを、目前で見ているのですから。
そしてここに、主が彼らをこの地に植える、と約束しておられます。「入植地」と聞くと、特にイスラエルについて「入植地」と聞くと、世の中では悪い言葉になっています。けれどもイスラエルの国そのものが入植によってできたのです。もちろん合法的に、不在地主から買い取ったものであり、この世の基準によっても非難されるべきものではありません。
ここまで私が言いましたが、けれどもここの預言は近現代のイスラエルで完全に成就したのではないことを、はっきり言いましょう。今見ている奇跡が、あまりにも小さく見える、取るに足りなく見える時がやってきます。イエス様が地上に再臨され、天地が神のデザインに回復し、エデンの園のようになるとき、イスラエルはかつて見たことのないほどの豊かさを享受します。
ハマスの創始者の一人であった者の息子、モサブ・ハサン・ヨーセフは、クリスチャンになり、米国に亡命しました。彼はアラブ人やパレスチナ人の中での神の働きを説明しました。数多くの人がイエス様を信じて救われている、という話です。そして彼は最後に言いました。「私たちの神は、どちら側に付く方ではありません。乗っ取られる方です。」日本語で言うと難しいのですが、take sideするのではなく、take overされると英語で言いました。イスラエル側に付いている神でもなく、パレスチナ側についている神でもなく、どちらもの心を捕えて支配される方だ、という意味です。
神は私たちを支配されることを願っておられます。主が戻ってこられる前にも、神の国が霊的に拡がっていくことを願っておられます。それは私たちが神の主権の中に明け渡す時に実現します。