ダニエル書6章 「忠実な人」

アウトライン

1A 神の律法についての口実 1−9
2A 日に三度の祈願 10−18
3A 獅子の力からの救い 19−28

本文

 ダニエル書6章を開いてください。今日のメッセージ題は「忠実な人」です。ダニエル書において、今日読む6章が、歴史的に最後の出来事になります。7章からはダニエルが受けた神の啓示であり、6章までが歴史の部分です。

 ここで彼が、バビロンの国が滅んだ後も、新しいメディヤ・ペルシヤにおいて以前と同じように国に仕え、そして神に仕えている姿を見ます。前回の学びを覚えていますか、紀元前539年にバビロンが滅んでいます。そして531節に「メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。」とあります。6章は538年、537年辺りの出来事です。

 したがって、1章でダニエルがバビロンに捕え移されたのが紀元前605年ですから、すでに67年ぐらい経っています。ダニエルは既に80歳を越えています。十代のダニエルの生涯を1章で読みましたが、6章におけるダニエルのそれと比べると何ら変わりません。良い意味で変わりません。変わりなく、主に仕え、そして自分が神から任されている国に対しても仕えているのです。

 これを一言でいうならば「忠実」でしょう。私たちは一時的に、良い行ないをすることは比較的楽にできます。けれどもいつまでもそれを同じように行なうことができるのか?そして一番大切な問いは、「最後までできるのか?」です。これを私たちはダニエルの生涯の中で見ることができます。

1A 神の律法についての口実 1−9
6:1 ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。

 「ダリヨス」というのは人の名前ではなく称号と言われています。エジプトの王が「パロ」と呼ばれたのと同じです。彼はバビロンが滅んだ後、ペルシヤ人のクロスが王として統治を始めるまで、おそらくは2,3年の短い期間、統治を任されていたメディヤ人だと考えられます。ペルシヤがメディヤを併合したような形になっていましたが、おそらくクロスがダリヨスに暫定統治をさせていたのでしょう。けれども、彼はすぐに死にました。先ほど「62歳でその国を受け継いだ」とありますが、おそらくその言葉遣いには老年になっていて、という意味合いがあると思います。2,3年後に死んだと言われています。その間の出来事です。

6:2 彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。

 新しい統治をするに当たり、120人の太守を置き、その上にさらに大臣を三人置きました。その一人がダニエルです。バビロンの元要職も起用して、速やかな統治と秩序の確立を図ったのでしょう。

6:3 ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。

 この「すぐれた霊」がダニエルの特徴です。ネブカデネザルが大きな木の夢を見たとき、ダニエルに解き明かしを頼んだとき、「あなたには、聖なる神の霊があるからだ。(4:18」と言いました。5章では、ベルシャツァルの王妃も「聖なる神の霊の宿るひとりの人(11節)」と言い、「すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりました(12節)」と言いました。ですから、彼が公務において際立って優れていたのは、彼の才能ではなく神の御霊が与えられていたからです。

 御霊の現われにはいろいろあります。しばしば聖霊の働きと言うと、癒しや奇蹟、あるいは何か感情的に高揚することを想像するかもしれませんが、それはあまりにも限定的な見方です。聖書では、ここで見るように知恵と知識においても現われる場合が多いです。メシヤについてイザヤが預言した時に、「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(11:2」と言いました。御霊の賜物の中に、「知恵のことば」「知識のことば(1コリント12:8」がありますし、また「その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。(同2:13」とあります。

 私たちは、ある神の真理について、「これだけ御言葉によって明らかなのだから当たり前ではないか。」と思うことが、他の人にはどうしても理解されない場合があります。例えば、私はしばしば「『救われました』という言葉を使いますね?なんで『救われます』と言わないで、『救われました』と完了したものとして言うのですか?」と聞きます。なぜなら、他の宗教や異端は決してこの完了形の救いを口から出すことはできないからです。救いの完成は将来を待つのに、もう既に完了したものとして確信を持てているのは、御霊による新生を経験しているからです。

 そして私たち新約の時代に生きている者にとっては、福音宣教に現われる力が御霊の働きです。「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(1コリント2:4」と使徒パウロは言いました。十字架のことばは単純です。「キリストがあなたの罪のために十字架につけられた。そして三日目によみがえられた。あなたが悔い改めてこの方を信じるならば、すべての罪は赦されて、永遠の命を得るのだ。」という福音です。この単純な言葉を聞いて信じた人が180度変えられた生活を送ります。世の学者がどんなに研究しても説明がつかない不思議を、御霊は行なってくださいます。

 そして、聖霊は愛によってご自分を現わします。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:2223」ダニエルが、「すぐれた霊を宿している」という評判を得たように、私たちが「愛の霊を持っている」という評判を受けているでしょうか?これが、キリスト者がキリスト者である特徴ですね。

6:4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。彼は忠実で、彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかったからである。

 ダリヨスがダニエルを自分の重鎮として起用したので、他の大臣や太守が彼に妬みを抱いたわけですが、ものすごいですね「彼には何の怠慢も欠点も見つけられなかった」とあります。ダニエルのような公人は、いつも公衆の目に晒されます。その私的な生活の細部に至るまで、監視されます。政治家や芸能人、スポーツ選手が雑誌にどれだけその私的生活が取り沙汰にされているか思い出してください。けれども、ダニエルにはそれがありませんでした。

 ところで教会の監督者に対して、この非難されることがないという資格があります。「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。・・また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。(1テモテ3:2-4,7」かなり高い基準ですが、必要な基準ですね。

 そのような生活を送ることのできる鍵は「忠実」です。ダニエルが「忠実で」何の怠慢も欠点も見つけられなかった、とありますね。パウロも教会の指導者には「忠実であることが要求されます。」と言いました(1コリント4:2)。つまり、小さな事に対して御霊によって反応するのです。ある一回性の行動や活動に対して御霊の注ぎを期待するだけではなく、例えば、説教をする時とか、教会に訪問する人を迎える時だけに期待するのではありません。いつもの何の変哲もない日常生活における行動でも御霊に満たされて、自分のする一つ一つに主が介入されることを願いつつ生きるのです。その延長線上に、大きな神の働きが付いてくるのであって、その大きな働きから始まるのではありません。

6:5 そこでこの人たちは言った。「私たちは、彼の神の律法について口実を見つけるのでなければ、このダニエルを訴えるどんな口実も見つけられない。」

 この言葉にも驚かされます。ダニエルの政敵は、ダニエルが神の律法に従っていることをよく知っていたのです。ダニエルに好意を持っている人ならば、多少の落ち度を見逃すでしょうが、敵ならば見る目は非常に厳しいです。

 ちょうどこれは、イエス様が安息日に会堂で教えておられたときに、右手の萎えた人をパリサイ人が連れてきたのと同じです。「イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。(ルカ6:7」とあります。敵が、イエスが病人を直す力を持ち、その憐れみを持っていることを前提にして、連れて来ているのです。イエス様がなされた癒しや奇蹟を疑う人たちがいますが、私には理解できません。イエス様に敵対していたパリサイ人が、それを完全に認めていたのですから。

 私たちはしばしば、誰かに嫌なことをされるとそれを「迫害だ」と簡単に言ってしまいます。けれどもよくよく確かめなければいけません。イエス様は「義のために迫害されている者は幸いです。(マタイ5:10」と言われました。義のため、なのです。自分の悪い性格のために、嫌なことを言われているかもしれませんが、本当に神の義のためでしょうか?ペテロも同じことを言いました。「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。(1ペテロ2:20」純粋に、良いことのために迫害を受けるようにしましょう。

6:6 それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。「ダリヨス王。永遠に生きられますように。6:7 国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。6:8 王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」6:9 そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。

 おそらくこの大臣と太守たちは、政界において様々な政治的攻略を行なったのでしょう。自分が草案したこの法令に賛成してもらうべき、政治の他の重鎮に働きかけ、そしてその下にいる者たちの同意を集めさせ、それで一つの統一案に仕上げたのだと思われます。けれども、もちろんダニエルは関わっておらず、彼の周囲で全て行なったわけです。7節で「みな」と言っていますが、ダニエルは含まれていませんから嘘です。

 そして、王以外に対して祈願する者が獅子の穴に投げ込まれるという法令ですが、今の私たちが見ればあまりにも滑稽です。けれども当時はそうではありません。ネブカデネザルのことを思い出してください。彼が金の像を立てて、それにひれ伏させましたが、それは彼に権力を集中させるためでした。多神教の信仰を持っている者には、政治的権力を持たせるためにこういうことは平気で行なうのです。だから王が同意し、署名してしまったのは、もちろん彼の高ぶりやうぬぼれという非難は免れませんが、それ以上の事ではありません。

 さらに、「変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。」と王に要請しています。覚えていますか、バビロンの王ネブカデネザルは、夢を知らせ、その解き明かしができなければ、手足を切り離させ、その家をごみの山とさせるという命令を出しました。彼の発言そのものが法律であったのです。けれどもメディヤとペルシヤは、王でさえ取り消すことのできない法令を持っていました。ネブカデネザルが見た夢の中で、金の頭から銀の胸と両腕になっている姿を、「あなたよりも劣るもう一つの国(2:39」とダニエルは解き明かしました。

2A 日に三度の祈願 10−18
6:10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。・・彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。・・彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

 ここでも驚くべきことがあります。なんと「署名がされたことを知って」、祈りを神に捧げているのです。主に仕える確信犯(?)ですね。

 キリスト者の倫理観について、私たちは既に3章で学びました。ダニエルの友人三人が、金の像の前でひれ伏して拝めという王の命令に公然と背きました。けれども、それは王の命令が神に与えられた良心に逆らうことをさせるとき、良心のゆえに服従を拒むのです。使徒ペテロが、「人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29」と言ったとおりです。日常においては、ここ5章のダニエルの生活のように、自分の上にいる人に忠実に従い、そのことによってキリストの証しを立てます。「人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。(エペソ6:7

 そこでここでの場合は、もちろん前者です。神に与えられた良心のゆえに法令に故意に違反しました。それにしても、この文章にはダニエル側にいささかの動揺や恐れ、不安を見ることができません。それは、「いつものように」とある、日常的なダニエルの祈りの生活があったからです。

 彼は国の公務に忠実だけであっただけでなく、霊的な事柄にも忠実でした。祈りを何と、「日に三度」も行なっています。朝夕だけではなく、昼も行なっていたようです。詩篇に「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。(55:17」とあります。

 私たちは、一日の力を得るために朝に祈りの時間を持つことは多いですが、寝る前にも祈るのもいいことです。一日に行なったことを主にあって感謝し、また汚れたことを行なったり、見たりしてしまったなら、罪の告白をし、神に清めていただくことができます。

 けれども、昼に祈るのは、つまり仕事のお昼休みに祈ることです。「そこまで祈りに時間を割かなくても良いではないか。『絶えず祈りなさい。(1テサロニケ4:17』とあるが、心の中で祈りつつ仕事をしていればいいではないか。」と思われるかもしれません。けれども、聖書には「力を尽くして神に祈ってください。(ローマ15:30」という勧めもあります。瞬時の短い祈りももちろん大切ですが、心と思いを込めて祈るために時間を取ることも大事です。

 このことをダニエルは行なっていたので、彼には家と仕事、公私の区別なく神の臨在を感じていました。主が共におられることを、家の中だけでなく職場にも常に確信していました。だから、このような法令が出た時も、何ら動揺することなく平然としていられたのです。

 彼は自分の祈りを、他の者に見られないように隠すこともしませんでした。いつものように、屋上の部屋で、エルサレムの方角に窓が開いている状態で、ひざまずいて祈っています。祈りはするが、見えないように隠れて祈ることもできたはずです。けれどもそれもしませんでした。理由は、箴言の言葉にあるように、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25」です。主に信頼して、主が守ってくださるという確信があったからです。

 そして部屋の窓が「エルサレムに向かってあいていた」理由を考えてみたいと思います。彼が、祈りの人であっただけでなく御言葉の人であったことも思い出してください。ダニエルが若いときに捧げた祈りには、他の聖書の言葉がたくさん含まれていました(2:2023)。彼はかなり、御言葉を読んでいたのです。

 そしてエルサレムに向かって祈ることについても、聖書の中に書き記されています。ダニエルが生きていた頃から420年ぐらい前の記録です。ソロモンが神殿の建築を終えて、その奉献を行なったときとても大切な祈りを捧げました。列王記第一8章にあります。彼は、この神殿の建物に神が宿るのではなく、神は天も、天の天もお入れすることはできないと言っています。ではなぜ神殿を建てたのか?この所に向かっていのる祈りを聞いてください、と彼は祈ったのです。

 モーセがかつて、このようなことを行なえば神は呪われると言ったその具体例をいろいろ出しています。そしてその罪を犯した時に、悔い改めと罪の赦しの願いをこの神殿に向けてささげるとき、祈りを聞いてください、と言っています。列王記第一8章48節からこう書いてあります。「捕われていった敵国で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて、あなたに祈るなら、あなたの御住まいの所である天で、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民を赦し、あなたにそむいて犯したすべてのそむきの罪を赦し、彼らを捕えていった者たちが、あわれみの心を起こし、彼らをあわれむようにしてください。(48-50節)」ダニエルは、これを文字通りに行なっていたのです。ダニエルが捧げたその祈りの内容は、後に9章で読むことができます。

 その他、エレミヤ書には将来と希望を与える神のご計画があり、それは離散のユダヤ人が帰還することができるものだと、エレミヤが預言しています。そこには、「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。(29:12-13」呼び求め、祈り、捜し求めれば、その将来と希望、平安を与える計画を知ることができます。

 けれどもダニエルは単に願いを捧げただけでなく、感謝していました。「彼の神の前に祈り、感謝していた。」とありますね。祈りというと私たちはすぐに願うことを考えますが、その前に礼拝や感謝を捧げるべきです。祈りの中で、主がどのような方かであることを認めます。そして、主が行なってくださったことを感謝します。それから、罪を告白したり、願い事を聞いていただきます。この順番によって初めて、主が臨在しておられることを知ることができます。

6:11 すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。6:12 そこで、彼らは王の前に進み出て、王の禁令について言った。「王よ。今から三十日間、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれるという禁令にあなたは署名されたではありませんか。」王は答えて言った。「取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のように、そのことは確かである。」6:13 そこで、彼らは王に告げて言った。「ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。」

 彼らの思惑通りになりました。ダニエルは必ず祈ると彼らは知っていました。そして、彼らはダニエルのことを「ユダからの捕虜のひとり」と呼んでいます。覚えていますか、バビロン時代にはカルデヤ人がダニエルの友人三人のことを、「ユダヤ人(3:12」と呼んでいます。

 まず彼らは、メディヤ人やペルシヤ人ではない外国人が王の次に権力を持っていることを疎ましく感じました。そしてどの国においても自分のあり方を曲げず、同化しないで、他の神々を拝まないユダヤ人を嫌っていたのです。この妬みは今でも続いています。そして、この妬みは同じひとりの神を信じている、私たちキリスト者に対しても、多神教者は抱くことを忘れないでください。

6:14 このことを聞いて、王は非常に憂え、ダニエルを救おうと決心し、日暮れまで彼を助けようと努めた。

 王は、自分がはめられたことをここで気づきました。王はダニエルに対して非常な好意を抱いています。それで、法令の抜け穴が何かないか探しました。

6:15 そのとき、あの者たちは申し合わせて王のもとに来て言った。「王よ。王が制定したどんな禁令も法令も、決して変更されることはない、ということが、メディヤやペルシヤの法律であることをご承知ください。」

 恐ろしいですね、彼らの妬みはあからさまな殺意へと変わっています。妬みは殺人を生みだすことは、主イエス様に対するユダヤ人指導者を見たら分かりますね。

6:16 そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

 ここから、ダニエルがダリヨスに多く神の証しをしていたことが分かります。「あなたのいつも仕えている神が」と、ダニエルが仕えている神について知っているからです。いかがでしょうか、私たちは職場の同僚の人たちに自分がキリスト者であることを伝えているでしょうか?その人たちが、自分がキリストに仕えていることを知っているでしょうか?

 そして、いつも伝えているなら、主はダニエルに対するように、その言葉がその通りなのかどうか試される時があります。神が自分をお救いになる方であれば、自分が救われる経験を通して、周りの人にこの神は生きておられることを実証できるからです。

 例えばエズラ記に興味深い話があります。学者エズラが他の者たちといっしょにエルサレムに帰還するときに、金や銀などを持って出発しました。神殿のために使うからです。その道中、ペルシヤの王に部隊や騎兵たちを求めることを恥じた、とあります。「私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。』と言っていたからである。だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。(8:22-23」神のことを自慢していたのに、実際の場面で神ではなく王に頼っては証しにならないから、断食して道中守られるように祈ったのです。

6:17 一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴人たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。6:18 こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をして、食事を持って来させなかった。また、眠けも催さなかった。

 王は相当苦しみました。「私のちょっとした愚かな行為によって、こんなに善良な人を酷い目に合わせてしまった。一体どうすればよいのか?はたして、ダニエルが語っていた神は、彼を救い出してくれるのだろうか。」いろいろ考え、悩み、苦しんでいました。

3A 獅子の力からの救い 19−28
6:19 王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。

 ずっと眠れないままで夜明けを迎えました。そうしたら彼はすぐに獅子の穴へ急いで行きました。

6:20 その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」

 ダニエルの神のことを「生ける神」と呼んでいます。メディヤの神々はみな生きていないことを、ダニエルはダリヨスに教えていたのだと思います。目があっても見ることができず、耳があっても聞くことができず、口があっても話すことのできない神です。けれども、まことの神は生きておられると証ししていたに違いありません。

6:21 すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。6:22 私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」

 すばらしいですね、ダリヨスは悲痛な声でダニエルの安否を尋ねましたが、ダニエル本人はむしろ平安でした。おそらくぐっすり眠ったのではないかと思われます。

 「御使いを送った」とダニエルは言っています。燃える火の炉の中で、ダニエルの友人三人とともにおられた神の御子、イエス・キリストご本人であるかもしれません。

 そして、「私に罪のないことが神の前に認められたのです」とダニエルは言いました。私たちは、真理を語り、真実の中にいれば、どんな試練の中でも救い出されます。不思議に人間は、自分たちで計画を練って、企みをしないと救い出されないと思ってします。けれども逆に、真理と真実の中にいることが私たちを救うのです。詩篇に「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。(7:8」という祈りがあります。

6:23 そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。

 以前のダニエルの友人三人と同じですね。何の傷も認められませんでした。そして理由が書かれています。「神に信頼していたからである。」この一言に集約されている真理が、私たちの財産であります。ヘブル書の著者はこの出来事を意識して「信仰によって、・・・ししの口をふさぎ(11:33」と書きました。神への信頼は、これだけの力があるのです。

6:24 王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕えられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。

 王はこれら大臣と太守を激しく怒りました。箴言には王についての教えが多くあります。「王の心は主の手にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる。(21:1」「王の前から悪者を除け。そうすれば、その王座は義によって堅く据えられる。(25:5」主はダリヨスを用いて、これら大臣と太守に同じ報いを与えられました。

 もちろんそれは、完全な神の義ではありません。妻子を含めて穴の中に投げ込んでいるからです。これはバビロンでも同じく、当時の国では普通に行なわれた処罰です。エゼキエル書に明らかにされていますが、父の罪は子には問われません(18:20)。

 そして、主がおられるか、そうでないかの違いによって、結果がこうも大きく分かれるのかと思ってしまいます。ダニエルのそばで伏していた獅子が、まだ穴の底に落ちないうちに彼らをかみ砕きました。多くの人が疑いをかけ、「神が救われたというけれども、たまたまその獅子が腹を空かせていなかったのだろう。」と言うでしょう。神がおられることを認めないので、ライオンにその解答があると考えたいので 

 同じようなことが民数記に記されています。カデシュ・バルネアから約束の地に入ることを不信仰によって拒んだイスラエルの民に、主は荒野で40年間さまようことになると宣言されました。そうしたら民の中に、「とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。(14:40」と言う者がいました。モーセは止めましたが、彼らは出て行って、そこにいるアマレク人とカナン人は彼らを追い散らしました。同じアマレク人とカナン人でも、主がおられれば朝飯前なのですが、おられなかったら全く勝つことはできないのです。また主がおられても、主に対する信頼がなければ結果は同じなのです。

6:25 そのとき、ダリヨス王は、全土に住むすべての諸民、諸国、諸国語の者たちに次のように書き送った。「あなたがたに平安が豊かにあるように。

 すばらしいですね、かつてバビロンの王ネブカデネザルがそうした(4章)ように、メディヤ・ペルシヤの全土に住む者たちに手紙を書いています。そして挨拶の言葉も同じで、「平安が豊かにあるように」です。

6:26 私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。この方こそ生ける神。永遠に堅く立つ方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。6:27 この方は人を救って解放し、天においても、地においてもしるしと奇蹟を行ない、獅子の力からダニエルを救い出された。」

 バビロンのネブカデネザルの口だけではなく、国が変わってもその王の口から同じ告白が出ました。この方こそ生ける神である。人間の国は倒れるが、この国は永遠である。そして、天においても地においても奇蹟や徴を行なわれる。現にダニエルを獅子から救い出された、と。

 すばらしいです、主はどの時代になってもご自分を証ししておられます。主はイスラエルを選ばれて、イスラエルをご自分に対して祭司の国とし、ご自分を証しされていました。けれども彼らが神に逆らって、約束の地から引き抜かれました。それでも主は証しすることを止められなかったのです。異邦人の国、当時、最も大きな国の王の口を通して証しを行なわれました。

 神は生きておられます。どんな時代でも、どんなに暗い世であっても光となっておられます。

6:28 このダニエルは、ダリヨスの治世とペルシヤ人クロスの治世に栄えた。

 ダニエルは紀元前605年にバビロンに来てから、少なくとも536年辺りまでその地にいました。最後の最後まで彼は神に忠実でした。これが難しいのです。私たち人間は、あきやすいです。一時期、熱く燃えていた心も冷めてしまいます。

 けれども彼は最後まで忠実でした。イエス様が十字架につけられる前、過越の食事を弟子たちと共に取られるとき、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を最後まで示された。(ヨハネ13:1別訳参照)」とあります。そして弟子たちの足をお洗いになりました。主は、私たちをあきらめたりする方ではありません。その愛は最後まで続きます。だからその愛を受けた私たちも、最後まで主に仕える生活を送ることができます。私たちが疲れてしまった時、弱くなってもうだめだと思ったとき、どうかこの最後まで愛し、私たちに仕えてくださったイエス様を思い出してください。

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