ダニエル書 第四回(9−10章) 「定められた時」
アウトライン
3B 目的 − イスラエルの回復 (神が完了させるのは、イスラエルへの約束) 8−12
1C イスラエルの帰還 8−9
1D ペルシヤ、ギリシヤ帝国 8
2D 70週 9
1E 民のための執り成し 1−19
1F 聖書 1−2
2F 神の義 3−15
3F 神のあわれみ 16−19
2E 民のための幻 20−27
1F 祈りの答え 20−23
2F 定められた週 24−27
2C イスラエルの救出 10−12
1D 神の栄光 10
1E 栄光の幻 1−9
1F 断食 1−3
2F イエス・キリスト 4−9
2E 励まし 10−21
1F 幻の悟り 10−14
2F 霊の戦い 15−21
本文
3B 目的 − イスラエルの回復 (神が完了させるのは、イスラエルへの約束) 8−12
1C イスラエルの帰還 8−9
1D ペルシヤ、ギリシヤ帝国 8
ダニエル書9章をお開きください。第四回目は、9章と10章を読んでみたいと思います。メッセージの題目は、「定められた時」です。8章からダニエル書は、主にイスラエルに向けての幻と預言であることを学びました。終わりの日に、神はイスラエルに約束してくださったことを、みな実現させてくださいます。その約束とは、子孫がふえて祝福されること、土地を所有すること、そして大きな国になることです。これは同時に、神の国が立てられることでもありますので、私たち異邦人にとっても大いなる祝福であります。終わりの日は、神が約束された祝福が、みな実現するときです。
2D 70週 9
9章においては、イスラエルへの神の約束が実現する時が定められていることを学びます。神は、「70週」という期間を、イスラエルの民とエルサレムに対して与えられました。
1E 民のための執り成し 1−19
そして、このことが示されるきっかけとなったのは、ダニエルの祈りでした。9章は、ダニエルがイスラエルの民のために祈っているところから始まります。
1F 聖書 1−3
メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
ダニエルが祈り始めたのは、主のことばを読んでいたからでした。主のことばを読んで、神がいま何を考えておられるかを知って、祈りに導かれています。使徒ヨハネは、手紙の中で、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(第一5:14)」と言いました。神のみこころにかなった願いをすれば何でもかなえられるのですが、神のみこころは聖書によってのみ、知ることができます。また、聖書を読むうちに、自分の心に祈りが湧き上がってきます。この神に対して祈りたいと願うようになります。
そして、ダニエルが聖書のことばの中で、預言書を読んでいたことに注意してください。ダニエルは、今、自分が置かれている時代はどのようなものか、預言によって知ろうとしました。私たちが神の預言に心を留めることはとても大切です。ペテロはこう言いました。「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。
また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。(第二1:18‐19)」自分の目で見たものよりも、さらに確かな預言です。また、黙示録には、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(1:3)」とあります。預言を聞いて、それに心を留めることは幸いです。けれども、残念なことに、多くのクリスチャンが預言を調べることは危険だと言います。今、ノストラダムスの預言について危惧しているクリスチャンの記事の中には、「預言は占いではない。世界の破滅は起こらない。」というものが多いのです。しかし、ダニエルはそのような態度ではありませんでした。ダニエルは預言に興味を持ち、今、自分が置かれている時代がどのようであるかを知ろうとしました。
そして、その実際の聖書の内容ですが、エルサレムの荒廃が70年で終わることが定められていました。エレミヤ書25章をお開きください。25章の11節をご覧ください(新改訳1183頁)。「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、・・主の御告げ。・・またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」ユダ王国がバビロンの前に倒れたのは、紀元前606年のことです。それから70年後の538年にバビロンは倒れました。そして、ダニエルは今、紀元前539年にいます。自分がまさに、その年にいることがわかったのです。そして次に、エレミヤ29章をお開きください。29章の10節から読みます。「まことに、主はこう仰せられる。『バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。』」70年という期間です。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。・・主の御告げ。・・わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。(29:10-14)」つまり、70年が経ったらわたしを求めなさい。わたしに祈りなさい。そうすれば、あなたがたは再びエルサレムに集められる、と神は約束してくださっていたのです。そこでダニエルは祈りました。彼はまさに70年後に生きていたのです。この預言のとおり、主を心を尽くして求め、祈りました。
2F 神の義 4−15
私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。」
ダニエルはまず、神がどのような方か、また神がどのように人に関わってくださるかについて祈りました。大いなる神であり、私たちを愛してくださる神です。祈りは、神に対するに呼びかけから始まります。呼びかけるときに、神がどのような方であるか、またどのように私たちに関わってくださっているか知ります。使徒行伝では、困難に直面したとき、信徒たちがこう祈り始めました。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。(4:25)」これで神が、困難よりもはるかに大きい方であることを知ります。イエスは、「天にいます我らの父よ。」と呼びかけて祈りなさいと言われました。神が、私たちを我が子として愛しておられる父であることを知ります。
私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。
ダニエルは、これから罪の告白を始めます。自分たちがいかに神のおきてに背いたか、預言者に言うことに聞き従わなかったかを言い表します。
主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。
バビロンに捕え移されたのは、自分たちの罪のためである、と言っています。周りの状況のせいでもなく、悪魔のせいでもなく、もちろん神のせいではありません。自分たちのせいであると言っています。
あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。
ダニエルは、「神にそむいたからです。」「神に罪を犯したからです。」と言いました。他のだれでもなく、神ご自身に罪を犯したことを告白しています。似たような祈りを、ダビデも行なっています。バテ・シェバと姦淫の罪を犯し、その夫を殺したときに、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。(詩篇51:4)」と祈りました。
神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。
ダニエルは、イスラエルにふりかかったわざわいをみな認め、受け入れました。神のさばきとして受け入れました。ただ悲しんで、嘆いているだけではありませんでした。むしろ、これは正しいことで、私たちが受けるに値するものであると、心の中にしっかりと受けとめたのです。そこで、次の祈りが始まります。
しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。
ダニエルは、神がイスラエルをエジプトから連れ出されたことを思い出しています。そのとき、神は、イスラエルが何か良いことを行なったから救い出されたのではありません。ただ、神ご自身があわれんで、かわいそうに思われて、救い出されたのでした。そこで、ダニエルも、この神のご性質により頼んで、イスラエルをエルサレムに連れ戻してくださるように祈ります。
3F 神のあわれみ 16−19
主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。
ダニエルは、繰り返して、「あなたの正義のみわざのために」「あなたのあわれみによって」「あなたの名がつけられている町を」「あなたの民が」と言っています。自分たちの正しい行ないではなくて、神の正しさによってこれらのことを願い出ています。
ですから、ダニエルの祈りをまとめると、2つの特徴があります。一つは、自分の罪を認めたことです。いま起こっている災いについて、自分に責任があるとしました。これはとても大切なことです。私たちに困難なことがふりかかったとき、どうでしょうか。「主よ。なんでこんなことをなさったのですか。」「神さま、あまりにもひどいじゃないですか。」と言って、自分がしたことを神のせいにします。あるいは、「このことが起こったのは、あの人がこんなことをしたからだ。」と言って、他人や周りの状況のせいにします。けれども、そこには真の解決はないのです。真のいやしはありません。6月に、カルバリーの聖書学校で校長をしておられたラリー・テイラーという方が日本に来ます。彼は、生きていたらちょうど私と同じ年齢ぐらいの息子さんを持っていました。しかし、中学生のときに自殺しました。その悲しみはとてつもなく大きいものでしたが、彼はこう言います。「唯一の心のいやしは、私自身に罪があったことを認めたことです。息子のエリオットが自殺したのは、私の罪のせいなのです。」御霊によって、問題を自分の責任として受けとめるとき、真のいやしが来ます。
そして、ダニエルの祈りの特徴として、二つ目は、神のあわれみに拠り頼んだことです。自分たちが行なったことではなくて、一方的な神のあわれみとみわざに拠り頼みました。ましてや、自分たちの行ないは罪と不義に満ちていたのです。私は、過去に、リバイバル集会によく参加していましたが、そこでの祈りはこんなものでした。「主よ。私たちは、何十時間、何百時間も祈りを積み上げました。献金もこれだけしました。主よ、このことを見逃しておられるわけがありません。どうか、あなたが日本にリバイバルを起こしてください。」いいえ、リバイバルは来ません。神は、私たちの正しい行ないによって祝福されるのではなく、ただ神があわれんでくださるから、神が祝福しようと決めてくださるから、祝福されるのです。祈りは、神のあわれみによって聞かれます。
2E 民のための幻 20−27
1F 祈りの答え 20−23
私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。
すごいですね、ダニエルがまだ祈っているときに、祈りの答えが与えられました。すぐに祈りが聞かれました。その答えを持ってきたのは、天にいる御使いガブリエルです。すばやく飛んで来た、と彼は言っていますが、どのくらい速いのでしょうか。むろん、音の速度ではありません。光の速度でもありません。思いの速度です。私たちがある事を、頭の中で思い描くほどの速さで、ガブリエルは宇宙の外側から地球にいるダニエルに到達することができます。バウロは、エペソ書で、祈りを霊の戦いのときの武器として挙げています(6:18)。私たちがこの日本で、アメリカで起こっている兄弟姉妹のために祈るとき、それは一瞬のうちに届きます。今、この時間に起こっていることについて、私たちが祈れば、それは、思いの速度で、地球の反対側にいる人々に届くのです。なぜなら、ガブリエルのように、霊的な存在は空間に制限を受けていないからです。ですから、祈るときに、確信を持って祈ってください。ヨハネは手紙の中で、「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(第一5:15)」と言っていますが、祈りはすぐに神に聞き届けられています。
そしてこのガブリエルですが、彼はメシヤの到来を伝える使命を持っていた御使いです。これから、メシヤが来られることをダニエルに伝えますが、その約500年後に、エルサレムの神殿の香壇のところで、ザカリヤの前に現われたことを思い出してください。主の前ぶれとなるバプテスマのヨハネの誕生を告げ知らせに来たのです。さらに彼は、ヨセフのいいなずけのマリヤのところに行きました。あなたはメシヤをみごもる、と知らせました。10章に入ると、ミカエルが登場しますが、ダニエル書は、天使の働きについて詳しく学ぶことができる書物です。
2F 定められた週 24−27
そしてガブリエルは、ダニエルに幻の解き明かしをします。ダニエルが祈った、イスラエルとエルサレムの町について、これからどのようになるかを説明します。この24節から27節までは、聖書全体の預言を知るための鍵として、最も大切な箇所の一つでもあります。
あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
イスラエルの民とエルサレムについて、70週と言う期間が定められています。私たちは、神は世界を動かしておられるとき、イスラエルを中心軸にして動かしておられることを学びましたが、その期間は70週です。1週は7年間なので、70週は490年ということになります。ただこれは、バビロンの暦なので、現在の太陽暦とは少し異なります。私たちは1年と365日としていますが、バビロンの暦では360日です。そして、70週の後に、6つのことが約束されています。1つは、そむきをやめさせること。2つめは、罪を終わらせること。3つめは、咎を贖うこと。4つめは、永遠の義をもたらすこと。そして5つめは、幻と預言を確証すること。さらに、6つめに、至聖所に油を注ぐことであります。この6つを一言でまとめると、「神の国を立てる」と言うことです。神が意図されているような世界、悪魔に支配され、罪と不法がはびこる世界ではなく、神ご自身が統治される世界を造られます。したがって、終わりの時には神の国が立てられ、その時までの期間が490年と言うことになります。
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
この70週という時計は、エルサレムを再建する命令が出されてから動き始めます。これからユダヤ人たちがエルサレムに戻ることができて、それから神殿を建てて城壁を作るのですが、この城壁をつりなさい、という命令が出されてから70週の時計が始まります。ネヘミヤ記2章をお開きください(新改訳743頁)。1節に、「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、王の前に酒が出たとき、私は酒を取り上げ、それを王に差し上げた。これまで、私は王の前でしおれたことはなかった。」とあります。ネヘミヤが、エルサレムの町が廃墟となっていることを思って、しおれていたのです。ネヘミヤが王にそのことを告げると、王は、6節に、「快く送り出してくれた」とあります。アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月とは、紀元前445年の3月14日のことです。そして、ここに、「君主の来るまでが七週。また六十二週の間」とありますが、これは誤訳であり、七週と六十二週の間、となります。つまり、君主メシヤが来るまでは、69週が定められています。483年です。その間、苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される、とありますが、ネヘミヤが城壁を再建したとき、多くの反対と苦しみがありました。
その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。
油注がれた者、つまりメシヤが483年の後に断たれ、何も残りません。これはメシヤが殺されることの預言です。エルサレムを再建する命令が出された年月である、紀元前445年の3月14日から483年はいつになるのか計算した学者がいました。彼によると、483年後は紀元32年4月6日になります。このときだれがいたか、思い出せますか。イエスですね。もっと詳しく調べますと、紀元32年4月6日は、イエスがエルサレムに入城された日曜日、イエスが十字架につけられる週の日曜日でした。そのとき、イエスがエルサレムに入られるとき、人々が、メシヤについての詩篇である118篇を歌いました。「ホサナ。ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」つまり、「救ってください。救ってください。」と言って歓声を上げたのです。ですから、このダニエルの預言は、たった一日も違わず成就しました。イエスはメシヤとしてエルサレムに入られ、そして過越の祭りの日に十字架につけられました。
やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
やがて来るべき君主とは、偽物のメシヤのことです。反キリストのことです。本物のメシヤは断たれてしまいますが、偽者のメシヤは、イスラエルの民と聖所を破壊します。まず、反キリスト自身ではなく、彼と同じ民がこの町と聖所を破壊します。これは紀元70年に成就しました。ローマの皇帝ティトスがエルサレムを包囲し、それを破壊し、神殿は、石が積まれたまま残ることはありませんでした。イエスがオリーブ山におられたとき、弟子たちに語られたとおりです。それから、洪水が起こるとありますが、これは離散のことです。ユダヤ人は流浪の民となり、世界中に散りました。そして、イスラエルの地には戦いが続きます。ローマ帝国のあと、ペルシヤが638年にこの地を支配します。すぐあとに、イスラム教国によって支配され、紀元1000年を過ぎると、十字軍がヨーロッパから入ってきました。そして、1188年にオスマン・トルコがこの地を支配し、それは1917年になるまで続きました。第一次世界大戦のときに、連合国がイギリスにこの地を管轄するようにさせました。ですから、エルサレムの地は戦いが続き、荒廃が定められていました。
彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。
反キリスト自身が登場します。反キリストが、70週の最後の週の初めに多くのものと契約を結び、半周後、つまり、3年半後に、神殿のいけにえとささげ物をやめさせるのです。みなさん、ここで不思議に思わている方がいらっしゃるかもしれません。不思議なことが二つあるんですね。一つは、何で神殿が建てられているのか、ということです。神殿が建てられているのなら、そこにはイスラエル人が住み、エルサレムはイスラエルのものとなっていなければならないからです。でも、紀元70年にエルサレムの町は破壊されました。つまり、ここは、イスラエルの民が再び自分たちの土地に集められて、エルサレムを自分たちのものにしていなければならないことを表わしています。他の聖書箇所には、離散から集められることについて、数多く預言されています。実は、イエスが初めに来られることについての預言よりも、イスラエルが再び集められることの預言のほうが多いのです。これは19世紀に入ってから始まり、1948年にはイスラエル国が建国され、1967年にエルサレムがイスラエルのものとなりました。あとは、神殿の丘に神殿が建てられるのを待つばかりになっています。
けれども、よくご存知のように、あそこには岩のドームがどかっと建っています。イスラム教徒が、ユダヤ人のためにあそこをゆずるわけがありません。しかし、今、実際の神殿の場所は、岩のドームと少しずれているのではないか、という意見があり、一部のユダヤ人は、神殿のいけにえを再開できるように、準備をしているのです。今、イスラエルとパレスチナの間でなかなか和平協定を持つことができず、今にも戦争が勃発してもおかしくない状態ですが、聖書によると、この和平を見事に、きちんと結ばせるような人物が現われることを預言しているのです。それが、ここ、「彼は1週の間、多くの者と堅い契約を結ばせる。」と言うことであります。ユダヤ人は、本物のメシヤを受け入れず、メシヤは死んでしまいましたが、偽者のメシヤは歓迎して、受け入れてしまうのです。私たちの熱望していた神殿建設をかなえてくれたとして、この人物を救世主としてあがめます。ところが、3年半がたつと、彼はいけにえとささげ物をやめさせるのです。そして、イエスが預言されたように、至聖所の中にはいって、自分こそが神であると言い、ユダヤ人へ大迫害を開始します。
しかし、神は、このイスラエルの民をあわれみ、彼らが滅びないようにしてくださいます。次をご覧ください。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。
残りの3年半の間にユダヤ人は、たちまち全滅してしまうのではないかと思われるほど、ひどい迫害を受けるのですが、神が奇跡的に彼らを守ってくださり、最後にこの反キリストを滅ぼしてくださいます。定められた全滅が、荒らす者の上にふりかかります。ゼカリヤ書によりますと、ユダヤ人はこの迫害のあいだにメシヤを求め、自分たちを救ってくださるように祈り始めます。そのとき、イエスが天から来てくださり、イエスが反キリストをたちまち滅ぼしてくださるのです。そのとき、彼らは、自分の先祖たちが受け入れなかったあのイエスが、実はメシヤであったと気づくのです。ゼカリヤは、こう預言しました。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。(12:10)」彼らは悔い改め、イエスを信じて、新たに生まれるのです。主は、なんと恵み深い方でしょうか。あわれみ深い方でしょうか。こんなに心をかたくなにして、聞き入れなかったユダヤ人を、最後には完全に救ってくださるのです。
そして、まだ、不思議なこととの2つめを言っていませんでした。1つ目は、なんで神殿が建てられているのか、ということでした。そして不思議に思うことの2つめは、なんで最後の70週目だけが将来のことなのか、ということです。ネヘミヤに、ペルシヤの王がエルサレムを再建するように命令を出してから、イエスが十字架につけられるまでは、そのまま483年が数えられていました。けれども、なんでその7年後に終わりが来なかったのか、という疑問です。490年なら、32年の7年後の39年とか40年に終わりが来るはずです。でも、そのときは、初代教会が活躍している真っ最中であり、何の終わりのきざしもありませんでした。そこで、私たちは新約聖書の助けが必要なのです。イエスによって、また使徒たちによって語られた神の奥義が、新約聖書の中に記されています。それは、第五回目、最終回のときにお話したいと思います。
2C イスラエルの救出 10−12
それでは、次に10章を読んでいきましょう。10章は、実は12章の最後まで一続きになっている話しです。なぜなら、一つの幻のことが3章に渡って説明されているからです。この幻では、今お話した、荒らす忌むべき者の活動と、それに引き続くイスラエルの救いについて描かれています。90歳以上のダニエルは、晩年に、イスラエルが最終的には祝福されることを知って、安らかに眠りにつけるようになります。
1D 神の栄光 10
1E 栄光の幻 1−9
1F 断食 1−3
ぺルシヤの王クロスの第三年に、ベルテシャツァルと名づけられていたダニエルに、一つのことばが啓示された。そのことばは真実で、大きないくさのことであった。彼はそのことばを理解し、その幻を悟っていた。
ペルシヤの王クロスの時代に、ダニエルは幻を見ました。ダリヨス王は、バビロンを倒してから2、3年後に死んでしまいました。そこでクロスが王となりましたが、彼は王となるとき、ユダヤ人がエルサレムに帰還する布告を出しました。エレミヤの預言のとおりになり、そのことはエズラ書1章1節に書かれています。そして、この幻は、大きないくさのことです。ペルシヤ帝国とそれに続くギリシヤ帝国でのいくさが描かれていますが、その前に、天において大きないくさがありました。それが10章に描かれています。
そのころ、私、ダニエルは、三週間の喪に服していた。満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。
ダニエルは、断食をしていました。まる3週間、つまり21日の間、祈りにささげていました。私たちは9章において、祈りは霊の領域で聞き届けられていることを学びましたが、この3週間の間に、ダニエルの祈りに応じて、いろいろな御使いが活動し、またそれに反対する天使が活動していたのです。この3週間後に、いろいろな御使いがダニエルのところにやって来ます。
2F イエス・キリスト 4−9
第一の月の二十四日に、私はヒデケルという大きな川の岸にいた。
幻の中で、大きな川の岸にいました。
私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。
一人目の御使いが来ました。ダニエルといっしょにいた人々は、震え上がって逃げ隠れ、ダニエルは意識を失って、倒れてしまいました。黙示録1章をお開きください。ヨハネが同じように、死人のようになって倒れてしまった箇所があります。1章の12節から読みましょう。「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。(1:12-16)」そして、ヨハネは倒れてしまい、この人は、「わたしは最初であり、最後である。わたしは、死んだが、見よ、いつまでも生きている。」と言いました。そうです、この方はイエス・キリストです。ですから、ダニエルに現われたのは、御使いと言うよりも、神の御子イエス・キリストご自身だったのです。イエスがダニエルに現われてくださいました。この栄光の姿を見て、彼は気絶してしまったのです。
ここに、「顔の輝きもうせ」とありますね。これは、直訳で、「尊厳は破壊し」となります。ダニエルの尊厳、その誇りとプライドは、この方の前で破壊されてしまいました。似たようなことが、使徒ヨハネにも起こって、死人のようになってしまったのです。預言者イザヤも、似たような体験をしています。主の御姿をみたイザヤはこう言いました。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。(6:5)」主の御姿を見て、自分がいかに汚れているか、罪ある者かを知ったのです。神との出会いをすると、私たちはこのような経験をします。生きておられる神に私たちが出会うと、自分はいかに汚れているか、罪ある者に気づき、ああ、もう私はだめだと思うのです。イエスは言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。…へりくだった者はは幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:3,5)」生ける神に出会うと、私たちの心は貧しくなります。そして、本当の意味でへりくだることができます。ダニエルは、尊厳が破壊され、倒れてしまいました。
2E 励まし 10−21
そして次から、このダニエルを励まし、立ち上がらせる御使いたちが現われます。
1F 幻の悟り 10−14
ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。
神に愛されている人よ、と言って、この御使いは励ましました。「あなたは神に愛されている」と聞くことは、私たちにとって大きな励ましになります。
彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。
ダニエルが3週間の祈りをささげたその日から、実はこの御使いがダニエルのところに来ようとしていたのです。
ぺルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をぺルシヤの王たちのところに残しておき、終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが。
ふたたび、終わりの日についての幻を悟らせるために、この御使いが来ようとしていました。しかし、ペルシヤの君がその3週間の間、彼に立ち向かっていたので、来ることができませんでした。けれども、第一の君のひとりのミカエルが助けに来たのです。壮絶な、霊の戦いが天において繰り広げられていました。
11書を読みますと、ペルシヤ帝国が倒れる預言が書かれています。この幻についてダニエルに知らせようとするとき、ペルシヤの君が妨げたのです。「ペルシヤは永遠に続くのだと人間に思わせろ。本当のことはいってはいけない。ペルシヤは偉大なのだ。」というようなことを、この御使いに話したのかもしれません。この君は、悪魔側についている天使です。ペルシヤという大帝国の背後に、実はものすごい威力をもった天使が活動していました。私たちは、人間の支配の姿を、ネブカデネザルが見た夢のなかで、また、ダニエルが見た幻の中で見ましたが、それは、このような霊的存在の力で動かされていたのです。人間は知らずに、自分たちのほしいままに土地を征服し、支配していると思っていましたが、実は、その背後に悪魔的な、反キリスト的な天使が彼らを動かしていました。ですから、現代の国々にも、このような霊的存在が活動していると考えられます。世界の大きな動きの中に、悪魔とその手下たちが動いています。しかし、この御使いは、ミカエルの助けによってダニエルのところに来ることができました。ダニエルの側につく、神の支配にある天使たちが存在するのです。私たちにもついていてくださいます。イエスは、「彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。(マタイ18:10)」と言われました。そして、私たちには、イエス・キリストご自身がついていてくださいます。コロサイ書2章15節には、「神は、キリスト(の十字架)において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」とあります。したがって、私たちは、霊の戦いにおいて、圧倒的な勝利を約束されているのです。
2F 霊の戦い 15−21
彼が私にこのようなことを語っている間、私はうつむいていて、何も言えなかった。ちょうどそのとき、人の姿をとった者が、私のくちびるに触れた。それで、私は口を開いて話し出し、私に向かって立っていた者に言った。「わが主よ。この幻によって、私は苦痛に襲われ、力を失いました。わが主のしもべが、どうしてわが主と話せましょう。私には、もはや、力もうせてしまい、息も残っていないのです。」
先ほどの主の御姿によって、まだショックから立ち上がれていないようです。
すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」
ダニエルはようやく、元気づきました。
そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ぺルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。ペルシヤの次に台頭するギリシヤ帝国にも、背後に悪魔的存在がいました。
しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。
ミカエルが、「あなたがたの君」つまり、イスラエルの君として紹介されています。ミカエルは。ユダの手紙において「御使いのかしら」として紹介されいます。そこで、モーセの死んだ体について、悪魔と論じ合っています。ですから、ミカエルはイスラエルの国を支配する御使いです。このミカエルのほかに、ペルシヤやギリシヤの君に立ち向かう者はいない、と言っています。イスラエルに味方する霊的存在は、ほかにはいないと言っています。これが世界の姿です。大患難時代の終わりには、世界中の軍隊がイスラエルに集められ、ユダヤ人を滅ぼし尽くそうとします。
こうして、「定められた時」という題名で語らせていただきました。預言がいかに確かなもので、私たちはこれに心を留めなければいけないことがお分かりになったと思います。イエスが救い主キリストであることが分かったのも、数々の預言があったからです。お祈りしましょう。
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