1A バビロンによる教育 1−7
1B 主による捕囚 1−2
2B 王に立つための養育 3−7
2A 心に定めるダニエル 8−16
1B 野菜だけの食事 8−14
2B 結果 15−16
3A 神による知恵 17−21
本文
ダニエル書1章を開いてください。ついにダニエル書に来ました、これまでの預言書ももちろん重要な書物ですが、ダニエル書は終わりの時の預言を鳥瞰的に見ることができる、貴重な書物です。バビロンの時代から、まずギリシヤ・ローマの新約聖書時代までを見ることができます。旧約聖書の中で、実はマラキ書よりも後の旧新約の中間期をこの書で読むことができます。そしてイエス様が再臨される時に至るまで、つまり今の時代と将来に至るまでを眺めることができます。
ダニエル書は預言的に重要なだけではなく、ダニエル個人の霊的生活が注目に値します。覚えていますか、エゼキエル書の学びにおいて、義人としてダニエルが、ノアとヨブと並んで出てきました(14:14)。ノアとヨブは古い人ですが、エゼキエルにとってダニエルは今の人です。それだけ、彼の名がバビロン中に広まっていたことを窺わせます。
今日のメッセージ題は「この国で主に従う」です。バビロンという非常に異教的な国の中で、ダニエルが国の役人として仕えはじめます。けれども彼の真の主人は神ご自身です。
1A バビロンによる教育 1−7
1B 主による捕囚 1−2
1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。1:2 主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。
時は、バビロン捕囚です。バビロン捕囚と言っても主に三回ありましたが、エゼキエルは第二次捕囚で紀元前597年でした。ユダの王エホヤキンの時です。ダニエルは第一次捕囚で、605年でした。そしてここにあるとおり、エホヤキンの前のエホヤキムが治世を取っていた時のことです。
2節に「主が」とありますね。実際はバビロンの王ネブカデネザルが来たのですが、主はユダの民を裁くために、バビロンを用いられたのです。列王記第二24章を開いてください。
エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。そこで主は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。主がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。(1-4節)
マナセの罪のためであるとここにはありますが、赤子を偶像のために火によってささげた罪であります。マナセの父ヒゼキヤに対して、イザヤはこのような預言をしました。イザヤ書39章の最後です。
見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と主は仰せられます。また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕えられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。(6-7節)
まさに、ここの出来事を預言したのです。宮の中にあるものが持ち去られ、そしてダニエルら王族の子たちが捕え移され、バビロンで役人となったのです。
そして、ネブカデネザルがエルサレムの神の宮から、「シヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰」ったとあります。当時の世界は非常に宗教的で、自分たちがある国を征服すると、このように相手国を代表する神のものを、自分の神のところに持ってくることによって、自分たちの神がその国の神を征服したと考えます。ネブカデネザルの神はマルドゥクという名でした。
「シヌアル」というのも、聖書の中で大きな響きがあります。これは今のイラク南部の地域であり、創世記では、かつてニムロデが主に反抗して町を建てた所でした(10:10)。そしてその平地で人々はバベルの塔を建てようとしました(11:2)。そこでその地域に住むアブラハムを主が、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。(12:1)」と呼び出されました。それにも関わらず、イスラエルの民は反抗に反抗を重ねて、かつて自分の父祖がいたところに戻ってきたのです。
言わば、「完全に元の状態に戻ってしまった」ということでしょうか。主による救いを味わったのに、再び世に巻き込まれてしまった者と同じです。ペテロが第二の手紙でこう言っています。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2ペテロ2:20)」
けれども失われたままで主は済ますことは決してなさいません。それが、ダニエル書が聖書にある目的です。ダニエルとその友人を通して、神がバビロンの国と世界に働きかけ、またダニエルの祈りを主が聞かれて、70年後の捕囚を終わらせ、エルサレムに帰還するようにされたのです。
2B 王に立つための養育 3−7
1:3 王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。1:4 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。1:5 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。
ネブカデネザルは、自分の国を支配するに当たって、征服した国々の王族から自分の下で仕える者を選びました。そうすることによって、いつまでも諸国民がバビロンに従属することができると考えました。ユダヤ州については、これらユダヤ人が管理するのが適切だと考えました。
そして国の中枢で働くのですから、知的にも、また身体も優れた人でなければいけません。容貌もその条件でした。サウルがイスラエルの王に選ばれた時、彼が非常にハンサムで背が高かったことを思い出してください(1サムエル9:2)。これは異邦人の国々が王やその側近に求めた資質です(1サムエル8:5参照)。そのため、教育だけではなく食べ物も王が食べる物と同じものが割り当てられたのです。肉体の育ちも良くするためです。
ダニエルと友人らは、その素質を持っていました。容貌も良く、IQも優れていました。けれども、それだけではないことを後の話が教えてくれます。もっと大切なもの、霊的素質を彼らは持っていました。かつてヨセフがそうでした。エジプトにおいて、彼は美男子であったためにポティファルの妻に言い寄られました。けれども神を恐れて、その場から逃げました。後のペルシヤ時代の王妃エステルも同じです。彼女は美人でした。けれどもそれ以上に、養父モルデカイによく従い、宦官が勧めたものの他は、何も求めない慎みがありました(エステル2:10,15)
1:6 彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。1:7 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。
バビロンがこれら役人の卵たちに対して、完全なバビロン化を測りました。教育については4節にあるとおり「バビロン人の文学とことば」を教えました。そして名前については、ここ6,7節にあるとおりです。
まずユダヤ人名を見ると、そこに両親の信仰深さを垣間見ることができます。ダニエルは「神は裁き主」です。ハナヌヤは「ヤハウェは恵み深い」です。ミシャエルは「神である方は誰か」です。そしてアザルヤは、「主は助けられる」です。これら親の信仰が、彼らが完全にバビロン化されることから彼らを守りました。
ちょうどモーセがそうでした。パロの娘によって乳母として雇われた実の母は、モーセが乳離れするまでの間、ヘブル人の神の知識を植え付けていたはずです。なぜなら、彼もエジプト人のあらゆる学問を教え込まれたにも関わらず(使徒7:22)、40歳の時に同胞のイスラエル人を助けようとしました。「主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)」の教えは非常に大切です。
そして王族の全ての人が腐敗していたわけではないことを、ここの箇所は教えています。当時のエホヤキムはエレミヤに激しい敵対心を抱いていましたが(エレミヤ36章)、王の周囲の人々は彼の預言を聞き、一部の人はその言葉を恐れていました。私がエレミヤであったなら、自分が行なっている事は本当に徒労に終わっていたと完全に落胆していたと思いますが、決してそうではないことをダニエル書は教えてくれます。そして、彼が預言した書物をダニエルは後で読み、エルサレムの町について彼は神に願い求めました(ダニエル9章)。
そしてダニエルと三人の友人の名前ですが、「神は裁き主」であるダニエルは、「ベルテシャツァル」で「ベルのご加護を」という意味です。ベルはバビロンの神です(イザヤ46:1)。「ヤハウェは恵み深い」のハナヌヤは、「シャデラク」つまり、バビロンの太陽神「ラク」を指し、「太陽神の光を受ける」という意味です。「神である方は誰か」という意味のミシャエルは「メシャク」で、「アクである方は誰か」です。イスラエルの神から異教の神アクに摩り替えられました。そして、「主は助けられる」のアザルヤは、「アベデ・ネゴ」です。これは「ネボのしもべ」です。ネボは、バビロンの神ベルの息子と考えられています(イザヤ46:1)。
自分の名前というのは自分が誰であるかを知るアイデンティティになりますから、彼らは本当に強い、世の影響の中に生きなければいけませんでした。異教の神の名が自分の名になっているのです。けれども彼らは初めの自分の名前と身分を覚え、決して捨てることはありませんでした。
ここに私たちは、この日本国に住んでいて希望を見出します。「日本」という国名も、太陽神崇拝から来ています。旅券には天皇家の紋章が付いています。公の年月の表記は、これも天皇家の元号を用いています。もちろん国王そのものが非聖書的ではなく、天皇家が神道の祭祀を今でも執り行っているために、異教の意味合いを持っているのでそう言っているのです。
そして、あらゆる面において異教の考え方が浸透している社会に住んでいます。この世の価値観の中に生きています。毎日、学校や職場でこの世の教えのいわば「洗礼」を受けています。けれども、決して自分がキリスト者であることを忘れないのです。
パウロは、同じく異教の影響の強いコロサイにいる信者たちに、こう勧めました。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(2:6-7)」
2A 心に定めるダニエル 8−16
1B 野菜だけの食事 8−14
1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。
ここがここ1章のテーマになるでしょう、「心に定める」ことです。ダニエルはバビロンの教育とバビロンの名を与えられながらも、自分はユダヤ人であり、イスラエルの神を信じる者であることを忘れませんでした。それだけでなく、神に与えられた良心に従うために、バビロンが与えるものを拒んだのです。
王の食べるごちそうには、神が律法の中で定めておられた食物規定に反するものがありました。例えば「血を食べてはならない(レビ記17:12)」とあります。血抜きをしていない肉の料理が出ていたかもしれません。反芻しない動物、例えば豚も食べてはいけません(同11:7)。豚肉も出ていたかもしれません。
さらに、これらの食べ物が、食卓に出てくる前に偶像にささげられていた可能性は大です。当時は、食事をまず偶像にお供えしてから食膳に持ってきます(1コリント10:28)。ですから、ダニエルは名前が異教的なものに変えられたり、バビロン文学の授業を受けても、この食事だけはいただくことはできないと心で判断して、そして食べないことに決めたのです。
私は、しばしば偶像礼拝のことで信者の方から質問を受けます。仏壇への供え物を親から要求されるが、するべきなのかどうか。日曜日に法事がある、それに参加すべきかどうか。また仏式の葬儀において、焼香を焚くこと、またなくなった方の写真に対して礼をしてよいのかどうか。実に数多くの方が、そのまま行なっています。
私たち日本人には「調和」の文化があります。全体の和を崩さないようにするために最善の努力をします。周りの人々がどのようにしているかをじっくりと見て、自分もその中で飛び抜けることのないように調節します。けれども、これをキリスト者として神から与えられた良心に置き換えることは決してできないのです。
そこで、この日本の国において、その文化の中にいて、どのようにしてダニエルのように「心に定める」ことができるか二点お伝えしたいと思います。一つは「前もって準備をする」ことです。実際の場面に置かれた時に、「主よ、どのようにすればよいのかですか」と祈り求めるのではなく、もうそのような場面が来ることは分かっているのですから、どのように対処すればよいかを考え、知恵と力が与えられるよう祈るのです。
献金の話をしますが、パウロがコリントにある教会に対して、次の勧めを行ないました。「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。(1コリント16:2)」つまり、日曜日の礼拝の時に自分の財布から慌ててお金を引き出すのではなく、前もって用意しておきなさい、ということです。収入に照らし合わせていくら捧げればよいかを考え、祈りながら用意して、その額を主にお捧げするのです。
それと同じ原則を偶像礼拝に対しても適用すればよいのです。イエス様は、終わりの日に際して「目をさましなさい。用意しなさい。」と命じられました。用意して、いつでもできるように準備するのです。仏式の葬儀があることは、日本にいればいつでもやって来ます。職場で二重帳簿を上司から作りなさいと言われることも、十分にありえることです。飲み会もあるでしょう。高校生の男子なら、嫌らしい携帯サイトを友人らが見回しているのが日常茶飯事かもしれません。このようなことは十分想定できるわけです。だから前もって考えて、キリスト者としての心の準備をすべきなのです。
そしてもう一点は「一線を引く」ことです。ここまでは主にあって許容できるが、それ以上は明確に譲らない、と決めます。具体的に決めます。例えば、仏式の葬儀に参席はするが、焼香は焚かずに遺族に対して一礼をする。(私たちは妻の父の葬儀の時に、そのように行ないました。)日曜日の法事には参加しないが、礼拝の後、その家に立ち寄って挨拶をする。(これは、私の祖父の法事の時に私が行ないました。)具体的に一線を引くのです。
どのように引くのか?判断材料は「自分に与えられた良心」です。それは、人それぞれ異なります。パウロは、どの日を、主を礼拝する日として尊ぶかという問題を取り扱っている時に、こう言いました。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:5)」心の中で確信を持つのです。そして、その行為を主のために行なうのです。
そしてこうも言っています。「あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(同22-23節)」良心に反したことを行なえば、それは罪なのです。たとえ同じ行為を他の信者が行なっていたとしても、自分に疑いがあれば罪なのです。
1:9 神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。1:10 宦官の長はダニエルに言った。「私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。」1:11 そこで、ダニエルは、宦官の長がダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤのために任命した世話役に言った。1:12 「どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。1:13 そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。」1:14 世話役は彼らのこの申し出を聞き入れて、十日間、彼らをためしてみた。
神が宦官の長に、ダニエルを良く思う心を与えられたとありますが、ダニエルもまた宦官の長を思いやる心があります。宦官の長は、もし王の命令に反することを行なえば自分が死刑になる恐れがあります。バビロンの国では、他の異教の国と同様に命は安価なものでした。次の2章を読めば、夢を解き明かすことのできない者たちは「手足を切り離せ、家を滅ぼしてごみの山とさせる」とネブカデネザルは言っています(5節)。ですからこれは単なる恐れではなく、本当の事なのです。
その言葉に対して、宦官の長を試すことはしませんでした。彼の立場を尊びました。私たちは、自分の信仰的な信条によって害を被る周りの人々のことも気にかける、そうした尊ぶ心を持たなければいけません。パウロは言いました。「ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(1コリント10:32-33)」
けれども信仰によって与えられた良心には決して逆らうことはできません。それで彼は知恵を使いました。十日間、野菜だけを与えて私たちを試してください、とお願いしたのです。そうすれば、宦官の長は自分が殺されるという恐れも解消でき、ダニエルの願いを聞くこともできます。
ヤコブは手紙の中で、知恵を求めるように勧めました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)」これは世の中で使われる「狡賢い」意味での知恵ではありません。平和を求めるものです。同じヤコブ書に、「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。(3:17)」とあります。相対立する事柄があるときに、両者の間に平和が与えられるように求める知恵です。ここの場合は、ダニエルの良心と宦官の長の福利の間にある対立です。
こうしてダニエルは自分と友人らに、信仰によるテストを課しました。「十日間」という言葉は、他にも例えば黙示録2章に出てきます。サルデスにある教会が、牢に投げ入れられて、「十日間苦しみを受ける(10節)」とイエス様は言われました。試される期間です。ずっと永遠に続くわけではなく、やがて解消されることを知っている期間です。
もちろん野菜だけを食べれば、人間的な理解では痩せてしまいます。もし痩せてしまえば、王の前に立つことはできません。だからダニエルと友人らは、信仰を持たなければならなかったのです。アブラハムが自分の息子イサクを捧げる時、彼は神が約束されたとおり、この子から星の数のような、海の砂のような大勢の子孫が生まれると信じていました。だから人間的な理解では不可能な話なのです。でも信じました。そうしたら心の中では、イサクを神がよみがえらせてくださるという確信が与えられたことを、ヘブル人への手紙の著者は述べています(11:19)。
このように、理解ができなくても信仰の一歩を踏み出す決断が必要です。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5‐6)」。
2B 結果 15−16
1:15 十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。1:16 そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。
主は、彼らのご自分への信頼に応えてくださいました。人間にはできないことを、ご自身がしてくださいました。その肉体を強めてくださったのです。
このように、私たちが主に忠実であれば、主が守ってくださいます。ダニエルたちのように、すぐにその救いの手が与えられることもあります。けれども、後に救いの御手が伸びることもあります。ヨセフのことを思い出してください。彼はダニエルたちと同じように異国にいました。そして美男子でした。ポティファルの妻が言い寄ります。彼は神を恐れて、その場から逃げました。ところがその良心のゆえに行為に対して、対価は監獄でした。しかも二年間の懲役でした。
パウロが、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(2テモテ3:12)」と言った通りです。けれどもヨセフはその後どうなったでしょうか?パロの前に出て行き、エジプトの総理大臣にしたのです。そして、兄弟たちとも和解することができ、父ヤコブの家族を飢饉から救うために尽力できたのです。時差はありこそすれ、主はヨセフを守ってくださったのです。
そして、たとえそうでなくても私たちには天が約束されています。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:12)」これこそ真の救いです。地上で救われても、かの日における救いに与ることができなければ元も子もありません。
3A 神による知恵 17−21
1:17 神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。1:18 彼らを召し入れるために王が命じておいた日数の終わりになって、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れて来た。1:19 王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。1:20 王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。
三年間の教育プログラムが終わりました。その後、四人は王の前に連れて来られました。なんと、彼らは他の知者たちよりも、十倍もまさっていました。当時のバビロンは、学問が天文学や星占いと深く結びついていたので、ここにあるとおり呪法師、呪文師とありますが、つまりシンク・タンクのような国の指導者の顧問であり、学者集団でした。
その出所を、ダニエル書は明らかにしています。17節「神は・・」ですね。後にネブカデネザルはダニエルに、「聖なる神の霊があなたにあり(4:9)」と言っています。御霊が賜物として彼らに、その能力を与えられたのです。
私たち人間には天賦の才能が与えられています。天才と言われる学者もおり、芸術家、歌手など、初めから備わっている能力があります。けれども、それらと神が与えられる賜物は違います。しばしば教会の中で、「賜物発見セミナー」のようなものが行なわれますが、これは目的を少し誤ると自己発見、自己啓発セミナーとなってしまいます。
御霊が与えてくださる賜物は、純粋に神の働きを行なうことのできるためです。人々の中で自分が高い評価を受け、自分の地位を上げるのに用いられるのではなく、キリストのからだを建て上げるため、また福音宣教の働きをするためのものです。パウロがローマ12章でこう言いました。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。(ローマ12:4-8)」このように「キリストのからだ」が前提なのです。
ダニエルは、2章でネブカデネザルの見た夢の解き明かしを行ないます。それは、単にバビロンの王のために行なったことではありません。神々と呼ばれる偶像ではなく、天に神がおられることを証しするためにその能力を用いました。これは純粋に御霊から来たものです。
そして御霊の賜物は、「みなの益」になるように用いられます。コリント第一12章で、「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。(7節)」とあります。自分の益のためではありません。
以前、ある若い兄弟から、「教会で働けば、どのくらいの給料が出ますか。」との質問を受けました。彼はドラムができるので、礼拝賛美においてドラムを叩いていました。私は答えに困りましたが、「世の中で仕事が見つからなければ、教会ではもっと見つけることはできないでしょう。」と言ったと思います。教会は奉仕をする場であり、受け取る場ではなく与える所です。もちろん牧師や伝道師などの働き人に対しては、彼らが生活することができるために、教会が支える義務はあります(1テモテ5:17‐18)。けれども就職先として教会を求めるのであれば最もふさわしくない所です。
物質的な利益だけではなく、心理的な利益を求める人たちもいます。人々に認められたいために牧会をしたい、教会で活躍したいと願います。そのような教会にいる人々は悲惨です。キリストの弟子となるのではなく、その牧師の弟子とさせられます。キリストの座に自分が着こうとその牧師がしているからです。
ダニエルの場合はどうでしょうか?彼はその能力のゆえに結果的にバビロンにおいて高い地位に着きましたが、けれども自分の同胞、神の民のことを決して忘れませんでした。8章から、彼はユダヤ人のこと、そして聖なる都エルサレムのことについての幻を見ます。そして9章では、彼らのために泣いて悔い改めて祈っています。自分の利益を求めていなかったのです。神の民全体の利益を求めていました。
1:21 ダニエルはクロス王の元年までそこにいた。
ここから私たちは、ダニエル書は列王記第二、歴代誌第二と、エズラ記をつなぐ書物であることを知ります。紀元前586年、ゼデキヤが王であった時にバビロンがエルサレムを破壊しましたが、ペルシヤがバビロンを倒しました。そしてペルシヤの初代王クロスが、ユダヤ人に対してエルサレムに帰還して、神の宮を建てなさいという命令を発布します。エズラ記の最初の部分を後でお読みください。
その時までダニエルはバビロンの町にいました。具体的にはクロス王の第三年まで生きていたことを私たちは知っています。10章以降の幻はクロス王の第三年に与えられたからです(1節)。その間、つまり、ユダヤ人が約束の地から引き抜かれていた間、神はダニエルをご自分の証人に立てて、続けてご自分の働きを行なわれていたのです。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩篇121:4)」ご自分の民は不真実であったけれども、神は真実であられました(ローマ3:3‐4)。
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