ダニエル書9章 「神の時間表」

アウトライン

1A ダニエルの祈り 1−19
   1B エレミヤの「七十年」預言 1−2
   2B 罪の告白 3−14
   3B 憐れみの請願 15−19
2A 御民と聖なる都 20−27
   1B 祈りの答え 20−23
   2B 神の時間表 24−27

本文

 ダニエル書9章を開いてください、今日のメッセージ題は「神の時間表」です。これで、ダニエルの見た夢と幻の三つ目になります。7章に四頭の大きな獣の夢があり、8章に二頭の獣、そしてアンティオコス・エピファネスを表す「小さな角」についての幻がありました。そしてここ9章にある幻です。

 この9章には「七十週」という、聖書の預言、特にキリストの来臨の時期について知るための非常に重要な預言があります。いわば「神の予定表」です。ダニエルがかつて神に賛美を捧げた時に、「神は季節と時を変え(2:21」ると言いました。時を支配されているのは神です。その神が、人間の歴史の中でご自分のキリストが来られることについて、また贖いを完成させることについて時を定めておられました。

 イエス様がこの世に来られたのは偶然ではありません。これから学びますがあの約二千年前の出来事は、その時期もすべて前もって神に定められていました。そして今日に至るまでの歴史、そしてこれから起こることも、神は前もってご自分の主権によって定めておられます。イエス様は、「そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。(マタイ16:3」とパリサイ人とサドカイ人に警告されました。その警告は、主が再び来られることにおいても同じです。今、私たちがどのような時に生きているのか、神の時間表のどこにいるのかを知ることにより、見失ってはいけないものを見失わずに済むことができます。

1A ダニエルの祈り 1−19
1B エレミヤの「七十年」預言 1−2
9:1 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

 時は、ダリヨスが王になったばかりの元年です。覚えているでしょうか、バビロンの王ベルシャツザルが殺されてからダリヨスが王となり、そこでダニエルは大臣になりました。紀元前538年頃であると考えられます。

 ダニエルはエレミヤの預言を読んでいました。エレミヤ書を学んだ私たちにとっては、これは驚くべきことです。彼はエルサレムの町がバビロンによって完全に破壊されるまで預言し続け、破壊された後も残されたユダヤ人によって、無理やりエジプトに同行させられました。ですからその巻き物はエジプトにおいて完成したものと思われますが、何らかの形でメディヤ・ペルシヤの地にいるダニエルの手に渡っていました。エルサレムから逃れた民が、もしかしたらエレミヤ書の一部を持ってきたのかもしれません。あるいはバビロンから解放されたエジプトにいた人が、巻き物を持ってきたのかもしれません。

 ダニエルにとってエレミヤは、自分が幼子、少年であった時にエルサレムで孤独な預言活動をしていた人として見聞きしていたはずです。この預言者が一体何を語っていたのか、その全貌を知ることができると思って、もしかしたら入手した巻き物をすぐに開いて貪り読んだかもしれません。そうしたら見つけました。ここにあるとおり、「エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であること」を知ったのです。

 実際の箇所を読んでみましょう。まず25章を開いてください。
 

この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、・・主の御告げ。・・またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。(11-12節)

 そしてもう一箇所あります。2910節からです。
 

バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。・・主の御告げ。・・わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。(10-14節)

 私たちがよく知っている聖句「わざわいではなくて、平安を与える計画」というのは、バビロン捕囚後七十年後に帰還できるという約束の中で主が語られたことです。

 ここで興味深いのは、七十年の「計画」はあるのですが「呼び求めて歩き、祈るなら」、また「心を尽くして捜し求めるなら」という条件が付いていることです。計画なのですから、自動的に神がそうしてくださるものであると私たちは考えますが、祈りと願いによる積極的な関わりによって初めてその実現を見ることができるという条件があったのです。

 ある人が、「神の計画は必ずそのなりますが、神の御業は祈りを通して見ることができます。」と言いました。神のご計画の中に自分の身を投じて、神ご自身の恵みの栄光を私たちが見ることができるように、祈りという特権を私たちに下さったのです。それで、祈りの条件が七十年預言には含まれています。ですからダニエルが心を尽くして祈り始めます。

 ところでこの「七十年」という期間ですが、ダニエルにとって捕囚生活は約68年経っていました。バビロンに捕え移されたのが紀元前605年のことです。七十年後は535年あるいは536年です。今は538年ですから約二年後に成就します。エズラ記によればクロス王の第一年に、彼がユダヤ人に対してエルサレム帰還の布告を出しました。

 さらに興味深いことに、神殿だけを考えても七十年という期間が当てはまります。破壊されたのが紀元前586年です。70年後の516年に神殿再建の落成が行なわれました。ですから政治的捕囚の七十年と、宗教的捕囚の七十年のどちらもあります。

2B 罪の告白 3−14
9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。

 これからダニエルの祈りが始まります。ダニエルから私たちは数多くのことを模範にし、学ぶことができますが、彼の祈りもその一つです。

 祈りの姿勢についてですが、彼は「顔を神である主に向けて祈り、断食をし」た、とあります。これは、彼が他のことを横において祈りに専念する姿です。何となく気の赴くままに祈るのではなく、目を覚まして、力を尽くして祈ります。「断食」をするのは、食事をすることによって時間と神経を使うことのないようにするためです。

 聖書にはいろいろな祈りがあります。テサロニケ人への手紙第一には「絶えず祈りなさい。(3:17」とありますが、24時間、目をつむって祈りの姿勢を取ることではもちろんありません。そうではなく、どんな時にも、何を行なっているにしても、心の中で、または口に出して主に願い求めることを示しています。ネヘミヤ記には、ネヘミヤが決断をする時、王に相談をする時、敵の脅威を受けたとき、陰謀が発覚したときなど、すぐにその場で心の中で神に祈りました(例:2:4)。

 そして非常に短い、助けを求める祈りもあるでしょう。ペテロは水の上を歩いて、波を見てしまったばかりに沈みそうになった時、イエス様に、「主よ。助けてください。」と叫びました(マタイ14:30)。

 けれども私たちは、ダニエルのように、しっかりと時間を取って、他の妨げが極力入らないようにして、神の前にしっかりと座って、献身的に祈ることも必要です。パウロが霊の戦いのことを話している時に、こう言いました。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18」御霊の助けによって、集中して、忍耐強く祈り通します。

 そして「荒布を着、灰をかぶっ」たと言っています。荒布はらくだの皮を反対側にして来ます。毛が体に刺さってちくちくします。これは、ユダヤ人が悲しみや嘆きを表す時に行なうことです。

 そしてダニエルは、「願い求め」ています。はっきりと主からの祈りの答えがあることを期待して、祈り通そうとしています。私たちは祈りが神に聞かれるという確信がないまま祈ってはいけません。聞いておられるのか、おられないのか分からないというのは駄目です。

9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。

 ダニエルの祈りは「呼びかけ」から始まりました。自分が誰に祈っているかを明確にしました。これが祈りの始めであり、基本です。イエス様が私たちに命じられた祈りは、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6:9」です。御名をあがめる、つまり神のご性質、働き、特徴を見つめます。

 ダニエルは今、エレミヤ書を読んでいて、ユダヤ人が世界に散らばっているのがまさに神の御言葉の通りに、契約の通りになっていることを悟りました。そして神が世界中から彼らを連れ戻すという約束まで与えておられることを知りました。それで、「ああ、私の主は、なんと恐るべき大いなる方なのでしょう。」と驚いています。

 そして、「契約を守り、恵みを下さる方」なのですが、それはあくまでも「神を愛して、神の命令を守る」ことにおいてそうなのです。エルサレムは廃墟となり、イスラエルの民が散らされてしまったのは、神が契約を守らなかったのではなく、彼らが神に背を向けて、命令に背いていたからです。

9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。9:6 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。

 ダニエルは、ありったけの表現を用いて、イスラエル人が罪を犯したことを言い表しています。「罪」「不義」「悪」「背き」「命令から離れる」です。

 そして、主の命令に背いている彼らに対して、主は預言者たちを次々に送りました。例えば、ダニエルが読んでいたエレミヤ書には、エレミヤが王たち、首長たち、一般の人々、それぞれの階層の人たちに語っている姿を確認することができます。

 ダニエルはそこに「先祖たち」も加えています。なぜなら、これは一過性の背きではなかったからです。イスラエルに律法が与えられた時以来ずっと罪を行なってきたのであって、その結果、神の怒りが下った、具体的には北イスラエルはサマリヤの陥落が、南ユダはエルサレムの陥落があったのだ、ということです。彼は歴史的な祈りを捧げています。

 私たちは罪の告白において、時間をたっぷり取る必要があります。いい加減であってはいけません。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、その罪を神は赦される。(1ヨハネ1:9参照)」という御言葉を基に、極端な場合は、まるで呪文のように罪の赦しを願って、自動販売機のように罪の赦しが与えられると思ってしまいます。そこには、神に対して罪を本当に犯したのだ、という悲しみがありません。自分の罪を真に悲しんでください。

9:7 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。9:8 主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。

 ダニエルが強調しているのは、「不面目は私たちのもの」だということです。主が、ユダの人々、エルサレムの住民を国々に追い散らされたことは、完全に正しいことであり、そうなったのは自分たちのせいである。もっぱら自分たちの不信の罪のためであると、責任を受け入れています。

 「神が正しく、自分に非がある」という姿勢は、絶対に曲げてはならない根本的なものです。私たちは何か不幸なことが起こると、神を非難します。いつもの時は神のことを認めない人ほど、悪いことが起こると神の名を口にします。例えば、「地震でこんなにたくさんの人が死んだが、神がこれを許されたのかね。」と言います。主の言葉によれば、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:3,5」です。

 つまり、「自分が正しく、神に非があるのだ」という立場です。けれども、神が真実な方で、公正な方なのです。私たちには情報が足りません。いや、御言葉による情報があっても怠慢によって、それを見ていません。

 すべての人が罪を犯して、それゆえ全世界を神が裁かれる日が近づいています。そのため、世界各地で例えば大きな地震が起こり、主が、確かに世界を裁かれるのだという徴を見せておられます。私たちが神の前にへりくだり、悔い改めるためです。それにも関わらず快適な居間で地震などのニュースを見て、神の名を口にし、非難するのです。

 ユダヤ人の人たちにとっては、私たちよりもっと自分の非を認めることが難しかったでしょう。言葉で表現することのできないほど凄惨な光景をエルサレムの住民は目撃しました。奴隷として連れて行かれ、苦役と恐怖でいっぱいです。ホロコーストのことも思い出してください、あの出来事のせいで神を信じなくなったユダヤ人がたくさんいます。「なんで神はこんなひどい目に合わせるのか?」と悪徳をついてもおかしくないのです。

 けれども、民族の単位においても、国の単位においても、そして個人的にも、自らの非を認めることによって、そこから初めて回復が始まります。罪の赦しが始まり、癒しが始まります。有名なヨハネの手紙第一1章9節を、その前後の言葉といっしょに読んでみましょう。
 

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。(8-10節)

 罪はない、罪は犯したことがないと言い張るので罪が残っているのです。罪を言い表すとは、告白するとは、「神が言われていることに同意する」という意味があります。神が罪だとみなしておられることを同意するのです。

9:9 あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。

 後で、15節以降からダニエルは、エルサレムの回復を願うにあたって、神の憐れみと赦しを請いています。けれども、自分たちが神に背いたという衝撃がまだダニエルの心の中で続いており、それをさらに言い続けます。

9:10 私たちは、私たちの神、主の御声に聞き従わず、神がそのしもべである預言者たちによって私たちに下さった律法に従って歩みませんでした。9:11 イスラエル人はみな、あなたの律法を犯して離れ去り、御声に聞き従いませんでした。そこで、神のしもべモーセの律法に書かれているのろいと誓いが、私たちの上にふりかかりました。私たちが神に罪を犯したからです。9:12 神は、大きなわざわいを私たちにもたらすと、かつて私たちと、私たちをさばいたさばきつかさたちに対して告げられたみことばを、成就されたのです。エルサレムの上に下ったほどのわざわいは、今まで天下になかったことです。

 モーセの律法には、後のイスラエルの歴史について鳥瞰的な預言があります。レビ記26章と申命記28節にあります。祝福と呪いについてモーセが語ったことは、すべて成就しました。離散生活についてはこう書いてあります。申命記2863節から読みます。
 

かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。(63-68節) 

 これらのことがその通りに起こりました。紀元前1405年頃にモーセが語ったことは、北イスラエルは約720年後に、南ユダは約850年後に起こりました。

 「これらはいにしえの掟だ」と、捕囚前のユダヤ人たちはあしらっていたことでしょう。「古くさい我々の伝統よりも、周りで流行っている偶像を拝んでみよう。」と考えていました。エレミヤが預言するや、「あいつは古いものを取り上げて、我々の生活に干渉してくる。とんでもない原理主義者だな。」と感じていたかもしれません。

 そのことを知ってかモーセはイスラエルが裁かれることを歌にして、イスラエル人に聞かせました歌は申命記32章にあります。歌にした目的は、後世に子孫たちが何気なく歌っているその歌の内容が、「あっ、これってまさに私たちの状態ではないか。」と思い起こさせるためです(46節)。

 神の言葉はその通りになります。昔に語られているからと言って、今は関係ないのではなく、いや今に至るまで主は忍耐して待ってくださっているのです。「自分の生活には関係ない」と思っても、必ずその通りになります。

9:13 このわざわいはすべて、モーセの律法に書かれているように、私たちの上に下りましたが、私たちは、不義から立ち返り、あなたの真理を悟れるよう、私たちの神、主に、お願いもしませんでした。

 主が語られたことが起こっていても、それに気づかず立ち上がろうとしません。ただ漠然と自分の悲惨な状態を耐え忍んでいることが実に多いです。自分がどんな悪い状態に陥っても、「とんだ災難になったものだ。」と言って、ただ苦しんでいるだけなのです。だから神は、「いつになったら、気づくのか?いつになったら、目覚めるのか?」と言われているのです。

9:14 主はそのわざわいの見張りをしておられ、それを私たちの上に下しました。私たちの神、主のみわざは、すべて正しいのです。私たちが、御声に聞き従わなかったからです。

 「見張り」をするというのは、ご自分が前に語られた災いが確かに行なわれているか監視するということです。ご自分が言われたとおりに確かに成就したことを強調している言葉です。そして次から、神の憐れみを請う祈りを始めます。

3B 憐れみの請願 15−19
9:15 しかし今、私たちの神、主よ、あなたは、力強い御手をもって、あなたの民をエジプトの地から連れ出し、今日あるとおり、あなたの名をあげられました。私たちは罪を犯し、悪を行ないました。9:16 主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、どうか御怒りと憤りを、あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、エルサレムとあなたの民が、私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。

 ダニエルの願いは、エルサレムが回復することでした。神殿は破壊され、そこが廃墟となり、異邦人に踏み荒らされています。それを回復してほしいと願っているのですが、これまで見てきたように彼はそれを当然の権利として主張しませんでした。もっぱら自分たちの罪のためにこのようになっていると言いました。

 ならば、どうして回復を願うことができるのか?それは神の御名のゆえです。「あなたの名をあげられました」とダニエルは言いました。「あなたの町」「あなたの聖なる山」「あなたの民」と、主ご自身の名のゆえに、エルサレムを治めてくださいと祈っているのです。同時代に、バビロンの捕囚の地でエゼキエルがこの預言を受けました。3622節からです。
 

それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。(22-24節) 

 主が祈りを聞いてくださるのは、一方的な憐れみのゆえであり主の御名のゆえなのです。神の救いと同じです。神がキリストにあって私たちを選ばれたのは、「恵みの栄光が、ほめたたえられるためです(エペソ1:6」と使徒パウロは言いました。まったく罪の中に死んでいる私たちをキリストにあって救われることによって、その恵みによって神の御名があがめられるためなのです。

 ここでダニエルは、出エジプトの出来事を持ち出しています。主が、大きな力を示してエジプトからイスラエルを救い出されました。同じように、エルサレムの解放について大きな力を示してください、という願いです。イザヤ書519節以降にも、エジプトから救い出してくださったことと同じように、シオンに贖われた者が帰ってくるという約束を与えてくださっています。

 そして終わりの日には出エジプトを思い起こすのではなく、離散のユダヤ人が帰還するという神の御業を、神の救いの基とされます。「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。(エレミヤ16:14-15

 今の時代は、イエス・キリストの復活が私たちにとっての、祈りの根拠です。神がイエス様を死者の中からよみがえらせてくださったその御力によって、この問題を解決してください、この救いを行なってください、癒しを行なってください、と祈ることができます(エペソ1:1920参照)。

9:17 私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください。9:18 私の神よ。耳を傾けて聞いてください。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。

 再び言っています、「私たちの正しい行ないによるのではなく、あなたの大いなる憐れみ」によるのだと。

9:19 主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです。」

 ここでも繰り返しています、「あなたご自身のために」「あなたの名がつけられているから」という理由で、エルサレムとその神殿の回復を願っています。ネヘミヤも同じ心を持っていましたね。ユダヤ人は帰還したけれども、非常な困難の中にあり、城壁も崩れているという知らせを聞き、何日も泣いて、断食して祈りました(ネヘミヤ1章参照)。エルサレムとその神殿を思うことは、神を思うことなのです。

 ダニエルは最後に主に願い求めましたが、その言葉がかなり積極的です。17節から始まっていますが、「願いを聞き入れてください」「御顔を輝かせてください」「耳を傾けてください」「目を向けてください」「心を留めてください」「遅らせないでください」です。積極的、能動的、真実な願いが必要です。イエス様の命令を思い出しますね、「求めなさい、捜しなさい、戸を開きなさい」です。

2A 御民と聖なる都 20−27
 そして次に祈りの答えを読むことができます。

1B 祈りの答え 20−23
9:20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、9:22a 私に告げて言った。

 すばらしいですね、彼がまだ祈り終えないうちにガブリエルがやって来ました。祈りがこんなにも早く答えが与えられました。「私が初めに幻の中で見たあの人」というのは、8章でメディヤ・ペルシヤ、そしてギリシヤについての幻をダニエルが見た時に、その解き明かしをしたのがガブリエルだったからです。その時の学びでお話しましたが、ガブリエルは神の定められた時について、特にメシヤの到来の時について伝えるときに現われます。

 「夕方にささげ物をささげるころ」とダニエルは言っていますが、もちろん彼は捧げ物を捧げていたわけではありません。神殿は破壊され、またダニエルは祭司ではありません。その時間までダニエルが祈っていた、ということです。

 けれどもその時にガブリエルが「すばやく」やってきたのですが、ここにダニエルが神の御心にかなう祈りを捧げていたことを見ることができます。神の御言葉に沿った祈り、自分を非とし、神を正しいとする祈り、神の御名と憐れみに頼る祈り、これらが御心にかなっていたのです。 

9:22b「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。

 ダニエルは長く祈っていましたが、実は祈り始めた時に神からの答えがあったようです。そしてガブリエルは、ダニエルのことを「神に愛されている人」だと言っています。「神に」は新改訳の付けたしであり、元々は「愛されている人」とあります。もちろん神は全ての人を愛しておられますが、その種類が違います。罪人をも愛する愛もありますが、親しい関係の中にある愛もあります。その最高の愛はご自分の御子に対する愛であり、私たちに対する愛とはもちろん違います。

 けれどもダニエルは主を慕っていました。その人が捧げる祈りは、今すぐにでも答えてあげたいという親しさを神はダニエルに対して持っておられたのです。アブラハムのことは「神の友(ヤコブ2:23」と呼ばれましたが、そのような親しい関係であります。

2B 神の時間表 24−27
 そしてガブリエルによる幻が始まります。

9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

 ダニエルの祈りに答えて、「あなたの民」つまりユダヤ人と、「あなたの聖なる都」つまりエルサレムに対する神の回復の約束を与えています。その期間が「七十週」です。週は「七年間」のことです。ダニエル書で「時」が一年であることを学びましたね。週と言ったら七日間ではなく七年間です。 

 ですから合計490年間がユダヤ人とエルサレムのために定められているとガブリエルは言いました。その期間で、六つのことを成し遂げてくださいます。一つ目は「背きを止めさせる」ことです。ダニエルが先に、イスラエルが神に背いてきたことを告白しましたが、主はそれを止めさせて下さいます。二つ目は「罪を終わらせる」ことです。これは罪に対する神の裁きが完全に行なわれること、あるいは罪そのものを取り除かれることを意味しています。

 そして三つ目が「咎を贖う」ことです。これは訳し方によっては「咎に和解が与えられる」ということです。咎があれば神と敵対関係にあります。けれども神が咎を取り除いてくださり、私たちをご自分にあって受け入れてくださる、つまり和解してくださることです。そして四つ目は「永遠の義をもたらす」ことです。一時的な義ではなく永遠の義ですから、完全な義であり、神が与えられる義です。

 これら一つ目から四つ目はすべて、キリストの十字架によって実現しました。背きと罪をすべて背負われてキリストは十字架の上で死なれました。またキリストが神の怒りを受けてくださったので、神はキリストにあって私たちと和解してくださいました。そしてキリストを信じる者に、キリストの義が与えられました。ですから永遠の義です。

 けれども、不思議なことに初めにユダヤ人とエルサレムに与えられたこの約束が、ユダヤ人がイエスをメシヤとして受け入れることを拒んだために、異邦人に与えられています。けれども、キリストが再び来られるとき、イスラエル人が主に立ち返って、御霊の注ぎを受けて、異邦人の信者と同じように新たに生まれて、これらの約束を自分たちのものとします(ローマ11:2527)。

 そして五つ目が「幻と預言の確証」です。これは幻で与えられたもの、預言されたものがすべて成就し、完成するということです。私たちはまだこの実現を見ていません。天において御使いがヨハネに「イエスのあかしは預言の霊です。(19:10」と言いましたが、その後、イエス様が白い馬に乗って地上に戻ってこられます。主の再臨まで私たちは幻と預言の確証を見ることはできません。

 そして最後の六つ目が「至聖所に油を注ぐ」ことであります。これはイエス様が戻ってこられて、ご自分で神殿を建てられ、神の国が始まる時に行なわれます(ゼカリヤ6:12)。

 これらは七十週が満ちる時までに完成する出来事ですが、次から七十週目が終わるまでの時間表を与えています。いつから七十週が始まり、その途中が何が起こり、最後はどうなるのかを教えています。

9:25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

 エルサレムの再建の命令が出るときが、この時計の針が動き出す時です。ネヘミヤ記2章1節をご覧ください。「アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月に、王の前に酒が出たとき・・・」とあります。エルサレムの城壁が崩されていることを聞いて、泣いて祈ったネヘミヤは、王の前に出たときエルサレムの再建をさせてくれと頼みました。それで王が送り出しました。この年が、紀元前445314日です。

 そして次に新改訳は「油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間」とありますが、「七週」と「六十二週の間」はつながっています。ですから新共同訳のように、「油注がれた君の到来まで/七週あり、また、六十二週あって」となります。油注がれた者とはもちろんメシヤのことです。はっきりとメシヤ、キリストが来るのが七週また六十二週の後だと言っているのです。

 ところで「苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される」とありますが、これが「七週」の間に起こるものと思われます。つまり49年の間に起こります。むろんネヘミヤによるエルサレムの再建によってこれは実現しました。

 そして残りの六十二週の後にメシヤが来られます。次をご覧ください。

9:26a その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。

 紀元前445314日から、七週と六十二週を足した483年を足します。一日を360日にすると紀元後3246日だそうです。これを計算した人はロバート・アンダーソン(Robert Anderson)氏です。ルカ31節に、「皇帝テベリオの治世の第十五年」とあり、その時に主が公生涯を始められたことが分かると言います。紀元28年です。そしてイエス様が死なれるまでに合計四回の過越の祭りがありましたが、四回目の過越の祭りの日に主は死なれました。つまり紀元32年です。その年の過越の祭りは411日にあったとされ、五日戻すと46日の日曜日になります。

 つまり、イエスが棕櫚の聖日に、「ホサナ!」という歓声を受けられて公にメシヤとしてエルサレムに入城された日だと言うのです。油注がれた者がエルサレムに入られて、「断たれた」つまり死なれたということです。

 彼の計算が正確に当たっているかどうかは私にはわかりません。なぜならイエスがお生まれになったのは早くても紀元前4年だと言われており、そうすると主が死なれたのは紀元後30年頃ではないかと思うからです。

 けれども、いずれにしてもその時期にメシヤが来なければならず、そしてその時期にメシヤが断たれる、つまり死なれることが起こらなければならず、エルサレムの中でそのような人物はただ一人、イエスしかおられないのです!

 メシヤの到来について「時」が大事でありました。イエス様がエルサレムに入城された時、群衆が叫んだ「ホサナ」は詩篇11825節にあります。日本語訳では、「ああ、主よ。どうぞ救ってください。」とありますが、これが「ホサナ」です。その前にある御言葉を読みましょう。 

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。(2224節)

 この「主が設けられた日」と言っています。私たちの賛美に「この日は、この日は主が造られた」というのがありますが、それは今日ということではなくて、メシヤがエルサレムに来られる日のことです。イエス様はユダヤ人指導者と話された時に、22節にある「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」を引用されて、彼らがご自分を殺すことを予告されました。

 ヨハネの福音書には、数多く「わたしの時」と主が言われたところが出てきます。カナの婚礼で母マリヤに対して、「わたしの時はまだ来ていません。(2:4」と言われました。仮庵の祭りで自分を公に現しなさいとイエス様の弟たちが言ったときに、「わたしの時はまだ来ていません。(6:7」と言われました。そして内密でエルサレムに入られた後、ユダヤ人に何度となく捕えられそうになりますが、不思議に捕まえられません。「イエスの時が、まだ来ていなかったからである。(7:30」とあります。けれども、過越の祭りに近づいた時に主は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。(ヨハネ12:23」と言われました。はっきりと、神が定められた時があり、それがダニエル書にガブリエルを通して与えられた六十九週の後の出来事なのです。

 ここまではっきりしているのですから、「知らなかった」では済まされません。先に引用したように、イエス様は、「あなたがたは空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けられないのか」と律法学者らに言われました。今のユダヤ教の人々はどうなのでしょうか?イエス様を信じたユダヤ人の中で、ここの箇所ともう一つイザヤ書53章を読んで信仰に至る人が多いのです。イエス以外にメシヤは存在しえないのです!

 そして異邦人の私たちも考える必要があります。どうして偶像を拝むのでしょうか?生きてもいない石や木で造られたものを拝んで、キリストを避けるのでしょうか?紀元前538年頃に与えられた預言がその約600年後にその通りになっているのです!生ける神がおられるのです!

 そして次に「キリスト後」の預言が続きます。

9:26bやがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

 「やがて来るべき君主」の到来です。彼が反キリストです。7章の「小さな角」、そして8章のアンティオコス・エピファネスが予め示した「小さな角」です。十字架の贖いに対しては文字通りの預言を認めますが、その後の預言に対して確信が薄いです。キリストは再び来られます。けれども、その前に反キリストが来るのです。

 ここでは「やがて来るべき君主の民」と言っていますね。君主本人ではなく民が来ます。7章の第四の獣、ローマのことです。紀元70年、ローマ総督であり、後に皇帝になってティトスがエルサレムと神殿を破壊しました。このことも主が、オリーブ山から神殿をご覧になられて「石がくずされずに、積まれたままで残ることは決してありません。(マルコ13:2」と言われたことであり、ダニエル書にご自分のことが証しされていることを意識して語られたのでしょう。弟子たちに説明を聞かれてお答えになりましたが、その時に、「荒らす憎むべきもの(同14節)」についてお語りになったのです。世の終わりについて語られた時、このダニエル書を念頭に置かれていたことは間違いありません。

 その後の「洪水が起こる」というのは文字通りのことではありません。次に「戦いが続いて」とあります。11章に戦争の預言がありますが、「大軍を集め、進みに進んで押し流して越えて行き(10節等)」という表現があります。大軍がどんどん、間断なく進んでいる様子を「洪水」と形容しているのです。

 これが「終わりまで続く」というのがここでの預言です。六十九週までは時間どおり起こったのですが、ここで大きな間隙があります。メシヤが来られてユダヤ人たちが受け入れればそのまま七十週目に入り預言が完成したとも言えるのですが、全てを前もって知っておられる神は、この方が殺されることを知っておられました。そして、このユダヤ人によるメシヤの拒否という事件によって、長い期間の戦争によるエルサレムの荒廃が定められたのです。イエス様が、「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24」と言われた通りです。

 むろんこの時期に、神は異邦人に対する救いを大体的に行なわれています。そしてユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つになり、一つの体となる教会をこの地上に置かれました。

 そしてこの時間表が再開されるのは、エルサレムが異邦人によって踏み荒らされることが終わってからのことです。ローマがエルサレムを70年に破壊してから、ビザンチン、イスラム、十字軍、マルドゥク、オスマン・トルコ、英国委任統治と、長い、長い異邦人支配が続きました。十字軍の話は有名なのでご存知かもしれませんが、そこは流血の連続であり戦いが絶えませんでした。

 ところが1948年にイスラエルが建国し、1967年にイスラエル軍が、ヨルダン軍から東エルサレムを奪取した時、六日戦争の時に神殿の丘をイスラエルの主権の中に取り戻したのです。ですから、神の時間表にとって今がどれだけ微妙な時であるか理解していただけるかと思います。26節に書かれていることが、既に終わっている状態なのです。次の27節を待つばかりになっているのです。

9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

 神殿の回復を祈ったダニエルですが、その契約を固く結ぶ人物が現われます。それが先ほどの「来るべき君主」です。「多くの者」とは英語の定冠詞theと同じヘブル語が付いていますので、ユダヤ人の多くの者ということです。けれども彼は、8章に出てきたアンティオコス・エピファネスと同じように、巧言を使い、人々を騙して、それで途中で約束を翻して、神殿を荒らしに荒らすことになるのです。多くのユダヤ人は、彼がメシヤであると信じて契約を結びます。神殿を再建することがその契約の中に含まれています。ですから、次に来る神殿は偽物の神殿であり、反キリストが聖所の中に入って自分を神と宣言するところの神殿なのです。

 今の状況は、神殿の丘はイスラエルの主権下にあるものの、イスラム教がその敷地を管轄しています。ですから神殿を建てられる状況にはありません。けれども、準備をしている団体があります。正統派のユダヤ教の人たちがいて、金の燭台、供えのパンの机、大祭司の装束など、神殿礼拝に必要なものを全て揃えています。残りは、イスラム教側と仲介してそこに神殿を建てることができるようにする人物がいれば可能なのです。

 この契約の始まりが最後の第七十週目の始まりなのです。これを「ダニエルの第七十週」と呼び、主イエス・キリストが戻って来られる最後の七年間です。すでにダニエル書7章に出てきましたが、聖徒たちが反キリストの手に、「ひと時、ふた時、半時」ゆだねられるとありました。三年半ですが、これがここの七十週目の後半部分であります。契約を結んでから三年半経って、反キリストが聖所の中に入り、それからとてつもない大きい患難の中にユダヤ人は入るのです(マタイ24:1521)。黙示録には、「四十二ヶ月間」「千二百六十日」という言葉も出てきます。これも三年半のことであり、ダニエルの預言の基づいてのことであります。

 ですから今日学んでいる箇所は非常に重要です。他の預言の理解への鍵となり、時間の枠組みを教えているからです。

 そして最後に、「定められた全滅が、荒らす者の上にふりかかる」とあります。7章で既に、獣が燃える火の中に曲げこまれるのを見ました。「彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。(26節)」とあります。そして8章にも「人手によらずに、彼は砕かれる。(25節)」とあります。黙示録19章に、白い馬に乗られた私たちの主イエス・キリストが、「王の王、主の主」という名を持ちながら、反キリストと偽預言者を打たれます。彼らは、生きたまま火と硫黄の燃える池に投げ込まれることが書かれています。

 これが神のタイム・スケジュール、時間表なのです!ここまではっきりと啓示されているのです。言い逃れはできません。私たちが目を覚まして、ダニエルと同じように、じっくりと祈る必要があります。日々の生活の思い煩いによって、自分を埋没させてしまってはいけません。7章に「聖徒たちが国を受け継ぐ」という約束がありました。神の国とその義を第一に求めなさい、と主は言われました。御国を来たらせたまえ、と私たちは祈っています。神の時間表を知った今、私たちは責任を持って、このわずかな時間を生き抜いていきたいと願います。


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