申命記32−34章 「モーセの最後の言葉」

アウトライン

1A モーセの歌 32
   1B イスラエルの不真実 1−25
   2B 主の憐れみ 26−43
   3B 命のかかっている言葉 44−52
2A モーセの祝福 33
   1B 主の光臨 1−5
   2B 各部族への祝福 6−25
   3B エシュルン 26−29
3A 主による埋葬 34
   1B イスラエル全土 1−8
   2B 比類なき預言者 9−12

本文

 申命記32章を開いてください。ついに私たちは申命記の最後、そしてモーセ五書の最後に入りました。2011年の初めから創世記を学び始めた私たちは、これで神のご計画の基礎部分を学んだことになります。神がモーセによって与えられた創世記から申命記までの書物は、これから私たちが学ぶ歴史書を知るための土台になります。貴重な学びをしました。

 モーセとヨシュアが主の幕屋に入ったときに、主がモーセにイスラエルがこれから心をかたくなにして、主に背くことを教えられました。そこで主は歌でうたうための言葉を与えられました。それは、彼らが約束の地から捕囚として出て行き、その離散の地でこの歌を歌うときに、まさに自分たちがその通りになっていること、神がおられることに気づくためです。

1A モーセの歌 32
1B イスラエルの不真実 1−25
32:1 天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。32:2 私のおしえは、雨のように下り、私のことばは、露のようにしたたる。若草の上の小雨のように。青草の上の夕立のように。

 これからモーセが語る言葉を、天と地が証人となります。人が死んでいっても、天と地はそのまま残り、モーセの言葉がその通りになるかどうか確かめることができます。そして、ちょうど天から雨が降って、地に落ちないまま天に上がることはないように必ず、その通りになります。また雨が土地の草に潤いを与えるように、この言葉は終わりには恵みに満ちたものとなります。

32:3 私が主の御名を告げ知らせるのだから、栄光を私たちの神に帰せよ。32:4 主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

 午前礼拝を思い出してください、主は「岩」によって、そのご性質を示しておられます。変わることない方、完全な方、正しい方、真実な方を表します。

32:5 主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。32:6 あなたがたはこのように主に恩を返すのか。愚かで知恵のない民よ。主はあなたを造った父ではないか。主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

 主が変わることなく、真実な方、正しい方であるのに、その子となったはずのイスラエルが真実ではなかったことを、モーセはこれから語ります。「主の子らではない」とモーセは言っていますが、イスラエルの民が主についてなんら関心を示さず、度外視した生活を送っていることを詰っています。

32:7 昔の日々を思い出し、代々の年を思え。あなたの父に問え。彼はあなたに告げ知らせよう。長老たちに問え。彼らはあなたに話してくれよう。32:8 「いと高き方が、国々に、相続地を持たせ、人の子らを、振り当てられたとき、イスラエルの子らの数にしたがって、国々の民の境を決められた。32:9 主の割り当て分はご自分の民であるから、ヤコブは主の相続地である。

 主があらゆる民族の中から、ヤコブを選ばれ、彼らに割り当ての土地を与えられたことが、この歌をうたうイスラエルの民にとって、忘れ去られた歴史になります。だから「昔の日々を思い出し、代々の年を思え。」と言っているのです。

 主はイスラエルに割り当て地を与えられただけでなく、イスラエルそのものが主にとって相続であると、ここで言っています。エペソ118節に、「聖徒の受け継ぐものが」とありますが、英語では、「聖徒のうちにある神の相続(His inheritance in the saints)」となっています。つまり、主がどれほど私たちを貴重な存在としておられるか、ということです。申命記26章では、イスラエルは「宝の民」と呼ばれました。マタイ13章では、教会は畑の中の宝に例えられています。

32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。32:11 わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。32:12 ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。

 イスラエルがエジプトにいるところから、荒野の旅を始めたときの主の働きであります。モーセは、どれほど気を使って、優しく、世話してくださったかを述べています。二つの例えを使っていますが、一つは「瞳」です。もう一つは、「雛を巣立ちさせようとする鷲」の姿です。雛が大きくなったら、母親の鷲は巣を揺り動かします。そして雛は飛ぶのですが、空中を落ちていきます。けれども、母親鷲はその下に入り込んで、雛をその翼で受け取ります。そして巣に戻すのです。

 イスラエルは、エジプトから出てから、きめ細かい神の働きを受けてきました。雲の柱と火の柱がありました。水が苦かったのを神がそれを癒されました。食べ物がないのを、日毎にマナを与えられました。また岩から水を出してくださいました。またアマレク人に勝たせてくださいました。それら一つ一つに、イスラエルは「いったい主はどこにいるのか!」と、特に水がなくなったときに叫んだのですが、それは彼らがちょうど巣から追い出された雛のようでありました。もう地面に落ちるのではないかと恐れたときに母親が下で受け取るように、主は彼らを喉の渇きで死なせることはせず、水を与えられたのです。

 主は私たちにも同じように働きかけます。快適に、安定した生活を送っていたところで、急に変化が与えられます。私たちはそれに不平を鳴らします。ところが、それは主が生きて働き、主が必要を満たしてくださる方であること、主にあって成長することを教える貴重な体験なのです。

32:13 主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、32:14 牛の凝乳と、羊の乳とを、最良の子羊とともに、バシャンのものである雄羊と、雄やぎとを、小麦の最も良いものとともに、食べさせた。あわ立つぶどうの血をあなたは飲んでいた。」

 「地の高い所」とは、サマリヤとユダの山地のことでしょう。イスラエルの地に南北に走っている山脈のことです。そこは石灰岩の岩地であるにも関わらず、多くの産物を出します。そして、午前礼拝でもお話しましたが、岩に蜂が巣を作り、蜜を食べることができ、また堅い岩にオリーブの木が生えていて、油を採ることができます。さらに家畜にも恵まれ、「バシャン」とはゴラン高原のことですが、そこは放牧に極めて適した土地です。そして、「あわ立つぶどうの血」とは、もちろんぶどう酒のことで、このようにして主は彼らを豊かさによって、よくしてくださいます。

32:15 エシュルンは肥え太ったとき、足でけった。あなたはむさぼり食って、肥え太った。自分を造った神を捨て、自分の救いの岩を軽んじた。

 「エシュルン」とは、イスラエルの別称です。意味は「直ぐな者」ということです。けれども、その名前に反して、彼らは曲がったことを行なっています。先に5節に、「よこしまで曲がった世代」とあります。神はイスラエルをここで、肥え太った牛のように例えています。

 私たちは、試練よりも豊かさの中にあって霊的危機を迎えます。豊かさを与えられる神を忘れて、豊かさそのものを追い求めます。先日、日本にいるアメリカ人の宣教師と交わりをしましたが、アメリカは初めから豊かであったのではなく、貧しいときがあった。そしてその時に神を求めたからこそ神が豊かにされたのだ、と仰っていました。豊かさに対する警告が、テモテ第一617節にあります。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。(1テモテ6:17

 そして、ここに主のことが「救いの岩」とあります。「岩」については午前礼拝でたくさん学びましたが、「救いの岩」とは神の救いが変わることなく完全であり、永遠のものであることを表しています。自分の救いへの確信が揺らぐときに、ぜひキリストが岩であられることを思い出してください。

32:16 彼らは異なる神々で、主のねたみを引き起こし、忌みきらうべきことで、主の怒りを燃えさせた。32:17 神ではない悪霊どもに、彼らはいけにえをささげた。それらは彼らの知らなかった神々、近ごろ出てきた新しい神々、先祖が恐れもしなかった神々だ。32:18 あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。

 カナン人や周囲の民の偶像礼拝にイスラエルは陥りましたが、それを主は「神ではない悪霊ども」と言っています。確かに、それらの神々と呼ばれているものは木や石にしか過ぎません。けれども、人が積極的に礼拝行為をすることによって、悪霊が働き、キリストの栄光を見えないようにさせています。ですから、木や石にしかすぎないとして、神社のお参りをしてもよい、また仏壇の前で祈ってもよい、心の問題なのだから形はとらわれないほうがよいという人は、次の言葉を思わなければいけません。「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10:19-20

 そして主は何度も、神がイスラエルを造られて、神が父として、また母として、イスラエルを養い育てたことを話しておられます。自分を造られた神を知らないことは悲劇です。ヨハネ1章に、イエス・キリストとこの世についてこう書いてあります。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(10節)」これは悲劇ですね、日本の人たちが自分たちが生きていることについての全ての源が神にあることを知らずに、いつも他のものを求めている姿を見ると、心を痛めます。

 けれどももっと悲惨なのは、キリストによって救われたという恵みにあずかったのに、キリストを知らないと言ってしまう人々のことです。自分を造られただけでなく、さらに深い関わりを神がしてくださったのに、背いてしまうことです。「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(2ペテロ2:20」イスラエルが、そのような背教に陥りました。

32:19 主は見て、彼らを退けられた。主の息子と娘たちへの怒りのために。32:20 主は言われた。「わたしの顔を彼らに隠し、彼らの終わりがどうなるかを見よう。彼らは、ねじれた世代、真実のない子らであるから。32:21 彼らは、神でないもので、わたしのねたみを引き起こし、彼らのむなしいもので、わたしの怒りを燃えさせた。わたしも、民ではないもので、彼らのねたみを引き起こし、愚かな国民で、彼らの怒りを燃えさせよう。

 偶像礼拝に行くということは、ちょうど妻が夫ではない他の男のところに行くようなものです。残された夫の心にある苦悩はまさに、ねたみであります。イスラエルの神がそのような苦悩を持っておられます。

 そこで今度は、神が彼らに対してねたみを引き起こされます。「わたしの顔を彼らに隠し」とありますが、これは彼らに対する神の特別な取り計らいを一時的に取り去ることです。彼らは受けて当然であると思っていたものは、神の御顔が彼らに向けられていたからに他なりません。そして、神がイスラエルに引き起こされるねたみとは、異邦人が、愚かな国民が主によって高く用いられることであります。イスラエルを滅ぼしたアッシリヤ、またバビロンがあります。エレミヤの時代には、イスラエルをバビロンから解き放つという偽預言が流行しました。イスラエルよりももっと悪いバビロンが、イスラエルの裁きの器になるというエレミヤの語る預言は到底受け付けられませんでした。

 けれども、イスラエルがねたみを抱くのは、アッシリヤやバビロンのことだけではありません。福音宣教によっても、その通りです。パウロが自分の異邦人宣教について、こんなことを話しています。「では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。(ローマ11:11」イスラエルに与えられている霊的財産が、イスラエルではなく異邦人に受け継がれています。それで彼らが怒り、ねたみを抱くということです。私たち異邦人が、キリストにあって喜び、平和で満たされ、イスラエルの神をほめたたえている時に、ユダヤ人が、「この方は我々の神なのに、彼らのほうがもっと神を知っているではないか。」と思わせる、ということであります。

32:22 わたしの怒りで火は燃え上がり、よみの底にまで燃えて行く。地とその産物を焼き尽くし、山々の基まで焼き払おう。32:23 わざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて使い尽くそう。32:24 飢えによる荒廃、災害による壊滅、激しい悪疫、野獣のきば、これらを、地をはう蛇の毒とともに、彼らに送ろう。32:25 外では剣が人を殺し、内には恐れがある。若い男も若い女も乳飲み子も、白髪の老人もともどもに。

 これは私たちが既に28章と29章で見た、イスラエルの地における荒廃です。

2B 主の憐れみ 26−43
32:26 わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。32:27 もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うといけない。」

 ここから主の憐れみの物語が始まります。神は何度となく、イスラエルをたちどころに滅ぼすと宣告されましたが、彼らが行なったことにしたがえばその通りにして当然なのです。けれども、主はそうされません。なぜイスラエルを完全に滅ぼすことをなさらなかったのか、その動機がここにあります、「敵の罵りを気遣っていた」ということです。イスラエルが正しい行ないをしたからではなく、ご自分の聖なる名が汚されることのないように、ということです。

 もし世界史の中で、ユダヤ人が紀元70年に世界に離散し、その後、消滅した民族となったのであれば、彼らの信じていた神はそこまでの神、つまり約束はするけれども、それを実行する力のない神、あるいは力はあっても途中で放棄する気まぐれな神、ということになります。また、ユダヤ人よりもローマに力があったのだ、ということになるでしょう。しかし、世界中に離散したユダヤ人が生き残り、しかも激しい迫害の中で生き残りました。そしてついに、約束の地に帰還し、国を再興させたとあっては、この世は聖書を古代の文献という地中の深くに埋めておきたかったのに、それを真っ向から否定して、この方が神であることを知らしめているのです。

 パウロは、「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。(ローマ11:2」と言いました。イスラエルについてのことは、キリスト者についても同じです。神の選びは、私たちの行ないに先行するのです。私たちの行ないに関わらず神がご自分の働きを始められ、それで私たちが神の選びにふさわしい者へと変えられていきます。

32:28 まことに、彼らは思慮の欠けた国民、彼らのうちに、英知はない。32:29 もしも、知恵があったなら、彼らはこれを悟ったろうに。自分の終わりもわきまえたろうに。32:30 彼らの岩が、彼らを売らず、主が、彼らを渡さなかったなら、どうして、ひとりが千人を追い、ふたりが万人を敗走させたろうか。32:31 まことに、彼らの岩は、私たちの岩には及ばない。敵もこれを認めている。

 イスラエル自身が、主が彼らの間でまた働いてくださることに気づいていません。イスラエルは、自分たちが敵前で敗走しているのは、神がおられないか、あるいは神が自分たちを見捨ててしまったからだ、と思っていました。それを神は、「思慮の欠けた国民」「英知がない」と言われています。主があえて、彼らを敵に引き渡されたので、そうなったのです。そして敵でさえもが、イスラエルの岩には自分の岩は及ばないことを知っています。気づいていないのは本人たちなのです。

32:32 ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。32:33 そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。32:34 「これはわたしのもとにたくわえてあり、わたしの倉に閉じ込められているではないか。32:35 復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」

 主が、イスラエルの敵どもに対して復讐を行なわれます。これまで彼らがイスラエルに対して行なった仕打ちに対して報いを与えられています。35節の「復讐と報いとは、わたしのもの」とは、ローマ12章で引用されている言葉です。そこでは、「仕返しを神に任せ、自分で行なわず、悪に対しては善をもって報いなさい。」という勧めの中で引用されています。

32:36 主は御民をかばい、主のしもべらをあわれむ。彼らの力が去って行き、奴隷も、自由の者も、いなくなるのを見られるときに。32:37 主は言われる。「彼らの神々は、どこにいるのか。彼らが頼みとした岩はどこにあるのか。32:38 彼らのいけにえの脂肪を食らい、彼らの注ぎのぶどう酒を飲んだ者はどこにいるのか。彼らを立たせて、あなたがたを助けさせ、あなたがたの盾とならせよ。

 主は、彼らを憐れむのに、彼らが頼ってきた神々に力がないことを示されます。彼らは、いろいろな新しいものを試しました。初めに選ばれ、彼らを造ってくださった方は必要ない、周りにある神々を求めようとしましたが、危機に瀕するときにそれらの偶像は何の役にも立ちません。私たちも身の回りにある偶像を見なければいけません。キリストではなく他のものを求めているのなら、それらのものが危機の時に自分を救ってくれるのか?ということです。

32:39 今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。

 神の主権と支配なしに起こっているものは何一つありません。

32:40 まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。32:41 わたしがきらめく剣をとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは仇に復讐をし、わたしを憎む者たちに報いよう。32:42 わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせよう。刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、髪を乱している敵の頭を食わせよう。』」

 主がイスラエルのために敵どもに対して戦ってくださいます。イエス様の再臨の時に、このことが起こります。

32:43 諸国の民よ。御民のために喜び歌え。主が、ご自分のしもべの血のかたきを討ち、ご自分の仇に復讐をなし、ご自分の民の地の贖いをされるから。

 ここにある「諸国の民」とは、御国の中に入ることのできる異邦人たちです。つまり、イエス様を王として受け入れている人々です。神の国はキリストが王であられ、教会が共同統治をし、そしてイスラエルが復興している世界であります。

3B 命のかかっている言葉 44−52
32:44 モーセはヌンの子ホセアといっしょに行って、この歌のすべてのことばを、民に聞こえるように唱えた。32:45 モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、32:46 彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行なわせなさい。32:47 これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」

 そうですね、何となく聞いていればよい言葉ではなく、彼らにとっては命がかかっています。私たちが、神の御言葉をただ聞いているのか、それとも主が望まれているように聞き入っているのか、その違いを説明するのに良い例えを聞いたことがあります。飛行機に乗って、離陸するときの案内音声です。救命用具がどこに設置されているのか、酸素マスクの使い方、そして非常口がどこにあるかなどの説明がありますが、ほとんどの人は聞いていません。けれども、実際に乱気流によって飛行機が大きく揺れ、体を椅子に抑えておくのも大変なぐらいになってきたときに、乗務員からの指示は、同じ内容なのですが、一言も漏らさずに聞くことでしょう。その言葉が自分の命を救うための一言一言になるからです。イエス様が悪魔に対抗されるときに、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」という申命記の言葉を引用されました(マタイ4:4)。

32:48 この同じ日に、主はモーセに告げて仰せられた。32:49 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。32:50 あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。32:51 あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現わさなかったからである。32:52 あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へはいって行くことはできない。」

 死海の北、東側にはアバリム高地と呼ばれる山地があります。その中で、死海の北端にもっとも近いネボ山があります。モーセが死ぬところはそこになると神は告げられました。アロンもそうですが、なぜ山において死ぬのかと思いますが、おそらくシナイ山で聖なる主がモーセに会ってくださいましたが、同じように死ぬことが主なる神のところに帰るという、神聖なものであることを表していると考えられます。自分が死ぬときに、「わたしはあなたを迎える」という神の臨在を感じられることはとても良いことです。また、ここにあるように、既にこの世を去った神の民に会うことのできる時が近づいたということでもあります。

2A モーセの祝福 33
1B 主の光臨 1−5
33:1 これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである。

 これから、イスラエル十二部族への祝福の言葉を述べます。かつてヤコブが死を前にして、息子十二人にそれぞれ祝福を与えたことを思い出してください。当時の祝福は、まさに遺言のような強い拘束力を持っています。ある意味で法的な手続きです。そしてヤコブもモーセも、これを神の予言として話しています。

33:2 彼は言った。「主はシナイから来られ、セイルから彼らを照らし、パランの山から光を放ち、メリバテ・カデシュから近づかれた。その右の手からは、彼らにいなずまがきらめいていた。33:3 まことに国々の民を愛する方、あなたの御手のうちに、すべての聖徒たちがいる。彼らはあなたの足もとに集められ、あなたの御告げを受ける。33:4 モーセは、みおしえを私たちに命じ、ヤコブの会衆の所有とした。33:5 民のかしらたちが、イスラエルの部族とともに集まったとき、主はエシュルンで王となられた。」

 モーセの祝福とヤコブの祝福の違いは、モーセが十二部族への祝福の前に神が光り輝く姿で山に降りてきてくださったことから話し始めていることです。そして各部族への祝福を言い終えた後に、26節から29節までに、再び神が臨まれる祝福について述べていることです。

 主がシナイ山に現われてくださいました。そしてセイルは、死海の南から紅海に伸びている山脈で、エドム人の住むところです。そしてパランはセイルの西に広がる荒野です。シナイ山に降りて来られて、彼らがモアブの荒野にまでやって来たその道程を主がご自分の栄光をもって臨んでおられることを語っています。

 しかし、それだけではありません。新改訳では2節に、「メリバテ・カデシュから近づかれた」と訳してある箇所は、他の日本語訳、また英訳の中でもそのように固有名詞のようにして訳しているものは名一つありません。新共同訳には、「主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。」とあります。主がヨルダン川の近くまでイスラエルの民を従えて来られたということもできますが、それ以上に、主が事実、天から来臨されるときに、このような光景をもって来られることを表しているのです。つまり、イエス・キリストが再臨されるときに、主はまずエドムの地のほうに向かって来られ、そして聖徒たち、つまり教会を引き連れて戻ってこられることを表しています。

 ユダの手紙1415節には、こう書いてあります。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。すべての者にさばきを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて、彼らを罪に定めるためである。」先ほど、主が敵に復讐してくださるとありましたが、イエス様の来臨の時に、エドムの山地、ボツラに難を逃れたけれども、それを滅ぼすために世界の軍隊がそちらに動いているときに、イエス様が戻ってきて戦ってくださいます。

 そしてモーセが神の教えをイスラエルに話しているときに、エシュルン、つまり「直ぐな者」と呼ばれるイスラエルの中で神が王となられています。すばらしいですね、御言葉が語られるときに私たちの間で、キリストが王となってくださいます。

2B 各部族への祝福 6−25
33:6 「ルベンは生きて、死なないように。その人数は少なくても。」

 ルベンは長子として生まれましたが、ヤコブが「あなたは、他をしのぐことはない」と宣言しました。事実小さな部族に留まりましたが、けれどもモーセは「死なないように」という祈りを捧げています。事実、ルベン族はそのまま残りました。

33:7 ユダについては、こう言った。「主よ。ユダの声を聞き、その民に、彼を連れ返してください。彼は自分の手で戦っています。あなたが彼を、敵から助けてください。」

 ユダ族の前に、シメオン族が出てこなければいけないはずなのですが、除外されています。その理由はおそらく、シメオン族はユダ族の割り当て地の中に住むことになり、ユダ族の中に取り込まれている可能性があります。事実、士師記1章において、シメオンはユダ族と共にカナン人と戦っています。ユダ族は十二部族の中で最も大きく、強い部族でした。それで、主が彼らの戦いを助けてくださるように祈っています。

33:8 レビについて言った。「あなたのトンミムとウリムとを、あなたの聖徒のものとしてください。あなたはマサで、彼を試み、メリバの水のほとりで、彼と争われました。33:9 彼は、自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない。』と言いました。また彼は自分の兄弟をも認めず、その子どもをさえ無視し、ただ、あなたの仰せに従ってあなたの契約を守りました。33:10 彼らは、あなたの定めをヤコブに教え、あなたのみおしえをイスラエルに教えます。彼らはあなたの御前で、かおりの良い香をたき、全焼のささげ物を、あなたの祭壇にささげます。33:11 主よ。彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。彼の敵の腰を打ち、彼を憎む者たちが、二度と立てないようにしてください。」

 モーセは自らがレビ族出身であるだけあり、その祝福の内容は長いです。祭司の装束の胸当ての中に、主の御心を知るためのトンミムとウリムがありましたが、それが主の御心を聖徒たちに伝えるものとなるように祈っています。そしてモーセは、民が自分に対して水のことで争ってきたメリバのことを思い起こしています。さらにレビ人は、金の子牛の事件の時に悔い改めずに乱れている者たちを、殺していきました。主の戒めとその心を、兄弟たち、家族の者たちの結びつきよりも大切なものとしたのです。さらに、祭司の働きとして大切な律法を教える務めも祝福し、またいけにえの奉仕も祝福してくださるように祈っています。

33:12 ベニヤミンについて言った。「主に愛されている者。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

 ヨセフの弟がベニヤミンですが、なぜ彼が先に来ているのかと言いますと、彼の部族の割り当て地の南端にエルサレムがあるからです。祭司たちがいけにえを捧げることになるエルサレムを有しているベニヤミンに祝福を祈っています。

33:13 ヨセフについて言った。「主の祝福が、彼の地にあるように。天の賜物の露、下に横たわる大いなる水の賜物、33:14 太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、33:15 昔の山々からの最上のもの、太古の丘からの賜物、33:16 地とそれを満たすものの賜物、柴の中におられた方の恵み、これらがヨセフの頭の上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭の頂の上にあるように。33:17 彼の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角。これをもって地の果て果てまで、国々の民をことごとく突き倒して行く。このような者がエフライムに幾万、このような者がマナセに幾千もいる。」

 北イスラエルにおいて代表的な部族はエフライムになります。そしてマナセも祝福されますが、そこサマリヤの山地は天からの恵みによって農産物で豊かにされます。そして、彼らは軍事的にも強くなることをモーセは預言しています。

33:18 ゼブルンについて言った。「ゼブルンよ。喜べ。あなたは外に出て行って。イッサカルよ。あなたは天幕の中にいて。33:19 彼らは民を山に招き、そこで義のいけにえをささげよう。彼らが海の富と、砂に隠されている宝とを、吸い取るからである。」

 ゼブルンとイッサカルは、下ガリラヤ地方にある部族です。イズレエル平野がヨルダン川とカルメル山の間を通っており、その北にナザレの町などがあります。ヤコブの祝福の言葉にもありましたが、そこはなぜか地中海からの貿易による富によって栄えることが預言されています。どちらの部族も地中海に面していないのですが、そこに海洋からの富が流通してきたのではないかと考えられています。そしてその富が、義のいけにえをささげる、つまり主への礼拝のために用いられるようになる、という光栄を話しています。

33:20 ガドについて言った。「ガドを大きくする方は、ほむべきかな。ガドは雌獅子のように伏し、腕や頭の頂をかき裂く。33:21 彼は自分のために最良の地を見つけた。そこには、指導者の分が割り当てられていたからだ。彼は民の先頭に立ち、主の正義と主の公正をイスラエルのために行なった。」

 ガドは、ヨルダン川の東側、今、モーセたちが宿営しているところを所有します。雌獅子のようになるとありますが、ヨシュア記22章を見ると、彼らは約束の地にいっしょに入っていき、雄々しく戦ってきたことがわかります。

33:22 ダンについて言った。「ダンは獅子の子、バシャンからおどり出る。」

 ダンは、地中海沿岸の一部が割り当てられますが、そこにペリシテ人がいるので、十分に住み着くことはできないと考え、他の場所を捜しました。それがバシャン地方に西にあるラキシュと呼ばれる所で、ヨルダン川の水源の一つにもなっている青々と茂ったところです。そこの住民を殺して自分たちの住むところとしました。それで、ダンがバシャンから躍り出る、とあります。

33:23 ナフタリについて言った。「ナフタリは恵みに満ち足り、主の祝福に満たされている。西と南を所有せよ。」

 ナフタリは、ガリラヤ湖周辺の西と南を占めています。その恵みに満たされるようにという祈りです。

33:24 アシェルについて言った。「アシェルは子らの中で、最も祝福されている。その兄弟たちに愛され、その足を、油の中に浸すようになれ。33:25 あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように。」

 アシェルは地中海北部沿岸地域です。油の中に足を浸すとは、そこの豊かさと潤いを表し、閂が鉄と青銅というのは防衛力の強さを表しています。

3B エシュルン 26−29
 これで各部族への祝福が終わりました、次に総括して祝福します。

3:26 「エシュルンよ。神に並ぶ者はほかにない。神はあなたを助けるため天に乗り、威光のうちに雲に乗られる。33:27 昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。あなたの前から敵を追い払い、『根絶やしにせよ。』と命じた。33:28 こうして、イスラエルは安らかに住まい、ヤコブの泉は、穀物と新しいぶどう酒の地をひとりで占める。天もまた、露をしたたらす。33:29 しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣。あなたの敵はあなたにへつらい、あなたは彼らの背を踏みつける。」

 祝福がエシュルンで始まり、エシュルンで終わります。彼らは曲がってねじれた世代になってしまいますが、神の目には愛されている者たちです。恵みによってまっすぐにされます。そして、神が「天に乗り、雲に乗られる」とありますが、これはまさしくメシヤが天から雲に乗ってこられる預言です。ダニエル書7章にこのことがさらに詳しく啓示されています。そして、福音書においてイエス様がご自身がそのように戻ってくることを述べられました。

 そしてモーセは、イスラエルが確かに敵から救われることを話すために、「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」と言っています。私たちが不安に陥るとき、永遠の神を思い出してください。神はあなたが生まれる前から生きておられ、実にこの世界を造られる前からあなたをキリストにあってご自分の心に留めておられるのです。そして、神はすでに永遠の将来まで進んでおられ、あなたの将来を希望と平安のものにして、そして今のあなたを生かしておられます。この永遠の住まいの中に私たちは生きているのです。さらに、「永遠の腕が下に」あります。私たちがここまで下に落ちることはないと思われるほど下に落ちても、なおのこと主の腕がその下にあるのです。

3A 主による埋葬 34
 ついにモーセが死ぬ時が来ます。

1B イスラエル全土 1−8
34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの地、ユダの全土を西の海まで、34:3 ネゲブと低地、すなわち、なつめやしの町エリコの谷をツォアルまで。34:4 そして主は彼に仰せられた。「わたしが、アブラハム、イサク、ヤコブに、『あなたの子孫に与えよう。』と言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこへ渡って行くことはできない。」

 ネボ山に2010年に行ってきました。ヨルダンから入っていくと、そこは全く高くない山です。実に817メートルの標高しかありません。けれども、真下は世界で最も低い死海、そしてヨルダン渓谷が水面下の低さで広がっています。イスラエルのヨルダン渓谷から見ますと、そこからは標高1200メートルほどありますで、高い山に見えます。

 そして主はモーセに、時計と反対回りでイスラエルの地をお見せになりました。右手にギルアデがあります。それからダンとありますが、これはバシャン地方全域のことでしょう。そしてガリラヤ湖の向こうにナフタリが広がっています。さらに左を見ますとエフライムとマナセの地です。さらに左を見るとそこはユダの地です。ユダは地中海まで広がっています。それから、さらに左を見ればネゲブです。また「低地」とありますが、これは最も手前にあるヨルダン渓谷のことです。エリコから死海を見て、その南にあるツォアルまで見渡しました。

 これらが、かつて父アブラハムに神が与えると誓われた地です。主は何度も、「あなたの目に見せたが、そこへ渡って行くことはできない」と言われ、ここでもそう語られています。これはある意味、旧約時代の聖徒たちみなが持っていた限界です。彼らは約束のものを手にすることなく、信仰によって死んでいきました。その約束のものとはキリストです。キリストが来られて、今や、私たちは神の恵みによって約束のものをそのまま手にすることができます。

34:5 こうして、主の命令によって、主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ。34:6 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。

 すばらしいですね、モーセは「主のしもべ」と呼ばれています。神の家であるイスラエルに忠実に仕えました。そして、そこで死にましたが、葬ったのは主ご自身です。主ご自身がモーセの働きを受け入れておられることを感じます。ちなみにユダの手紙を読みますと、具体的には天使長ミカエルが葬ったことが書かれています。「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。(9節)」悪魔がこの埋葬に邪魔したようです。ミカエルは直接、悪魔に罵ることをせず、主に裁きを任せました。

34:7 モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。

 主のしもべとして、主が彼の体力をも守ってくださいました。主はご自分に仕える者を守ってくださるし、そして時が来たと判断されれば、その時に死ぬようにしてくださいます。

34:8 イスラエル人はモアブの草原で、三十日間、モーセのために泣き悲しんだ。そしてモーセのために泣き悲しむ喪の期間は終わった。

 当時は、族長など権威ある者の葬儀は、長い期間をかけておこないました。族長ヤコブが死んだ時は、人々は、エジプトにおいて四十日間、カナン人の地で七日間の葬儀を行ないました。

2B 比類なき預言者 9−12
34:9 ヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満たされていた。モーセが彼の上に、かつて、その手を置いたからである。イスラエル人は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおりに行なった。

 主の働きの引き継ぎは、きちんと行なわれました。この際、ヨシュアに最も必要だったのは御霊ご自身でした。モーセと共にいて、モーセに仕えていたヨシュアですが、何よりも必要なのはモーセに働かれていた主の御霊ご自身です。エリヤの預言活動を受け継いだ、預言者エリシャは、エリヤが去っていく時に彼に願い出たのは、これでした。「あなたの霊の、二つの分け前が私のものとなりますように。(2列王2:9」そして、彼は事実、エリヤが行なった奇蹟の二倍のことを行ないました。

 そして、御霊の働きの中でも知恵がヨシュアに与えられました。これは当然ですね。モーセがこれまでイスラエルの民を率いていたわけですが、今度は誰にも尋ねることができず、ただ主からの知恵をいただかなければいけません。ソロモンも同じでしたね。ダビデがいなくなった後、イスラエルの民があまりにも大きく、善悪を判断して彼らを裁くための聞き分ける心をください、と神に願いました(1列王3:89参照)。

34:10 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。34:11 それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、34:12 また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。

 モーセは預言者の中でも類をみない預言者でした。一つ目、「顔と顔を合わせて選び出された」とあります。幻や喩えではなく、そのまま直接、主から語られた言葉を持っていました。二つ目、「パロの前でしるしと不思議を行なった」ことがあります。モーセがそれらを行なったというよりも、主がモーセに対して、例えば、杖をナイルに向けなさいと命じられたことを彼は忠実に行い、それを通して、神ご自身がナイルを血に変えるしるしを行なわれました。主がパロにしるしと不思議をお見せになりましたが、それには神に仕える、神の命令を守るしもべが必要だったのです。そして最後に、「イスラエルの前で、力強い権威と、恐るべき威力を見せた」ことです。この世に対してだけでなく、神の民に対して神の力を見せました。

 「もう再びイスラエルには起こらなかった」とありますが、モーセ自身が、「わたしのような預言者が現われる」と預言しました。他にも旧約時代にいろいろな預言者が現われましたが、モーセのような預言者は現われなかったのです。けれども、福音書を読めば、私たちの主イエス・キリストがおられます。イエスはまさに父の御顔を見ながら語り合いました。しるしと不思議を行なわれました。死人を生き返らせることもされました。そして、神の民の前でも、例えば、弟子たちの前で嵐を凪に変えられることをしました。モーセのような預言者はすでに現われたのです。

 これでモーセ五書が終わりました。ついに歴史書に入ります。後継者ヨシュアが、信仰によって踏み出し、敵に戦っていく記録を読んでいきます。

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