1A 金の像への礼拝 1−7
2A 拒むユダヤ人三人 8−18
3A 共におられる神 19−30
本文
ダニエル書3章を読みます。とてもワクワクする内容です。ダニエルの友人三人が、燃える火の炉の中に投げ込まれても、神が救い出された話です。
その理由はネブカデネザルの立てた金の像を拝まなかったからです。そこに、「権力と宗教の問題」という、信仰者によって普遍的な課題があります。上に立つ人が自分の権威に従わせるために、宗教的儀式を行なわせる時があります。会社の職場で神棚を置いているところがあるでしょう。学生ならば、卒業式などで、天皇が永遠であることを賛美する君が代を斉唱することを要求されます。異教の国に生きているならば、誰もが避けて通ることのできない問題です。
そしてこの出来事は預言的な意味も含みます。自分を表す像を造り、それを拝むことを強要する人物が終わりの日に登場します。反キリストです。拝まなければ殺されます。ダニエル書では、キリストが到来される前に、荒廃をもたらす憎むべき者、反キリストの姿を浮き彫りにしていきます。その始まりをここで見ることができます。
1A 金の像への礼拝 1−7
3:1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。
金の像についての説明です。高さが60キュビトとありますが、一キュビトは肘から指先までの長さです。45センチだとしますと27メートルです。幅6キュビトはもちろん2.7メートルです。それを「ドラの平野」に立てました。おそらく首都バビロンの郊外にあった平野であったと考えられます。
これはもちろん、存在感を大きくするための目的があります。私の実家にも山の上に巨大な白色の仏像が立っています。ちょうど「ウルトラマン」に出てくる怪獣のように、急に巨人がにょきっと現われて、自分たちが小人になったような非常に気味悪い気持ちにさせられます。
そして戻って寸法についてですが、六十キュビトと六キュビトですが、六は人間を表す数字です。七は完全数で神ご自身を表します。だから七日目の安息、七日間の祭り、七つの教会など「七」が登場します。六はソロモン王の時に出てきます。「一年間にソロモンのところにはいって来た金の重さは、金の目方で六百六十六タラントであった。(1列王10:14)」神を表す七には満たない人間の栄光にしか過ぎないということで「六」です。
そして同じ六百六十六が、あの反キリスト、獣を表す数字としても登場します。「その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。(黙示13:18)」キリストに似せて世界を治めますが、キリストと神を冒涜し反対する者の数字です。したがってネブカデネザルは、自分自身に栄光を付け、それを人々に強要する目的でこの金の像を造っています。
そしてネブカデネザルが、自分が見た人の像の夢を見た後に、これを立てたことを考えてください。2章で学びましたね、ダニエルが彼の見た夢を解き明かしました。金の頭はバビロンであり、銀の胸と両腕はメディヤ・ペルシヤ、青銅の下腹と太ももはギリシヤ、鉄のすねはローマ、そして鉄と粘土の混じった足はローマ後の世界です。
確かに神は、バビロンに「金の頭」という栄光を与えられました。けれども頭だけなのです、その後、神はメディヤとペルシヤに国を渡されます。けれどもネブカデネザルはそのことを認めたくありませんでした。自分の国と栄光、権力は永遠なのだと信じたかったのです。だから、頭から足のつま先まで金の像を造ったのです。
そしてそれを自分の下にいる者たちに拝ませることによって、自分の権力を保持することを意図しました。これが金の像を拝ませる、次に読む儀式なのです。
こうして見ると、国というもの、またその他の権力には、常にこの動きが付きまとうことを私たちは知らなければいけません。先ほど言及した君が代ですが、天皇が千代に八千代に統べ治めることを歌います。これを公教育の中で歌わせることによって、日本への愛国心を試すリトマス紙にします。かつて、天皇の真影なるものが教室の前に掲げてあって、今の北朝鮮のように、その写真に対して深く一礼をしなければなりませんでした。
そして全体主義の国の多くで、その独裁者は自分の像を造ります。皆さんが平壌に訪問するならば、初めに金日成の像に献花しなければなりません。かつてのソ連ではスターリンの像があちらこちらにありました。最近では、解放されたイラクの民衆が、フセイン大統領の像を倒したのは記憶に新しいと思います。これら全ての例において指導者は、天の神の主権を認めずに、高慢になって、自分の権力を確立させたい意思表示を現しているのです。
3:2 そして、ネブカデネザル王は人を遣わして、太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官を召集し、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に出席させることにした。3:3 そこで太守、長官、総督、参議官、財務官、司法官、保安官、および諸州のすべての高官は、ネブカデネザル王が立てた像の奉献式に集まり、ネブカデネザルが立てた像の前に立った。
あらゆる役職に就く者たちを召集しました。
3:4 伝令官は大声で叫んだ。「諸民、諸国、諸国語の者たちよ。あなたがたにこう命じられている。3:5 あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め。3:6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。」
奉献式を実に華々しく行なっています。これらあらゆる楽器で奏でる音楽はさぞかし美しかったことでしょう。けれども、拝まない者に対して「火の燃える炉の中に投げ込まれる」という脅迫も付いています。いや、単なる口先の脅しではなく実際の処罰です。
3:7 それで、民がみな、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、および、もろもろの楽器の音を聞いたとき、諸民、諸国、諸国語の者たちは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝んだ。
ここでお聞きしたいことがあります。皆さんがもしこの場にいたならば、そして自分が国に仕える公務員であったならば、この時、像に対してひれ伏すでしょうか?
信仰を持っていない人であれば、返答は至極簡単です。形だけひれ伏せば良いのです。単なる儀礼なのですから、心がともなっていなくても行なえば良いのです。その形だけの、ひれ伏すという実に簡単な「体の動作」さえ行なえば、自分の立場は守られるし、ましてや、ここでは自分の命そのものを救うことになるのです。
では信仰者はいかがでしょうか?私は、数多くの人から「家族や親戚の人を悲しませないために、形だけでも死んだ人の墓や仏壇の前で手を合わせます。」という言葉を聞きました。心が伴っていなければ、行なってよいものなのでしょうか?このような意見もありました。「新約時代に入ったのだから、内面が大事なのであって外面で行なうことに固執するのは律法主義だ。」
そうなのでしょうか?では、「心は私の妻にあるが、形だけ他の女の人と夜を共にする。」と私が仮に言ったとしたらどうでしょうか?形だけではありませんね、心にあるものが外に出てくるのです。心に姦淫という悪い思いがあるから、実際の姦淫をするのです。
ここでは偶像礼拝という具体的な問題があります。他の神と呼ばれるものを拝むならば、それは唯一の神と唯一の主に対する霊的な姦淫行為です。聖書の中に数多く、イスラエルの民が偶像崇拝の罪を犯しているとき、神が姦淫の女といって詰られました。新約聖書でも、偶像に供えられた肉を食べるリベラル(自由主義)的な信者に対して、使徒パウロは、「彼らのささげるささげ物は、神にではなく悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊に交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10:19)」と言いました。その行為を行なうことは形だけではなく、実質的に、霊的にその罪を行なっていることなのです。
歴史的にも、私たちは学ばなければいけません。初代教会の信仰の先輩は、ローマ皇帝を「主」と呼ぶことをただ拒んだだけで、火あぶりの刑に処せられ、また、競技場で生きたままライオンに食い殺されたのです。「カエサルは主である」と口から出せば良かったのです。けれどもそれを、自分を愛し、命まで捨ててくださったイエス様を裏切る行為だとみなし、甘んじて殉教を選びました。
2A 拒むユダヤ人三人 8−18
3:8 こういうことがあったその時、あるカルデヤ人たちが進み出て、ユダヤ人たちを訴えた。
この「訴えた」という言葉は、「肉を食いちぎった」というのが直訳です。人から中傷を受ける時に、まさにこの状態になりますね。
3:9 彼らはネブカデネザル王に告げて言った。「王よ。永遠に生きられますように。3:10 王よ。あなたは、『角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞く者は、すべてひれ伏して金の像を拝め。3:11 ひれ伏して拝まない者はだれでも、火の燃える炉の中へ投げ込め。』と命令されました。3:12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」
ここに三人の名前、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ」の名前が出ています。これは明らかに、このことを告発したカルデヤ人たちの妬みの表れであり、恨みの表れです。「ユダヤ人」と言っていますね、そして三人にはバビロンの名前が与えられていた(1:7)にも関わらず、ユダヤ人の名前を使って訴えています。しかも、それぞれの名前には神を敬う意味が込められています。
2章の話を思い出してください、ダニエルがネブカデネザルの夢を知らせ、その解き明かしたので、彼を高い位につけて、王の宮廷にとどまらせました。ダニエルはネブカデネザルに友人三人を、バビロン州の事務をつかどらせるように願いました。
カルデヤ人とは、生粋のバビロン人のことです。バビロンは帝国になりましたが、元々はカルデヤ人の国です。だから王の側近にカルデヤ人がいました。ところが外国から来たこの者たちが、重要な役職に就いていることに腹を立てていたに違いありません。そしてバビロンの神々を敬うことをしない態度も気に食わなかったのでしょう。
似たような人でモルデカイがいます。エステル記に出てくる人物です。時はペルシヤの国でしたが、彼はユダヤ人で王に仕える役人でした。王の側近にハマンという者がいましたが、王の家来たちは膝を屈めてハマンに対してひれ伏しました。ところが、モルデカイは一切しなかったと書かれています(3:2)。それに対してハマンは怒りました。ハマンの場合は、モルデカイを殺すことでは満足できず、ユダヤ人全員を絶滅させる法令を王に署名させました。
このようにユダヤ人は妬みを受けます。いかに彼らが偏狭であり、自分たちの神しか信じないかを訴えられます。そしてキリスト者も同じです。キリストのみを信じる信仰のうえに憎まれます。
3:13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。3:14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」
これでもネブカデネザルはかなり自制しています。怒りたけっているけれども、おそらくダニエルの友人であることを意識しているのかもしれません。ダニエルらユダヤ人の神に対しても、ある程度の評価をしていました。夢を示し、その解き明かしをこの神がしたという記憶は確かにあったはずです。だから、むやみにこの信仰を踏みつぶしてはいけないという恐れもあったと思います。けれども、金の像を拝まないというのはあまりにも許しがたい行為だ、とも思っていたのです。だから、ただちに燃える火の炉に投げ込むのではなく、機会をもう一度与えました。
そして、ネブカデネザルは二つの事を大きなつまずきとして取り上げました。一つは金の像にひれ伏さないことです。これは自分の権力に対する侮辱です。そしておそらくはそれ以上に、自分の神々に対する侮辱です。マルドゥクを始めとするバビロンの神々に仕えないという、明確な意思表示であると捉えました。
これは2章における挑戦と同じことです。呪術者、呪文者ら知者が、「肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それ(夢)を王の前に示すことのできる者はいません。(11節)」と言いましたが、ダニエルは、「天の神が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。(28節参照)」と言いました。そして夢を示し、解き明かしました。それでネブカデネザルは、「まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ。(47節)」と絶賛するに至らせたのです。
今回も同じように、「どの神が私の手からあなたがたを救い出せよう。」というネブカデネザルの言葉に、ユダヤ人の神とバビロンの神々の競争があるのです。どちらが偉大なのかという挑戦です。
私たちも同じような挑戦を受けます。それは、「あなたが信じているキリストが本物ならば、それを示してください。」という挑戦です。もし自分の好きな人だけを愛していたら、それは異邦人でもできることをイエス様は話されました。敵を愛しなさい、と主は言われました。どこでその違いを見せることができるでしょうか?その接点が浮き彫りにされる中で、私たちはキリストの優位性を大胆に証しすることができます。
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
ものすごい告白です。絶対的な権力を前にした告白です。これはあらゆる恐れを乗り越えたところの、良心への服従です。
私たちは、権威に対して基本的に従順でなければいけません。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1)」と使徒パウロは言いました。この時、ローマ皇帝はあの悪名高きネロでした。そして使徒ペテロも、迫害されているキリスト者に対してこう言いました。「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から使わされた総督であっても、そうしなさい。(1ペテロ2:13‐14)」
他の不信者のユダヤ人はローマに対して反乱を行ないました。けれどもユダヤ人キリスト者は積極的ではありませんでした。ついにエルサレムが包囲された時、一時的に解除されたとき彼らは逃げました。主が命じておられたからです(ルカ21:21)。今はヨルダンにあるペラという町に逃げました。そのためエルサレムのユダヤ人はローマの大虐殺に遭いましたが、彼らは生き残ったのです。
このようにキリスト者は民族主義者でもなければ、国を破壊しようとする無政府主義者でもなかったのです。今日、権威に逆らうことが善であるかのように運動する人々がおり、それに便乗して反対運動に参加する、福音的ではないキリスト教徒がいます。けれども本物のキリスト者は、基本的に上に立つ人を敬っているのです。むやみに反抗しないのです。ダニエル書1章でこのことを学びました。他の権威に対しても、例えば夫婦の関係においても、親子関係、雇用関係においても、主は、「互いに服従しなさい」と命じておられるのです(エペソ5−6章参照)。
だからなおさらのこと、権力者の前で、その権力に服するのはなく、神に与えられた良心に服従することは、とてつもない勇気と清い良心が必要なのです。上に立つ者が自分をどうすることでもできる力を持っていることを知った上で、なおかつ自分の行動に対して責任を取るのです。ここの場合は、自分がバビロンの神々に仕えない代わりに、燃える火の炉に投げ込まれるという形で自分の行動の責任を負います。例えば夫婦関係であれば、夫が「信仰を捨てなければ離婚をする」と言ってきたら、「はい、分かりました。その命令に逆らう代わりに離婚という結果に服します。」という態度を示すのです。
これが真の抵抗であり、「人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)」というペテロの言葉の意味であります。
この三人はまず、「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。」と言いました。2章において、「夢を知らせてください、そうすれば解き明かしてごらんにいれます。」とカルデヤ人の知者が言ったとき、ネブカデネザルは「あなたがたは私の言うことにまちがいはないのを見てとって、時をかせごうとしているのだ。(8節)」と言いました。三人はそんなことは私たちはしません、言い訳がましいことを言ってこの場を逃れるつもりはありません、と言っています。
そして、「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。」と言いました。2章においては、天の神がいかに知恵と秘密を知らせることにおいて秀でていたかをダニエルが証ししました。3章においては、「力」において自分たちの神が秀でていることを証ししています。
パウロがエペソにある教会にいる信徒たちのために、こう祈りました。「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(1:19)」神が全能であることを客観的に信じることは、信仰者であれば簡単です。天と地を創造されたこと、そして主に不可能なことはないことを信じることも簡単です。けれども、それを自分の今置かれている状況に、具体的に当てはめて、そこに全能の御力が働くことを信じるのは、難しいです。
その模範的な例としてアブラハムがいます。ローマ4章に彼の信仰の説明がありますが、19節に「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」とあります。簡単に言えば、アブラハムは問題に目を留めなかったのです。自分がおじいさん、妻がおばあさんになっていて、出産できる時期を越えているという限界に目を留めなかったのです。
そして、ローマ4章20節には、「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し」とあります。アブラハムは既に、約束を実現してくださることを、前もって神に賛美を捧げていました。その約束は神からのもので確かだから、ということで今から「ハレルヤ!」と神に感謝と賛美を捧げていたのです。
そして21節に「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」とあります。成就する力です。神の力を信じるのです。
そしてダニエルの友人三人は、「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」と言っています。この「しかし、もしそうでなくても」がとても大事です。これは彼らが神の全能の力を信じていない、ということでは決してありません。神は全能者であられるのと同時に、主権者であられます。
主が、三人をお救いになると決めておられるなら、そのことは実に容易に行なうことができます。けれども、もしお救いになることを決めておられないなら、彼らが殉教することをよしとされるなら、彼らは火の炉の中で燃やされるのです。
三人は神の力を堅く信じていたと同時に、神の主権も堅く信じていました。全てのことを主にお任せしていたのです。これは一挙に、あらゆる財産と子息を失ったヨブの告白と同じです。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21)」そして迫害を受けているキリスト者に、使徒ペテロはこう勧めました。「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。(1ペテロ4:19)」
3A 共におられる神 19−30
3:19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。3:20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。3:21 そこで、この人たちは、上着や下着やかぶり物の衣服を着たまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。3:22 王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。3:23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
燃えさかる火の試練です。ペテロは、「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく(1ペテロ4:12)」と言いました。つまり、ダニエルの友人三人が通ったこの試練は世の常のものであり、私たちキリスト者も通るのだ、ということです。心の準備をしていなさい、主にあって覚悟しなさいということです。
先ほど三人が、「王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」と言いましたが、それに王は対応しています。ネブカデネザルが持っている権力のありったけの力を、燃える火の炉に注いでいます。炉の熱を七倍にせよと命じ、軍隊の力強い者たちに彼らを縛らせ、しかも普通囚人は服を、刑を受ける前に剥ぎ取られますが、そんな時間も与えることなく衣服を着たまま縛らせました。そして炉まで連れて来た者たちが火炎で焼き殺されてしまいました。これが権力です。そのことを覚悟の上で、彼らは「神はあなたの手から救い出します。」と言ったのです。
3:24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」3:25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
驚くことが起こりました。イザヤは、バビロン捕囚の民のことを考えてこう前もって預言していました。「あなたが水の中を通り過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。(43:2)」これが文字通り成就しました。主が共におられました。それで害を受けることはありませんでした。ヘブル書11章34節には、信仰者が「火の勢いを消し」とあります。ダニエル友人三人のことです。
そして第四の者をネブカデネザルは「神々の子のようだ」と言い表しています。彼は異教徒ですから、「神」ではなく「神々」と表現したわけですが、まさに「神の子のようだ」と言ったのです。つまり、私たちの主イエス・キリストご自身です。ベツレヘムでマリヤから、聖霊によってお生まれになる前に、旧約時代にはしばしば「主の使い」としてイエス様は現われてくださいました。
どんな試練の中にも、イエス様が共にいてくださいます。嵐の時に主が弟子たちの舟に乗ってくださったように、ここの三人と共にイエス様が歩かれたように、私たちと一緒にいてくださいます。私たちは、試練から免れることができるという約束は与えられていません。試練は通ることを教えられています。けれども、試練の中にいて主が共におられるという約束を下さっています。
3:26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
ネブカデネザルは、彼らの神を「いと高き神」と呼んでいます。ダニエルが呼んでいた「天の神」です。バビロンの神々とは違い、最も高い玉座に着いておられる方です。
3:27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。
王だけでなく、数多い臣下たちもこの奇跡の証人となりました。先ほど、上着ごと縛ったその衣服が、主が共におられたことの証しとなっています。全然焦げていませんでした。
3:28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。
ネブカデネザルは、彼らが王である自分の命令に背くまでして、自分の神に信頼したことを称賛しています。自分の神々に仕えなかったことを称賛しています。これが勝利の証しであり、真の証しです。
周りの機嫌を伺って、調節し、妥協する姿は、後に不信者の人たちからも侮られます。一貫性がないからです。たとえ不信者の人たちの気分を害することをしても、私たちの行動に一貫性があるならば、それを認めるのです。安易に妥協してはいけません、私たちは地の塩として召されています。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もうなんの役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」
3:29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」
対応がずいぶん極端です。彼の信じる神々においては、謙遜や柔和という言葉はありません。強制が働いているだけです。ネブカデネザルは、まことの神、主のことを「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神」と呼んでいることに注目してください。数ある神々の中で彼らの神を認めているにしか過ぎません。まだ、「私の神」にはなっていないのです。
日本において、街角で人々にインタビューをし「もし信仰を持つとしたら、どの宗教がいいですか。」と聞けば、キリスト教と答える人がかなりの割合でいるそうです。けれどもなぜ、信仰者が1パーセント以下と言われているのか?それは、キリストを数ある神々の一つにすることは容易だけれども、「自分の神、自分の主」にすることは非常に難しいからです。
自分の主にするには、心が砕かれなければいけません。自分のこれまでのあり方、生き方に「否」と言わなければ、イエスを「私の主」であると告白することができないからです。
次の4章で、ネブカデネザル自身が天の神を、自分の神として仰ぎ見る証しを読むことができます。彼が獣のようになってしまい、草を食いながら時を過ごした体験も出てきます。このような形で彼は神の前に心を砕くことができました。自分を捨てることが必要です。
3:30 それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。
三人のすばらしい証しを読むことができましたが、この3章でダニエルが全然出てこなかったことに気づいてください。もちろん、彼が他の人々と共に金の像の前でひれ伏したとは到底考えられません。答えとなるヒントは、2章の最後の節にあります。「しかしダニエルは王の宮廷にとどまった。」王の宮廷にいたということ自体が、奉献式に参席しなくてもよい理由だったのではないかと思われます。
バビロン全州の役人たちを、奉献式に召集をかけたのは、自分の権力に服従されるという王の意図があったと思われます。けれどもダニエルは、その必要もありませんでした。王にあまりにも近い所にいました。権力への服従を試す必要もなかった、と考えられます。
初めに、3章は預言的な意味も含むことをお話しました。反キリストが自分の像を造り、それを拝むように強要する姿を表していることをお話しました。それを拝まないけれども、生き残って神の国にまで入ることのできる人々を、黙示録7章と14章が描いています。自分たちの額に神の印を押された14万4千人のイスラエル人たちです。獣の国の中で、像を拝まない者たちが殺されていくのに、彼らは子羊がシオンの山に立っているところで賛美を捧げています。主イエス・キリストが地上に再臨されたところに彼らがいるのです。大患難の中を、害を受けないで生き残ったのです。
けれども、獣の国の中で、獣が「神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。(黙示13:6)」とあります。この天に住む者たちとは誰なのか?黙示録5章と19章に出てくる、教会の姿です。教会はすでに天に引き上げられており、獣の国の中にいなくてもよいのです。つまり、ダニエルが奉献式の場にいなかったことによって像を拝まなかったように、教会も地上にいないことによって獣の像を拝むことがないと言うことができます。ダニエルは教会の型であり、友人三人は、神に忠実なイスラエル人たちの型です。
以上です、お祈りしましょう。
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