ダニエル書 第五回 (11−12章+結論) 「主はすぐに来られる」
3B 目的 − イスラエルの回復 (神が完了させるのは、イスラエルへの約束) 8−12
1C イスラエルの帰還 8−9
2C イスラエルの救出 10−12
1D 神の栄光 10
2D 反キリストの出現 11
1E 北の王と南の王 1−20
1F 背景 1−4
2F 戦い 5−20
2E 荒らす忌むべき者 21−45
1F アンティオコス・エピファネス 21−35
2F ハルマゲドン 36−45
3D 苦難、復活、休み 12
1E 苦難と復活 1−4
2E ひと時、ふた時、半時 5−17
3A 結論
1B 教会の位置付け
1C 神の奥義
1D 御霊の注ぎ
2D 異邦人への救い
3D 引き止める者
2C ダニエル書において
1D 金の像のときのダニエル
2D 69週と70週の中間期
2B 教会の責任
1C 目をさましなさい
2C 学びなさい
3C 祈りなさい
4C マラナタ
本文
3B 目的 − イスラエルの回復 (神が完了させるのは、イスラエルへの約束) 8−12
1C イスラエルの帰還 8−9
2C イスラエルの救出 10−12
1D 神の栄光 10
ダニエル書11章をお開きください。最後になりました。メッセージの題は、「主はすぐに来られる」です。私たちは今、一つの長い幻のところを読んでいます。10章において、この幻を伝えようとした御使いが、ペルシヤの君によって妨げられたところを読みました。そして、これらの御使いが、次はギリシヤの君に戦いに出てきます。私たちがダニエル書で見てきた、異邦人の国々の興亡は、その背後に悪魔につく天使の働きがあったのです。
2D 反キリストの出現 11
そして11章ですが、ここでは、そのギリシヤの君が動かすギリシヤ帝国についての預言を見ることができます。ここは、聖書全体の中で、もっとも明らかなかたちで預言の確かさを表わす部分です。なぜなら、古代ギリシヤ史を学んだ人であれば、この11章がまったく正確に描かれている事を知ることができます。そして思い出してください、私たちはダニエル書8章において、ギリシヤ帝国から、荒らす忌むべき者アンティオコス・エピファネスが登場したことです。彼が反キリストの型であり、11章には、この反キリストの詳細な活動とその最期について描いています。
1E 北の王と南の王 1−20
1F 背景 1−4
・・私はメディヤ人ダリヨスの元年に、彼を強くし、彼を力づけるために立ち上がった。・・
私とは、ダニエルに話しかけている御使いのことです。
今、私は、あなたに真理を示す。見よ。なお三人の王がぺルシヤに起こり、第四の者は、ほかのだれよりも、はるかに富む者となる。この者がその富によって強力になったとき、すべてのものを扇動してギリシヤの国に立ち向かわせる。ひとりの勇敢な王が起こり、大きな権力をもって治め、思いのままにふるまう。しかし、彼が起こったとき、その国は破れ、天の四方に向けて分割される。それは彼の子孫のものにはならず、また、彼が支配したほどの権力もなく、彼の国は根こぎにされて、その子孫以外のものとなる。
ここで御使いは、ギリシヤ帝国が4分割されるまでの預言をしています。ペルシヤ帝国から、クロス王のあとに4人の王が登場します。4人目の王はクセルクセスであり、エステル記に登場する王であり、エステルの夫です。そしてアレキサンダー大王が出てきますが、彼は倒れて4人の総督に領土が分割されました。
2F 戦い 5−20
そして5節から20節までは、4つの分割領のうちのエジプトとシリヤの間にあった戦いについて、述べられています。「南の王」と「北の王」です。実に細かいこれらの預言を一つ一つかみ砕くには、このバイブル・スタディの時間では間に合いません。そこで、この箇所から分かるいくつかの点だけをあげてみたいと思います。
一つ目は、この戦いの勢力についてです。この戦いの勢力についてです。5節から9節までは、南の王、つまり、エジプトのプトレマイオス朝が勢力をふるっていることを見ることができます。5節を読むと、南の王が強くなる。とありますね。そして、10節から20節までは、代わって北の国が優勢になっていることが分かります。そして、北の王が優勢になったまま、21節に入ります。
21節をご覧ください。彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。
彼がアンティオコス・エピファネスです。したがって、1節から20節までには、アンティオコス・エピファネスが登場するまでの、南の国プトレマイオス朝と、北の国セレウコス朝の興亡が描かれています。二つ目は、この戦いが、「麗しい国」イスラエルを巻き込み、イスラエルを攻撃することです。16節をご覧ください。
16節です。これを攻めて来る者は、思うままにふるまう。彼に立ち向かう者はいない。彼は麗しい国にとどまり、彼の手で絶滅しようとする。この麗しい国がイスラエルです。イスラエルは、まさにシリヤとエジプトの中間地点に存在します。彼らが戦うときに、この国は踏みにじられ、攻撃されます。21節のアンティオコス・エピファネスの活動を読むと、その攻撃がさらに激しくなり、ついには、ユダヤ人にとって、「荒らす忌むべきもの」となります。
三つ目は、人間の策略と、高慢についてです。彼らは、政略結婚をさせたりして、相手の国に勝とうとします。6節に、何年かの後、彼らは同盟を結び、和睦をするために南の王の娘が北の王にとつぐが、とありますね。また、17節には、彼は自分の国の総力をあげて攻め入ろうと決意し、まず相手と和睦をし、娘のひとりを与えて、その国を滅ぼそうとする。とあります。
この娘は、あの有名なクレオパトラのことです。そして、彼らは戦争で勝利を得ると、高ぶって、自分の思いのままに攻めたりしています。12節に、南の王の心は高ぶり、とあります。また、16節にも、思うままにふるまう、とあります。そして、このことが極みに達する人物がアンティオコス・エピファネスであり、たくらみと、まやかしと、悪事に満ちた人物であります。
さらに四つ目は、ユダヤ人の一部が、この戦いに交じっていることです。14節に、そのころ、多くの者が南の王に反抗して立ち上がり、あなたの民の暴徒たちもまた、高ぶってその幻を実現させようとするが、失敗する。とありますが、「あなたの民」とはユダヤ人のことです。このことも、アンティオコス・エピファネスが登場したら、背教のユダヤ人が出て来るのを見ることができます。
こうしていくつかの点をあげましたが、これらはみな、アンティオコス・エピファネスの活動に通じる特徴であり、言いかえると、アンティオコス・エピファネスが出て来るための舞台設定をしているのです。ですから、「荒らす憎むべき者」は、大ぜいの意に反して、とつぜん現われる人物ではありません。彼は、荒らす忌むべきことを行なっている人間たちによって、受け入れられ、支持されるのです。私たちが、今の世界の指導者たちを見るときに、なんてこんな人物が指導者になっているのか、と思います。こんなひどいことをする人たちが、なぜ国内で支持されるのか、と言います。しかし、それは違います。その国民が悪くなり、ひどくなっているので、悪い指導者を選んでいるのです。その指導者は国民の代表であり、その国の事情を反映しているのです。国民が不品行に陥っていれば、女性関係に問題がある指導者を選びます。国民が優柔不断であれば、優柔不断な指導者を選びます。ですから、私たちはアンティオコス・エピファネスに引き続く反キリストの姿を見ますが、反キリストは、私たちの意に反して突然現われる人物ではありません。人間がずるがしこく、高慢になり、反ユダヤ主義的になり、神を認めない、そのような腐敗した状態になっているときに反キリストは活躍し、人々に支持されます。
2E 荒らす忌むべき者 21−45
それでは、21節以降を読んでみましょう。「荒らす忌むべき者」アンティオコス・エピファネスの姿と、反キリスト自身の姿を読むことができます。
1F アンティオコス・エピファネス 21−35
彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。
彼は正式に王になりませんでした。デメトリウスという人が正式に王になるはずでしたが、彼はまだ若かったのです。そこでエピファネスはうまく口を言いくるめて、国を堅く握りました。彼は、「卑劣な男」と表現されています。彼は気違い、血迷った男、横柄で狡猾な男、人間のことばで見つからないほど邪悪な者でした。ここから頭に入れていていただきたいことは、反キリストがアンティオコス・エピファネスと同じことをしていくという事です。エピファネスは武力ではなく口によって権勢を増して行きますが、反キリストも武力ではなく、外交や交渉で力を得ていきます。世界は今、「武力行使をするのをやめましょう。外交や交渉でやっていきましょう。」と言って、口によって問題を解決する人物を求めています。十字架につけられたキリストのみが真の平和をもたらすのに、この方を拒んで、政治や外交で平和をもたらす人を探しているのです。反キリストを受け入れる用意はすでに出来あがっています。
洪水のような軍勢も、彼によって一掃され、打ち砕かれ、契約の君主もまた、打ち砕かれる。
契約の君主とは、ユダヤ人の大祭司オニアスのことです。彼はエピファネスによって除外され、その兄弟であるヤソンが大祭司になりました。彼はギリシヤ文化をイスラエルにもたらしたいと願った人物でした。そこでエピファネスとともに協力して、ユダヤ人をギリシヤ人のようにしたのです。思い出せますか、初代教会のときに、ギリシヤ語を話すユダヤ人がヘブル語を話すユダヤ人を訴えましたね(使徒6)。やもめの配給がなおざりにされているとのことでした。これは、ヤソンが取り入れたギリシヤ文化が、いかにユダヤ人に浸透していったかを物語っています。そして、終わりの時のユダヤ人も同じです。イスラエルにいるユダヤ人の90パーセントは無神論者です。したがって、9章27節で読みましたように、多くの者がだまされて、反キリストとと契約を結んでしまうのです。
彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。彼は不意に州の肥沃な地域に侵入し、彼の父たちも、父の父たちもしなかったことを行なう。肥沃な地域とは、エジプトのことです。彼は、そのかすめ奪った物、分捕り物、財宝を、彼らの間で分け合う。彼はたくらみを設けて、要塞を攻めるが、それは、時が来るまでのことである。
彼が勢力を増していく方法は、小国を侵略してそこで得た財宝を他の国々にばらまき、支持者を集めていきました。奪い取っては他の者にばらまき、そして支持を得ていったのです。
彼は勢力と勇気を駆り立て、大軍勢を率いて南の王に立ち向かう。南の王もまた、非常に強い大軍勢を率い、奮い立ってこれと戦う。しかし、彼は抵抗することができなくなる。彼に対してたくらみを設ける者たちがあるからである。
アンティオコス・エピファネスは、第二回目のエジプト遠征を行ないます。
彼のごちそうを食べる者たちが彼を滅ぼし、彼の軍勢は押し流され、多くの者が刺し殺されて倒れる。このふたりの王は、心では悪事を計りながら、一つ食卓につき、まやかしを言うが、成功しない。その終わりは、まだ定めの時にかかっているからだ。
プトレマイオスの者たちが王を裏切って、アンティオコス側につきます。そして、アンティオコスとプトレマイオス・フィロメトールは同じ席について話し合いを持ちますが、お互いに自分たちの利益を探っています。策略的な戦いはまだ続きます。
彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。
アンティオコス・エピファネスは、多くの財宝をエジプトから持ってきました。その間に、ユダヤ人たちの圧力に屈したヤソンが、エピファネスに反逆を企てます。そのため、エピファネスは怒り狂い、ユダヤ人たちを大虐殺し、神殿のなかの燭台や香壇などを奪い取り、自分の国に戻って行きました。イスラエルを荒らし、荒廃させる活動は、ここから始まります。終わりの時の反キリストも同様に、自分が結ばせた契約を自らやぶって、ユダヤ人を迫害し始めます。
定めの時になって、彼は再び南へ攻めて行くが、この二度目は、初めのときのようではない。3度目のエジプト遠征です。キティムの船が彼に立ち向かって来るので、彼は落胆して引き返し、聖なる契約にいきりたち、ほしいままにふるまう。彼は帰って行って、その聖なる契約を捨てた者たちを重く取り立てるようになる。
エピファネスがエジプトに行ったとき、キプロスからローマ軍の船がやってきて、彼の暴利をやめさせました。それで、くやしくてしょうがないエピファネスは、八つ当たりに、ユダヤ人を迫害しました。また背教のユダヤ人たちを重く取りたてます。そのやり方が次に書いています。
彼の軍隊は立ち上がり、聖所ととりでを汚し、常供のささげ物を取り除き、荒らす忌むべきものを据える。
エピファネスはとんでもないことをしました。あるとき、神殿の周りに軍を置きました。うまく、へつらいの言葉を使って、平和のうちに軍を置きました。そしてある安息日、神殿の中に襲いかかり、礼拝をしているユダヤ人を次々と殺していきました。家々を焼き払い、虐殺し、子どもたちを奴隷にしました。そして、ギリシヤ宗教を立法化します。彼は、日々ささげられる牛や羊のいけにえのささげものを止めさせ、祭壇の上に偶像ゼウスを置き、そこに豚を日ささげるようにさせます。これが「荒らす忌むべきもの」です。
でも、おぼえていますか、イエスが、「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならないところに立つのを見たならば」と言われました(マルコ13:14)。これは反キリストにも使われている言葉なのです。反キリストはユダヤ人との契約をやぶって、至聖所の中にはいり、自分こそが神であると言い始めます。そして、自分を拝まない者を次々に殺していきます。
彼の荒らす忌むべきことは、さらに続きます。彼は契約を犯す者たちを巧言をもって堕落させるが、自分の神を知る人たちは、堅く立って事を行なう。
エピファネスは、この偶像ゼウスを拝まない者を殺すか、堕落させました。堕落させるとは、今でいう、「乱交パーティー」に無理やり参加させることです。バアルの神々の前で、急性アル中になるほど酒を飲ませ、不品行をさせて、敬虔なユダヤ人たちをめちゃくちゃにしました。
民の中の思慮深い人たちは、多くの人を悟らせる。彼らは、長い間、剣にかかり、火に焼かれ、とりことなり、かすめ奪われて倒れる。彼らが倒れるとき、彼らへの助けは少ないが、多くの人は、巧言を使って思慮深い人につく。
ここに、有名な「ユダヤ人の反乱」があります。今は12月25日にハヌカーとして祝われているものです。このまま行けばユダヤ人が全滅してしまうと思ったユダ・マカベヤは、あるとき偶像に豚をささげるユダヤ人を剣で殺しました。そして、神のために戦う勇士たちを集めて、お粗末な武器によって奇跡的にギリシヤ国に勝利していきます。彼らは宮を取り戻し、常供のささげものを再開することができました。
思慮深い人のうちのある者は、終わりの時までに彼らを練り、清め、白くするために倒れるが、それは、定めの時がまだ来ないからである。
こうした苦難をとおして、敬虔なユダヤ人たちは神への信頼を増し加えました。それで、「練り、清め、白くするために倒れる」と書かれています。これもまた、終わりの時に起こることです。ユダヤ人は、大患難時代において、自分たちが反キリストにだまされたことに気づきます。そして、今まで頼りにしていた、ユダヤ人として誇っていたものを捨てて、メシヤに救いを求め始めるのです。練られ、清められるのです。反キリストが正体を明らかにしてから、彼らは、荒野や山々に逃げていきます。ヨルダンのボツラ、あるいはギリシヤ語でペテラということろに逃げて行く、と聖書では預言されています。そこにいて、エリヤが烏によって奇跡的に養われたように、彼らも3年半の間、養われることになっています。しかし、世界中から軍隊が来ます。その軍隊が、ボツラにいるユダヤ人たちを抹殺しようとします。そのときです、私たちの主イエス・キリストが天から来られて、彼らのために戦ってくださるのです。そこでユダヤ人に、御霊が降り注ぎ、彼らは、自分の先祖が突き刺した、あのイエスがメシヤであると気づき、悔い改めて、新生するのです。ですから、練り、清められ、白くされることは、エピファネスのときに起こっただけではなく、終わりの時にも起こります。
2F ハルマゲドン 36−45
そして36節です。エピファネスの時代から一気に、将来の出来事へと飛んでいます。えっ、なんで急に飛躍するの?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。36節には、「この王は」という主語なので、同じくアンティオコス・エピファネスのように見えます。けれども、この後の出来事を読んでみると、今まで文字通り、正確に成就していたのに、何ら成就しているものがないのです。歴史の中に、これから読む出来事と合致するものがありません。ということは、これから先のことなのです。さらに、他の箇所で反キリストとして述べられているものと、ここでの箇所がぴったりと合致します。テサロニケ人への手紙第二の3章がその代表的な箇所です。したがって、私たちは、これから始まる反キリストの活動を読んでいきます。
まず、反キリストの特徴が書かれています。この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。
彼は自分を神とします。どのような偶像も拝まず、自分自身を神とします。「女たちの慕うもの」とありますが、これはユダヤ人の女たちが慕うもの、つまりメシヤのことです。ユダヤ人の女性は、自分の胎からメシヤが誕生することを願って、多くの人が産まれてきた赤ちゃんに「イエス」と名づけました。けれども、反キリストはメシヤに心を留めることはしません。反キリストがここまで自分を高めるのには、理由があります。黙示録13章を見ると、こう書いてあります。「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。(13:1-2)」獣である反キリストに、竜すなわち悪魔が、自分の力と位と大きな権威とを与えます。つまり反キリストは、悪魔が肉体を宿してやってきた人物であり、だから、ここまで自分を高めるのです。私たちの社会が、自分を高めることを尊ぶようにしているのをご存知でしょうか。「セルフ・イメージが悪いから、問題が起こるのだ。もっと自分を磨いて、自分を引き上げなさい。」という声は、なんと教会の中からも聞こえてくるのです。これは反キリストの霊です。
反キリストの特徴の次に、彼の取る政策について書かれています。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。
この「とりで」とは武力の神、軍事力のことです。これも、世の指導者が求めるものです。軍事力によって、国の威信を高めようとします。今、日本は新ガイドラインによって、日本の軍事力を引き上げ、海外にも派兵できるようにしています。そして、金や銀や宝石、宝物とありますが、彼をかしらとした商業主義がはびこるようです。今の社会がそうですね。経済がグローバル化し世界的に商業化、拝金化が進んでいます。
彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。
彼は、宗教を用いて、自分の位を高めようとします。したがって、終わりの時は、世界政府、世界経済、世界宗教が出来上がります。この反キリストをかしらとした、統一された宗教が出来あがるのです。これも、私たちは今の時流として見ます。エキュメニカル運動です。プロテスタントとカトリックが一つにならなければいけない。キリスト教と仏教、イスラム教は一つになるべきだ。こうして運動が起こっていますが、反キリストによってそれが実現します。この世界的な宗教と、世界的な商業主義については、黙示録17、18章に出て来る大淫婦バビロンです。
このように、彼は世界を自分の手の中に入れますが、突然、彼を攻めてくる者がいます。ここからが、有名な「ハルマゲドンの戦い」です。
終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。
エジプトとシリヤが、反キリストに戦いをしかけてきます。なぜなら、反キリストは、イスラエルと契約を結んでいるからです。エジプトとシリヤが、西側勢力として栄える反キリストを攻め始めます。
彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。
反キリストは、このときに及んでイスラエルと周辺諸国を攻めます。けれども、エドムとモアブとアモン、つまりヨルダンは、彼の手から逃げます。なぜなら、そこで神が、ユダヤ人たちを守り、養っていてくださっているからです。多くのユダヤ人は、ボツラあるいはぺトラに身を隠しています。
彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。彼はエジプトを倒しました。彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。
つき従う、とありますが、これは逆で、「対抗する」ということです。リビアとエチオピアが反キリストに対抗します。したがって、この戦争は、西側諸国とアラブ諸国の戦いだけではなく、アフリカ諸国を巻き込んだ戦いに発展するのです。
しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くの者を絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。
東、つまりインド、中国などのアジアの地域から攻めてきます。黙示録には、約二億人の軍がかれたユーフラテス川を渡ってくると記されています。そして北はおそらくロシアでしょう。したがって、この戦いは、西側諸国、アラブ諸国、そしてアジア諸国とロシアを交えた、世界大戦になるのです。
彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。
本営の天幕は、エルサレムに張られます。彼はエルサレムに戻ってきます。しかし、このときには、私たちの主イエス・キリストが、天から来られています。黙示録19章には、このすばらしいイエスの再臨の姿が描かれています。世界中の軍隊がイスラエルに集まっています。ものすごい数の軍隊です。しかし、イエスは白い馬に乗っておられ、頭には冠をかぶり、白い衣は真っ赤になっています。イエスによって殺された軍隊たちの血です。イエスの武器はただ一つ、ご自分のことばです。さまざまな人をいやされた、あのことば。また、「ラザロよ。墓から出てきなさい!」と叫ばれて、死人を生きかえらせたそのことばは、今、最新兵器を持っている巨大な軍隊をこなごなにし、滅ぼすために用いられています。そして、あの反キリストは、イエスのみことばによって殺されます。最後は、火と硫黄の池です。ダニエル書7章11節でも見ました。
イエスは、オリーブ山の上に立たれます。そして大きな地殻変動が起こって、オリーブ山は大きな谷になります。神殿が立てられます。その神殿から水が湧き出て、大きな川となり東は死海に流れ、西は地中海に流れます。イエスは、王の王、主の主となられました。反キリストは、地獄の火の池に投げ込まれました。
3D 苦難、復活、休み 12
そして12章も、この幻が続きます。
1E 苦難と復活 1−4
その時、反キリストがエルサレムに本営を張るときです。あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。
10章に出てきました。イスラエルを守る使命が与えられているミカエルが立ちあがります。この国々の戦いは、まだ天における戦いとつながっているのです。
国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
この苦難について、イエスも話されました。「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。(マルコ13:19)」ユダヤ人にとって、もっとも苦しい時がおとずれます。エレミヤ書には、これが「ヤコブの苦難」と述べられています。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(30:7)」彼らは救われます。ものすごい苦しみをとおるのですが、救われます。これで、ユダヤ人が今まで3千年以上も苦しんできたあらゆる迫害は終了するのです。
地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
大患難の最後に、復活も約束されています。二種類の復活について述べられていますが、黙示録では、「第一の復活」と「第二の復活」に分けられています。第一の復活は、イエスの時から始まりました。イエスが復活の初穂であります。その次に、旧約の聖徒たちが復活して、天に引き上げられました。その次に、キリストを信じて死んでいった人も復活します。キリストが天から来られるとき、その死んでいった人が最初に復活し、その次に生きている私たちが一瞬のうちに変えられて、復活のからだを持ちます。そしてイエスに空中でお会いするのです。ですから、教会は、大患難が起こる前にみな復活するのです。このダニエル書12章2節の復活は、残された人々です。つまり、大患難時代にイエスを信じて殉教する人々のことです。この聖徒たちが、大患難の最後に復活して、第一の復活は終了します。永遠のいのちに至る復活です。ところが、キリストを信じないで死んだ人たちは、黙示録20章によると、千年経ってから復活します。白い大きな御座の前に連れて行かれて、行ないに応じてさばかれて、火と硫黄の池に投げ込まれます。ですから、復活は、永遠のいのちへの復活と永遠の忌みへの復活の二種類があるのです。
思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
これは、キリストを信じた者たちに対する、神からの報いです。大空のように輝くとあります。イエスは言われました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21)」世の誉れはすぐに過ぎ去ります。しかし、私たちが主のために行なった労苦は、このように永遠に残るのです。地上に富を蓄えるのでなく、天上にたくわえなさい、と主は言われました。
ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。
これで、この御使いのダニエルへの長い語りかけは終わりますが、最後に、「これは秘めておき、この書を封じておけ」とあります。こんなに示してくれたのに、最後に「封じておけ」とは殺生な!と叫びたくなりますが、理由が書かれています。「終わりの時まで」とありますから、まだ終わりの時ではなかったのです。終わりの時には知識が増し加わり、多くの人が探し回る、とあります。ここで黙示録22章を開いてください。聖書の最後のページです。22章の10節です。「この預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」まったく逆の命令が書かれていますね。黙示録が書かれたときには、ダニエル書はすでに開かれた書物となっていたのです。さらに、私たちには、もっと知識が増し加わる出来事を、今世紀見ました。イスラエル国の誕生です。ダニエル書は、このようにイスラエルの民について、エルサレムの町について書かれていましたが、紀元70年にユダヤ人が離散してから、この書物は人々に無関係なもののように見えました。教会は、自分たち教会がイスラエルに取って代わったのだ、と言って、イスラエルを過去のものとしてしまいました。しかし、今世紀になって奇蹟が起こったのです。聖書の至るところに記されている、ユダヤ人が集められる預言、そして大患難の舞台となるエルサレムの町、これらがみな、私たちの目の前にあります。そこで私たちは、今この預言について知識を増そうと探し回っているのです。今は終わりの時です。ダニエル書の預言がほとんど成就しようとしています。
2E ひと時、ふた時、半時 5−13
私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
これは、10章に登場したイエス・キリストであります。
すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。
イエスが水の上を歩かれたのは、ガリラヤ湖が最初ではなかったようです。水の上にいらっしゃいます。
彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」
天に向けて上げ、誓っておられます。つまり、確実に起こる、ということです。ひと時とふた時と半時です。つまり3年半です。これが、聖なる民、つまりユダヤ人が砕かれて、へりくだってメシヤを求める期間であります。大患難の期間であります。
私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」
ダニエルは、もう一度、聞きました。彼がまだ、ペルシヤ帝国にいることを思い出してください。これから同胞の民がイスラエルに帰って、その苦しみが続くのはどのくらいなのか知りたかったのです。
彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。」
そうですね。大患難の時は、アンティオコス・エピファネスの時代のときと同じように、背教のユダヤ人とメシヤを求める残された民に分かれます。
常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
不思議な数字が二つ出てきました。3年半は、バビロンの暦で1260日ですから、1290日は30日多いことになります。そして1335日はさらに45日多いことになります。これはどういうことでしょうか。まず1290日ですが、考えられるのは、イエスが地上に来られてから、世界の国々を集めてさばきを行なわれます。マタイ25章31節以降に、イエスが羊と山羊に分けられる個所が出て来ます。そこでは、「わたしの兄弟たち」すなわち、ユダヤ人たちにどのような待遇を取ったかでさばかれて、羊は御国の中に入れられて、山羊は地獄に送り込まれます。ですから、ハルマゲドンで生き残ったとしても、キリストを受け入れず、ユダヤ人を迫害するのであれば、せっかくハルマゲドンを生き残っても地獄行きです。お笑い番組の中で、ハルマゲドンで生き残るためにシェルターを作っているコンビがいますが、それがいかに不毛であるかが分かります。生き残りたかったら、主イエスを信じれば良いのです。神の怒りから救ってくださるイエスを、自分の心に受け入れれば良いのです。そして、1290日のほうですが、これはおそらく小羊の婚宴の期間としての45日間であろうと思われます。イエスを信じない者はさばかれますが、イエスを信じて神の国に入るものたちはみな、イエスを囲んで盛大な祝会に参加します。イエスは言われました。「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。(マタイ8:11)」すばらしいですね。新しい時代、新しい国における幕開けは、盛大な祝宴によって始まるのです。
そして最後です。あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。
ダニエルは、終わりの時に割り当ての地につきます。神がアブラハムに約束してくださった約束の地は、ナイル川からユーフラテスまでの大きな領域はみな、イスラエルのものとなります。そして、12部族に割り当てられるのですが、ダニエルは、終わりの時、その割り当ての地に立つのです。なんと慰めにとんだ言葉でしょうか。ダニエルは、その生涯のほとんどを、異邦の国で過ごし、エルサレムが荒廃していることを嘆き悲しんで、罪を悔い改めつつ生活してきました。今、ここで、割り当ての地につく、と約束されています。ダニエルは90を越えており、もう間もなく眠りにつきますが、最後に主から深い慰めのことばをいただきました。私たちも天に召されるとき、年老いたとき、主から慰めのことばをいただきたいですね。これでダニエル書は終わりました。
3A 結論
1B 教会の位置付け
そして、ところで、私たちはまだ取り扱っていない話題があります。「では、私たちクリスチャンは、この預言の中でどこにいるの?」と言うことです。そうですね、私たちは今まで、異邦人の国とイスラエルの民についてのことは取り扱いましたが、クリスチャンについては取り扱われているのを見ませんでした。せっかく、こうして春のキャンプに来たのに、自分たちと直接関わりのある話しを聞くことができなかった、ということになってしまいます。そこで今、ご披露したいと思います。
ダニエル書9章をお開きください。9章の26節をご覧ください。ここは、私たちの主イエス・キリストが十字架につけられた預言であることを学びました。油注がれた者が断たれました。これはなぜかというと、ユダヤ人の不信仰であることはご存知だと思います。使徒ヨハネは、「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1:11)」と言いました。ユダヤ人のためのメシヤであり、ユダヤ人の王として来られたのに、彼らは受け入れませんでした。しかし、イエスは、3日目によみがえられて、40日後に天に昇られて、10日ぐらいたってから聖霊が弟子たちに注がれました。弟子たちが、聖霊を受ける前に、「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。(使徒1:7)」と聞いたことを思い出してください。弟子たちは、このダニエル書に書かれているように、70週目がすぐに始まると思っていたのです。けれども、イエスは言われました。「エルサレムを離れないで、父の約束を待ち望みなさい。聖霊があなたがたの上に臨まれます。そして、地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言われました。そこでエルサレムにとどまって、みんないっしょになって祈っていたのです。そして、10日ぐらいたって、ペンテコステの日に聖霊が下って、みなが聖霊に満たされたのです。
そのときのペテロの説教を思い出してください。使徒行伝2章です。使徒行伝2章の16節からお読みします。「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』」なんて書いてありますか、「終わりの日に、霊を注ぐ。」という約束です。今、聖霊が注がれました。このときから終わりが始まっていたのです。続けて読みましょう。「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」なんと、この預言は大患難時代の最後のところまで続きます。なんと、終わりの日は、聖霊によって、ペンテコステの日から、現在に至って、大患難時代の最後の時まで引き伸ばされているのです。でもなぜでしょうか。なぜ引き伸ばされているのでしょうか。第二ペテロの手紙3章をお開きください(新改訳425頁)。3章の9節です。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(ペテロ第二3:9)」主はあわれみ深い方であり、人々が悔い改めて、救いにあずかるのを待って、ご自分が来られるのを控えておられるのです。とくに、聖霊が弟子たちにくだり、異邦人にも救いが及んだのです。神は今、聖霊によって、なるべく多くの人を救っておられます。
聖書では、異邦人がイスラエルのメシヤによって救われること、ユダヤ人だけではなく異邦人も救いにあずかる事を、「神の奥義」と呼んでいます。パウロはエペソ書でこう言いました。3章の5節です。「この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。」知らされていなかったのです。だからダニエルにも知らされておらず、その書は封じられていました。黙示録が開かれていたのは、すでにこの奥義が明らかにされたからです。続けて読みます。「その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。」異邦人も、イスラエルの約束を相続する者となりました。これが教会です。ですから、70週目が来ていないのは、69週目にキリストが断たれて、代わりに聖霊が注がれて、異邦人にも救いが与えられているからです。福音が全世界に宣べ伝えられ、アブラハムに約束された、「すべての民が祝福され」、神がお定めになった選びの民をみなお救いになってから、世を終わらせてくださいます。
けれども、聖霊が注がれたときから終わりの時と呼ばれていたのには、理由があります。今度はヨハネの第一の手紙2章18節をお開きください(新改訳427頁)。「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。(ヨハネ第一2:18)」ヨハネがこの手紙を書いた紀元90年のころから、すでに反キリストが現われていると言っています。実は、このダニエル書の70週目を始めようとして、反キリストの霊、つまり悪魔の霊は、ずっとその時を待っているのです。それをすることができていないのは、聖霊がこの地上で働いてくださっているからです。今度は第二テサロニケ人への手紙2章をお開きください(新改訳370頁)。2章には、反キリストの働きがことこまかく記されています。でも今は6節と7節だけ読みます。「あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。」この引き止めている者がご聖霊です。聖霊が反キリストが活動するのを、「ちょっと待った!」と言って引き止めておられ、それで反キリストが活動できていません。そのため、使徒行伝の時代から終わりの日が続いているのですが、聖霊が引き止めてくださっているので、まだイスラエルと契約を結ぶことができていないのです。その間に、聖霊は、世界の国々の民をひとりでも多く救いに導こうとされています。
ですから、いつ70週目が始まってもおかしくないのです。神が、救いにお定めになっている人がすべて救われたら、ご聖霊をこの地上から取り除かれます。その時、私たち教会は、地上から取り除かれます。携挙ですね。私たち教会が、キリストが来られるときに、天にまで引き上げられます。私たちは主にお会いし、主とともにいることになるのですが、地上では、ご聖霊の引き止める働きがなくなっているので、ここで反キリストが活動を開始するのです。したがって、私たちは、ダニエル9章、69週と70週目の間にいるのです。私たちがいるので、この時計が進んでいないのです。ダニエル書3章で、ヘブル人3人が燃える火の炉に投げ入れられる話があった事を思い出してください。そこで、全身金の像は反キリストが立てる像であり、炉の中に投げ入れられるユダヤ人は、大患難時代のユダヤ人である事を説明させていただきました。そこでダニエルは、どこにいたのでしょうか。ダニエルは、決して像にひれ伏さないはずなので、そこにいなかった、と言った方が適切です。つまり、ダニエルは、私たちクリスチャンの姿を指し示しています。反キリストが活躍する、その恐ろしい場面に私たちはおらず、天に住んでいることが分かります。
2B 教会の責任
それでは、私たちは、終わりの日について何をしなければならないでしょうか?イエスは私たちクリスチャンに、さまざまな勧めをしてくださっています。まず、「目をさまして、用意していなさい。(マタイ24:42,13)」と言われました。この日が来るのを、イエスが再び来られる日を、いつも意識していなければなりません。これが、私たちクリスチャンの毎日の生活で中心的な関心事となり、イエスが今年来るかもしれない、今日来るかもしれないと思っているのです。ヨハネは、「キリストが現われる希望をいだく者はみな、自分を清くします。(Tヨハネ3:3参照)」と言いました。またイエスは、「主人はまだまだ帰るまい」と言っているしもべが、酒を飲み、肉に従って生きることを話しておられます。私たちが、キリストが来られることから目をそらすと、世の中のものが目に入ってきます。そうすると、私たちは世の汚れに引きずり込まれて、肉の行ないをしてしまうようになります。だから、キリストの再臨を見つづける事は大切なのです。終わりの時代は、ますます世の誘惑が強くなります。世のますます暗くなります。キリストを見つづけるのみ、私たちは清く保つことができるのです。
そして、イエスは、「油断せずに祈っていなさい。」と言われました。そうですね、いつも目をさましているためには、油断せずに祈っている必要があります。ルカの福音書には、「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(21:36)」と書かれています。つまり、これから来る大患難をのがれることのできるように、油断しないで祈りなさい、と言うことです。さらに、イエスは、「神の国は近いと知りなさい。(ルカ21:31)」と言われました。いちじくの木から芽が出ると、夏の近いことがわかります。同じように、主が語ってくださった世の終わりの前兆があるかどうか知って、神の国が近いことを知りなさい、と言われているのです。ですから、私たちは、この世で起こっていることに無関心であってはいけなのです。自分のことだけを考えるのではなく、この世を見張って、神がおっしゃったとおりになっているかどうか確かめる必要があります。これからも、終末について学ぶ必要があります。みなさんが毎日の生活に戻っても、学びつづけてください。聖書を学んで、主の再臨が近いことを知ってください。
初代教会のクリスチャンは、こうお互いにあいさつしました。「マラナタ。」主よ、来てください、とあいさつしました。お祈りしましょう。
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