終わりの時に生きるキリスト者 2001/11/14
第一回 イスラエルを機軸とする歴史


以下の文は、リバイバル新聞の連載「終わりの時に生きるキリスト者」の原稿です。


今回から12回に渡って、「終わりの時に生きるキリスト者」と題して、ダニエル書の学びをしていきたいと思います。9月11日に起きた米同時多発テロ事件から、世界と日本の動きがめまぐるしく変っています。クリスチャンたちも、霊的雰囲気がこの事件以降、大きく変ったと感じた方が多かったのではないでしょうか?このときにこそ、私たちは、祈りとみことばによって整えられ、目をさましていて、主の再臨を待ち望まなければいけません。この連載が、私たちが今、どのような時代に生きているのかを知らせ、霊的識別力を養うものとなりますよう、お祈りいたします。


神の歴史の鳥瞰図

聖書の中には、世界の歴史を知るために大切な書物が4つあります。一つは創世記です。これは、すべての歴史の始まりであり、人類の初め、民族の初め、文明の初め、神との契約の初めです。二つ目は黙示録です。これは歴史の終わりを描いています。すべての事柄がどこに至るのかを教える、大切な書物です。そして三つ目は、マタイによる福音書です。これは、人類の歴史を二分する方、イエス・キリストが地上に現われたことを教える書物です。律法と預言者によって示されていたメシヤが、いかにイエス様によって実現したかを伝えています。

そして、四つ目の大切な書物は、ダニエル書です。ダニエル書は、ダニエルがバビロンに捕らえ移された紀元前604年頃からの諸国の歴史を預言し、実に主イエス・キリストが地上に再臨されるまでの歴史をパノラマ的に描いています。神が持っておられる全歴史を展望的に眺めることができ、私たちが、自分が生きている時代を客観的に、神の視点で見ていくことができます。


終わりの時

私たちが聖書を読むときによく間違ってしまうことは、聖書個所の一部だけ見て、その全体を見ないことです。けれども、私たちが一冊の書物を手にするとき、そのはじまりから、順番に読んでいき、そして著者が意図しているテーマと、その流れをつかみます。聖書も同じです。

ダニエル書というと、火の中でなお燃え尽きないヘブル人の三人や、獅子の穴から救い出されたダニエルの話を思い出しますが、しかし全体に流れているテーマは、「終わりの時」です。1章から最後まで読み通すと、「終わりの時」とか「終わりの日」という言葉が、日本語で11回登場します(2:28、8:19など)。したがって、個々の出来事や話は、「終わりの時」という背景の中で語られていることに注目してください。そして、それらの出来事の中から、終わりの時にキリスト者がどのように生きなければいけないかの、その指針を得ることができます。


イスラエルと諸国

ダニエル書は、しばしば、二つの部分に分けられると言われます。1章から6章までの歴史的部分と、7章から12章までの預言的部分です。けれども、ダニエル書は、興味深いことに、主に二つの言語で書かれています。ヘブル語とアラム語です。1章はヘブル語、2章から7章まではアラム語、8章から12章までは再びヘブル語で書かれています。ヘブル語はもちろん、イスラエル人の言語であり、アラム語は当時、貿易で使われていた言語でした。つまり、今で言うなら英語のような、世界共通語だったのです。その言語を話す人を意識してダニエルは言語を選んだはずですから、ヘブル語で書かれているところは、イスラエル人たちについて書き、アラム語で書かれているところは、諸国の民すなわち異邦人について書かれていると考えられます。

事実、ダニエル書の流れは、1章にて、捕え移されたダニエルとその友人の話からはじまり、次に、2章から7章にて、世界帝国であるバビロン、ペルシヤ、また預言されているギリシヤとローマの話があり、そして8章から、ユダヤ人がバビロンからイスラエルに帰還した後に起こることが描かれており、イスラエルを軸とした話に戻ります。

そして、これは、聖書全体に貫かれている、神の経綸でもあります。それは、第一に、神が、イスラエルという民族、国、土地を中心にして世界を動かしておられることです。第二に、イスラエルが、神への反抗のために一時的にさばかれている間は、諸国や諸民が猛威を奮い、世界が荒廃へと至ることです。そして第三に、神がイスラエルを再び取り扱われ、これを回復してくださることです。この回復は、メシヤなるイエス様によってもたらされます。

この順番は、霊的救いの中にも見出されます。ローマ書9章から11章に、神の救いのご計画について書いてありますが、11章30−31節にそのまとめが書かれています。「ちょうどあなたがた(=異邦人クリスチャン)が、かつては神に不従順であったが、今は、彼ら(=イスラエル人)の不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。(30−31節)」


自分の視点から神の視点へ

したがって、私たちも、同じように歴史を見ていかなければなりません。世界は、イスラエルを中心として回っているのですが、私たちは、学校においてはそのように学びませんでした。古代の四大文明、ヨーロッパ文明における歴史の発展、そして日本史を学び、近代における諸帝国のぶつかり合い、戦後の冷戦構造、そして現代のアメリカを超大国とする世界について学びます。また、私たちが普通得る、一般のマスコミからの情報も、以上の視点から語られます。教会においても、新約聖書の背景の一部になっているギリシヤ・ローマの歴史と、西洋の教会史についてはよく学びますが、聖書の主要な部分を占めている、ユダヤ人の歴史や中東周辺諸国の歴史については、一般的に、その初歩さえ知らないというのが現状です。

しかし神は、イスラエルという小国と、その小さな土地に心を留められ、その卑しいところから、全世界に知れ渡る力強いみわざをお示しになります。「神は、知恵のある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(1コリント1:27)」という、クリスチャンの救いについて語ったパウロの言葉は、実は、世界の歴史においても、霊的原則として働いているのです。したがって、私たちは今、何よりも「イスラエル」という国に注目しなければならないのです。



「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME