終わりの時に生きるキリスト者 − ダニエル書の学び
第五回 唯一の主権者 (4−6章)
以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。
第三章では、ネブカデネザルの像をユダヤ人がそれを拝まないことによる迫害があることについて学びました。異邦人の時代において、諸国は自分を高くして、その高ぶりがユダヤ人の存在によって明らかにされるため、ユダヤ人に脅威を抱き、危害を加えます。これが、キリスト教会の中にも存在することについても言及しました。
四章から六章においても、諸国の高ぶりについて描かれています。四章では、ネブカデネザルが自分の見た夢を証ししています。それは、非常に高く育った木についてであり、葉が生い茂り、実も豊かで、下には獣や鳥が住んでいました。けれども、聖なる者が天から来て、この木を切り払って、獣も鳥も追い払えと命じます。すると木は根株だけになり、鎖でつながれ、露でぬれ、草を食べるようになりました。この夢をダニエルが解き明かし、この木はネブカデネザル自身であることを伝えます。そして、ネブカデネザルは、王の宮殿を歩いていたとき、「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」(4:30)と言いました。すると、天から声があり、彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、からだは露でぬれ、髪は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになりました。
しばらくして彼は元に戻されて、主をほめたたえてこう言いました。「その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押えて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない。」(4:34−35)これは、諸国が世界を支配しても、主権者は神ご自身だということです。その王たちは、自分がその国を支配し、自分の力と知恵によってその国を立てたと思っていますが、実は主がすべてを支配しておられます。このことを知るために、ネブカデネザルは、たいへん辛い経験を通りました。
ところが、この教訓を学ばないで滅んでしまう王が、第五章に登場します。ベルシャツァルは大宴会を催し、エルサレムの神の宮から持ってきた金の器でぶどう酒を飲み、また金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。ところが壁に人の手が現われ、壁に何かを書きました。王はおびえましたが、その後ダニエルが連れて来られました。ダニエルは、彼の運命を伝えます。「その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。」(5:22−23)彼は、神からの教訓を学ばなかったので、なんと「その夜」(5:30)彼は殺され、メディヤ人ダリヨスがその国を受け継いだのです。
さらに六章においては、ダリヨスが、自分の像以外のものに祈願する者は、獅子の穴に投げ込まれるという禁令に署名しました。このことも、自分の高ぶりを心に許した結果であります。しかし、彼は必死でダニエルを助けようとし、ダニエルが神によって獅子から救い出されたとき、彼も神をほめたたえました。
歴史に繰り返される皇帝崇拝
このような「異邦人の時」の特徴は、歴史を見ても一目瞭然です。例えば、ローマ皇帝が、初めの地位から神格を持つようになり、住民に対して「カエザルは主である」と言うことを強要させました。日本国も同じです。世界が、主が預言された「国は国に敵対して立ち上がる」(マタイ24:7)という終わりの様相を呈してきた19世紀、欧米列強の植民地獲得競争の中で、日本が開国を米国から強要されました。日本も、この流れの中で近代化を即急に行ない、その支柱になる国家理念として神道と皇室を担ぎ出しました。西洋の文明がキリスト教を支柱としていることを模倣し、日本も神道を支柱として国家造りをしました。
これまでダニエル書を学んできた方であれば、この国家神道体制が、神のイスラエルに対するご計画に酷似したものであり、また、天皇がキリストに摩り替わっていることを理解できるでしょう。キリストが父なる神と人を仲介する大祭司である代わりに、天皇が最高神官になっています。また、キリストが神であられ、肉体をもって現われてくださったように、天皇は、現人神となりました。神はイスラエルを選び、イスラエルをとおして諸国を平和によって支配されることを定めておられますが、国家神道では、日本民族が選ばれた種族であり、慈悲深い父である天皇の下、この日本によって世界に太平が築き上げられる、と信じられました。
日本が敗戦し、天皇が人間宣言をし、現日本国憲法では「象徴」と定められていますが、しかし、それは制度・法律上の変化にしか過ぎないことを見極めるべきです。どのような体制であろうとも、どのような体裁にしても、何らかのかたちで諸国の指導者が高ぶり、神の地位に自らを引き上げようとする「霊」の動きがあるからです。
ユダヤ人が約束の地に帰還じ始めた前後に第一次世界大戦が起こり、第二次世界大戦の直後にイスラエルが建国されたことは、決して偶然ではありません。そして日本で天皇制が現われ出たことも偶然ではありません。みな、終わりの時に起こるはずの諸国の動きの一貫なのです。そして、同時多発テロ以降注目されているイスラム教も、その中身はユダヤ・キリスト教の摩り替えであり、国家神道とも類似しています。2月18日に、クリスチャンであると公言していたブッシュ米大統領が、明治天皇を祭っている明治神宮で参拝したことは、私にとってあまりにも衝撃的なニュースでした。彼がイスラム教のモスクにおいて礼拝をささげたというニュースを聞きましたが、曲がりなりにもキリスト教の国とされ、超大国でもあるアメリカの首脳が、この極東日本においても神社にて礼拝をささげたのです。時代は次第に、世界の国々が神とキリストに反抗する、ハルマゲドンの舞台へと着実に近づいています。(詩篇2:1−3)
「これらのことが起こり始めたら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたからです。」(ルカ21:28)
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