申命記29−31章 「天と地の証人」

アウトライン

1A のろいの誓い 29
   1B 悟る心 1−9
   2B 「きょう」という日 10−15
   3B だまされない神 16−21
   4B 諸国の民の驚き 22−29
2A 帰還の約束 30
   1B 主に立ち返るとき 1−10
   2B 近くにあるみことば 11−14
   3B 「いのち」の選択 15−20
3A 新しい指導者 31
   1B モーセの死 1−13
      1C 前進される主 1−8
      2C 七年毎の律法の朗読 9−13
   2B モーセの歌 14−30
      1C イスラエルへのあかし 14−23
      2C 契約の箱 24−30

本文 

 申命記29章を開いてください。今日は、29章から31章までを学びます。ここでのテーマは、「天と地の証人」です。

1A のろいの誓い 29
1B 悟る心 1−9
 これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。

 モーセは今、ヨルダン川の東にいます。シナイ山で神から律法を授けられたのは、もうかれこれ40年前になります。本当ならば、11日間で約束の地に行くことができたのに、イスラエル人たちの不信の罪によって、40年間荒野をさまよわなければいけませんでした。その間に、イスラエル人の20歳以上の者たちは、ヨシュアとカレブをのぞく全員が死に絶えました。今、モーセの説教を聞いているのは、当時20歳以下であった新しい世代のイスラエル人です。モーセはここで、シナイ山、あるいはホレブの山で与えられた神との契約とは別に、もう一つの契約をイスラエルと結ばせるために、主の命令を語りました。

 モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。

 モーセは今、イスラエル人たちに、エジプトの地で彼らが見た大いなるみわざを思い起こさせています。当時、彼らはまだ子供でしたが、それでも鮮明に、起こったことを覚えているでしょう。しかし、これらのことを見たのにも関わらず、彼らは、今日に至るまで、悟る心と、見る目と、聞く耳がありませんでした。主がこれらの不思議を行なわれたのは、イスラエルが主の民となり、主がイスラエルの民となるためでした。しかし、イスラエルは、これらの大いなる出来事を見たのにも関わらず、主を知らなかったのです。

 私たちは、主が自分に教えてくださらないかぎり、どのように物事をはっきり見ても、その意味を理解することはできません。イエスさまは、たとえ話をお語りになったときに、また、黙示録にて教会にお語りになるときに、「聞く耳のある者は、聞きなさい。」と言われました。見ても見えず、聞いても聞こえず、教えられても悟らないことが、私たちには起こるのです。なぜなら、神についての事柄は、神ご自身が示してくださらないかぎり、悟ることができないからです。パウロは言いました。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(1コリント2:14−15)」ですから、私たちは、自分たちのかたくなな心を、神さまによって砕いていただいて、へりくだり、神が教えられていることを知ることができるようにしていただくことを、祈らなければいけません。

 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。

 もしかしたら、イスラエル人はモーセにこのように言われなかったら、自分の着物やくつがすり切れていなかったことに気づかなかったかもしれません。イスラエル人たちは、「水をくれ!」とか、「マナばかりで、飽き飽きした。」などと言って、主が彼らとともにおられるかどうかを試しました。「こんな、灼熱の砂漠に置かれて、俺たちのところに、主がおられるのか。」と感じていたのでしょう。ところが、自分のきわめて身近なところで、主が奇蹟を行なわれていなかったことに気づいていませんでした。私たちも同じです。心が主から離れているために、主が自分のために行なっていてくださることに気づかないでいるようになっていることはないでしょうか?

 あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。

 パンが与えられること、ぶどう酒が与えられることは、主からの祝福であると考えられますが、しかし祝福がかえって、主を知ることを妨げることがあります。「おお、うめえ、うめえ。」と言って食べたり飲んだりして、「俺は、神なんか必要ない。」と高ぶることができます。そこで、主はイスラエル人をあえて、パンも食べず、また、ぶどう酒や強い酒を飲ませることをされませんでした。マナを与えられることによって、彼らが主のみことばによって生きるようにさせるためでした。私たちは、とかく、自分の目に悪いことが起こったり、なにか欠けたものがあるときに、主により頼み、神に祈ります。このことが、主を知っていくことの訓練になります。

 あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。

 ヨルダン川を渡る前に、主はすでに、ご自分がヨルダン川の向こう側でどのようなことを行なわれるのかを、お示しになりました。

 あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。

 契約のことばを守ることによる、繁栄を約束しています。イスラエルが主の命令を守り行なっているかぎりにおいての祝福です。これが古い契約であり、新しい契約では、人の従順ではなく、神の真実に基づいた祝福を与えます。それは、イスラエルによって、人には自分たちで神との関係を保つことができないことがあかしされたからです。

2B 「きょう」という日 10−15
 きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。

 モーセは、「きょう」と言って、契約が今、結ばれることを宣言しています。主の前で、契約が交わされます。イスラエルの指導者たちだけでなく、一般人もすべて、そして在留意黒人も奴隷も差別なく、この契約の中に入ります。

 あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。

 主の契約と「のろいの誓い」とに入ります。祝福ではなく、のろいの誓いです。今、申し上げましたように、モーセによって与えられた律法によっては、人々はのろわれこそすれ、祝福されることがありませんでした。それは、律法を守り行なうことができないためであり、律法を守り行なうことができないのは、人の心が神から離れており、堕落しているからです。イスラエルにのろいがもたらされることは、モーセはすでに予知していました。

 さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。

 この契約をもって、イスラエルが主の民となり、また主がイスラエルの神となられました。

 しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

 モーセがこれから語ることは、今聞いているイスラエル人だけではありません。これから出てくるイスラエルの子孫たち、すなわち、イスラエルのこれからの歴史の中で見ることができる、のろいが次から書かれています。

3B だまされない神 16−21
 事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。

 イスラエル人たちは、エジプトにいたときに、また旅をしているときに、あらゆる偶像を目にしました。

 万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 「心が神から離れてはいけない」とモーセは言っています。私たちが主から心が離れるときに、心に神のいのちが注がれなくなります。そして、他にいのちのみなもとを求めて、偶像を拝むようになります。イエスさまが自分にとって最も大事な方になっていないとき、私たちは何か他のものを一番にして動いています。そしてそれが、偶像なのです。

 こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。

 偶像に心が寄せられているのにも関わらず、主を心から愛している人と同じように、特に問題が起こっていないとき、「ああ、自分は大丈夫だ。このように歩んでも、なにも悪いことが起こらないではないか。」と思ってしまいます。けれども、それは大きな間違いであると、モーセは言っています。私たちは、自分を欺くことがあります。自分は、神の御国にはいることができる。自分がどのようなことを行なっていても、とくに何も悪いことが起こっていないから、さばかれることはないでしょう、と神の忍耐深さを、神の弱さであると考えるのです。けれども、パウロは、「だまされてはいけません。」と言って、正義を行なわない者は、神の御国を決して相続することはないと断言しています。

 主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。

 主は、ご自分が言われたことばのとおりのことを、必ず行なわれます。

4B 諸国の民の驚き 22−29
 後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。

 このことは事実、アッシリヤ、バビロン、またローマによってもたらされました。イスラエル人が、約束の力引き抜かれて、その土地が荒廃しました。

 ・・すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」

 地が荒廃しているのであれば、それはイスラエルには神がいない、ということも絶好の証拠となると考えるかもしれません。しかし、それは逆であり、荒廃しているからこそ、主のみことばがそのとおりであることを知り、諸国の民は、イスラエルの神をおそれる、ということなのです。ローマ人への手紙3章でも、ユダヤ人が不従順であることによって、神の義が明らかにされた、と書かれています。

 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

 先ほどからモーセは、「きょう」ということばを使って、はっきりと、主のことばを宣言しています。まだ知られていないことは、主のうちにあり、それは私たちに責任がともないませんが、現わされたことには責任があります。これを聖書では「啓示」と呼んでおり、私たちは、神が示してくださるところに基づいて生きているのです。

 クリスチャンは、自分で理解することよりも、むしろ、受け入れて、支配されることが、聖書に取り組んでいるときに必要です。大人よりもむしろ子供のほうが、神が言われていることを正確に理解していることが多いのですが、その理由は、子供は言われていることを、そのまま受け入れるという聞き方しかできないからです。大人は、自分の価値観や考えが固まっており、物事を取捨選択しながら生きていますから、神のことばを聞くときにもそれが影響します。しかし、聞くときは、私たちは子供のように、神の啓示をそのまま受け入れて、そして、考えて、神のみこころが何であるのかを知ることが正道なのです。イエスさまは、弟子たちが悪霊を追い出せたことを喜んでいるのをごらんになり、父なる神に、「学者にではなく、このような幼子に示してくださいました。」と感謝の祈りをささげていましたが、そのような聞き方が大事なのです。

2A 帰還の約束 30
 そこでモーセは、イスラエルの民が、のろいの中に置かれて、その土地から引き抜かれることを明らかにしましたが、今度は、イスラエルが神に立ち返って、約束の地に戻ってくることを明らかにします。

1B 主に立ち返るとき 1−10
 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

 イスラエルの民が主に立ち返るときに、必ず約束の地に帰還することができるという約束です。私たちは今、この完全な預言の成就を見ていませんが、その一部は見ることができています。すなわち、ユダヤ人が世界中から集められて、イスラエルの地に帰還していることです。けれども、ユダヤ人がそれでは、主に立ち返っているか、と言えば、そうではありません。彼らはまだ、イエスを自分のメシヤであると信じておらず、ましてや神さえも信じていない状態です。

 そこで現代のイスラエル国は、預言の成就ではないという人たちがいます。しかし、他の預言を読むと、イスラエルは、初めに不信仰の状態で、約束の地に連れ戻されて、それから患難の中を通って、初めて信仰を持つ、というシナリオになっていることを知ります。大患難の時には、イエスさまが言われたように、ユダヤ人がエルサレムやユダヤの地域に住んでいなければいけません。

 そして、彼らがメシヤを求めるときに、イエスさまが天から戻って来られます。彼らは、メシヤがナザレ人イエスであることを知って、嘆き悲しみ、悔い改めます。そして、御霊が注がれて、彼らは新たに生まれることになります。このときに、まだ世界中に散らばっているユダヤ人たちが、いっせいにイスラエルへと帰還することになります。それが、ここ申命記30章の預言の成就です。主が再臨されるときに、選びの民が四方から集められるのです。

 あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。

 連れ戻された後に、イスラエルは祝福されます。イエスさまがエルサレムにて王となられて、イエスさまを王とする国の中で、イスラエルは祝福されます。

 あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。

 心の割礼が行なわれることの預言です。イスラエルが契約を結ぶときから、のろいの誓いがなされたのは、その心が神さまによって取り扱われていなかったからです。律法は、正しいことを教えますが、それを実行する力は与えません。アダムによって罪が世界にはいり、その罪によって、律法からはのろいしかもたらされません。したがって、御霊によって心の割礼が行なわれます。そして、神との個人的な関係を持つことができます。

 あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。

 イスラエルは、異邦人の国々を通して神の凝らしめを受けますが、その国々は、イスラエルを打ったそののろいのために、今度は自分たちがのろわれます。人々は、イスラエルやユダヤ人が行なっていることに反対して、反対するだけならまだ良いのですが、敵対的にさえなります。それだけ悪いことをしているからだ、と人々は言いますが、確かにそのとおりかもしれません。イスラエルに非があるでしょう。しかし、神を恐れなければいけません。イスラエルが敵によって攻撃を受けるのは、神のみこころの中で行なわれていることなのですが、その敵は滅ぼされてしまうのです。イスラエルをのろう者は、のろわれるのです。

 あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。

 心に割礼を受けると、主の御声に聞き従うことができます。大事なのは、自分の心が聖霊によって変えられているか、どうかなのです。

 あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。

 こうして、イスラエルは、のろいの誓いの中に入ったあと、心に割礼を受けて、神に立ち返り、回復するということが預言されています。ユダヤ人の歴史は、離散の地における虐殺や迫害など、のろいの誓いがきわだっていましたが、これからは回復の時代です。主が戻って来られるときに、それは完成するでしょう。

2B 近くにあるみことば 11−14
 そこでモーセは、主のみおしえのことばについて語ります。まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

 どこかで聞いたことばですね。そうです、ローマ人への手紙10章において、パウロが信仰の義について話しているときに、引用されたことばです。私たちは、救われるために、天に上らないといけないとか、海の中にはいらなければいけないとか、地理的に遠いところに行く必要はなく、救いはすぐ近くにあり、心にある神のことばと、自分の口であるということです。イエスを主であると、心で信じ、口で言い表すなら私たちは救われます。

 ですから、私たちの課題は、周りの状況が変わることではなく、自分の心が変えられること、またみことばが自分の心に宿っていることであります。私たちが問題だと思っていることは、実は、神さまとの関係が正されるときに、正されることが実に多いです。まず自分自身を、神のみことばによって点検してみましょう。そして、神のみこころにそうことができるように、心を変えていただきましょう。

3B 「いのち」の選択 15−20
 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。

 いのちか死、幸いか災い、という二者択一です。

 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。

 のろいか祝福かの、二つの道しかないということです。

 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

 「いのちを選びなさい」とモーセは言っています。私たちはいつも、選ぶことをしています。イエスの御名を信じて、いのちを得るか、それとも暗やみの中にとどまって、永遠の滅びを選ぶかのどちらかです。「どちらか、わからない」という立場、選ばないという立場も、実はすでに選んでいます。中途半端な姿は、私たちを必ず死の道へ、災いの道へと進ませることになります。主にしたがうとは、自分で絶えず、主を選ぶという意識的な選択によるものなのです。

 モーセは、「天と地とを、証人に立てる。」といいましたが、確かにイスラエルが行なっていることを、天と地という二つの証人が見ている、ということです。私たちはいつも、見られています。神ご自身に、自分の心を見られています。神の前で隠されているものはなく、すべてが明らかにされています。その中で、神がご自分のみことばを実行されるのです。

3A 新しい指導者 31
 ここまでが、契約の最後の宣言でした。次にモーセは、新しい指導者ヨシュアにバトンタッチをします。

1B モーセの死 1−13
1C 前進される主 1−8
 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。

 モーセは今、120歳です。そして、主からヨルダン川を渡ることはできず、こちら側で死ななければならない、と言われました。あの、主に愛され、主が顔と顔を合わせてお語りになったモーセが、約束の地に入ることができません。これは、モーセが、水を出すときに、主が聖なる方であることをイスラエル人に見せなかった、という過ちを犯したからです。たった一つの過ちで、主は、約束の地に入ることはできないことをお決めになりました。

 これは、律法の姿を見事に現わしています。律法は、一つでも違反するとすべて違反したことになります。たとえば、死刑の判決が下って、「私は殺人の罪を犯しましたが、これこれ、こんな良いことをたくさん行ないました。だからその罪を赦してください。」ということはできません。殺したものは、殺したのです。どんなに良い行ないをしても、一つの違反で死に値するのです。

 あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。

 モーセはヨルダンを渡れないが、主ご自身が先住民をことごとく打つと約束されています。けれども、それを無人で行なわれるのではありません。ヨシュアという新しい指導者を立てて、彼をとおして、それらの住民に戦われます。自分で行なうのか、それとも主が行なってくださるのかの違いです。

 主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 主がともにおられて、主がともに進まれる。これが、聖霊に導かれるときに起こることです。自分が舵取りをするのではなく、主が舵取りを行なわれて、自分はそれにゆだねるだけです。大事なのは、信じていること、恐れないことです。モーセのように、律法によって生きると、実が結ばれませんが、聖霊に導かれるところには、実が結ばれます。

 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 主が仰せになったことを、そのままヨシュアに話しました。

2C 七年毎の律法の朗読 9−13
 モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 モーセが教えたことは、約束の地においても、七年ごとに思い起こして、読ませなければいけません。約束の地においても、モーセの律法は守り行なわれ続けなければいけません。

2B モーセの歌 14−30
 けれども、彼らは堕落します。モーセは、そのことをすでに、主から示されていました。

1C イスラエルへのあかし 14−23
 それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。

 ヨシュアといっしょに、幕屋の入り口のところまで行きました。

 主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。

 ヨシュアに、これからのイスラエルを託すのに、モーセはその矢先から、イスラエルが失敗することが示されていました。

 この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。

 神が言われるとおりに、イスラエルに災いがくだると、このようなことを言うイスラエル人たちが出てきます。「こんなひどいことが起こっているなら、それは神がいないからだ。」と。このことばは、ホロコーストのときに、ユダヤ人によって口に出されたことばでした。「もし、私たちに神がおられるなら、なぜこんなことになるのか。」と。私たちも同じ質問をします。「こんなにひどいことが起こっているのは、神がいないからだ。」と。いいや、神がおられるから、そのようなことが起こるのです。

 今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」

 神は、イスラエルの民が、ご自分が言われたことを思い起こさせるのに、歌という方法を用いられました。何千年も後になっても、その歌をうたっていれば、もしかしたら、その意味を深く考えるかもしれません。そのときに、「なるほど、私たちがこんなにものろわれているのは、こういう、こういう理由からだったのだ。」と思い出すことができるからです。歌の内容は、次の章32章にあります。

 モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

 モーセの死の直前の仕事が、歌を書き記すことでした。けれども、なんとも悲しい仕事です。のろいがもたらされたことを、思い起こさせるための歌なのですから。しかし、コリント人への手紙には、モーセの務めが、文字に使える務めであり、死に至らせる務めであると書かれています。今、私たちは、人にいのちを与えるところの務めにあずかっている、と書かれています。

2C 契約の箱 24−30
 モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。

 モーセは、契約の箱の前で、彼らが堕落することを予告しました。神が証人です。

 あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

 かしらたちにも、主が怒られることを予告しました。

 このように、もし私たちが主によって心が変えられないうちは、いのちをもたらすはずの主のことばによって、死がもたらされ、のろいがもたらされることを理解することができました。イスラエルの民は、神の不思議なみわざを見ても、それが理解できなかったのです。私たちが、主に示していただくことをしていただかないかぎり、何もわかっていないということを本当に良く知っておかなければいけません。主が心に割礼を施してくださるときに、初めて御声に聞きしたがうことができるのです。



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