終わりの時に生きるキリスト者 2001/12/09
第二回: へりくだりから、にじみ出る力 (1章)


以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


 第一回目は、ダニエル書全体から、神の歴史はイスラエルを軸にして展開していることを学びました。今回は、1章から学びたいと思います。


困難な時代

 1−2節に、ダニエルたちが捕え移された時の、時代背景が書かれています。「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。」

 これは、イスラエルにとって、また神ご自身にとっても、あまりにも過酷な、悲惨な出来事でありました。主は、アブラハムにこの土地を所有することを約束されました。また、イサク、ヤコブにこの約束を継承させ、またモーセを導き、ヨシュアをとおしてそこの住民を聖絶させ、ダビデをとおして国家を造られました。神にとって、イスラエルは、途方もない長い年月をかけて、手塩をかけて養い、砂漠の地に植林をするように育てられた民です。今、この土地からユダヤ人が捕え移され、神殿の財宝も、異教の宮の中に移されました。

 このような、絶望的な暗やみの中で語られているのが、ダニエル書です。しかしながら、この絶望の中にも、いや絶望しているからこそ見えてくる光をも照らしているのが、この書物です。バビロンに捕え移されたダニエルとその友人を通して、神がどのように生きて、働かれているかを記述しています。

 終わりの時は、このような困難な時代であることを、新約聖書において強調されています(マタイ24:9−12;2テモテ3:1−5など)。人の罪と闇の部分がいよいよ露になります。私たちも、勇気をもって、この現実を直視する勇気を持たなければいけません。


現実の甘受

 そして4節から9節までに、ダニエルと三人の友人が、バビロンが施す教育と訓練を受けていることが書かれています。彼らがバビロン国の中で働く、政府要人になるためです。

 バビロンに仕えよ、という命令を出したのは、他でもないイスラエルの神ご自身でありました。預言者エレミヤをとおして、神は、ユダ王国の偶像礼拝と背きの罪を清めるためには、バビロンを用いて、これをさばくと仰せになりました。異教の国に仕えることなどできない、という、偽りの愛国心を持った者たちは、エレミヤを嫌い、彼を迫害しました。しかし、彼らは、自分たちの本当の姿、すなわち、神に背き、悪を行なっている姿から目を背けていたのです。

 エレミヤの預言をダニエルは知っていました。ダニエルは、異邦人に仕えることが屈辱的であると感じていたかもしれませんが、それでも、イスラエルの霊的実質がそれだけ弱まってしまっているという事実を受け入れ、神のみこころに服したのです。

 自分たちの霊的現実を受け入れることは、とても痛いことです(黙示3:17参照)。自分が大切にしているもの、正しいと思っていたこと、良いと思っていたことも、すべてその真実のゆえに、切り落とさなければいけないからです。しかし、本当に捨ててしまった者には、御霊による深い安息が与えられます。


世に媚びない信仰

 ダニエルたちは、バビロンの中で仕えていましたが、けれども、神の律法に反することに対しては、静かに、けれども決然と拒みました。王の食べるごちそうによって、身を汚さないように、宦官の長に願い出ました(8節)。

 これはそのまま、私たちキリスト者の取るべき態度です。私たちにゆだねられていることは、真理の上に立ち、そのまま真理を伝えることです。これがたとえ、この世で大切にされている価値観や文化、社会の規範に反することであっても、愛をもって真理を語るよう導かれています(エペソ4:15)。つまり「世に媚びない信仰」が必要なのです。「未信者の人たちに理解されるように、つまずかせないように、受け入れられるように・・・。」という動機が働くところにある言葉は、塩気を失い、役に立たなくなってしまいます。たとえ相手の感情を害するようなことであっても、こちらが真剣に、心の中で泣き叫ぶように愛をもって語れば、必ず、福音に服従する人が出てきます。キリストは、そのご性質からして、「つまずきの石(1ペテロ2:8)」なのです。


神の証し

 このように、ダニエルたちが、バビロンに仕え、なおかつ神にお従いした生活の中で、奇蹟が起こりました(15−20節)。使徒ペテロは、「神の力強い御手の下にへりくだりなさい。(1ペテロ5:6)」と言いましたが、彼らもこのへりくだりの中で、神の力と知恵を経験したのです。

 奇蹟や不思議というのは、こうした、神の御前でのへりくだりの中から、にじみ出るようにして現われます。ご聖霊は、奇蹟をショーのように見せびらかすところでみわざを行なわれません。むしろ私たち聖徒が、神の主権の中で下へ下へと追いやられるときに、必要を豊かに満たすようなかたちで現われます。初代教会は、迫害の中で奇蹟を経験しました。また現代においても、迫害されている国々のクリスチャンたちの間で、静かに、けれども力強く、御霊のみわざが現われています。


裁きは神の家から

 ところで、今回の米同時多発テロにおいて、日本のキリスト教界からは、アメリカの武力行使への非難や批判の声が聞こえました。しかし、当のアメリカのキリスト教会からは「悔い改め」の声を聞きました。そして今、人々がどんどん霊の救いにあずかっています。結局、今回のテロにおいて勝利したのは、アメリカなのです。日本は対岸の火事のごとくこの事件を取り扱い、そして霊的には何ら変化が起こらないばかりか、現実に起こっていることからますます乖離しています。

 今私たちは、世界と日本で起こっている惨状を、直視せねばいけないでしょう。教会内で閉鎖的になっていてはいけません。しばしば、大きなイベントや成功しているような教会の裏で、多くの問題があることを聞きます。私たちは裸であることを認めるべきです。そして、ある意味で「絶望」しなければならないのです。この絶望の中にこそ、次に現われる神の働きがあります。自分たちでリバイバルを起すのではなく、へりくだるところに現われる神のリバイバルを静かに待つこと、これが今、私たちに求められていることです。


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