申命記 1−4章 「イスラエルよ、聞きなさい」

 アウトライン

1A 主の命令に従う 1−3
   1B 不従順 1
      1C 11日の道のり 1−4
      2C 良いと思うこと 5−46
   2B 従順 2−3
      1C 占領において 2
      2C 割り当てにおいて 3
2A 偶像を造らない 4 
    1B おきてと定め 1−8
    2B 用心深さ 9−40
       1C 御声のみの神 9−31
       2C 神の愛 32−40
    3B まとめ 41−49 

本文

申命記1章をお開きください。今日は、1章から4章までを学びたいと思います。今回のメッセージ題は、「イスラエルよ、聞きなさい」です。

 私たちはとうとう、モーセ五書の最後の書物に来ました。創世記から始まり、出エジプト記、レビ記、民数記、そしてこの申命記です。この五つの書物は、モーセによって書かれましたが、それゆえ、最後の書物である申命記は、すべての総決算と言っても良いでしょうか、まとめのようになっています。

 これまで私たちは、それぞれの書物が、クリスチャンの霊的生活のいろいろな側面を照らし出していることを学びました。創世記では、アブラハム、イサク、ヤコブに神の約束が与えられましたが、私たちが神の約束を信じることの大切さを学びました。出エジプト記では、イスラエルがエジプトから救い出されて、神の民になりましたが、そこで私たちは、罪から救われ、キリストのものとなること、つまり「贖い」について学びました。そしてレビ記では、神の幕屋における、いけにえについて、きよめや洗いについて学びましたが、ここでは「聖め」または礼拝について学びました。そして民数記では、シナイ山から約束の地への荒野の旅が書かれていますが、その旅路から、この世におけるキリスト者の歩みについて学ぶことができました。このように、それぞれから、クリスチャンの信仰生活について知らなければいけない真理を、学ぶことができます。

 このように、いろいろな側面があるのですが、これは神と自分が親密につながっている、その関係からすべてが出てきます。妻が夫と結ばれているように、神に結ばれていることが、約束を信じることも、聖めのことも、この世における歩みにおいても、すべての前提になっています。この本質的なことを、モーセは自分が死ぬ直前にイスラエルの人たちに教えます。申命記の元々の意味は「第二の律法」です。モーセがイスラエルに語っていることは、これまで書かれていた律法の繰り返しになっています。しかし、ここでは強調点が違います。それは、律法をお与えになる神のこころと、律法を受け取るイスラエルの心が語られていることです。律法を与えられた神は、律法を、イスラエルを規則の中に閉じ込めるためでも、自分の思うままに支配したいために与えられたのではありませんでした。イスラエルを愛してやまず、イスラエルを生かして、祝福したいために与えられたのです。同じように、イスラエルが律法を守り行なうのは、機械的に規則を守るのではなく、神を愛し、心をつくして、思いを尽くして、力を尽くして、この方に自分をささげていきたいと願うからです。つまり、夫婦関係の中に入ることが、イスラエルのすべてであることを、モーセが教えます。実際に、申命記は、古代における結婚の契約の形態を取っているとも言われます。

 したがって、申命記から私たちは、信仰生活の本質的なことを学ぶことができます。それは、キリストにあって神に堅く結び合わされたところから出てくる歩みです。しかしながら、同時に、この愛の関係は、決して感傷的なものでも、情緒的なものでもなく、契約による、しっかりとした決まり事の上に成り立っています。こうした関係を、私たちは申命記から学ぶことができます。

1A 主の命令に従う 1−3
1B 不従順 1
1C 11日の道のり 1−4
 これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。

 前回学んだ、民数記のことを思い出してください。今、イスラエルたちは、ヨルダン川の東にいます。アラバの荒野は、ガリラヤ湖のあるところからアカバ湾のところに至る長い谷です。ここで、モーセが、イスラエル人たちに語りかけます。この語りかけ、説教がとても長く、実に34章分もある申命記となっています。

 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。第四十年の第十一月の一日にモーセは、主がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。

 ホレブというのは、十戒が与えられたシナイ山のことですね。そしてカデシュ・バルネアは、その町から約束の地に入ることができる場所です。ここまでの道のりは11日であります。ところが、モーセがイスラエル人に語っているのは、エジプトからイスラエルがときから、第四十年の11月の1日です。シナイ山を出たのは、民数記1章によると、第二年目の2月1日です。本来なら11日しかかからないところを、なんと、39年ぐらいかかったのです。これは驚くべきことですね。モーセは、なぜそのようになってしまったのか、その経緯を残りの1章において語っていきます。

 モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。

 民数記の最後のところで、私たちは、イスラエルがヨルダン川東岸にあった地域の王たちを倒して、そこを占領した話を読みました。モーセは、この占領したことの経緯についても2章と3章で話していきます。

2C 良いと思うこと 5−46
 ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユ一フラテス川にまで行け。見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

 神はホレブにおいて、イスラエルに約束の地に入ることを命じられました。この広大な土地はみなイスラエルの所有になり、それはアブラハムたちに与えると誓われた土地でした。

 私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。・・どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。・・私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」

 神がモーセに告げられたことに対して、モーセはそれをイスラエルの人たちに相談しました。ホレブから約束の地に導くのに、モーセ一人の手では重荷が大きすぎると思ったのです。

 すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い。」と言った。そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。

 モーセは、イスラエル人たちとともに約束の地への旅路を整えることができたと思いました。そして、次にカデシュ・バルネアに来たときの話に入ります。

 
私たちの神、主が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。

 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、はいって行く町々について、報告を持ち帰らせよう。」と言った。

 モーセは、神からはっきりと「占領せよ」という命令を聞きました。ところが、イスラエルが、まずスパイを送ろうと申し出ました。

 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。

 ここの「良いと思われたので」ということばが、後で致命傷になります。

 彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、主が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です。」と言った。しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。彼らは主の命令に逆らいました。そしてあなたがたの天幕の中でつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た。』と言って、私たちの心をくじいた。」

 彼らの心は不信仰に傾いてしまいました。そこでモーセがここで説得しますが、人の心というのは、一度傾くと、そのベクトルに固まってしまいます。

 それで、私はあなたがたに言った。「おののいてはならない。彼らを恐れてはならない。あなたがたに先立って行かれるあなたがたの神、主が、エジプトにおいて、あなたがたの目の前で、あなたがたのためにしてくださったそのとおりに、あなたがたのために戦われるのだ。また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。このようなことによってもまだ、あなたがたはあなたがたの神、主を信じていない。」主は、あなたがたが宿営する場所を捜すために、道中あなたがたの先に立って行かれ、夜は火のうち、昼は雲のうちにあって、あなたがたの進んで行く道を示されるのだ。」

 人の心は、欺きます。これほどまでに多くの神のみわざを見ても、それでも心がしなえ、疑いが生じると、その疑いはすべての神の証しを消してしまうのです。

 主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。「この悪い世代のこれらの者のうちには、わたしが、あなたがたの先祖たちに与えると誓ったあの良い地を見る者は、ひとりもいない。ただエフネの子カレブだけがそれを見ることができる。彼が踏んだ地を、わたしは彼とその子孫に与えよう。彼は主に従い通したからだ。」

 イスラエルが主の命令を聞かなかったことに対する代償を、話されました。

 主はあなたがたのために、この私に対しても怒って言われた。「あなたも、そこに、はいれない。

 あなたに仕えているヌンの子ヨシュアが、そこに、はいるのだ。彼を力づけよ。彼がそこをイスラエルに受け継がせるからだ。あなたがたが、略奪されるだろうと言ったあなたがたの幼子たち、今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。あなたがたは向きを変え、葦の海への道を荒野に向かって旅立て。」

 モーセも代償を払っています。モーセは約束の地に入ることができず、ヨシュアが代わりに新しい世代を約束の地に導きます。

 ここまで読んできて、なぜイスラエルが11日の道のりを、39年間もかけて歩かなければいけなかったの理由が分かったかと思います。それは一言、「主の命令に素直に聞き従わなかった」ということです。ホレブにて神が、広大な土地を所有する約束を与えられたときに、モーセはイスラエルに話しかけました。そして、カデシュ・バルネアにおいて、同じく神がこの土地を占領せよと命じられたのに、イスラエルがモーセに話しかけました。ここでの重要なのは、主が語りかけられているところで、人々が互いに語り合っているという点です。それゆえ、イスラエルの心がいつのまにか神の心から離れてしまい、結果的に命令にそむくという形で現われました。

 神との関係というのは、このように神の生きたことばを、聞いたときに受け取り、それを信じ、また行なっていくところにあります。けれども、自分たちで語り合い、人間のことばの音が、神のかすかな御声をかき消してしまい、その語られて、素直に聞いていくという過程が阻まれてしまうのです。ヘブル書には、このイスラエルが犯した過ちについて、クリスチャンも犯してしまうことについて、こう警告しています。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(4:2」信仰とは聞くところからはじまり、聞くことはキリストのみことばについてである、とローマ10章にありますが、信仰とは、たえず神の御声を聞いていることによって保たれます。

 すると、あなたがたは私に答えて言った。「私たちは主に向かって罪を犯した。私たちの神、主が命じられたとおりに、私たちは上って行って、戦おう。」そして、おのおの武具を身に帯びて、向こう見ずに山地に登って行こうとした。たしかに主は命じられました。しかし、語られたときに彼らは聞き従いませんでした。それで主は私に言われた。「彼らに言え。『上ってはならない。戦ってはならない。わたしがあなたがたのうちにはいないからだ。あなたがたは敵に打ち負かされてはならない。』」私が、あなたがたにこう告げたのに、あなたがたは聞き従わず、主の命令に逆らい、不遜にも山地に登って行った。すると、その山地に住んでいたエモリ人が出て来て、あなたがたを迎え撃ち、蜂が追うようにあなたがたを追いかけ、あなたがたをセイルのホルマにまで追い散らした。あなたがたは帰って来て、主の前で泣いたが、主はあなたがたの声を聞き入れず、あなたがたに耳を傾けられなかった。

 これは、主とイスラエルとの「すれ違い」です。恋人どうしのすれ違い、夫婦どおしのすれ違いがあるように、私たちにも、主とのすれ違いがあるのです。私はしばしば妻に、「ほら、あのとき、こう言っただろう。だから、それを今やっているのさ。」と言います。すると妻は、「momentum(勢い)というものがあるでしょう。その時に言っていることを聞かれなかったら、今、それをやるって言われても、・・・。」と言います。私たちが、主に語られたときにそれを聞かずに、貯蔵庫にしまい込んで、後で行なってみようとしても、その行ないは主にとって、忌みきらわれたものなのです。なぜなら、それは「信仰」ではないからです。同じことをしていても、その動機が神を愛して、神の言われることを聞くという「愛」ではないからです。

 こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。

 こうしてモーセは、11日が39年間になったいきさつを話しました。「聞く」ことの大切さ、教訓を教えました。

2B 従順 2−3
1C 占領において 2
 それから、私たちは向きを変え、主が私に告げられたように、葦の海への道を荒野に向かって旅立って、その後、長らくセイル山のまわりを回っていた。

 ガデシュ・バルネアを北上するのではなく、南のほうに行き、紅海のアカバ湾の方面に歩いていきました。そして、その途中にあるセイル山のあたりを回っていました。なんと、その年月は約38年間です。主のその間、「わたしは、彼らをカナン人の土地に入らせない。」という意志を固めておられたのです。このような時期はとても辛いでしょう。しかし、この神の主権の中に生きていかねばなりません。ダビデも他の聖徒も、失敗したときは、神の主権の中に自分の身をゆだねました。

 主は私にこう仰せられた。「あなたがたは長らくこの山のまわりを回っていたが、北のほうに向かって行け。民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。」

 アカバ湾のほうから北上しますと、そこはエサウの子孫エドム人が住んでいました。ヤコブの兄弟として、神はエドム人に良くしてくださいました。イスラエルにはなおさらのこと、主は土地を所有させようとされているのです。

 食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。事実、あなたの神、主は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、主は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。

 エドム人のところを通るとき、食物に事欠く心配がありましたが、主はそんなことはないと励ましておられます。エジプトを出てから、イスラエルはなんと、一度も窮乏することはなかったのです。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。(ピリピ4:19」とあるとおりです。

 それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。

 今度は彼らは、主が言われたことを、自分たちの間で議論せず、素直に従っています。

 そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。主は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。」

 エドム人が住んでいるところの北には、モアブ人がいました。モアブ人は、アブラハムのおいロトの子孫です。それゆえ、神はロトの子孫にもよくしてくださっています。

 ・・そこには以前、エミム人が住んでいた。強大な民で、数も多く、アナク人のように背が高かった。アナク人と同じく、彼らもレファイムであるとみなされていたが、モアブ人は彼らをエミム人と呼んでいた。ホリ人は、以前セイルに住んでいたが、エサウの子孫がこれを追い払い、これを根絶やしにして、彼らに代わって住んでいた。ちょうど、イスラエルが主の下さった所有の地に対してしたようにである。・・

 イスラエルの人たちは、アナク人が大きいのを見て、約束の地に入るのを恐れました。しかし、こうした巨人を、神は、異邦の民エドム人の手ですでに負かしておられたのです。イスラエルに対してはなおさらのこと、これらの巨人を倒すように、主はしてくださいます。

 「今、立ってゼレデ川を渡れ。」そこで私たちはゼレデ川を渡った。ゼレデ川は、エドム人とモアブ人が住んでいる境界線になっている川です。カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。主が彼らについて誓われたとおりであった。まことに主の御手が彼らに下り、彼らをかき乱し、宿営のうちから絶やされた。

 エジプトを出てからシナイ山を出発期間が約1年で、最後にヨルダン川の東を占領したのが約1年ですが、荒野で放浪していたのは38年ですから、合計40年間ということになります。この38年間の間に、戦士たちが死に絶えました。覚えていますか、民数記で人口調査を受けた人たちは、20歳以上の軍務につくことができる男子でした。彼らが、ヨシュアとカレブを除き、死に絶えてしまったのです。

 戦士たちがみな、民のうちから絶えたとき、主は私に告げて仰せられた。「あなたは、きょう、モアブの領土、アルを通ろうとしている。それで、アモン人に近づくが、彼らに敵対してはならない。彼らに争いをしかけてはならない。あなたには、アモン人の地を所有地としては与えない。ロトの子孫に、それを所有地として与えているからである。

 モアブ人が住んでいた北に、アモン人が住んでいました。彼らもロトの子孫です。覚えていますか、ロトが家族とともにソドムの町から逃げていたとき、妻は塩の柱になって二人の娘だけが残されました。二人の娘はロトに酒を飲ませて、彼が眠っている間にそれぞれが父と寝ました。そこで二人ともみごもり、その子孫がモアブ人とアモン人です。

 ・・そこもまたレファイムの国とみなされている。以前は、レファイムがそこに住んでいた。アモン人は、彼らをザムズミム人と呼んでいた。これは強大な民であって数も多く、アナク人のように背も高かった。主がこれを根絶やしにされたので、アモン人がこれを追い払い、彼らに代わって住んでいた。それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために、主が彼らの前からホリ人を根絶やしにされたのと同じである。それで彼らはホリ人を追い払い、彼らに代わって住みつき、今日に至っている。また、ガザ近郊の村々に住んでいたアビム人を、カフトルから出て来たカフトル人が根絶やしにして、これに代わって住みついた。・・

 アモン人もまた巨人を倒しているし、アビム人も倒しています。主がなされるのであれば、巨人などいちころなのです。私たちも、このように神のみわざを、この世においていろいろ見ているのに、いざ自分がそれに直面すると不信仰に陥ることがありますね。そこで主は、今、ここでもあそこでも私は巨人を倒している、と励まされているのです。

 「立ち上がれ。出発せよ。アルノン川を渡れ。見よ。わたしはヘシュボンの王エモリ人シホンとその国とを、あなたの手に渡す。占領し始めよ。彼と戦いを交えよ。きょうから、わたしは全天下の国々の民に、あなたのことでおびえと恐れを臨ませる。彼らは、あなたのうわさを聞いて震え、あなたのことでわななこう。」

 アルノン川は、モアブ人の住むところから、エモリ人の住むところへの境界となっている川です。神は、エモリ人を倒すと約束し、戦いを交えよと命じられています。その理由が、全天下の国民に、イスラエルのことでおびえを恐れを臨ませるため、とありますが、これは、事実イスラエルがエリコを倒すときに、エリコの住民は、エモリ人を倒したことでおびえていました。

 そこで私は、ケデモテの荒野から、ヘシュボンの王シホンに使者を送り、和平を申し込んで言った。「あなたの国を通らせてください。私は大路だけを通って、右にも左にも曲がりません。食物は金で私に売ってください。それを食べます。水も、金を取って私に与えてください。それを飲みます。徒歩で通らせてくださるだけでよいのです。セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、主が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」

 戦えと主は命じられましたが、モーセは和平を申し込んでいます。これは正しいことです。神は、正義に基づいて事を行なわれます。収奪することを命じることは決してありません。和平ができれば、神はそのようになさいます。けれども、エモリ人がどのように反応するかを予め知っており、またエモリ人がさばかれるべき存在であることも知っておられたので、「戦え」と命じられたのです。

 しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、主が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。主は私に言われた。「見よ。わたしはシホンとその地とをあなたの手に渡し始めた。占領し始めよ。その地を所有せよ。」シホンとそのすべての民が、私たちを迎えて戦うため、ヤハツに出て来たとき、私たちの神、主は、彼を私たちの手に渡された。私たちは彼とその子らと、そのすべての民とを打ち殺した。

 エジプトのパロのときもそうでしたが、神は、すでにさばかれるべき器をも用いて、ご自分の栄光を現わそうとされます。そこでシホンはかんたくなにされ、イスラエルが攻めるようにさせ、そして、イスラエルはエモリ人をすべて殺しました。

 そのとき、私たちは、彼のすべての町々を攻め取り、すべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶して、ひとりの生存者も残さなかった。ただし、私たちが分捕った家畜と私たちが攻め取った町々で略奪した物とは別である。

 この「聖絶」という言葉は大事です。クリスチャンも、「御霊によって、からだの行ないを殺す(ローマ8:13)」と命じられていますが、妥協は一切許されません。私たちは、信仰において勝利したと思うと、気がゆるんで、肉が働く機会を許してしまいます。しかし、ひとりの生存者も残さないようにしたように、私たちも妥協は許されません。

 アルノン川の縁にあるアロエルおよび谷の中の町から、ギルアデに至るまで、私たちよりも強い町は一つもなかった。私たちの神、主が、それらをみな、私たちの手に渡されたのである。ただアモン人の地、ヤボク川の全岸と山地の町々には、私たちの神、主が命じられたとおりに、近寄らなかった。

 こうしてエモリ人の地を占領しました。

2C 割り当てにおいて 3
 続けてイスラエルは、北へ進みます。私たちはバシャンへの道を上って行った。するとバシャンの王オグとそのすべての民は、エデレイで私たちを迎えて戦うために出て来た。

 バシャンの地は、ガリラヤ湖の北東地域、つまりゴラン高原のことです。イスラエルは、このときにゴラン高原を自分たちのものにしました。

 そのとき、主は私に仰せられた。「彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。」こうして私たちの神、主は、バシャンの王オグとそのすべての民をも、私たちの手に渡されたので、私たちはこれを打ち殺して、ひとりの生存者をも残さなかった。

 エモリ人にしたように、ひとりの生存者も残しませんでした。

 そのとき、私たちは彼の町々をことごとく攻め取った。私たちが取らなかった町は一つもなかった。取った町は六十、アルゴブの全地域であって、バシャンのオグの王国であった。これらはみな、高い城壁と門とかんぬきのある要害の町々であった。このほかに、城壁のない町々が非常に多くあった。私たちはヘシュボンの王シホンにしたように、これらを聖絶した。そのすべての町々・・男、女および子ども・・を聖絶した。ただし、すべての家畜と、私たちが取った町々で略奪した物とは私たちのものとした。このようにして、そのとき、私たちは、ふたりのエモリ人の王の手から、ヨルダンの向こうの地を、アルノン川からヘルモン山まで取った。

 ヘルモン山は、今のイスラエルの一番北にある山です。

 ・・シドン人はヘルモンをシルヨンと呼び、エモリ人はこれをセニルと呼んでいる。・・すなわち、高原のすべての町、ギルアデの全土、バシャンの全土、サルカおよびエデレイまでのバシャンのオグの王国の町々である。・・バシャンの王オグだけが、レファイムの生存者として残っていた。見よ。彼の寝台は鉄の寝台、それはアモン人のラバにあるではないか。その長さは、規準のキュビトで九キュビト、その幅は四キュビトである。・・

 バシャンの王オグは、巨人でした。イスラエルは巨人を倒すことができたのです!そして、次から、モーセは占領した地を、三つの部族に割り当てる仕事をします。

 この地を、私たちは、そのとき、占領した。アルノン川のほとりのアロエルの一部と、ギルアデの山地の半分と、その町々とを私はルベン人とガド人とに与えた。ギルアデの残りと、オグの王国であったバシャンの全土とは、マナセの半部族に与えた。それはアルゴブの全地域で、そのバシャンの全土はレファイムの国と呼ばれている。マナセの子ヤイルは、ゲシュル人とマアカ人との境界までのアルゴブの全地域を取り、自分の名にちなんで、バシャンをハボテ・ヤイルと名づけて、今日に至っている。マキルには私はギルアデを与えた。

 バシャンの地はマナセの半部族に割り当てられました。

 ルベン人とガド人には、ギルアデからアルノン川の、国境にあたる川の真中まで、またアモン人の国境ヤボク川までを与えた。またアラバをも与えた。それはヨルダンを境界として、キネレテからアラバの海、すなわち、東のほうのピスガの傾斜地のふもとにある塩の海までであった。

 エモリ人の地は、ルベン族とガド族に割り当てられました。

 私はそのとき、あなたがたに命じて言った。「あなたがたの神、主は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。ただし、あなたがたの妻と子どもと家畜は、私が与えた町々にとどまっていてもよい。私はあなたがたが家畜を多く持っているのを知っている。主があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。」

 モーセは、彼らの成年男子たちが、ヨルダン川を渡ってともに戦うようにと命令することを、忘れませんでした。

 私は、そのとき、ヨシュアに命じて言った。「あなたは、あなたがたの神、主が、これらふたりの王になさったすべてのことをその目で見た。主はあなたがたがこれから渡って行くすべての国々にも、同じようにされる。彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのはあなたがたの神、主であるからだ。」

 ヨシュアがモーセの後を継ぐので、ヨシュアに対しても、アドバイスをするのを忘れませんでした。こうしてモーセは、考えられる仕事をきちんと行ないましたが、けれどもやはり、イスラエルのことは心配だったでしょう。

 私は、そのとき、主に懇願して言った。「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」

 モーセ自身も約束の地を見たかったのです。そして、イスラエルを続けて養い、彼らが神に根づくのを見届けたかったでしょう。しかし、それはできません。

 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」

 やはり神は、モーセの申し出を断られました。モーセではなく、ヨシュアが受け継ぐのです。

 こうして私たちはベテ・ペオルの近くの谷にとどまっていた。

 ここは、かつてイスラエルの民が、モアブ人の娘とたわむれて、神罰がくだったところです。

2A 偶像を造らない 4
  こうして、イスラエルの家を治める者として、いろいろな務めを行なったモーセですが、もうここでイスラエルを主の御手に委ねなければならなくなりました。モーセは、自分の手から離れるイスラエルを目の前にして、これから父が子に教えるように、生きるためのエッセンスをイスラエルに教えます。 

1B おきてと定め 1−8
 今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き、あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えようとしておられる地を所有することができる。

 今回のメッセージ題になっている、「聞きなさい」という言葉が出てきています。申命記において、「聞きなさい。したがって、守り行いなさい。」という言葉が頻繁に出てきます。これが、モーセが最後にイスラエルに伝えたかったことばです。神のおきてと定めをきちんと聞きなさい。これこそが、あなたを生かし、これからの所有しようとする地を所有することができる、と教えています。

 私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。あなたがたは、主がバアル・ペオルのことでなさったことを、その目で見た。バアル・ペオルに従った者はみな、あなたの神、主があなたのうちから根絶やしにされた。しかし、あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。

 バアル・ペオルの事件が起こった現場にイスラエルは今、います。そこでモーセは、神の命じられることばを守ったあなたがたは、今、このようにして生きているではないか、と言っています。あのときに神にそむいた者たちは、神罰によって死にました。しかし彼らは生きています。

 見なさい。私は、私の神、主が私に命じられたとおりに、おきてと定めとをあなたがたに教えた。あなたがたが、はいって行って、所有しようとしているその地の真中で、そのように行なうためである。これを守り行ないなさい。そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ。」と言うであろう。

 神のおきてと定めは、イスラエルの民に知恵と悟りを与えます。そして、異邦の民が、なんとこの民は偉大で、知恵があるのだろう、と驚きます。

 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。

 彼らの偉大さは、二つにかかっていました。一つは、神がともにおられることです。神が臨在しておられるということほど、祝福に満ちたことはありません。もう一つは正しい、おきてと定めを持っていることです。

 モーセは、彼らと離れなければならないときに、もっとも大事なエッセンスをこうやって語り始めました。つまり、モーセ自身でもだれでもなく、神のみことばにより頼んでいくということです。これが、聖書のエッセンスであり、私たちクリスチャンの信仰生活のエッセンスです。

 私たちの神は、ことばの神です。何らかのイメージの中や、目に見えるかたちでは存在せず、神は霊であります。霊はことばによって存在します。私たちの人間関係も、その語られることばが大事であり、そのことばによって信頼関係を築き、人格と人格の触れ合いがあるのです。日本人は、以心伝心という、無言の意志伝達を好みますが、現実はそんなことはありません。やはり、自分を持って、ことばによって自分を示さなければならないのです。これと同じく、成熟した神との関係においては、神のことばに自分の全存在を置いていくことが必要になってきます。

2B 用心深さ 9−40
 そこでモーセは、この「ことば」のみにより頼むよう、注意を呼びかけています。

1C 御声のみの神 9−31
 ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい。あなたがホレブで、あなたの神、主の前に立った日に、主は私に仰せられた。「民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしのことばを聞かせよう。それによって彼らが地上に生きている日の間、わたしを恐れることを学び、また彼らがその子どもたちに教えることができるように。」そこであなたがたは近づいて来て、山のふもとに立った。山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。

 モーセは今、シナイ山において、神がみことばを与えられたときのことを思い起こさせています。書かれた律法のことばがありますが、その語られたときの様子を決して忘れることがないように、と言っています。それは、ことばは聞いたが、姿はなかった。御声だけであったということです。これが、「ことば」の本質です。ことばがあるところには、イメージはありません。イメージがあるところには、ことばがなくなります。これをイスラエルとその子供たちに、決して忘れてほしくなかったのです。

 主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行なうように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。主は、そのとき、あなたがたにおきてと定めとを教えるように、私に命じられた。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、それらを行なうためであった。

 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。

 イスラエルの民にとって、そして私たちクリスチャンにとっても死活的な問題は、偶像礼拝です。これは私たちの根本的な問題であり、何とかして自分のイメージを作りたいと願います。自分がつかんで、安住できるものがほしい、自分が理解できて、感じることができて、自分で考えて満足できるものがほしい、と願います。それが偶像なのです。しかし、主に拠り頼むときに、私たちは自分のものを持つことができません。自分の考えではなく、神が考えておられることを受け入れます。自分が喜ぶことではなく、神が喜ぶことを選び取ります。このように、神を主としていくことが、私たちの務めです。

 主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、今日のように、ご自分の所有の民とされた。しかし、主は、あなたがたのことで私を怒り、私はヨルダンを渡れず、またあなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる良い地にはいることができないと誓われた。私は、この地で、死ななければならない。私はヨルダンを渡ることができない。しかしあなたがたは渡って、あの良い地を所有しようとしている。気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。

 モーセは、自分の子どものように、深い愛情をもって、今イスラエルに教えています。自分はあなたがたといっしょにヨルダンを渡ることはできない。だから、このことだけをしっかり心にしまってほしい。それは、偶像を造らないこと。神の契約を忘れることがないことです。

 次にモーセは、偶像を造ってしまった場合のことについて話していきます。あなたが子を生み、孫を得、あなたがたがその地に永住し、堕落して、何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪を行ない、御怒りを買うようなことがあれば、私は、きょう、あなたがたに対して、天と地とを証人に立てる。あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしているその土地から、たちまちにして滅びうせる。そこで長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされるだろう。主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。

 偶像を拝めば、土地から散らされて、離散しなければいけません。

 あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。

 異邦の民の中で、異邦人と同じように生きていかねばなりません。

 そこから、あなたがたは、あなたの神、主を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従うのである。あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。

 ああ、なんとすばらしい神のあわれみでしょうか。イスラエルが偶像を拝んでも、神は彼らが立ち返るようにしてくださいます。偶像ではなく、御声を聞くことができるようにしてくださいます。「後の日」とありますが終わりの時です。イスラエルは事実、土地を離れ離散の民となりましたが、今や、約束の地に戻ってきています。後は、彼らの石の心が肉の心に変えられて、主の御声を聞くことだけです。神は、イスラエルを、ご自分の立てた契約のゆえに、決してお見捨てになりません。

2C 神の愛 32−40
 そこでモーセは、イスラエルがいかに神に愛されているかを次に話します。さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

 イスラエルは、神のみわざを見るという、とてつもない特権にあずかっていました。

 あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出された。それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地にはいらせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。

 これだけ偉大なみわざを行なわれたのは、主だけが神であり、他に神がないことを知るためであり、心に留めるためでした。

 きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。

3B まとめ 41−49
 この説教を終えて、次にモーセは逃れの町を三つ定めます。それからモーセは、ヨルダンの向こうの地に三つの町を取り分けた。東のほうである。以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。その者はこれらの町の一つにのがれて、生きのびることができる。ルベン人に属する高地の荒野にあるベツェル、ガド人に属するギルアデのラモテ、マナセ人に属するバシャンのゴランである。

 そして最後に、これまで話されたことのまとめが書かれています。

 これはモーセがイスラエル人の前に置いたみおしえである。これはさとしとおきてと定めであって、イスラエル人がエジプトを出たとき、モーセが彼らに告げたのである。そこは、ヨルダンの向こうの地、エモリ人の王シホンの国のベテ・ペオルの前の谷であった。シホンはヘシュボンに住んでいたが、モーセとイスラエル人が、エジプトから出て来たとき、彼を打ち殺した。彼らは、シホンの国とバシャンの王オグの国とを占領した。このふたりのエモリ人の王はヨルダンの向こうの地、東のほうにいた。それはアルノン川の縁にあるアロエルからシーオン山、すなわちヘルモンまで、また、ヨルダンの向こうの地、東の、アラバの全部、ピスガの傾斜地のふもとのアラバの海までである。

 こうして、主のみことばを聞くことがいかに大切であるかを読むことができました。主との生きた交わりは、その雰囲気でもなく、また自分で理解したことでもなく、ただ主の言われることを単純に聞き、それに応答していく、柔らかい心だけです。これが、イスラエルがヨルダン川のところまできたその旅路に現われていました。


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