申命記20−21章 「周囲より高い基準」
アウトライン
1A 戦争の時 20
1B 士気 1−9
2B 降伏と聖絶 10−18
3B 木の切り倒し 19−20
2A 抑えるべき罪 21
1B 犯人の分からない殺人 1−9
2B 捕虜の妻 10−14
3B 長子への財産 15−17
4B 両親への反逆の罪 18−23
本文
申命記20章を開いてください。私たちは続けて、モーセが自分が死ぬ前に、イスラエルに対して指導者としての遺言を残しています。神の律法を与えていますが、前回の学びでは、さばきつかさが裁くために必要な定めを読みました。また、祭司やレビ人が律法を教えるのだから、彼らの働きがイスラエルの国を治めるのに最も大切であることも学びました。今日は続けて、興味深い神の律法を学んでいきます。
1A 戦争の時 20
1B 士気 1−9
20:1 あなたが敵と戦うために出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。あなたをエジプトの地から導き上られたあなたの神、主が、あなたとともにおられる。20:2 あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、20:3 彼らに言いなさい。「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。20:4 共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。」20:5 つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。20:6 ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。20:7 女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」20:8 つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」20:9 つかさたちが民に告げ終わったら、将軍たちが民の指揮をとりなさい。
私たちは申命記によって何度も学んでいますが、イスラエルが単なる国ではないということを知るべきです。イスラエルは戦車や馬を誇るのではなく、主の御名を誇る国であります。つまり、神の国なのです。神が支配される国であり、その武器は血肉のものではなく、御霊に属するものです。
それでイスラエルは戦う時には、馬や戦車、自分よりも多い軍勢を見て恐れてはいけないという戒めを受けています。イスラエルの戦争の歴史においては、実に不釣合いな戦い、人間的には滑稽な戦いが多いです。強固な城壁の周りを七度廻ること。また、13万5千人はいたミデヤン人をわずか300人で打ち倒すギデオン軍。そして、軍事力で圧倒していたペリシテ軍に対して、ヨナタンは自分と道具持ちだけで敵陣に入っていったこと。そして少年ダビデが、巨人ゴリヤテに立ち向かい、石ころで彼を打ちのめしたこと。ここに流れているものは、人間の繰り広げる戦争ではなく、神がイスラエルのために敵に戦っておられる原則です。ですから神は、「恐れはいけない。わたしがあなたがたと共にいるのだ。」と仰っています。
けれども問題があります。人数は問題ではありません。心の備えです。戦いの前に祭司が民の前に出て行きます。新しい家のこと、ぶどう畑のこと、婚約した女のことなど、これらの思い煩いがあるのであれば、家に帰ってよいということです。けれども、これは反語的な言い回しであり、「思い煩いがある人は自分の心が弱くなるだけでなく、他の戦士たちの士気を落とす。」ということであります。新しい家を言い換えれば自分の家計のことです。財産のこと、または経済的なことです。そしてぶどう畑は仕事のことです。そして婚約の女はもちろん結婚のこと、男女関係のことです。
覚えていますか、ギデオンが戦う時に主がこの掟を彼に命じられました。13万5千人のミデヤン人に対して、ギデオン軍には3万2千人がいました。これでも圧倒的に少ないですが、なんと主は、「あなたがたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエル人が『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。(士師7:2)」と言われました。それでギデオンは、「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。」と言ったら、なんと二万二千人が帰って行ったのです!こんなにたくさん弱気だったとは・・とギデオンは驚いたかもしれません。
ところが、今度は水のところに主はギデオンを導かれ、「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。(5節)」と言われました。これはどういうことかと言いますと、舌で水を飲むにしろ、ひざをついて飲むにしろ、そのようなことをやっているときに敵が襲いかかってきたら、対抗できないからです。戦うことに集中しているのであれば、自分がすぐに身動きできる臨戦態勢で水を飲まなければいけません。その姿勢で飲んだのはわずか三百人だったのです。
このようにいつも心を一つにしている、目を覚ましている、用心していることが私たちにも求められます。イエス様が弟子たちに対して、ここのイスラエル人と同じことを語られました。「イエスは別の人に、こう言われた。「わたしについて来なさい。」しかしその人は言った。「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」別の人はこう言った。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:59-62)」私たちは、仕事についても、家の事情についても、一つ一つを主にゆだねながら、主が命じられる道を選び取っていかなければいけません。
2B 降伏と聖絶 10−18
20:10 町を攻略しようと、あなたがその町に近づいたときには、まず降伏を勧めなさい。20:11 降伏に同意して門を開くなら、その中にいる民は、みな、あなたのために、苦役に服して働かなければならない。20:12 もし、あなたに降伏せず、戦おうとするなら、これを包囲しなさい。20:13 あなたの神、主が、それをあなたの手に渡されたなら、その町の男をみな、剣の刃で打ちなさい。20:14 しかし女、子ども、家畜、また町の中にあるすべてのもの、そのすべての略奪物を、戦利品として取ってよい。あなたの神、主があなたに与えられた敵からの略奪物を、あなたは利用することができる。20:15 非常に遠く離れていて、次に示す国々の町でない町々に対しては、すべてこのようにしなければならない。
イスラエルは他の諸国とは異なり、自ら戦争や対立を引き起こすことは禁じられています。エモリ人の王シホンと戦ったときも、自ら彼らを討ち滅ぼすことはしませんでした。初めにモーセは、「通過させてください。」と申し出たのです。必ず、自衛としての戦争行為でなければいけません。平和であるのに争いを引き起こしてはいけないのです。けれども、戦争になった場合は、通常の倫理が適用されます。兵力となっている成年男子は殺します。けれども女子供は残しておき、略奪物は取ってよいことになっています。
けれども、ここで大事な但し書きがあります。「非常に遠く離れて」いる国に対してはこうしなさい、ということです。近くにいる町々に対しては聖絶を命じられます。
20:16 しかし、あなたの神、主が相続地として与えようとしておられる次の国々の民の町では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。20:17 すなわち、ヘテ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたとおり、必ず聖絶しなければならない。20:18 それは、彼らが、その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え、あなたがたが、あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないためである。
ここでの理由は、「あなたがたの神、主に対して罪を犯すことのないため」であるとあります。遠くにいる者たちの罪は自分には大きな力を持っていないが、自分たちの住んでいる間ではそうではない、ということです。自分がそれを滅ぼさなければ、それが今度は自分を滅ぼすようになる、ということです。
使徒パウロは、例えば「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ13:18)」と言いました。私たちは、遠くの国で行なわれている戦争については反対を表明できても、自分の間近にいる知人と敵対しているのであれば、その敵対心を打ち捨てなければいけません。遠い国の平和については、ある程度、そこに声を挙げるというのはやっても良いかもしれないですが、もっと大事なのは自分自身に関わることであり、自分自身を保つことが大切なこととされています。
そして、もっとも身近なのは自分自身の体です。パウロはこう言っています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)」私たちは、ポルノ雑誌の出版社のところにいって反対デモを行なうのではなく、私たちの思いの中にある汚らわしい思いを捨ててしまうことのほうが、はるかに重要であります。そこにこそ真の戦いがあるのです。
3B 木の切り倒し 19−20
20:19 長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい。20:20 ただ、実を結ばないとわかっている木だけは、切り倒してもよい。それを切り倒して、あなたと戦っている町が陥落するまでその町に対して、それでとりでを築いてもよい。
午前礼拝の説教をお聞きください。ここで大事なのは、「周りの諸国とは違う動きをする」ということです。木を切り倒すことは、敵に対して怒りを表し、罰を与えるために彼らは行なっていたことでした。けれどもイスラエルは、もっと高い基準で動かなければいけません。切り倒す必要のない木は切り倒さないのです。ですから、私たちには自制が必要です。怒っても、怒り散らしてはいません。必要以上に怒ってはなりません。御霊の実に自制がありますが、御霊は私たちが自由に行ってよい範囲を定めておられます。
2A 抑えるべき罪 21
1B 犯人の分からない殺人 1−9
21:1 あなたの神、主があなたに与えて所有させようとしておられる地で、刺し殺されて野に倒れている人が見つかり、だれが殺したのかわからないときは、21:2 あなたの長老たちとさばきつかさたちは出て行って、刺し殺された者の回りの町々への距離を測りなさい。21:3 そして、刺し殺された者に最も近い町がわかれば、その町の長老たちは、まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、21:4 その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。21:5 そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。彼らは、あなたの神、主が、ご自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。21:6 刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、21:7 証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。21:8 主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。21:9 あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行なわなければならないからである。
十戒の「殺してはならない」に関する掟です。すでに、人を殺すものは殺されなければいけないという律法を読みましたが、ここでは「殺人者が見つからない場合」という特殊な状況をモーセは取り上げています。非常に象徴的な、意味深い儀式を行なうように命じています。殺された者の最も近い町の長老が、祭司のところに進み出て、自分たちがこの殺人の罪を犯さなかったことを主の前で告白します。その時に、人の手を全く加えていない雌牛の子牛、そして川の流れる谷において、その子牛の首を折るという儀式です。
もし私たちのような普通の人間の社会であれば、だれも殺人者が見つからなければ、そのままにしておくしかありません。被疑者がいて、彼が無罪であることが宣告されて、それで殺人者は誰も見つかっていないという場合はしばしばありますね。けれども、再び言いますが、イスラエルは単なる人間の国ではありません。神が見ておられる国です。人は裁けないことを、神は裁かれるのです。
ここで行なわれている儀式の目的は、神の裁きです。雌牛を長老は連れてきますが、その雌牛が血を流したという記述がここにはありません。これは神が、この牛をもって罪の贖いをしているのではないのです。むしろ首を折るのですが、他の箇所で家畜の首を追っているのは次の箇所です。「ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。(出エジプト13:13)」初子はみな主のものですが、ろばは汚れた動物なのでいけにえとして捧げることができません。代わりに他の羊を主に捧げることによって、ろばを贖います。けれども、その他の羊を贖うことを拒むのであれば、ろばは殺されなければならないのです。主のものである初子をその人が奪い取ったことによる裁きであります。贖いをしないのであれば、私たちは贖いのない死を受け取らなければいけません。
そして、この雌牛も、そして連れて行く谷も、みな無垢な状態です。雌牛はまだくびきを負われたことのない子牛であり、そして谷はまだ耕されたことのないところです。そして水が貯まっているところではなく流れています。聖書では、流れている水は聖霊の働きをしばしば表しており、そこには汚れのない清さが示されています。これらは、「罪のない者の血を流す罪」を表しています。死罪に値するような罪を犯していない人が殺されたことを表しています。
そして、罪を犯したのであれば、罪の悔い改めの祈りを捧げますが、そうではないので手を洗い、罪を犯さなかったことと、この罪をイスラエルに負わせないでほしいという願いを主に申し上げています。これは、「私は罪を犯していないから大丈夫だ」という責任回避をしている祈りではなく、殺人という罪の重さを体で感じ、恐れおののいている祈りであります。私たちも同じ態度が必要です。使徒ペテロが言いました。「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。 (1ペテロ1:17)」
2B 捕虜の妻 10−14
21:10 あなたが敵との戦いに出て、あなたの神、主が、その敵をあなたの手に渡し、あなたがそれを捕虜として捕えて行くとき、21:11 その捕虜の中に、姿の美しい女性を見、その女を恋い慕い、妻にめとろうとするなら、21:12 その女をあなたの家に連れて行きなさい。女は髪をそり、爪を切り、21:13 捕虜の着物を脱ぎ、あなたの家にいて、自分の父と母のため、一か月の間、泣き悲しまなければならない。その後、あなたは彼女のところにはいり、彼女の夫となることができる。彼女はあなたの妻となる。21:14 もしあなたが彼女を好まなくなったなら、彼女を自由の身にしなさい。決して金で売ってはならない。あなたは、すでに彼女を意のままにしたのであるから、彼女を奴隷として扱ってはならない。
先に敵との戦いにおいて、男は殺すけれども女と子供は残すことをモーセは命じていました。その時に自分に気に入った女がいて、妻にしたいのであれば、こうしなさいという戒めです。次に出てくる戒めは、二つの妻がいるときにえこひいきをしてはいけないということですが、こうした戒めが出てくるときに、私たちが気をつけなければいけないことがあります。
それは主が、このような状態を望んでいるわけではない、ということです。離婚状を書きなさいという命令が申命記24章に出て来ます。この律法を盾にしてパリサイ人が、「妻と離別することは、律法にかなっていることでしょうか?」とイエス様に尋ねました。イエス様は、男が両親から離れて、女と結ばれ、二人が一体になるという言葉を引用し、神が結び合わせたものを引き離してはいけない、と言われました。けれどもそのパリサイ人は、「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。(マタイ19:7)」と言いました。モーセがここで言った箇所を取り上げているのです。
けれどもイエス様が言われました。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありあません。(8節)」分かりますか、人のかたくなさという現実があって、けれどもそこで人の悪が抑制されるように、律法を与えているのです。ここの戒めも同じく、戦場で捕虜になった女を自分のものにしたいというのは、それを主が望まれているとか、主が推進しておられることではなく、その男の我がままです。けれどもそのことをご存知のうえで、その現実を踏まえて与えられた戒めであります。
使徒パウロは、「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。(ローマ15:1)」と言いました。律法については、キリスト者は隣人を愛すという律法さえ持っていれば、他の律法は守り行なっているのだという指示を受けています。ならば、私たちは個々の問題に対して、「すべてキリストの愛なのだ。」との一言で終わらせて良いのでしょうか?違いますね、弱い人々の弱さをにない、その人々と同じところに立って、それで行くべき道を指し示すのです。
神は律法において、同じことを行なわれています。決してご自分の願っているものではないかもしれません。けれども、人間の現実をばっさり切り捨てるのではなく、共に立って、肉の弱さを担っている人間に罪を犯すことのないよう戒めを与えておられるのです。
そこで、ここの捕虜の女を娶る場合ですが、彼女にイスラエルの共同体に入るための心備えとその時間が必要になります。それで髪を剃り、爪を切って、捕虜の服も着替えます。そして両親のために一ヶ月、泣き悲しみます。そして一ヵ月後に男は彼女を娶るのですが、かつての見目麗しいと思っていた女は髪の毛もスポーツ刈りのように生えているだけで、見劣りしていることでしょう。自分の欲望を満たす対象ではなくなったのです。
自分の意のままに結婚したのですから、自分の意のままに離婚する確立も極めて高くなります。その時は周囲の国々であれば平気で行なっていた奴隷売買を神は禁じておられます。このことによって、神は目の欲によって安易に結婚することを抑えておられたのです。
3B 長子への財産 15−17
21:15 ある人がふたりの妻を持ち、ひとりは愛され、ひとりはきらわれており、愛されている者も、きらわれている者も、その人に男の子を産み、長子はきらわれている妻の子である場合、21:16 その人が自分の息子たちに財産を譲る日に、長子である、そのきらわれている者の子をさしおいて、愛されている者の子を長子として扱うことはできない。21:17 きらわれている妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から、二倍の分け前を彼に与えなければならない。彼は、その人の力の初めであるから、長子の権利は、彼のものである。
神は一夫一妻を制度として定めておられます。先ほど言及しましたように、神は男を造られ、男から女を造られ、そして二人を一体とされました。けれども、一夫多妻を人々が行ない始めました。神はそれをばっさりと行なってはならないと切り捨てることなく、そこから出る弊害を述べておられます。それは、「えこひいき」です。二人の女を同時に、平等に愛することは不可能です。ヤコブのことを思い出してください、彼はレアよりもラケルを愛したために、何が起こりましたか?「出産合戦」が始まったのです。二人の妻の間で嫉妬が始まりました。
そこで主は、戒めを与えておられます。嫌っている女の子であっても、長男は二倍の分け前を受け取らなければいけないと釘を刺しておられるのです。
4B 両親への反逆の罪 18−23
21:18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、21:19 その父と母は、彼を捕え、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです。」と言いなさい。21:21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。
私たち現代社会では、簡単に「反抗期」という用語によって事を済ませていますが、「あなたの父と母を敬え」と言われた神は、人を殺すのと同じように親への反逆を重く見ておられました。ここでの反抗は、単なる衝動的なものではありません。懲らしめても従わないという、恒常的に存在する反抗です。そして親の理不尽な要求ではなく、放蕩や大酒という、神の戒めに逆らうような内容であります。その時はその息子は殺されなければいけません。
そして次に、このような死刑を受ける者たちに対する仕打ちが書かれています。
21:22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。
人が自然に死ぬときは丁重に葬りますが、死刑によって死んだ者を当時は木でつるしていたようです。アメリカで昔、黒人をリンチして木につるしていた写真を見たことがありますが、そうしたその者が呪われていることを示していたのでしょう。そこで埋葬をその日のうちにしなけければいけない、イスラエルの地で呪われた者がつるされたままになって汚されてはいけない、と命じておられます。
使徒パウロはここの箇所を、律法が呪いをもたらす象徴として捉えていました。そして、キリストが十字架につけられたのは、律法の呪いを受けられた、呪われた者となったことを話しました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)」
私たちはもちろん、祝福を受けたいと願います。呪いを受けたくないと願います。そして、呪いを受けないために自分は律法を守らなければいけないと思います。そして、律法の10パーセントを守れば、祝福が10パーセント増えて、呪いもその分減ると考えています。ところが、申命記で次第に明らかにされていきますが、律法はそのような性質のものではありません。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。(ガラテヤ3:10)」すべての律法を堅く守り行なわなければ、呪われているのです。つまり99パーセント守り行なったとしても、呪われた者となるのです。
ですから、「私はこれから呪われないために努力する」ということはできないのです。既に呪われた者なのです。そして、ここに書かれてあるとおり、死罪によって木にかけられるにふさわしい者なのです。
けれども、キリストが律法の下にお生まれになって、そして律法の呪いをご自分の身に受けてくださいました。ユダヤ人が十字架につけられたのを見たイエスを見たときに、この者がまさかメシヤではあるまいと思わせたのは、ここの律法のためであります。メシヤがなぜ木にかけられ、神に呪われた者となっているのか?ということです。
けれども、それは身代わりであったのです。私たちが律法によって呪われているのに、キリストが身代わりに律法の呪いを受け取ってくださったのです。そしてキリストを信じる者が、代わりにキリストの義を受け取ることができるようにしてくださったのです。私たちはもはや、十パーセント正しい、三十パーセント正しいという物差しで生きているのではありません。自分の律法の行ないの中にいて百パーセント呪われているか、それともキリストの中にいて百パーセント義の中にいるかの、どちらかでしかないのです。
ゆえに、この方がしてくださったことは尊いのです。私たちはキリストの十字架が、すばらしい犠牲愛のような人間のストーリーとして片付けてはいけないのです。そうではなく、自分を呪いから贖い出して下さる救いそのものであるのです。この方なしには、私たちは神の前で死刑の宣告を受け、火を硫黄の池を待つしかないのです。もう一度、イエス様の成し遂げてくださったこと、私たちの律法の違反に対する神の呪いを、身代わりに受けてくださったことを思いましょう。