申命記26−28章 「主の民へ」

アウトライン

1A 収穫の奉納 26
   1B 礼拝 1−15
   2B 宝の民 16−19
2A 石の上の文字 27
   1B 石の祭壇 1−8
   2B 山からの宣言 9−26
3A 祝福とのろい 28
   1B 祝福 1−14
   2B のろい 15−68
      1C 正反対の事 15−19
      2C 根絶やし 20−48
      3C 捕囚 49−68

本文

 申命記26章を開いてください。今日は、26章から28章までを学びます。ここでのテーマは、「主の民」です。

 私たちはこれまで、イスラエルの具体的な生活の場面における、神の律法について読んできました。12章から26章までが、一続きのモーセの説教になっています。5章から11章までに、心を尽くして、思いを尽くして主を愛すること、また主が彼らを愛してくださったことについて、その愛の関係についてモーセは説教しましたが、12章からは、具体的な適用を行なっていました。そしてこの説教の最後の部分である26章をこれから読んでいきます。

1A 収穫の奉納 26
1B 礼拝 1−15
 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。」と言いなさい。祭司は、あなたの手からそのかごを受け取り、あなたの神、主の祭壇の前に供えなさい。

 モーセとイスラエルの民は今、ヨルダン川の東岸にいます。これから近いうちに、約束の地に入ります。そして約束の地に入れば、これまでの荒野の旅とは異なり、土地から産物を収穫できるようになります。産物を収穫できたならば、それは主へささげる礼拝の供え物となります。

 あなたは、あなたの神、主の前で、次にように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。

 イスラエル人は、礼拝をささげるときに、先祖ヤコブの時から、出エジプトの歴史を思い出し、約束の地に導かれた主のみわざを思い出します。そしてその感謝の現われとして、彼らは神に収穫の初物をささげます。

 イスラエルが神から祝福されるのは、その祝福のためでないことを知ることが大切です。彼らが祝福されるのは、その祝福によって、神がいかに良い方であり、愛してくださっているかを知るためであります。祝福を求めて神を求めるのではなく、神を求める中で、祝福が与えられます。神の祝福よりも、祝福の神を知ることが大切です。

 私たちはとかく、自分が祝福されるために神を求めてしまいます。神がソロモンが王位に着くとき、「あなたが願うものを何でも与えよう。」と言われましたが、私たちが同じように神さまから聞かれたら何と答えるでしょうか。私は、「多くの人が救われるように、私を用いてください。」という祈りをするかもしれません。けれども、私の牧師チャックは、「あなたがくださるものを、欲しいです。」という願いをするそうです。この二つの願いの大きな違いは、私は祝福を求めているのに対し、チャックは、神ご自身を求めていることです。神が最善のものを持っておられるという、深い確信と人格的な信頼があるから、そのような願いを立てることができます。私たちは、神を知るために祝福されます。祝福されたときに、自分が祝福されたことを思うのではなく、そこで神の良さを思って、神を礼拝し、神を知っていくことが必要なのです。

 あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。これは、私たちの先祖に誓われたとおり私たちに下さった地、乳と蜜の流れる地です。」

 イスラエル人に収穫が与えられたとき、その収穫の十分の一を主にささげるだけではなく、レビ人や在留異国人、またみなしごややもめに分け与えます。自分だけでその恵みを楽しむのではなく、貧しい人や必要がある人とともに楽しみます。そして、死者のためにこれらの収穫物をささげるのではなく、かえってそれら必要を持っている人々に分かち合いました、と言うことができるようにします。当時は、その土地で、死者に供え物をする習慣があったようです。日本も同じですね。生きている時に家族を大切にするのではなく、死者のためにたくさんのお金をかけます。しかし、聖書の神は、生きている人々を大切にされます。死んだ人については、すべて神の中で取り計らいがされているのですから、生きている人に慈善を行なうことが正しいのです。

 主に対する礼拝は、このように、他の人々への良い行ないとして現われます。礼拝を守ることは、礼拝のために存在するのではなく、神のいのちの中に生きて、そのいのちを人々に分かち合うところに存在します。神の愛がその人のうちにとどまっていなければ、その礼拝は形式だけのものであり、死んだものです。礼拝をとおして、私たちはキリストの愛に駆り立てられて、そして具体的に何かを行なっているのです。自分がそのために何をしているのか、自分がキリストの愛に駆り立てられて、今何を行なっているのかを点検してみてください。

2B 宝の民 16−19
 モーセは、ここまで話して、神の命令のすべてを語ることができました。そこで、次の宣言をします。あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。

 イスラエルの民が主の命令を聞いて、それを守り行いますという反応がありました。そこでモーセは、彼らが主の民となったという宣言をします。

 きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。

 イスラエルの民は、主のすべての命令を守ることによって、宝の民とされます。宝の民とは、他の国々がイスラエルを見て、たしかにこの民は祝福されており、すばらしい国民であると認めるところに現われます。そして、他の国民とは異なり、主の所有とされている「聖なる民」となる約束も与えられています。これは、彼らの父祖アブラハムが、「あなたは祝福となる。あなたによって、全ての民族は祝福される」と約束されたことの実現でもあります。

 イスラエルの民は、神との関係を、御声に聞き従うことによって確立します。彼らにとって神が、自分たちの神と言えるようになるには、彼らが神のみわざを自分たちの目で見ることでもなく、神がそばにおられることを感じることでもなく、神が語っておられることを聞くことによって成り立ちます。これは昔だけの話ではありません。新約時代においても、イエスさまは、私たちにこうお語りになりました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ15:7)」イエスさまのことばが、私たちのうちにとどまっているときに、願っていることがみなかなえられるという関係の中に入ります。また、主はこうも言われました。「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。(ヨハネ6:63)」イエスさまのみことばが、霊でありいのちです。したがって、私たちは、自分の回りで何かが起こっているから、イエスさまが生きているのを知るというよりも、またイエスさまを感じられるから、という感情によるのでもなく、御霊によって、神のみことばを聞くことによって知ります。主との個人的な関係は、そのみことばによって保たれます。

 ですから、イスラエルは主の民となりました。また、クリスチャンも、神の恵みのみわざによって神の民となっています。ペテロがこう言いました。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。(ペテロの手紙第一2:9-10」私たちは、神さまのものとなって、神さまと個人的な関係を持っている民となりました。

2A 石の上の文字 27
1B 石の祭壇 1−8
 モーセは、イスラエルが主の民となり、聖なる民となったことを、彼らがヨルダン川に渡った後に確立させるために、石を立てることを命じます。ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。

 モーセは、ヨルダン川を渡ることはできません。彼はその前に死ななければいけません。そこで彼は、自分だけではなく長老たちとともに命じています。民の指導者たちに、主の命令を託すのです。

 あなたがたが、あなたの神、主が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、主が約束されたとおり、あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたがはいるためである。

 大きな石を用意して、それに石灰を塗ります。そして、石に主が命じられたことをすべて書き記します。こうして、イスラエルの民が約束の地に入ったときに、彼らが、主のおきてによって自分たちが存在していることを知らしめるためです。

 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。

 主の命令を書き記した石は、イスラエルの地の中心部分に位置するエバル山の上に立てます。イスラエルの中心が、主の命令によって動くことを示すためのものです。

 旧約時代のイスラエル人と、新約時代に生きているクリスチャンとの違いは、前者が、石に刻まれた文字に従っていたのに対して、私たちは心の板に、神のみことばが刻まれるところにあります。明日学ぶヘブル人への手紙8章では、古い契約と新しい契約の違いについて詳しく学びます。そこに、エレミヤの預言が引用されており、エレミヤがこう言っています。「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心の書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(ヘブル8:10)」イスラエル人たちは、石に刻まれた文字を見て、それを守り行なえと教えましたが、新約において、神の御霊が人々に注がれました。神の御霊によってキリストが私たちのうちに住まわれて、聖霊によって神のみことばが心に焼き付けられるようになりました。だから、神のみことばを教えて、またそれを聞くのですが、それはもはや、外側にある規則を守るのではなく、内側の心の変化によって、神が私たちを通して働いてくだいます。これが新約と旧約の違いですが、けれども本質的には、神との関係は、神のみことばによることには変わりありません。何かの感覚でもなく、経験でもなく、また自分の知識によるのでもありません。神が語られたことに服従していくことによってその関係が成り立つのです。

 そこに、あなたの神、主のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。自然のままの石で、あなたの神、主の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。

 エバル山に、主の命令が書きしるされた石を置いたところで、主の祭壇を築きます。それは石の祭壇であり、自然のままのものを使わなければいけません。神は、人工的な、作為的な礼拝を嫌われます。主の御声を聞いて、そのまま従っていくような、自然な御霊の導きが大切なのです。自然の中に、超自然的な御霊の現われがあるのです。

 そして、祭壇では全焼のいけにえと和解のいけにえをささげます。全焼のいけにえは、自分を神にささげることを表明するいけにえです。「わたしは、あなたに自分自身をささげます。」という祈りが、全焼のいけにえです。これは、自分のたましいを主に明け渡すと言い換えても良いかもしれません。イエス・キリストを知って、この方に自分の思いや意志、感情をゆだねることが、ささげることです。私たちはこのような人格的なささげものではなく、取り繕って、自分自身が作ったものをささげようとしてしまいますが、それは間違いです。そして、和解のいけにえは、交わりを表しています。主がいけにえの一部を食べて、自分もその一部を食べることによって、主と同じものを分かち合っていることを象徴します。私たちは、御霊によって、キリストにあって神と一つとなっており、父なる神に大胆に近づくことができるようになっています。

2B 山からの宣言 9−26
 ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行ないなさい。

 モーセは、祭司たちとともに命じています。先ほどは長老たちとともに命じていましたが、ここでは祭司とともに命じています。そして、先ほど宣言したように、「あなたは、あなたの神、主の民となった」と宣言しています。

 その日、モーセは民に命じて言った。あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。

 石が立てられているエバル山の近くに、ゲルジム山があります。その二つの山の間に、イスラエルの民が集まります。そしてエバル山に、六つの部族の指導者が立ち、ゲルジム山にも六部族の指導者が立ちます。

 レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。

 次から宣言が始まりますが、のろいと祝福のどちらが宣言されているか、注目して読んでいきましょう。「職人の手のわざである、主の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

 お気づきになられましたね。すべて、のろいしか宣言されませんでした。祝福の宣言はありませんでした。のろわれることについて、民がみなアーメンと言わなければいけません。ここに、律法の限界があります。律法は、神の聖さ、正しさを示すものであり、律法に何も悪いものはありません。しかし、人は罪を持っているので、律法を守り行なうことができなくなっています。自分が、神のみことばを行なおうとすると、かえってみことばに反するようなことを行なうようになり、ますます罪深いことが示されます。一度、神さまに、「私はこんなにひどいことをしてしまいました。これからは行いません。私は、これから、このように頑張ります。」と祈ってみてください。必ずその祈りはかなえられません!なぜなら、「私が、これから、これらのことを行ないます。」と言って、自分が主体となっているからです。

 律法は、私たちが死に値する者であり、神のさばきを受けて当然であることを示してくれるものです。だから、律法によって、キリストの死が神の怒りを満足させるものであることを知ることができます。レビ人は、「このみおしえのことばを守ろうとせず、それを実行しようとしない者はのろわれる」と言いますが、これがガラテヤ書に、パウロによって引用されています。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』(ガラテヤ3:10」キリストが律法ののろいを受けてくださったことによって、私たちは信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐ者となったことを、パウロはガラテヤ書で論じています。したがって、私たちは、律法の行ないではなく、キリストが行なってくださった十字架のみわざによって生きます。キリストが私たちのために行なってくださったことを信仰によって受け入れることによって、神の御霊が私たちのうちに働きます。律法を行なうのではなく、キリストを信じ、律法を行なうのではなく、御霊に導かれるのです。

 しかし、イスラエルは律法ののろいが、レビ人によって宣言されました。

3A 祝福とのろい 28
 そして28章に入ります。ここでモーセは、イスラエルの民が、国民としてこれからどのような道をたどることになるのか、その長期的な視野に立った、神の祝福とのろいについて宣言していきます。

1B 祝福 1−14
 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。

 主との関係を正しく保っているときに、イスラエルの民は生活のあらゆる面で祝福されます。どこにいても、何を行なっていても、主が所有物を豊かに施してくださいます。

 主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。

 戦いにおいて、敵に負けることはありません。圧倒的に勝つことができます。

 主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。

 他の国々の民は、イスラエルが祝福されるのを見て、確かに主が彼らとともにおられることを知ります。

 主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。

 債権者となりますが債務国とはなりません。

 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。

 ここまでが、祝福の約束です。イスラエルの民は、終わりの時に、モーセがここで預言した祝福をことごとく自分たちのものとします。それは、聖書預言のいたるところに約束されています。現に、次回学ぶ申命記30章には、イスラエルの民が主を求めて、心を尽くし、精神を尽くして主を愛する時がやって来ることが預言されています。それは、主イエスさまが地上に戻って来てくださるときです。そして主が神の御国を地上に立ててくださいますが、その時に、御霊によって新生したイスタエルが、モーセがここで預言したような祝福をすべて受け取ります。

2B のろい 15−68
 しかし、イスラエルの歴史は、現代に至るまで苦難の連続であります。15節から最後の節、68節まで、イスラエルにのろいがもたらされることをモーセが預言しています。

1C 正反対の事 15−19
 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。

 モーセが今、祝福されると言ったすべての分野において、のろいがやって来ます。

2C 根絶やし 20−48
 主は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行なったからである。

 のろいは、彼らが根絶やしにされるところにまで至ります。「根絶やし」と言っても、すべてのイスラエル人が殺されたり、死んだりするということではなく、国民として生きていくことができなくなる、ということです。

 主は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。主は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。

 疫病によって死んでいきます。

 またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。

 天が青銅となり、地が鉄となるというのは、雨が降らなくなることです。水がなく、作物が取れず、彼らは死んでいきます。

 主は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。

 祝福されるときは、敵が七つの道に逃げ去るのですが、ここでは自分が七つの道に逃げ去ります。そして、イスラエルがそのようになるのを見て、他の国々は、神がイスラエルをさばいていることを知り、おののきます。

 あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。

 アブラハムが動物を真っ二つに裂いて、猛禽を追い払っていたという記事が、創世記15章にあります。けれども、そのように追い払う人もいません。

 主は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。主はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。

 エジプト人に下った災いが、今度はイスラエル人にも下ります。エジプトのはれものと同じものに打たれ、さらにエジプト人が暗やみの災いを受けましたが、イスラエル人もその災いを受けます。

 あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。

 祝福は、与えられているものに、さらに与えられることによって豊かにされますが、ここでは、与えられているものが取られていくことによってのろわれています。婚約した女が取られる。建てた家が住めなくなる。ぶどう畑を作っても、収穫がない。自分の家畜がほふられても、自分は食べることができない。自分で労苦しても、報いどころかマイナスになるというのろいです。

 あなたは、目に見ることで気を狂わされる。主は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。

 種物によって、見るに耐えない姿になってしまいます。

 主は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。主があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。

 離散についての預言です。イスラエル人たちが、異邦人の国に住み、その中で、彼らが恐怖となり、物笑いとなり、なぶりものとなります。これは、文字通り、祖国を失い離散の民となったユダヤ人において、実現しました。ユダヤ人がいるところに、どこにでも反ユダヤ主義がありました。ユダヤ人であるという理由で、憎まれ、あざけりを受け、また脅威に見られました。これは、彼らが神の命令に聞き従わず、神が送られたイエス・キリストを受け入れなかったからです。

 それではクリスチャンは、ユダヤ人を憎むことはできるのでしょうか?いいえ、決してそのようなことがあってはなりません。ローマ11章には、彼らは福音に敵対しているが、神の選びによれば、先祖のゆえに愛されている者たちである、とあります。また、アブラハムには、「あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしはのろう。」と言われました。神のみことばを知っているクリスチャンは、選びの民としてユダヤ人を愛し、イエスさまの肉の兄弟として受け入れなければいけません。そして何よりも、彼らがイエスさまの御名によって救われることを願わなければいけません。反ユダヤ主義とクリスチャンは相容れないものです。

 畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕えられて行くからである。こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。

 先ほどと同じように、どんどん取られていきます。

 あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。

 イスラエルが異邦人を支配するのではなく、異邦人がイスラエルを支配するようになります。またイスラエルが債務者となり、異邦人が債権者となります。

 これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。これらのことは、あなたとあなたの子孫に対して、いつまでも、しるしとなり、また不思議となる。あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、主に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、主があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。

 モーセは、のろいがもたらされる理由が、主の御声に聞き従わないからだ、と警告しています。そして、そののろいが、自分たちの世代だけではなく、子孫にまで、いつまでもしるしとなることが預言されています。事実、イスラエルは、苦難と悲惨の歴史として人々に知られるようになりました。

3C 捕囚 49−68
 主は、遠く地の果てから、わしが飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。

 ここから、イスラエルがバビロン捕囚など、捕囚の民となることが預言されていきます。イスラエル人には分からない言葉、例えばアッシリヤ語、カルデヤ語などを話す民に襲われます。

 その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。

 イスラエルを襲う民は、無慈悲なことを行ないます。

 その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、主の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、主が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。

 イスラエルが、城壁の中に閉じ込められ、包囲されます。その時に起こる、人間の共食いがあからさまに預言されています。

 あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。

 これは、列王記第二を読むと、エリシャが生きていたときに、女たちが行なっていたことです。文字通りに成就しました。

 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。主は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。

 悪性の病気が長くつづきます。

 あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、主の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。かつて主があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたがはいって行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。

 イスラエルの人数が、非常に少なくなり、それから離散の道を歩みます。

 主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。主は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに。」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに。」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。

 離散の地では、恐怖におののきながら日々を過ごすことになります。

 私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言った道を通って、主は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。

 エジプトに戻ったことも、エレミヤ書を読むと成就したことが分かります。バビロンにユダヤ人が捕え移されてから、イスラエルの民がエジプトに移っています。(43:7)

 以上、28章は、ユダヤ人の歴史の中で見事に成就しました。神のみことばが、確かに実現することを、恐れを抱きながら眺めることができます。確かに、主のみことばは、天地が過ぎ去っても決して変わることなく、とこしえまで堅く立ちます。主の民であるということは、神のみことばによってつながれています。


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