申命記32章4節 「岩なる主」

アウトライン

1A 「岩」の特徴
   1B 完全
   2B 強さ
   3B 疲れの癒し
   4B 隠れ場
2A 拠り所
   1B 全ての人にある拠り所
   2B イエス・キリストという土台
   3B 砂の上と岩の上

本文

 申命記324節を見てください。午後礼拝では32章から最後34章まで学びます。

主は岩。主のみわざは完全。まことに、主の道はみな正しい。主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。

 モーセは今、主から死ぬことを告げられています。すでに120歳になっています。死ぬ前にイスラエルに残す言葉を語っています。ヨシュアをイスラエルの前に立たせて、彼が自分の後継者であることを宣言しましたが、ヨシュアと自分だけで今度は主の天幕の中に入りました。そうしたら、イスラエルの民は神に反逆して、滅んでしまうということを告げられました。そして主はモーセに、「歌を彼らに与えなさい」と言われたのです。それは彼らが約束の地から引き抜かれて、捕囚の地において自分たちの境遇をこの歌によって思い出すためである、ということです。

 それで歌をイスラエルの前に披露しました。すでにメロディーを付けていたのか、歌詞のみを告げていたのか知りませんが、モーセはこの歌の中で主が岩であることを繰り返し話しています。13節には、「主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い」とあります。そして、18節では「あなたは自分を生んだ岩をおろそかにし、産みの苦しみをした神を忘れてしまった。」とあります。

 モーセやイスラエルが通ってきた荒野は、岩と石の世界でした。私たちは「砂漠」というとサハラ砂漠の砂丘を思い浮かべますが、実は沙漠のほとんどは岩です。死海の南に広がっているエドムの地は、岩山が連なるところで、ペトラに代表される極めて、神秘的な、不思議な空間を京成しています。そこでモーセは「主は岩。」と語り始めました。

1A 「岩」の特徴
 岩が表しているものは何でしょうか?私たち日本人が抱く「岩」は、中東地域の人々が抱くそれとかなり異なります。国歌「君が代」の中で、「さざれ石の巌となりて」という言い回しがあります。細かい石が長い年月をかけて固まり巌をなる、ということです。日本においては「小さな事柄を積み重ねてこれから頑強なものを作り上げる」というイメージがあります。

 けれども、イスラエル旅行や周囲の国々に行けば圧倒されることでしょう。日本においては縄文時代や弥生時代のような時に造られたものが、例えばヨルダンのペトラにある宝物殿は現代の建築以上の精巧さで造られており、今でも大きな損傷もなく残されているのです。時間が止まったかのような不思議な気分にさせられます。中東地域では、「すでに完全なもの、完成されたものがあり、それが今にいたるまで、またこれからも残る。」というイメージなのです。

1B 完全
 そこで、3節には「主のみわざは完全」という言葉があるのです。「偽りがない」「真実だ」という言葉もありますが、岩は安定しており、揺らぐことはありません。ヘブル語の「まこと(エメット)」という言葉には、「揺るがされない」という意味があるのだそうです。さらに完全という言葉には、「永遠性」も含まれています。先ほど話しましたように、いつまで経ってもそのまま残っている、というところから、時間を超えた安定性を与え、それが永遠性につながっているのです。

 安定しており、いつまでも続く、という性質を私たちの信じる主が持っておられます。主はご自分がそのような方であられ、またご自分が語る言葉もいつまでも残ることを語られましたが、イエス様は、「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35」と言われました。天の御国というのは、私たちが地上で生きている時の心の中にある空想では決してありません。気休めではありません。むしろ、私たちが今生きているこの地球よりも、頑強なのです。私たちが今、立っているこの地面よりもはるかに安定しているのです。この地球が崩れ去ってもなおかつ残っている、神の真理であります。

 いかがでしょうか、私たちの信仰の歩みを考えるときに、岩なる神により頼んでいることを忘れてはいけません。初めに救いの真理があります。神がキリストによって私たちを救ってくださった、ということは、私たちの感情の中で起こったことではなく、真理の中で起こったことです。私たちが、神が語られたとおりに信じていれば、朝起きて、気分がすぐれていなくても、またたくさん歌をうたって気分が高揚していても、まったく変わらず、同じように主は私たちを救っていてくださっているのです。使徒ヨハネは、新しく信仰をもった兄弟たちに、「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。(1ヨハネ2:12」と言いました。

 そして「愛」という神の本質についても、同じことが言えます。「神は愛です」とヨハネ第一の手紙には書いてあります。「神は愛を持っている」と書いておらず、「神は愛」なのです。つまり愛は神の本質であり、愛から離れたところで神が何か行動を起こされることは決してないのです。したがって、みなさんに神が接するときに、「何かを行なったから愛する」ということは決してないのです。何も行なっていないときも、何か行なっているときも、行ないに関係なく愛しておられるのです。

 さらに、神の聖めについても安定しています。信仰をもってしばらくすると、自分には神の命令を行なう力がない、罪を犯してしまう、罪に対する力を持っていないと感じます。いいえ、神はすでにキリストとともにあなたを十字架につけてくださり、古い人はすでに十字架の上で殺されました。今は、よみがえりのキリストとともに新しい命にあって歩んでいます。同じくヨハネは、罪に対してこう言っています。「若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。(1ヨハネ2:13」みなさんは、救いについて、愛について、また聖めについて、岩なる神を受け入れているでしょうか?

2B 強さ
 そして岩を見るときに、私たちはその頑丈さ、あるいは強さを見ます。再びヨルダンのペトラの話をしますと、その岩山の中にある古代巨大都市は外敵から守られていた大きな理由が、入口の狭さです。そこは、シークと呼ばれる小道一本しか入口がありません。高い岩壁に挟まれた小道で、車も通ることのできないほどの狭さで、今でも徒歩でなければ、らくだに乗って入るしかありません。実に、終わりの日にユダヤ人が反キリストによって襲われるときに、そこに三年半の間、守られ、養われることが約束されています。箴言は知恵の言葉に満ちていますが、3026節にはこう書いてあります。「岩だぬきは強くない種族だが、その巣を岩間に設ける。」自分自身は弱いのです。けれども岩の中にいれば、その岩と同じように強くなることができます。

 エペソ610節には、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」とあります。主ご自身が自分の生活の前面に出ておられるときに、私たちは強められます。コリント第一1210節には、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」とあります。また、パウロは大胆にも、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13」と言いました。私たちが肉の弱さを感じるときに、このことを思い出さなければいけません。自分ではなく主が強いのです。ゆえに、自分はこの方に服従することによって、この方によって強められるのです。

 そして、岩あるいは石の破壊力のことを考えてみましょう。隕石の破壊力はとてつもなく大きいことは知られています。シベリアで1908年に直径100メートルの隕石が落ち、空中爆発したのですが、その放出エネルギーは原爆の千倍であったと言われています。隕石でなくとも、ダビデがゴリヤテに対して石を投げて、その勢いであの巨人は死にました。銃から出てくる弾丸、いやそれ以上の威力を石は秘めています。

 ダニエル書2章には、バビロン王ネブカデネザルの見た夢があります。ダニエルがその夢を話しています。「その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。(2:31-35」燦燦と輝く人の像を、一つの石が粉砕するのです。人の像は歴史に登場する世界の超大国の姿です。これを石であるキリストが来られる時に粉砕するのです。この方は初めに来られた時は、へりくだった僕の姿を取られましたが、再び来られるときは、核兵器よりも、生物・化学兵器よりも、はるかに威力を持った栄光の神として敵どもに戦われるのです。

3B 疲れの癒し
 そして、中東においては「岩」は、「疲れの癒し」を与えるものとしてイメージされます。これは意外でしょう。岩が私たちの疲れを癒すのか?13節を再びご覧ください、「主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い」とあります。なぜ「岩からの蜜」なのか?蜜といえば、家の屋根裏や軒下に蜂の巣を作られてしまった、というイメージが我々日本人は抱きがちですが、イスラエルの地では岩に蜂の巣があります。そこに蜜がたまっており、それを食べるわけです。ヨナタンがペリシテ人と戦っている時に蜂蜜を舐めて彼の目が輝いた、とあります(1サムエル14:27)。また、「堅い岩からの油」は、オリーブの木のことです。岩地にオリーブの木が生えている姿をイスラエルでは見ます。油が取れるのです。

 そして、神は岩からそのまま水を出すという奇蹟を荒野で行なってくださいました。モーセが杖で岩を打って、そこから水が流れ出ました。コリント第一10章でパウロは、「というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(4節)」と言っています。

 私たちは自分の心の飢え渇きを癒すために、何を求めるでしょうか?私たちの耳に聞こえのよいもの、私たちの目に好ましいもの、視覚や感覚に訴えるものをこの世は提供します。しかし、真に心を満たすものは、実はいつも変わらないもの、そこに行けば既にあるもの、何ら目立つものはないけれども、必ず存在するものであります。キリストの言葉は古臭く聞こえます。真新しいように見えません。いつも同じで、何の変哲もないように見えます。しかし、そこに私たちの心の疲れを取り去り、新たな力を与える源泉があるのです。

4B 隠れ場
 そして「岩」は隠れ場であり、避難所というイメージを中東では持っています。ダビデはサウルから逃れるために、「要害」にいることが多かったです。死海のほとりにあるエン・ゲディも「要害」と呼ばれていますが、そこは天然の洞穴が無数にあるところです。だから、自分の身を隠すのに非常に適しています。詩篇9422節に、「しかし主は、わがとりでとなり、わが神は、わが避け所の岩となられました。」とあります。

 私たちは「平安」という言葉を聞いて、それを絵画でイメージするときに、牧歌的な風景を思い浮かべるでしょう。けれども、「嵐の中の平安」という絵を描いた人がいます。嵐が吹き荒れた岸壁に、穴があって、そこに小鳥が安らかに眠っている絵があります。イエス様は言われました。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33

 私たちは、ストレスのない社会に行きたいと願います。試練もなく、困難もない環境にいたいと願います。けれども、それはアダムが罪を犯した時以来、不可能になっています。そして、罪や不義がたとえ世界から取り除かれても、神の国においての平和は、キリストが王となっておられる正義によって成り立っているものです。正義なしの平和はありえません。恋している若い男女が「私たちは幸せいっぱい」と言いながら周囲の人々に迷惑をかけているように、自分の気持ちの中では平安でも、大きな悲しみと不安を他者には与えているのです。実に、黙示録17章、18章に出てくるバビロンは、他の人々の血を犠牲にした、安逸をむさぼるこの世の姿です。ストレスのない状況ではなく、ストレスの中にあっても、なおのことストレスが全くないような心の安寧を与える、強固な力であられるイエス・キリストが私たちにおられます。

 私が詩篇で好きな言葉は、日本語訳で「身を避ける」というものです。頻繁に出てきますが、例えば71節には「私の神、主よ。私はあなたのもとに身を避けました。」とあります。英訳では"trust"という言葉が使われています。つまり、「信頼する」という意味です。「避ける」という言葉には、弱々しさや、消極的な意味合いが出てきますが、いやむしろ自分の弱さを認めている勇気ある言葉であります。キリスト者は、自分が弱いと知っているときにこそ、キリストにあって強い者となっています。

2A 拠り所
 このように「岩」は、拠り所の対象であります。自分の力や知恵、経験ではどうしようもないところで、自分を超えたところにある存在を求めるわけです。詩篇612節にこういう言葉があります。「私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。」英語では、"Lead me to the Rock that is higher than I."「私より高い岩に私を導いてください」となっています。

1B 全ての人にある拠り所
 興味深いことに、この世において、キリスト者の姿を見て「弱者」と考えます。実に私自身がそうでした。高校生の時に、初めてキリスト教会の中に足を運んだのですが、そこには女性ばかりがいました。私はこう心の中で思いました。「キリスト教は女や弱い者が来るところだ。私は日本人だから仏教徒だ。」と。けれども、実はアメリカにも似たような表現があるようで、クリスチャンは「松葉杖をついている」という言い方をするそうです。

 確かに私たちは、イエス・キリストを避け所としています。この方こそが拠り頼むべき岩であられます。けれども、そのことを弱虫であると批判する人々は何にも拠り頼んでいない自存・独立した人々なのでしょうか?

 私のことを言わせていただければ、教会に初めていって、そのような批評として間もないころ、自宅の中で、鬱で苦しんでいました。自分の拠り所が分らなくなっていたからです。それまで私は、「一流大学に入り、一流企業に勤める」という目標しか持っていませんでした。高校の時に始めての海外旅行をしたのですが、行く先はアメリカで、その自然の雄大さを目の当たりにした時に自分の夢がいかにちっぽけなものであるかを悟ったからです。私はクリスチャンのことを神にすがっている弱虫と見ていたのですが、私は学校の成績、その数字に拠り頼んでいた、実にはかない者だったのです。

 何にも拠り頼んでいないというのは、嘘です。自分を安定させるために人は、必ず何かに頼っています。自分が危機に瀕したときに何をするかで分ります。ある人からこんな話を聞きましたが、アメリカ人は危機に瀕すると教会に行くそうです。日本人は、大手の新聞を読むそうです。心の拠り所を、新聞記事の情報にしてしまっています。マスコミ信仰と言ったらよいでしょうか?ある人は、銀行の預金通帳、またある人は仕事でしょう。多くの若者が今、就職活動に困難を覚えて、自殺していると聞きます。また、お酒が止められないという人もいます。

 実は、過去の私のように、キリストに頼ることが弱虫のすることだと反発している人ほど、他のものに対する依存を深めています。キリストに癒しを求めることを愚かだと考えた人が、医療過誤に遭って車椅子の生活を余儀なくされています。キリストが金を与えてくれるかと罵った人が、商売が失敗して借金の生活をしています。「神は死んだ」と豪語し、「反キリスト」という書物を書き記した哲学者ニーチェは、その書物を書いた直後に発狂しました。キリスト者の精神を弱虫だと言った彼は、自分自身の精神を管理することさえできなかったのです。

 人は、神のかたちに造られました。そして神に拠り頼むように造られました。善悪の知識の木から取って実を食べたので、神のように自分は独立できる、自分自身だけで存在できると考えるのです。そして実際はそうではないのです。

2B イエス・キリストという土台
 私たちが、何により頼んでいるかを知ることは大切です。ペテロがイエス様に、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えた後にイエス様は、「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:16,18」「ペテロ」というのは、「小石」という意味があります。道端に落ちている小石のことです。けれども、イエス様は「この岩」と言われた時は、そぐそばにそびえていた岩の絶壁のことを表していました。ペテロそものはちっぴけだけれども、彼の告白した、「イエスは神の御子であり、キリストである」という信仰は、ハデスつまり地獄の門も打ち勝つことのできない、強大な力を持っているのです。使徒ヨハネは、「世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:5」と言いました。

 この信仰告白を代々、唱えてきて、キリスト教会は数々の迫害の中でもなおのこと広がり、今でも広がっています。確かに弱虫に見えるかもしれません。いや、実際に弱虫なのです。けれども、弱虫であることを認めている勇気ある者たちであります。そして、そのより頼んでいる先が、イエスがキリストであり、神の子であるという強大な砦であるのです。

 多くの教会で、歴史的に告白され続けてきた「使徒信条」があります。礼拝の中で、みなで斉唱します。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、
天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。
アーメン

 パウロはテモテ第一315節で、「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」と言いました。

 イエス・キリストが土台であるかぎり、私たちの救いは安全です。コリント第一3章には、イエス・キリストが土台であり、各人がその上に、金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てると言っています。木や、草、わらで建てた人は火で燃やされますが、土台が残っているので自分自身はかろうじて救われる、とあります。ここが大事です。もちろん、建物が残ったほうがよいのです。けれども、イエス・キリストが土台であれば、主イエスに見えるときに自分自身は助かるのです。

 多くのクリスチャンが、自分は果たして天に入ることができるのだろうか、主が戻ってこられたときに自分は引き上げられるのだろうかと悩んでいます。しばしば、自殺した人は、たとえクリスチャンであっても地獄に行く、という声があります。なぜなら、自殺という罪を告白する間もなく死んでしまったからです。ならば私は逆に尋ねたいですが、死ぬ前にすべての罪を告白しないと地獄に行くのでしょうか?いいえ、違います。確かに罪の悔い改めは、主の前に立つ心の備えとして、また良心のきよめとして極めて大切なことですが、私たちを救うのはいかに悔い改めたか、ということではなく、専らイエス・キリストが私の罪のために死んでくださった、ということです。私たちの信心の度合いが私たちを救うのではなく、神が救ってくださるのです。

3B 砂の上と岩の上
 そして最後に、岩の上に家を建てることについての勧めをして終わりにしたいと思います。マタイ72427節を読みます。

24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

 みなさんがよくご存知のように、奥松島の月浜海岸の津波被害は、数件の家屋を除きその集落は全壊でした。その残された家屋数軒が、みな岩の上に建てられたものであることを知っていますね。私の実家も岩盤の上に建てられていて、私のところに尋ねに来た親が以前、この地域はもと水田だったのでとても心配していますが、岩に建てるかそうでないかでまったく違うのです。

 イエス様は、ご自分の言葉を聞いてそれを行なう人が岩の上に立てた家に似ていて、聞いても行なわないなら砂の上に建てた家だと言っています。もしイエス様を心から信じて、この方こそが自分の救いの岩であるとしている方は、これからどんな試練があっても、なおのこと立っていることができるでしょう。けれども、ただ聞いているだけでは、建てているようで、実は建てていないのと同じなのです。どうか、御言葉を聞くだけでなく、それを具体的に、実際の生活でしたがっていけばよいのか、祈り求めていきましょう。

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