申命記261619節 「あなたの神、主の民」

アウトライン

1A 約束の民
   1B 宝の民 (愛されている対象)
   2B 聖なる民 (地上における証人)
2A 主の掟への従順
   1B 罪を犯す前のアダム
   2B 呪いの道
   3B 新しい契約
3A 宗教と福音
   1B 従順と受容
   2B 愛の基準
   3B 善人の基準
   4B 行動の主体
   5B 結ばれる実
   6B 恐れと愛

本文

 申命記26章を開いてください、1619節をお読みします。午後礼拝では、26章から28章までを学びたいと思っています。

16 あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。17 きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。18 きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、19 主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。

 ついに申命記も、ラストスパートにさしかかりました。モーセが、初めにイスラエルが荒野から、ここヨルダン川の東岸にまで来た旅程を話し、それから4章で「今、イスラエルよ。あなたがたが行なうように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。(1節)」と、神の命令と掟を守るよう教えはじめたところを読みました。十戒を教え、12章からはその具体的な適用でありました。そしてついに、イスラエルの民が応答し、これらの掟を守り行なおうとしています。そしてこれらの掟を行なうと断言しています。それで、神がご自分や約束したとおり、彼らを宝の民にし、また聖なる国民にすると宣言されました。この宣言の後、モーセはもはや「これこれを守り行ないなさい」という教えは垂れず、「守り行なえばこのような祝福がある、そして守り行なわなければ次のような呪いがある」と、律法に従順になることへの結果を示していきます。

 この宣言はちょうど、条約の締結のようです。そして結婚の誓約のようでもあります。事実、主は約千年後に預言者エゼキエルを通してこのことを思い起こし、こう言われています。「わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。・・神である主の御告げ。・・そして、あなたはわたしのものとなった。(16:8」イスラエルは妻のように、これらの掟を守りますと誓い、そして主は夫のように、「わたしは、あなたがたを必ず宝の民にし、聖なる国民にします。」という誓いを立てられたのです。

 私たちは前回、申命記から結婚について学びましたが、結婚の決断をなかなかできない男性、相手は結婚を持っているのに自分はもじもじしている男性について話しました。結婚に限らず、私たちは自分が乗りかけた船を出航させなければいけないのに、その一歩を踏み出せない時があります。決断を引き延ばすことがあります。けれども、いつか、いや、「今しなければいけない」という時があります。モーセはここ17節で、「きょう」という言葉を使って、今日、あなたがたと私は契約の中に入るのだと仰っています。今、生きている私たちに対しても同じです。コリントにある教会の人たちにパウロはこう言いました。「私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:1-2

1A 約束の民
1B 宝の民 (愛されている対象)
 主の約束は、とてつもなくすばらしいものです。「あなたは主の宝の民である」と宣言されました。そして具体的に、「主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。」と言われています。これは、「あなたはわたしにとって特別な民なのだよ。わたしは、他のすべての国々も愛しているが、あなたは違う、特別な人なんだよ。」と言われているのです。その思いを主は、申命記77節でこうも話されました。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、・・(7-8節前半)

 しばしば、キリスト教を批判する人たちの中で、このようなことを言う人たちがいます。「神は人を選ぶというが、それはずいぶん不公平なことだな。そのような選民思想は持つべきではない、人はすべて平等に接するべきだ。」本当にそうなんでしょうか?その人は、愛というのを何も知りません。恋をしている若者が、相手の女性が世界にいるどんな女性よりも最も美しいと思うのではないでしょうか?一つの家庭を築いている父親は、自分の息子と娘が世界中にいる子供よりも、最もかわいい存在なのではないでしょうか?もちろん神は、すべての人を愛されています。ここ申命記でも、主がすべての国々を造られたことを話されています。つまり、ご自分の造られたものは愛されています。けれども、イスラエルは特別です。特別な愛を注がれています。

 私たち人間は、すべて平等に取り扱われたら、一人一人は人間性を失います。社会主義の国家ではどんな人も同じ財産の中で生きるように機械的に行なわれました。その結果、人々は機械的にしか働くことができないようになりました。日本の小学校では、一部に運動会の徒競走で順位をつけないところがあるそうです。「五体不満足」という本を書いた、ご自身両手両脚のない乙武洋匡というスポーツライターの方がいますが、彼はこう評論しています。「子供に順位をつけることを悪だという声があります。しかし、僕には、まったく競争を経験させていない子供たちを、競争が渦巻く社会に無責任に放り込むことのほうが、よっぽどの悪に思えてならないのです。もちろん、教育を受ける機会などは平等にすべきだと思います。でも、その結果にまで平等を求めるのは無理があるんじゃないのかなあ。だって、子供たちは一人ひとり、みんな違う存在なんだから。」(sports.cocolog-nifty.com/ototake/2005/06/post_c7c4.html

 みなさん一人一人は、他の人よりだれにもまして、神に愛されている特別な存在なのです。主はイスラエルの残された民にこう言われました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。(イザヤ43:4」けれども、こう尋ねるかもしれません。「他にも人がいるのに、その他の人々は愛しておられないのか?」そうやって、きょろきょろ周りを見ないでください!多くの人が、「他の人は?家族は?」と他の人のことばかり考えますが、もっと自分を大事にしてください。あなたが主に愛されているのです。使徒ヨハネは、自分のことを「主に愛された弟子」と呼びました。他の弟子よりも、自分こそが愛されているという自信がありました。そして弟子一人ひとりが、そう思っていたのです。自分こそが主から愛されている、と。それでいいのです。これが本物の愛です。極端な話、世界の全ての人が滅んでもあなただけを神は救おうとされる、そういう愛を持っておられるのです。

2B 聖なる民 (地上における証人)
 そして、「約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。」と主は言われました。神に愛され、神のものとなったのがイスラエルの民です。神の所有の民となりました。しかし、イスラエルはこの地上で、他の国民と隣り合わせに生きていきます。国民生活、また個々人の生活において、自分は神に愛された、神の所有の民になっていることを意識して、区分けして生きていかなければなりません。例えば、会社でみなで仕事をしていても、妻が出産間近ということであれば、夫はその仕事を置いて病院にただちに向かいます。会社の中にいても夫はその妻のものだからです。同じように、他の者たちといっしょにいても、自分だけは神の用事を行います。これを「聖なる民」と呼んでいます。別たれている、選び別たれている、ということです。

 神は、イスラエルの民がそのように生きることのできるために、他の異邦人が普段行なっていることを行なわないように命じられています。例えば、「あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはなrなあい。(レビ19:27」なんでそんなことを命じられたかと言いますと、周囲のカナン人が体毛をそり落として、異教の儀式を行なっていたからです。また、さまざまな食物規定を与えられました。ひずめのない動物、また反芻しない動物は食べてはならない、汚れていると言われました。それを食べたからと言って、特段に道徳的に悪いことではないのです。けれども、他の異邦人が好んで食べているものをあえて食べないようにさせました。神はこう言われました。「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。(レビ11:44」このように、自分の体に関すること、自分の食べる物に関することにおいても、極めて具体的な生活の局面において、確かに自分は神に愛される、神だけのものになっている民なのだという認識を彼らは持つようになるのです。

 キリスト者に対しても、神は同じようにしてくださいます。神は概念的に、抽象的に私たちを愛されているのではありません。実に生活の細かいところにおいて、「わたしが神なのだよ」と教えてくださいます。エペソ人への手紙5章において、使徒パウロはキリスト者に、「また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(2節)」と言いました。キリストはあなたをこのように愛してくださっています。ゆえに、続きがこうなっているのです。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。(3-4節)」不品行、汚れ、むさぼりというものは、キリストの無私の愛とは両極にあるものです。与える愛ではなく、奪い取る欲望です。私たちがこの世に生きている限り、常に不品行、愚かなことや、下品な冗談がつきまとっています。けれども、キリストが私を愛して、ご自身を神への供え物としてささげてくださった、ということを思えば、これらのものから遠ざかることを願います。これが、「聖なる民」という意味です。

2A 主の掟への従順
 ところで、ここの神の宣言において特徴的なのは、「あなたがたが、命令を守るのであれば」という条件があることです。1617節をもう一度ご覧ください。「あなたの神、主は、きょう、これらのおきてと定めとを行なうように、あなたに命じておられる。あなたは心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行なおうとしている。きょう、あなたは、主が、あなたの神であり、あなたは、主の道に歩み、主のおきてと、命令と、定めとを守り、御声に聞き従うと断言した。」それで、主が彼らを宝の民、また聖なる民と宣言しておられます。18節後半にも、「あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、讃美と名声と栄光とを与えて・・・」となっています。イスラエルの従順が、神の約束を受け取るための条件になっているのです。

 戒めを守ることは、相手を愛していることの証しとなります。イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15」と言われました。愛していると言いながら、その人の言っていることを守らなければ、それは真実の愛ではありません。愛の中には相手の言っていることを守るという真実、あるいは誠実があります。

1B 罪を犯す前のアダム
 神が天地を創造されたとき、初めに造られたアダムは、神に愛された、神と一つにされていた中で生きていました。彼は、主に命じられたことを行なっていました。エデンの園を耕すのも主が命じられました。そして、木々を園に生えさせ、その実を思いのままに食べてよいとされました。ただ園の中央にある善悪の知識の木からは取って食べてはならないと命じられました。ところが、アダムはそれを取って食べてしまったのです。それが罪の始まりです。その罪によってアダムから出てくる子孫はみな、生まれながらにして罪の性質をもっているようになりました。人は、その命が神から切り離されており、肉体としては生きているけれども、その霊が神から離れ、死んでいる状態なのです。

2B 呪いの道
 神と契約を結ぶときに、確かに神の命令を守り行なうことが条件となります。主のみを神とし、この方を愛するのであれば、その命令を守り行なうはずです。ところが、心が付いていきません。生まれながらにして持っている罪が、自分の肉体に働いています。そこで興味深いことに、申命記27章以降、主が語られるこれからのイスラエルの行く末は、祝福よりも呪いがはるかに多く語られているのです。27章には、イスラエルが約束の地に入り、そこでゲリジム山とエバル山において、律法の宣言を行なうように命じられています。ゲリジム山においては祝福を宣言し、エバル山においては律法を守り行なわない場合の呪いを宣言します。ところが、27章にはエバル山における呪いの宣言のみが記録されており、祝福の宣言がないのです。そして28章には、主の命令を守り行なうとこのような祝福があると書いてあるものの、その四倍ぐらい多く、その後で命令を守り行なわない場合の呪いが書かれています。

 主の命令に聞き従うと決心しているのに、むしろその反対のことをしている葛藤を使徒パウロはこう説明しています。「それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(ローマ7:11-12」主が命じられていることは行ないたい、それは正しく、良いもので、聖いものであると分かっているのに、それとは異なることをかえって行なっている。むしろ、そうした戒めがある時に天邪鬼のように、かえって逆のことを行なっています。行なおうとしても、心が神から離れているからです。

3B 新しい契約
 モーセが前もって語った呪いは、実にイスラエルの歴史の中で成就しました。バビロンによってユダヤ人が約束の地から引き抜かれ、捕われの身となったのです。けれども、その時に生きていた預言者エレミヤに対して、神は次のように約束してくださいました。ぜひ開いてください、エレミヤ書3131節からです。
 

31 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 新しく契約を与えると約束されています。そして、モーセが今イスラエルに与えている契約、シナイ山で与えた契約のようではない、と言われます。なぜなら、「わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった」からです。そこで神は、後の時代に新たな契約を与えると約束されたのです。その中身が大切です。「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」神の命令を行ないたくても行なえない、それは心が神から離れているからなのですが、その心に神が律法を書き記す、というのです。つまり心が神の律法を守るよう変えられる、ということです。

 そして大事なのは、主語です。先の古い契約においては、イスラエルが心を尽くして主の命令を守り行なうこと、イスラエルの従順に拠っていました。今は、神がイスラエルに対して行なわれること、神の真実に拠っているのです。「私がこれこれのことをすれば、神が祝福してくださる。」ではなく、「神が一方的に私を祝福してくださったから、私はこれこれのことをする。」なのです。私たちの律法の行ないではなく、神がキリストにおいて行ってくださったことによって、私たちの心が神の御霊によって変えられ、それで神の命令を守り行なうことができるようにしてくださったのです。

 古い契約では、モーセが仲介人となり締結が行なわれましたが、新しい契約では主ご自身がその仲介者となられました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20」イエス様についていった群衆が、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と尋ねた時、イエス様は「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:28,29」と言われました。「何をするか、するべきでないか」とうことに焦点を合わせるのではなく、その根っこにある心の問題を、イエス・キリストがしてくださったことを信じるという信仰によって、神の御霊ご自身が取り扱ってくださることを期待するのです。

3A 宗教と福音
 キリスト教は「宗教」の中に入れられていますが、本質的なところで他の宗教と違います。イエス・キリストの良き知らせ、福音は、私たちが考える神との関係、宗教と極めて異なります。

1B 従順と受容
 宗教はこう教えます。「私が従順であれば、神は私を受け入れてくださる。」けれども、福音はこう教えます。「私は神に受け入れられている。だから私は従順に聞き従う。」

2B 愛の基準
 次に宗教はこう教えます。「私が良い子にしていれば、神は私を愛してくださる。」けれども福音はこう教えます。「私は悪い子だ。そして、イエス様は悪者を愛してくださる。」

3B 善人の基準
 さらに宗教は次のように教えます。「あなたは、善人にならなければならない。」自分が良い人になるか、悪い人のままでいるかのどちらかの選択であると教えます。けれども福音はこう教えます。「あなたは、悔い改めたか。」神は人を、悔い改めた心を持っているか、そうでないかで区分けされるのです。

4B 行動の主体
 そして宗教はこう教えます。「私はこれを行なっているか、行なっていないか。」いつも焦点が、自分の行ないに向かっています。けれども、福音はこう教えます。「イエス様がこれを行なってくださった。」イエス様が自分の焦点なのです。

5B 結ばれる実
 そして宗教の中にいる人と、福音の中にいる人ではこのように変わります。宗教の中にいると、「高慢と絶望」に陥ります。自分が守れたと思っている高慢、また自分が徹底的に守れないという絶望です。けれども福音の中にいると、「へりくだりと確信」が与えられます。自分が悪い者であるというへりくだり、そして自分の罪が赦されたという確信あるいは安心が与えられます。

6B 恐れと愛
 最後に、宗教と福音の大きな違いは「心の動機」です。宗教は「恐れ」が動機です。「これこれのことをしなければ、罰せられる。」という恐れが戒めを守ろうとする動機付けになります。福音は「愛」が動機です。「主を愛している。だからこの命令を守ります。」という心なのです。

 みなさんはずっと宗教を続けたいですか?それとも、このすばらしい知らせ、福音の中に生きたいですか?最後に使徒ヨハネの書いた言葉を読みたいと思います。ヨハネ第一41819節です。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

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