申命記5−7章 「主を愛しなさい」

アウトライン

1A 御声を聞く (信仰の姿勢) 5
   1B 私たちとの契約 1−21
      1C 顔と顔を合わせて 1−5
      2C 贖い主 6−21
   2B 主への畏れ 22−33
2A 子供に教え込む (教育の姿勢) 6
   1B 所有地にて 1−9
   2B 神の主権 10−19
   3B エジプトからの贖い 20−25
3A 異邦人を追い払う (聖別の姿勢) 7
   1B 不信者との不一致 1−6
   2B 主の恋い慕い 7−16
   3B 力ある主 17−26


本文

  申命記5章を開いてください。今回は5章から7章までを学びます。メッセージ題は、「主を愛しなさい」です。

 私たちは、申命記1章から4章までを前回学びました。モーセは、エジプトから出て今、モアブの地に至るまでの行程を話しました。ホレブからカデシュ・バルネアまでは11日しかかからないのに、彼らは38年もかけて今いるモアブの地にたどりつきました。それは、イスラエルの民が、主が命令されているのに、それに聞き従わなかったからです。成年男子はみな死に絶えてしまいました。そしてモーセ自身も約束の地に入ることができません。そこでモーセは、イスラエルの新しい世代に、伝えるべきことばを残しました。それは、「イスラエルよ。私の教えるおきてと定めとを聞きなさい。」というものでした。神のみことばを彼らが聞き、それを守り行なうことが、約束の地に入ったときにもっとも大切なことでありました。そして彼らに、主がシナイ山で現われたときに、御声のみで姿がなかったことを思い出させ、目に見えない神を、目に見える偶像に置き換えることのないように、厳に戒めました。

1A 御声を聞く (信仰の姿勢) 5
 こうしてモーセは、イスラエルがたどってきたこれまでの経緯を語りましたが、5章から具体的に、守るべき、おきてと定めを話し始めます。

1B 私たちとの契約 1−21
1C 顔と顔を合わせて 1−5
 さて、モーセはイスラエル人をみな呼び寄せて彼らに言った。聞きなさい。イスラエルよ。きょう、私があなたがたの耳に語るおきてと定めとを。これを学び、守り行ないなさい。

 モーセは再び、「聞きなさい。守り行ないなさい。」と命じています。

 私たちの神、主は、ホレブで私たちと契約を結ばれた。主が、この契約を結ばれたのは、私たちの先祖たちとではなく、きょう、ここに生きている私たちひとりひとりと、結ばれたのである。

 ここでモーセが話している「先祖たち」とは、アブラハム、イサク、ヤコブのことです。主は、昔、アブラハムとイサクとヤコブに契約を与えられましたが、それとは別に、イスラエルに対して、ホレブ、すなわちシナイ山で契約を結ばれました。先祖たちと結ばれた契約は、約束にもとづくものであり、彼らがその約束を信じることによって有効になりました。アブラハムに、「あなたの子孫は星の砂のようになる。」と仰せられ、また、「東、西、北、南のこれらの土地はみな、あなたのものになる。」という約束も与えられました。けれども、シナイ山で主がイスラエルと結ばれた契約は、「わたしのおきてと戒めを守りなさい。そうすれば、あなたがたは宝の民となる。」という条件付きのものでした。イスラエルが戒めを守ることによって、初めて神の祝福が与えられます。

 けれども、イスラエルはその後の歴史において、戒めを守らずに、神に背きつづけました。そこで神は、新しい契約を与えると預言者エレミヤをとおして約束されました。その契約は、私たちの主イエス・キリストが十字架の上で血を流されることによって結ばれました。したがって、アブラハムに約束された神の祝福は、イエス・キリストを信じる者たちに与えられることになります。けれども、ここでは古い契約を神が、イスラエルにお与えになっています。

 主はあの山で、火の中からあなたがたに顔と顔とを合わせて語られた。そのとき、私は主とあなたがたとの間に立ち、主のことばをあなたがたに告げた。あなたがたが火を恐れて、山に登らなかったからである。主は仰せられた。

 主が、顔と顔を合わせて語られた、とあります。これは、主がイスラエルの民に近づき、直にご自分の御声を出して、彼らに語りかけられた、ということです。主が個人的に、イスラエルの民に迫ってこられました。これは、6章で読みますが、主がいかにイスラエルの民を愛し、この民と婚姻関係のような、一体化した結びつきを持ちたいかを表しているのです。主は、私たちに対しても、個人的にお語りになりたいと願われています。私たちは、個人的に語られる神の御声を聞くことによって、神との関係を持つことができます。

2C 贖い主 6−21
 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 モーセはこれから、十戒について語りますが、その前提になっているのは、イスラエルがすでにエジプトから贖い出されているという事実です。律法が与えられたのは、それを行なって救われるためではなく、救われ、贖われた者が行なうものです。

 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

 主のみを神とし、他のものを神としてはいけないという戒めです。

 安息日を守って、これを聖なる日とせよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。・・あなたも、あなたの息子、娘も、あなたの男奴隷や女奴隷も、あなたの牛、ろばも、あなたのどんな家畜も、またあなたの町囲みのうちにいる在留異国人も。・・そうすれば、あなたの男奴隷も、女奴隷も、あなたと同じように休むことができる。あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

 安息日を守るようにという戒めです。ここで興味深いのは、出エジプト記において主がお語りになったときの戒めと、モーセが今ここでイスラエルに語っていることと、若干違っていることです。出エジプト記では、安息日を守るべき理由は、主が六日間で天地を創造され、七日目に休まれたからだとありましたが、ここでは、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷であったが、神が力強い御手で、彼らを導き出されたことが理由となっていることです。モーセは今、新しい世代のイスラエルに、エジプトから主が導き出されたことを起点にして、その生活を営むように指導しているのです。

 ここで、安息日の意義を見出すことができます。それは、まぎれもなく、主のみわざが行なわれ、完成したので安息する、という意義です。主が天地を創造されたとき、その創造のみわざは完成したので、七日目に休まれました。創造のわざからの安息です。そして、イスラエルがエジプトの奴隷状態から贖い出されましたが、主が贖い、あるいは救いのみわざを終えて、そこで安息されているので、救いのみわざからの安息なのです。このように主のみわざが完成したところに憩い、とどまることが、安息日の意義であります。現代の私たちにとっては、主イエス・キリストご自身が安息であります。主が十字架の上で、「テテレスタイ」「完了した」と言われ、また三日目によみがえられたことによって、罪から全人類を救い出すところの神のみわざが完成し、私たちはそのみわざの中に憩うことができるのです。ですから、私たちはいつでも、主イエス・キリストにあって安息を持つことができます。

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

 父母を敬うことは、その地で長生きをし、しあわせになるというのは、この父母が主のおきてを子どもに教えるからです。このことについては6章で詳しく学びます。

 殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたの隣人に対し、偽証してはならない。あなたの隣人の妻を欲しがってはならない。あなたの隣人の家、畑、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

 最後の戒め、「隣人の妻を欲しがってはならない」も、出エジプト記の戒めと若干異なります。出エジプト記では、「あなたの隣人の家をほしがってはならない。」とあり、その後に、「隣人の妻・・・」と続きます。これは、申命記7章に書かれている、異邦人の妻のことを意識してのことでしょう。約束の地に入ったときには、その住民を聖絶しなければいけない、彼らと縁を結んではならないと命じていますので、イスラエル人の隣人の妻だけではなく異邦人の妻のことも含んでいるでしょう。

2B 主への畏れ 22−33
 これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。あなたがたが、暗黒の中からのその御声を聞き、またその山が火で燃えていたときに、あなたがた、すなわちあなたがたの部族のすべてのかしらたちと長老たちとは、私のもとに近寄って来た。そして言った。「私たちの神、主は、今、ご自身の栄光と偉大さとを私たちに示されました。私たちは火の中から御声を聞きました。きょう、私たちは、神が人に語られても、人が生きることができるのを見ました。今、私たちはなぜ死ななければならないのでしょうか。この大きい火が私たちをなめ尽くそうとしています。もし、この上なお私たちの神、主の声を聞くならば、私たちは死ななければなりません。いったい肉を持つ者で、私たちのように、火の中から語られる生ける神の声を聞いて、なお生きている者がありましょうか。あなたが近づいて行き、私たちの神、主が仰せになることをみな聞き、私たちの神、主があなたにお告げになることをみな、私たちに告げてくださいますように。私たちは聞いて、行ないます。」

 イスラエルの人たちは、主が彼らに直接語られたことに、ものすごく驚いていました。主がいろいろな不思議としるしをこれまで行なわれてきたのは見ましたが、主が直接語られることはまずなかったし、天地万物を創造された大いなる神が、自分たちに個人的に直接、語られることがあまりにも信じがたいことだったのです。自分たちが御声を聞いて、まだ生きていることさえ奇蹟であると長老たちは言っています。

 このイスラエル人たちの反応を、主はとても喜ばれました。主はあなたがたが私に話していたとき、あなたがたのことばの声を聞かれて、主は私に仰せられた。「わたしはこの民があなたに話していることばの声を聞いた。彼らの言ったことは、みな、もっともである。どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。さあ、彼らに、『あなたがたは、自分の天幕に帰りなさい。』と言え。

 主が顔と顔を合わせてイスラエルに語られ、イスラエルが恐れおののいたことによって、主とイスラエルとの結びつきが始まりました。個人的に語られることなしに関係は持つことはできないし、またイスラエルも、主を恐れおののいて、その御声に聞き従うことなくして、神との関係を保つことはできません。

 このことは旧約時代だけのことではありません。新約においても、私たちが主との愛の関係を持つときに必要なものです。ザアカイのことを思い出してください。今、ホレブでお現われになった主は、肉体を取って、イスラエルの地を歩いておられます。そのとき、いちじく桑の木にザアカイが登りました。そのザアカイに、イエスは自分の御顔を向け、彼個人に語られました。主がホレブでイスラエルに対して行なわれたようにです。そして、ザアカイの家に来られたイエスの前で、自分の財産の半分を貧しい人に渡し、だまし取った物は四倍にして返す、と言ったのです(以上ルカ19:1−10参照)。彼は、イエスの御顔を御声を聞いて、その聖さのゆえに自分の汚れが明らかになり、今こうして悔い改めています。これが、主と個人的に出会うときの方法です。私たちは、聖なる主にお会いする時に、恐れ退くものでしょうか、それとも光のもとに来て信じる者でしょうか(ヘブル10:39)。

 しかし、あなたは、わたしとともにここにとどまれ。わたしは、あなたが彼らに教えるすべての命令・・おきてと定め・・を、あなたに告げよう。彼らは、わたしが与えて所有させようとしているその地で、それを行なうのだ。」あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。

 主は、十戒の他にモーセに続けておきてと定めをお与えになりました。そして、これらをイスラエルが所有する土地で守り行なうようにと命じられています。それは、彼らのしあわせのためです。

2A 子供に教え込む (教育の姿勢) 6
1B 所有地にて 1−9
 これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・おきてと定め・・である。あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地で、行なうためである。それは、あなたの一生の間、あなたも、そしてあなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて、私の命じるすべての主のおきてと命令を守るため、またあなたが長く生きることのできるためである。イスラエルよ。聞いて、守り行ないなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは乳と蜜の流れる国で大いにふえよう。

 モーセはここで、土地を所有してから、主のおきてと定めを子孫に教えていくことを説いています。「あなたも、あなたの子も孫も、あなたの神、主を恐れて」とあります。主のおきてと定めは、後の世代の者たちには新しい啓示として語られることはなく、モーセの律法によって生きることになります。したがって、彼らは言い伝えによって生きていくことになるのです。

 これは、私たち新約の時代に生きている者も、同じなのです。初代教会の信者たちは、使徒たちの教えを固く守って生きていました(使徒2:42)。パウロも自分の手紙で、「兄弟たち。堅く立って、私たちのことば、また手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい。(2テサロニケ2:15)」と命じています。私たちは、この使徒たちの権威に今も服従している者たちであり、イエス・キリストの福音の真理を継承している者たちです。これから新しい啓示はありません。私たちの役割は、ただ、真理を継承させていくことだけです。新しい啓示が与えられたとか、新しい方法が与えられたとか、そのような新しいものを追い求めているクリスチャンがいますが、新しいものなどないのです。初めからあるものを知っていくことだけであります。そして、その初めからあるものに私たちは再発見をして、その喜びの中で生きていくのです。

 次に、ユダヤ人たちの信仰の支柱になっている御言葉が出てきます。「シャマ」と呼ばれているものです。シェマは、「聞きなさい」という意味です。聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。

 ユダヤ人たちが、迫害されても殺されても、決してゆずらなかった信仰が、この唯一神の信仰でした。けれども、ここで、唯一神には含みがあることを知らなければいけません。私たちクリスチャンが信じている三位一体の神です。ここのヘブル語は、「シャマ、イスラエル、ヤハウェ、エロヒム、エカド、ヤハウェ」です。神という言葉は複数形の「エロヒム」が使われています。そして、「ただひとりである」という言葉は、「エカド」という言葉です。これは複合単数と呼ばれるもので、例えば「一本の手」と言うときに使う言葉です。一つの手には5本の指があるのですが、複合的に一つにされているわけで、そのときに「エカド」が使われます。聖書にも、「人は妻と一心同体になった」というときに、一心同体が「エカド」と使われているのです。ヘブル語には単数形の「ヤハド」があるのも関わらず、エカドを使っているということは、複数の神格を持ちながらひとりの神、つまり三位一体の神を啓示しているのです。

 したがって、神が、ご自分の本質の中で交わりを持っておられます。御父と御子と聖霊の交わりです。したがって、神はその本質をもって私たちに関わろうとされるので、ここまでいろいろなことをして、イスラエルの民に関わりを持たれて、熱く、深く、親密な、そして神秘的な関係に入ろうとされています。それほど関心のない人に、熱いプロポーズをしている男の人のようです。

 そこで神は、イスラエルがご自分に対して応答してほしいと願われています。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 イエスさまがもっとも大切な戒めとして教えられた戒めがここにあります。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい、ということです。主なる神と私たちとの関係は、婚姻関係のそれと同じです。そこには、激しいねたみがともなう誓約が含まれています。神が自分のためにいろいろ何かをしてくれて、自分は、ありがたやありがたや、と言っているような神ではなく、積極的に自分の意思を用いて、神の言われることに関わりをもっていくところの神なのです。そして、私たちは、主がどれほど私たちを愛してくださったかを知ることによって、自分も熱く主を愛していきたいと願います。これが、主が望まれている関係です。

 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。

 子どもに教え込みなさい、という命令です。先ほど父母を敬えという戒めがあったのは、父母が子どもに、主のおきてと定めを教え込むからです。使徒パウロも、このみことばを思いながら、「主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:4)」と勧めています。

 あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 この前お話しましたように、主との人格的な関係は、そのことばによって行なわれます。何かこういう感じがしたとか、こう考えているとか、自分の気持ちや考えに基づくのではなく、主のみことばに触れることによって、主と交わることができます。そこで、イスラエル人たちは、どのようなことをしているときも、みことばを身につけているように命じられました。事実、今もユダヤ教正統派のユダヤ人は、額の上に記章としてみことばをたずさえている人がいますし、家の門柱にみことばが書き記されていたりします。

 今の時代に生きている私たちクリスチャンは、確かに、パウロが言っているように、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」るのですが(コロサイ3:16)、イスラエル人が行なっていたこととは若干違います。それは、彼らは、外側で主のみことばを携えていたのですが、私たちには、みことばを語られた御霊ご自身が、私たちのうちに宿っておられるのです。主は、新しい契約について、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。(エレミヤ31:33)」と言われました。使徒ヨハネは、「あなたがたのばあいは、キリストから受けた曽々木の油があなたがたのうちにとどまっています。それでだれからも教えを受ける必要がありません。(1ヨハネ2:27)」と言いました。ですから、聖霊ご自身が、神のみことばによって私たちに語りかけてくださるので、人為的に聖書のことばを自分に語り聞かせることは必要ではなくなったのです。聖書を開くときは、私たちはいつも、聖霊ご自身がそのことばを解き明かしてくださるようにしていただくことが大切です。

2B 神の主権 10−19
 次にモーセは、イスラエルが、いや人が陥りやすい過ちについて、戒めを与えています。

 あなたの神、主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。

 イスラエルは約束の土地にはいって、自分で汗水たらして労苦せずに、その地からの産物を手にします。そのような祝福にあずかるのですが、そのときにしてしまうのが、「主を忘れる」ことです。自分がどのようなスタートを切ってここまで来たのかを忘れ、主ご自身がこれらの祝福を与えてくださっていることを忘れてしまうことです。このことについては8章において詳しくモーセは語っていますが、私たちは過去をすぐに忘れてしまいます。自分がどのような状態だったかを忘れてしまうので、あたかも自分で豊かになった、自分の行ないでこれだけのことができている、また自分はこのような祝福を受けるのに値するものだ、と思い違いをしてしまいます。しかし、コリント人への手紙第一で、パウロは、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(4:7)」と戒めています。

 そこでモーセは、次のように戒めます。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

 これは言い換えると、「すべてのことにおいて主を認める」ということです。朝起きたときにも、主とともに初め、何かを行なうときに祈りをし、そして終わりの時には祈りをもって感謝し、というように、初めと終わりに、またそのプロセスで主を認めていきます。

 ほかの神々、あなたがたの回りにいる国々の民の神に従ってはならない。あなたのうちにおられるあなたの神、主は、ねたむ神であるから、あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、主があなたを地の面から根絶やしにされないようにしなさい。

 私たちが豊かになって主を忘れていると、次に陥る過ちは、神々を持ってしまうことです。主なる神ではないものを大切にしてしまい、それが偶像となります。イスラエルも同じで、主なる神を忘れるときに、回りにある神に従ってしまうのです。

 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

 マサの試みとは、水がなく、主につぶやいたときの試みです。モーセが岩を杖でたたいたことによって水が出てきました。祝福が主を忘れさせてしまうように、試練も主を忘れさせてしまいます。試練の中にいるとき、私たちは苦々しくなって、不平を鳴らします。しかし、そうであってはならないとモーセは戒めています。

 あなたがたの神、主の命令、主が命じられたさとしとおきてを忠実に守らなければならない。主が正しい、また良いと見られることをしなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、主があなたの先祖たちに誓われたあの良い地を所有することができる。そうして、主が告げられたように、あなたの敵は、ことごとくあなたの前から追い払われる。

 主が正しいと見られること、良いと思われることをします。自分が良いと思うこと、自分が正しいと思うことではありません。クリスチャンも、自分がどう感じるか、思うかではなく、主がどう思っておられるのかを考えなければいけません。

3B エジプトからの贖い 20−25
 後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、主が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか。」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行ない、私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちをはいらせて、その地を私たちに与えるためであった。それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行なうことは、私たちの義となるのである。」

 モーセは再び、子どもに教えることを命じています。子どもは、いろいろな場面で親に質問します。「なんでなの?」と質問します。そして、主は、このような子どもの質問が出てくることを予期されており、いや、むしろそのような質問を出させるような出来事を作られます。過越の祭りは、まさに家庭の中で行なわれる祭りであり、子どもが親に質問することによって進行していくのです。

 子どもたちは、なぜこんなおきてと定めがあるのか不思議に思います。そこで親はエジプトから出てきたことを話すようにします。主が連れ出されて、主が贖い出され、この主が私たちの命じていることだ。だから守るのだ、と教えるのです。5章でも話しましたが、イスラエルにとって今や、エジプトからの脱出がすべての始まりでした。これは、クリスチャンでも同じです。キリストの十字架と復活のみわざからすべてが始まります。

3A 異邦人を追い払う (聖別の姿勢) 7
 こうして、子どもに親が教え込むことについてモーセは命じましたが、次は異邦人を追い払うことについて教えます。
1B 不信者との不一致 1−6
 あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主が、あなたを導き入れられるとき、主は、多くの異邦の民、すなわちヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人の、これらあなたよりも数多く、また強い七つの異邦の民を、あなたの前から追い払われる。

 これからはいる土地には、7つの強い異邦の民がいます。

 あなたの神、主は、彼らをあなたに渡し、あなたがこれを打つとき、あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない。また、彼らと互いに縁を結んではならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。彼はあなたの息子を私から引き離すであろう。彼らがほかの神々に仕えるなら、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主はあなたをたちどころに根絶やしにしてしまわれる。むしろ彼らに対して、このようにしなければならない。彼らの祭壇を打ちこわし、石の柱を打ち砕き、彼らのアシェラ像を切り倒し、彼らの彫像を火で焼かなければならない。

 彼らとはいっさいの関わりを持ってはいけません。むしろ、彼らを根絶やしにしなければいけません。さもなければ、自分が根絶やしにされてしまいます。中間地点はありません。根絶やしにするか、根絶やしにされるかのどちらかです。パウロはこのことについて、コリント人への手紙第二でこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15」これは、不信者の人たちと一切かかわりを持ってはいけないということでは決してありません。むしろ、神の真理に立たないで、彼らと関わりを持ってはいけないということです。つねに、神の真理の中にいる自分が、人々と接していなければいけないわけです。これは、クリスチャンの間でも同じです。「クリスチャンなのだから、互いに仲良くしなければならない。」と言って、福音の真理ではないところで結びつきが起こるとき、実は、ここのパウロのことばに反することを行なっていることになるのです。愛をもって真理を語るところに、真の一致があります。

 あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 異邦の民を根絶やしにしなければいけない理由は、彼らが聖なる民とされているからです。これは、彼らがきよくて、異邦の民が汚れているということではなく、彼らが分離されて、聖なる神のものとされているということです。主ご自身の熱心によって、主のものとされたので、その密接な関係を壊すような要因をすべて破壊するように、という主の御思いなのです。そこで、モーセは、「あなたを選んでご自分の民とされた」と言っています。

2B 主の恋い慕い 7−16
 次に、モーセは、主がイスラエルの民にラブコールをしていることを話します。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。

 主がイスラエルの民を恋い慕っている、と書いてあります。これが主がイスラエルの対して抱いている感情です。そして、なぜ好きかというと、彼らが強い民であったからではなく、ただ愛しておられるから、と言っています。むしろ人数は少なかったのに、愛しておられたのです。これが、聖書で描かれている神の選びです。

 パウロは、この神の主権的な選びについてこう言いました。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:15-16」しばしば、ユダヤ人が選民思想を持っていると言って人はユダヤ人を批判しますが、しかし選民思想というのはそのようなものではありません。選民とは、神が一方的に自分たちに関わってこられて、自分たちがどうしても神と取り組まざるを得ない、その選びのことを言っています。これは、クリスチャンたちも持っているものであり、神は私たちが何かすぐれているから愛されているのではなく、ただ愛したいから愛されています。自分に愛されるようなものがないのに、愛されるのは気持ちが悪いものです。けれども、ほっとするものです。自分が根本的に愛されていることを知ると、自分のありのままの姿、罪深いその暗やみの部分も見る勇気が与えられるからです。イスラエルが試されて、ここまで罪性が明らかにされてもなお、主が彼らを見捨てておられないように、私たちもとことんまで自分の罪深さが示されても、主がなお愛されていることを知ることができるのです。

 ですから、異邦人の神に仕えることを、何としてでもやってはいけないことを主が言われているのは、このねたむほどの愛のゆえなのです。

 あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られるが、主を憎む者には、これに報いて、主はたちどころに彼らを滅ぼされる。主を憎む者には猶予はされない。たちどころに報いられる。

 ここの「誠実」は「真実」と言い換えることができます。主は真実な方です。神を愛する者には恵みの契約を守られます。ローマ8章にも、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28」とあります。そして、神のもとに来ないで、神を憎む者には、さばきがとどまります。

 私が、きょう、あなたに命じる命令・・おきてと定め・・を守り行なわなければならない。それゆえ、もしあなたがたが、これらの定めを聞いて、これを守り行なうならば、あなたの神、主は、あなたの先祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたをふやし、主があなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われた地で、主はあなたの身から生まれる者、地の産物、穀物、新しいぶどう酒、油、またあなたの群れのうちの子牛、群れのうちの雌羊をも祝福される。あなたはすべての国々の民の中で、最も祝福された者となる。あなたのうちには、子のない男、子のない女はいないであろう。あなたの家畜も同様である。主は、すべての病気をあなたから取り除き、あなたの知っているあのエジプトの悪疫は、これを一つもあなたにもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下す。

 神は、恵みの契約にもとづいて、祝福を豊かに注がれます。

 あなたは、あなたの神、主があなたに与えるすべての国々の民を滅ぼし尽くす。彼らをあわれんではならない。また、彼らの神々に仕えてはならない。それがあなたへのわなとなるからだ。

 私たちが神から祝福される力は、この不信者と交わらないという聖別にあります。私たちが、たくさんの伝道活動をして、たくさんの人々に福音を語っても、もし真理に立っていなければ、そこには力がありません。人が悔い改め、キリストを信じる力を持っていません。しかし、真理に堅く立つときに、人は反発するかもしれませんが、悔い改めに導かれる人々も出てくるのです。

3B 力ある主 17−26
 あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう。」と言うことがあれば、彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。あなたの神、主はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、主、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。

 強い民をどのようにして追い出すことができるのだろうか、という質問に対して、エジプトで行なわれた大いなるみわざを思い出させています。この主があなたのうちにおられるから、必ず追い出すことができる、と保証しています。このように、やはりエジプトにおける主のみわざが出発点となっています。クリスチャンも同じように、キリストが死者の中からよみがえられたというところが出発点です。「私のこの肉の弱さはどのように克服することができるのだろうか。」「このところで、いつも罪を犯してしまう。本当に打ち勝つことができるのだろうか。」と。しかし、死者の中からキリストをよみがえされてくださった神が、あなたのうちにすでに住んでおられるのです。復活させる力があることを信じるその信仰によって、私たちのうちで復活の力が働きます。そして肉の行ないを殺すことができるのです。

 あなたの神、主は、これらの国々を徐々にあなたの前から追い払われる。あなたは彼らをすぐに絶ち滅ぼすことはできない。野の獣が増してあなたを襲うことがないためである。あなたの神、主が、彼らをあなたに渡し、彼らを大いにかき乱し、ついに、彼らを根絶やしにされる。

 彼らはすぐには絶滅しません。徐々にいなくなります。同じように、肉の思いや行ないも、一挙になくなるのではなく、御霊に導かれつつ、徐々に克服されるのです。

 また彼らの王たちをあなたの手に渡される。あなたは彼らの名を天の下から消し去ろう。だれひとりとして、あなたの前に立ちはだかる者はなく、ついに、あなたは彼らを根絶やしにする。あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。自分のものとしてはならない。あなたがわなにかけられないために。それは、あなたの神、主の忌みきらわれるものである。忌みきらうべきものを、あなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶のものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌みきらわなければならない。それは聖絶のものだからである。

 聖絶されたものを自分のところも持ち込むことは、自分自身が聖絶されてしまいます。これは、神が葬ってくださった罪を、また掘り起こして試してみるのと同じことです。あえてそのようなことを行なえば、私たちの状態は初めのときよりも悪くなってしまうと、使徒ペテロは話しています(2ペテロ2:20)。

 このように、主に愛され、主を愛するということは、文字通り「真剣」なことであることが分かりました。顔と顔を合わせて語り合い、どんなときでもみことばを思い出し、また主によって恋い慕われていることを知り、他のどんなものにも心を引き寄せられないという関係です。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛します。



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