1A 苦難からの救い 1−4
2A 終わりまでの忍耐 5−13
1B 聖なる民の力 5−7
2B 悟り 8−13
本文
ダニエル書12章を開いてください、とうとう最後の章になりました。ここでのメッセージ題は「思慮深い人々」です。
12章は10章から始まった大きないくさについての幻の続きです。ダニエルが断食をして祈っている時、御使いが現われてこれから起こるいくさについて明らかにしました。11章では、ペルシヤの王からギリシヤの王に移り、その国が四つに分割され、そのうち南の王と北の王が戦いを交えました。そして、その戦いの中で北から現われるアンティオコス・エピファネスという王が荒らす忌むべきことを行なうことを見ました。けれども最後、36節からは終わりの日に現われる王、反キリストについての預言になります。彼が自分を神とし、そして世界を治める王となり、それから世界大戦が始まります。
その最終戦争の最中に、ダニエルの民、つまりユダヤ人たちがどうなるのかについて、御使いは明らかにします。
1A 苦難からの救い 1−4
12:1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。
「その時」とは、11章の最後に出てきた反キリストを中心とする最終戦争のことです。その時に、「あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる」とあります。10章の最後で御使いが教えたことを思い出してください。21節を読みます。「しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。」とあります。
ミカエルがイスラエルの君であり、イスラエルのために戦う天使長であり、彼が世の終わりの時に、苦難の中にいるユダヤ人のために他の天の軍勢と戦うのです。このことは、使徒ヨハネも後に同じ啓示を受けます。黙示録12章で、女であるイスラエルが竜、すなわち悪魔に追われるからです。彼女が荒野に逃げて1260日の間養われる、とあります。
その幻の中で、天における戦いがあります。ミカエルとその使いたちが、竜とその使いたちと戦ったが、竜が勝つことができず、天に持ち場を失って地上に投げ落とされるのです。それで竜が自分の終わりが近いことを知って暴れるのです。このようにミカエルがイスラエルの救いのために戦うのです。
それが「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時」だと言っています。大患難は、この地上に不義と悪に対する神の怒りを下す期間でありますが、神の選びの民イスラエルのとっては最も大きな試練の時となります。その最大の試練を通ることによって、彼らの中で救われる人たちが起こされるのです。
イエス様がオリーブ山においてお話しになったのはこのことです。ダニエルが預言したように「荒らす憎むべき者」が聖所に立つから、ユダにいる人々は山へ逃げなさいと言われました。そして、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:21)」と言われました。それから、選ばれた民についてお話になられます。ユダヤ人の中で残された民が救いにあずかるのです。
エレミヤもこのことを預言して、「ヤコブへの苦難」であると表現しました。「主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。まことに主はこう仰せられる。『おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(30:4-7)」ものすごい恐怖を味わいますが、やはりそこから救われると約束してくださっているのです。
私たちが、人間に対する神の救いのご計画の中でイスラエルを認めることはとても大切です。神が初めにイスラエルを選ばれて、ご自分の民にされました。そしてイスラエルからメシヤを与え、そして全人類に救いをもたらすご計画なのです。それゆえユダヤ人は今に限ったことではなく、初めから、自分の滅ぼされるという危機意識を持たなければいけませんでした。出エジプト記にある、エジプトにおけるパロの仕打ちにそれが表れています。悪魔が、神の救いのご計画をその時から阻もうとしていたのです。
そして神の不思議な摂理の中で、キリストご自身をユダヤ人の多くが拒むということをお許しになりました。それは彼らのかたくなさによって、かえって異邦人に救いの手を伸ばすためでした。私たちは今、その時代にいます。それゆえユダヤ人のメシヤであられるイエスが、世界のあらゆる民族の中でほめたたえられているのです。
けれども、それには時があるのです。神はご自分の救いを完成に至らせるに当たって、初めに選ばれたイスラエルを顧みられます。それまでは異邦人に対して多くの魂の収穫を行なわれましたが、それが完成するにあたり、今度はイスラエルをも救うとお決めになったのです。その救いは、大患難というとてつもない試練を通して与えられる、というものなのです。
その試練にあっている時にミカエルによって守られて、けれども反キリストを中心とする国々の軍隊によって絶体絶命の危機に陥る時に、再臨の主が来られます。そしてそれら国々の軍隊に対して戦われます。その時に彼らは気づきます、自分たちを救われる方が、かつて先祖たちが突き刺したイエスであることを。ゼカリヤがこう預言しました。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(12:10)」
ゆえに、私たちは神の救いのご計画の中で、特別な時代に生かされているのです。なぜなら、すでにイスラエルが国として建てられているからです。世界全体がイスラエルを取り巻く環境によって動かされています。その中で世界中に福音宣教が急速に進んでいます。私たちは目を覚まして祈っているでしょうか?主が来られること、また人々の魂の救いのために祈っているでしょうか?
そして「しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる」とあります。「あの書」とは、10章の最後に出てきた「真理の書」です。ユダヤ人がすべて救われるのではなく、この真理の書に記されている者のみが救われます。エゼキエル書20章にて、神は「わたしにそむく反逆者を、えり分ける。(38節)」と言われています。心砕かれて、へりくだり、神の救いの真理を悟る者のみが救いにあずかることができるのです。
神に書物があることを知るのはとても大切です。モーセが、金の子牛を拝んだイスラエルの民のために執り成しをしたとき、こう祈りました。「今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32:32)」神の書物に名前がなければ救われることはできません。
そして黙示録には、何度も「いのちの書」についての約束があります。サルデスにある教会に対して、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してない。(3:5)」とイエス様は約束されました。そしてイエス様は、この書物に自分の名が書き記されていることを最大関心事にしなさい、ということを言われました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」この救いを確信しているでしょうか?
12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
体の復活の約束です。「眠っている」とありますが、これは実際に眠っていることではなく、復活の希望を持っているので死んでいても、それは一時的であることを意味しています。イエス様が「わたしは彼(ラザロ)を眠りからさましに行くのです。」と言われて、弟子たちが「眠っているのなら、助かるでしょう。」と言ったら、はっきりと「ラザロは死んだのです。」と言われました(ヨハネ11:11‐14)。信仰者にとって死は恐ろしいものではありません。なぜなら、また生き返るからです。
けれども信仰者のみがよみがえるのではありません。信仰者がよみがえる時は「永遠のいのち」すなわち神の国の至福にあずかりますが、不信者もよみがえります。「そしりと永遠の忌み」によみがえるとあります。黙示録には、前者を「第一の復活」を呼んでいます。だから後者は「第二の復活」と呼ぶことができるでしょう。
黙示録20章を開いてください。ここには主が再臨されて、悪魔が底知れぬ所で鎖につながれ、そこから人々を生き返らせることを語っています。4節から6節までを読みます。「また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」
4節にある「多くの座」そして「さばきを行なう権威」は教会に対して与えられるものです。ラオデキヤにある教会に対してイエス様は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。(3:21)」と約束されています。教会はすでに携挙によって天にいます。既に復活しています。けれども大患難において殉教した人々が患難期の終わりに、主が地上に来られた時に復活します。これによって第一の復活が完了するのです。
第一の復活は、イエス様の復活によって始まりました。「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(1コリント15:20)」そして旧約時代に神を信じて死んだ者たちが、よみがえっています。「また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。(マタイ27:52-53)」
エペソ書4章には、旧約の聖徒たちがキリストとともに天に昇ったことが書かれています。「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』・・この『上られた。』ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。(8-9節)」「多くの捕虜」とは、旧約時代に陰府に下った聖徒たちのことです。乞食のラザロが死んで、また金持ちが死んでハデスに下った時のことを思い出してください。二つの区域がありました。「アブラハムのふところ」と呼ばれる慰めの所と金持ちがいる苦しみの所です。この「アブラハムのふところ」にいる人々が、キリストの十字架の贖いの完成によって天に昇ることができるようになったのです。
そして教会が携挙される時に、教会時代に死んでいった人々が復活します。主が空中にまで降りて来られるのですが、まだ生きている信者たちもいるのです。その人たちは、かつてのエノクのように生きたまま、その姿が復活の体、栄光の体に変えられて引き上げられます。けれどもその前に、これまでキリストにあって死んだ人が復活して、彼らとともに引き上げられることを使徒パウロは教えています(1テサロニケ4:14‐17)。
そして先ほど読んだ、患難時代に殉教した聖徒たちがよみがえることによって第一の復活が完成します。
不信者のための復活は、黙示録20章に書かれている最後の審判にあります。
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(11-15節)
「いのちの書」に名が書き記されていない人々ですね、先ほどお話したとおり自分の名が書き記されているのかどうかが最も大事なのです。そして彼らは火の池に投げ込まれます。これが、御使いがダニエルに伝えた「そしりと永遠の忌み」であります。
12:3 思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。
復活した聖徒たちに対する報いであります。今日の説教題にした「思慮深い人々」ですが、ここに出てきます。これは分別がある、賢い、見極めができるという意味です。11章にて、アンティオコス・エピファネスによる激しい迫害の中でも、神に従い続けた人々を「民の中の思慮深い人々(33節)」と御使いは呼びました。洪水のようなこの世の誘惑や試練に対して、それでも神を知っている人々をこのように呼んでいます。
終わりの日には、多くのユダヤ人が反キリストと堅い契約を結ぶのですが、黙示録11章に出てくる二人の証人は文字通り火を噴いて預言をしました。その邪悪さを暴いたのです。そして、7章に出てくる14万4千人のイスラエル人も、獣による印を受けませんでした。彼らの思慮深さによって、他のイスラエル人も悟る人々が現われ(11:13)、異邦人の中にも救いを受ける人々が出てきます。
このような働きをした人々は、復活した時に豊かな報いを受けます。「大空の輝きのように輝く」とあります。星の輝きはすばらしいものです。チャック・スミス牧師は世の栄えとキリスト者の栄えを、独立記念日の花火に例えました。アメリカでは7月4日の独立記念日に花火を打ち上げるのですが、私たちは夏の花火大会を思い出すとよいかと思います。花火は本当に華やかです。けれども二時間ぐらいしたら終わり、その輝きは過ぎ去ります。しかしその輝きが過ぎ去った後に、夜空にはいつもと変わりない、星の輝きが見えるのです。
私たちキリスト者の輝きは、この世においてはその輝きによってかき消されています。けれども、世の輝きはすぐに過ぎ去ります。その移り変わる世において、なおも変わらずに輝いているのがキリスト者の栄光なのです。そして神の国においてはいつまでも続く栄光なのです。
そしてここに、伝道者また宣教者に対するすばらしい約束があります。「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」自分が正しく生きるだけでなく、他の人々を悟らせて、正しい道へと導いた人々は、なおのこと輝くという約束です。エピファネスによる激しい迫害、徹底的なギリシヤ化の中で、マカバイ家の人々が立ち上がって、彼らの勇敢な戦いのゆえに多くの人が感化されました。同じように、どんな暗い世においても先頭に立って人々にキリストの光を見せて、影響を与える人々には大きな報いが用意されているのです。
12:4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」
ダニエル書において、御使いは何度も「これを秘めておけ」「封じておけ」とダニエルに命じています。なぜなら「終わりの時」に関わることであり、「多くの日の後(8:26)」のことだからということです。でもこの啓示を受けたダニエルは非常にもどかしいです。この後も二度、いったいこれはどうなるのかと尋ねています。
ここに「多くの者は知識を増そうと探り回ろう」とありますが、他の訳では少し違います。口語訳では、「多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう。」とあります。多くの人が探り調べます。そして知識が増します。歴史が進行するにつれ、そして終わりの日に近づくにつれ知識が増します。そして、ダニエル書に書かれていることの意味を悟ることができます。
その悟りを与える決定的な出来事が、メシヤであられるイエスが来られた時です。福音書そして使徒行伝には、この幸いが数多く書かれています。イエス様が弟子たちに言われました。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。(マタイ13:16-17)」そしてペテロも、「この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。(1ペテロ1:10-11)」と言っています。キリストが来られたので、神の啓示が完成したのです。
だから黙示録は「イエス・キリストの啓示」なのです。「黙示」という日本語訳は大きな誤解を与えています。「黙示」ではなく「啓示」なのです。これまで隠されていたものが明らかにされ、はっきりと開示されたのです。
ですから黙示録において、どこにもこの書物が封じられているとはありません。唯一10章4節で、天で七つの雷が言ったことは封じなさい、と命じられているだけです。七つの封印の巻き物は、一つ一つ解かれました。そして10章に出てくる力強い御使いは、手に開かれた巻き物を持っていました(2節)。ですから私たちには知識が増し加えられており、十分に悟ることができるという幸いを得ているのです。
2A 終わりまでの忍耐 5−13
1B 聖なる民の力 5−7
12:5 私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。12:6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」
11章から始まった「大きないくさ」についての幻は一通り終わりました。そしてダニエルが見上げると、そこは川でした。二人の御使いが両岸に立っており、そして川の水の家に亜麻布の衣を来た人がいると言います。おそらく10章に出てきた御使いでしょう。10章の学びの時に話しましたが、ダニエルに現われた初めの天使はイエス・キリストご自身であられ、そして複数の御使いが彼に語りかけた、と話しました。ここの「亜麻布の衣を着た人」がイエス様で、そして他に語りかけた御使いがこの二人であると考えられます。
12:7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」
天に手を上げるのは誓いを立てる行為です。新改訳聖書で、申命記32章40節に「わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。』」とあります。その直訳が「天を手に上げて」です。神ご自身が天に手を上げておられます。ご自分に誓っておられるわけですが、ここでもイエス・キリストであろうと考えられる方が誓っています。
だからこれは必ず起こることです。「ひと時とふた時と半時」です。すでにダニエル書7章でこの期間が出てきました。「聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。(25節)」とあります。これが9章27節には、第七十週目の後半の「半週」なのです。三年半という期間です。そして黙示録にも数多く出てきます。当時は一年を360日にしていましたが、ある時は1260日であり、またある時は42ヶ月でした。この三年半という期間を神はご自分に誓って定めておられるのです。
反キリストの手にゆだねられて、激しい迫害を受けるその大患難の時が、ここ7節では「聖なる民の勢力を打ち砕く」とあります。「勢力」というよりも単に「力」です。新共同訳では「聖なる民の力が全く打ち砕かれると」と訳されています。
この「力」は、彼らの生きようとする力です。彼らの肉の力です。自分たちの行ないによって義と認められようとする力です。律法の行ないによって生きようとする力です。パウロは、ローマ人への手紙の中で上手に論じました。なぜユダヤ人がキリストを拒んで、むしろ異邦人が受け入れたのか?なぜ熱心にメシヤを待ち望むユダヤ人がメシヤを見失って、特段に探し回っていなかった異邦人が見出したのか。こう説明しています。
では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。(ローマ9:30-32)
信仰の原理をイスラエル人がわきまえなかったからです。人は完全に堕落しており、自分の内には何も良いものがないことを知り、だから神ご自身が与えられる義、キリストにある義をただ信じて、受け入れることによってのみ、義と認められるのだという原理を見出せなかったからです。これはただユダヤ人の問題だけではなく、多くの異邦人も自分の行ないによって何とか救いを得ようとする人々には、キリストはつまずきの石となります。
ゆえにユダヤ人は、自分たちで何とか救おうという堅い意志があります。出エジプトから始まる生存の危機は今に至るまで続いています。イスラエルまた離散の国々における彼らの行動の根底には「生き残り」があります。
しかし、そのままでは神の義に到達することはできないのです。神が永遠の昔から定めておられる信仰の原理を彼らが知る必要があるのです。そこで神は彼らのその力を砕かれます。ちょうどエサウに会うのを恐れて神と格闘したヤコブのように、その力を打ち砕かなければならないのです。弱くされることによって、初めて神が彼らを救い、祝福を与えることがおできになります。
そのための大患難です。大患難はこの地上の不義に対する神の怒りの現われですが、イスラエル人にとっては、彼らの力が打ち砕かれる時です。絶対の窮地に立たされる時に、彼らは初めてメシヤを求めます。今も求めていますが、やはり自分たちの行ないによって求めているのです。けれどもその時には、自分たちには何も残されていません。ただ神の憐れみを注いでくださるように求めるのです。
そして彼らにキリストが来られます。彼らを滅ぼそうとする世界の軍隊に戦われます。その時に、先ほど引用したゼカリヤの預言のように、自分が突き刺したイエスがキリストであることを悟るのです。その時にイザヤ書53章にある、イスラエルの残された民が告白する、身代わりの死による贖いと癒しを悟ります。
これはユダヤ人だけでなく私たちみながそうです。いつになったら、私たちは自分たちの生きる力が打ち砕かれるのでしょうか。自分が自分を生かそうとする力が砕かれた時に初めて、キリストのみによる救いを体験することができます。
2B 悟り 8−13
12:8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」12:9 彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。12:10 多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行ない、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。
アンティオコス・エピファネスの迫害の時、神につくもの者たちと、ギリシヤ宗教の中にどっぷり漬かるユダヤ人たちに真二つに分かれました。一度、自分が神に従うというベクトル(方向性)を持つと、主の御霊がその人のうちに働かれて、ますます清めを経験することができます。けれども、一度、この世を愛するというベクトルを持つと、ますますこの世の汚れの中に入っていくことになります。初めは対した距離が離れていないけれども、どんどんその差が大きくなっていくのです。
そして終わりの日には、そのことが明らかになります。黙示録の終わりにも御使いがこう話しています。「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(22:10-11)」終わりの日には中間でいることはできなくなるのです。
そしてここにも「思慮深い人は悟る」とあります。イエス様が例えを話された時、「耳のある者は聞きなさい。(マタイ13:9)」と言われました。黙示録の七つの教会に対しても、主は、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。(3:6)」と言われました。分かる人には分かるのです。分からない人には何のことかさっぱり分からないのです。
もし御霊を持っていない、イエス様を信じておらず神の御霊を持っていなかったら、今はなしている終末の話はちんぷんかんぷんでしょう。大患難のこと、復活のことについて、何を話されているのか全く分からず、宇宙語のように聞こえるでしょう。けれども、イエス様を信じてください。自分の罪のためにこの方が死んでくださって、三日目によみがえってくださったことを信じてください。その瞬間から全てが変わります。御霊が理解を与えてくださるからです(1コリント1:13‐15)。
12:11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。12:12 幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。
先ほど「ひと時、ふた時、半時」という期間がありました。それを日数にすると1260日です。けれどもここには初めに1290日とあります。30日、一か月分多いです。そして12節には1335日とあります。さらに45日分多いです。
この合計75日間はいったい何なのでしょうか?おそらくは、主キリストがこの地に再臨されて、それから千年王国を建てられるまでの暫定期間であろうと考えられます。
まず11節の空白の30日間を考えてみたいと思います。ヒントは「荒らす忌むべき者が据えられる時から」です。言い換えれば、1290日後にこの像が取り除かれるということです。イエス様が来られて、反キリストが火と硫黄の池に投げ込まれて、それから千年間の統治をこの地で始められます。そして9章で学んだように、主は「至聖所に油をそそ」がれます(24節)。つまり新しく神殿を建てられ、その至聖所に油注がれるのです。その神殿については、既にエゼキエル書40章以降で学びました。
したがって、イエス様が反キリストを滅ぼされてから、神殿を建てるためにその荒らす忌むべき像が取り除かれるまで時間差がありそれが30日であろうと考えられます。
そして12節の残り45日ですが、主は御国の中に入る者たちを選り分けられます。大患難において数多くの人が死ぬのですが、それでも生き残っている者たちがいます。そのことを、イエス様はオリーブ山で弟子たちに話されました。あの「羊と山羊」の話です。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。(マタイ25:31-33)」そして、「わたしの兄弟たち(40節)」すなわち肉の兄弟であるユダヤ人たちに対して行なったことによって、御国に入ることができるかそうでないかを決定されます。同じことがヨエル書にも預言されています(3:1‐3)。
その他、悪魔が底知れぬ所に鎖につながれること、大患難で殉教した人々を復活されること、また世界中から選ばれた民、ユダヤ人がイスラエルに集められること(マタイ24:31)など、千年間の統治の前に行なわなければいけないことはたくさんあります。そのための30日間と45日間であると考えられます。
12:13 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」
これが最後の最後の神の約束です。ここまで神に仕え、知恵をもって王に仕えてきたダニエルです。異邦人の王に仕えながら、祖国イスラエルと同胞の民のために祈り続けたダニエルです。彼はもう90歳に近いおじいさんです。だからイスラエルの地に帰ることはできません。
そのダニエルに対して主が、彼個人に約束を与えておられます。それは彼自身の復活です。「休みに入れ」というのは肉体の死のことです。陰府に下ることです。けれども、終わりの日には復活して、そして主がイスラエルに与えてくださる割り当て地に立つことができます。たとえ約束を生きているうちに得なかったとしても、主は必ず後の日にかなえてくださいます。
ダニエルはなんという偉大な人であるか、と私は思います。自分のことは全て横において、友人のために、王のために、そしてユダヤ人のために祈ってきたダニエルです。最後の最後に、自分個人に対する慰めを得ました。ヨシュアもそうでしたが、割り当て地を全てのイスラエルのために定めてから、自分自身の町を与えられました(ヨシュア19:49)。
そしてダニエルこそ「思慮深い」人でした。知恵を持って生きました。異邦人の王に仕えながら、なおかつ神に仕えた人でした。私たちも、神に思慮深さを求めましょう。