申命記6章45節 「心を尽した主への愛」

アウトライン

1A ただひとりの神
   1B 十戒の要約
   2B 三つの領域
2A 必要な心
   1B 新しい心
   2B ひたむきな心
   3B 最愛の心
   4B 燃えた心
   5B 変えられた心

本文

 申命記6章を開いてください、午後礼拝では5章から7章までを学んでみたいと思いますが、今朝は有名な御言葉、64-5節に注目してみたいと思います。

4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

  私たちはレビ記19章の学びの時に、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。(18節)」の命令について学びました。イエス様が、律法の中で最も偉大な戒めとして要約されたのが、先ほど読んだ申命記64-5節の神を愛する命令と、そしてレビ記1918節の隣人を愛する命令の二つでした。二つを結ぶ言葉は「愛」であり、使徒パウロはいつまでも続くのは愛と信仰と希望であり、その中で最もすぐれているのは愛である、と言いました。私たちキリスト者にとっての最も大切なエッセンス、本質です。

1A ただひとりの神
1B 十戒の要約
 私たちは前回の学びで、モーセが自分の死ぬ前にイスラエルの民に対して残すべき言葉を語り始めたことを読みました。そこにはモーセの心があり、究極には神ご自身の心が流れていることを見ました。そして、主がイスラエルの民に現れた時のことを思い起こさせています。「火の中で現れた神は姿がなく御声だけであった。だから像を造ってそれを拝んではならない」と命じました。それから、エジプトから救い出すという大いなる業を行われる方が他にいるだろうか、この方だけが神であり、他には神はないことを言明しました。つまり、その根底にあるのは「主だけを愛しなさい」ということです。

 申命記5章には十戒の宣言がありますが、6章は1節に「これは、あなたがたの神、主が、あなたがたに教えよと命じられた命令・・・である」とあります。ここの「命令」は単数形であり、英語で読むと"the commandment"、言い換えれば「これこそが命令である」と宣言しています。そして、その命令が、「主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」なのです。イエス様が律法を要約されたとおり、いろいろな掟と定めがあるのですが、その要約が主なる神はひとりであり、心を尽くしてこの方を愛しなさい、というものなのです。

 4節にある「主はただひとりである」の「ただひとり」のヘブル語は「エカァド(echad)」です。これは、「ただ一つであり、独特だ。第一のものだ。」というような意味合いがあります。そしてこれは、複単数形を表す「一つ」であるともされます。私たちは一本の指もあれば、けれども五本の指がある手を「一つの手」と言いますね。複数のものが一体となってただ一つのものを構成していることを表します。神はたったひとりであられますが、その中に複数の単位がある、ということです。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という三つの位格があって唯一の神である、という三位一体の神を暗示しています。

 そして、このエカァドは創世記2章でアダムが妻エバと結ばれる時にも使われた言葉です。「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(24)」男が女と一つになるのと同じように、そこにある愛はただ相手のみを見つめる愛であるように、主なる神は「あなたは、わたしだけを夫としなさい」というような愛を私たちから求めています。

2B 三つの領域
 そして主は、それを「尽くして」という言葉でその愛を表しておられます。「心を尽くして」「精神」あるいは「魂」を尽くして、そして「力を尽くして」です。イエス様は福音書においては、「知性を尽くして」という言葉も加えておられますが、加えれば四つの領域があります。人間の部分のあらゆる領域において、しかも中途半端ではなく全てを尽くして愛していく、ということです。

 「」は、私たちの最も深い部分を指しています。「真心を込めて作ったお弁当」という言葉がありますが、母が子に作る弁当は、その子のために命さえも惜しまないほどの犠牲まで含まれている心を表しているわけです。そのような最も深いところで、皆さんが神、そして主イエス・キリストを迎え入れているでしょうか?

 そして「精神」は、新共同訳では「魂」となっており、それは意識の部分であります。知情意と呼ばれる、知性・感情・意志の根底を成す部分であります。日本語でも「魂からの叫び」というものがありますね。黒人のゴスペル・シンガーは、アフリカから来た奴隷という歴史を抱えて、そこからみなぎるあの天に届くような声を発することができるのですが、単なる技能ではない魂がそこにあります。その領域において私たちが主なる神を愛しているかどうか、ということです。

 そしてイエス様は「知性」を加えられましたが、私たちの知性においても神の知識を第一にしていくこと。集中していることは神を愛していることにつながります。

 それから大事なのは「力を尽くして」という肉体の領域です。私たちは自分の体で行っていること、あるいは財産であったり、時間であったり、自分がいる場所であったり、そういう外側のものによっても主を愛することを示します。「心が大事であれば、外で行なうことは関係ないだろう。」という人々が多いのですが、イエス様は心にあることが外に出る、ということを話されました。ヤコブは、行ないのない信仰は死んだも同然である、と言いました。具体的な外側の行動によって、初めてその人が主なる神を愛しているかどうかを知ることができます。

2A 必要な心
 このように、主は私たちがあらゆるものにまさって、この方を第一とし、すべてにおいてこの方が神となっていることを願っておられますが、これを自分で行なおうとすれば到底できないことに気づきます。「私は幼い頃から、これらのことを行ってきました。」と言った金持ちの青年の話は思い出せますね。イエス様が十戒の人間関係における戒めを行ないなさい、と言われたのですが、「これらのことは行なってきました」と答えたのです。ところが、「財産を捨てて、貧しい人々に施しなさい」と言われたら、彼は悲しい顔になって、イエス様から離れていったことが書かれています。主は、「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48」とまで言われています。自分がいかに、神への愛が欠けているかに気づかされます。

1B 新しい心
 そうしたどうしようもない心の状態である私たちに対して、神はイエス様にあって福音を与えられました。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。(ヨハネ6:28」と群集がイエス様に尋ねた時にイエス様は、「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。(29節)」と答えられました。イエス・キリストを信じることが神のわざです。神が要求されているのは、イエス様を信じることであります。

 イエス様を信じると、その心が変えられます。サマリヤの女に対してイエス様は、「わたしがあたえる水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14」と言われました。自分の内にある、人間的な泉、自分の力や知恵ではなく、主が与えられる御霊の水が私たちの内に出来上がる、というのです。ニコデモに対しては、「新しく生まれる」という言葉を使われました。

 そして預言者エゼキエルは、神を信じる者たちに対する御業を預言してこう言いました。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。(11:19-20」私たちの心は石であると主が言われます。自分がいくら努力しても、自分を変えることのできない姿は、心が石のように堅くなっているからだ、ということです。けれども、神がその心を新しい霊によって取って替えてくださいます。肉の心にする、と約束されています。私たちに必要なのは、イエス・キリストからこの新しい御霊をいただくことです。

 イエス様がまとめられた律法の要約に注目してください。第一に、主なる神を愛することです。第二に、自分自身のように隣人を愛することです。そこには「自分」というものがありません。自分ではなく神を愛して、自分ではなく、むしろ自分が自分を愛しているように、その同じ情熱をもって隣人を愛します。自分がなくなっています。ところが、私たちの心は自分に絶えず注目を集めるようにさせています。自分を愛し、自分を生かし、自分を救おうとさせます。けれども、その思いのままに私たちが生きようとすると、いつまでも自分を満たせない自分を発見します。空しさが残ります。葛藤が生じます。

 心の問題が日本は非常に多くなっていますが、巷のカウンセリングは「自分を大切にしなさい」と教えます。その結果どうなっているかと言うと、人はもっと病んでいくようになります。自分を大切にするって、どういうことなのでしょうか?人は神を喜ばすために造られているのです。そして神を喜びとしている人が、神に満たされて、他の人々に仕えるように造られているのです。その創造の目的を無視して、自分を大切にすることなど到底できません。

 けれども、その自分を切り離す方法、「自分」というよりも、自分のほうに傾く自己中心的な心を新しい心に変えてくださるのは主ご自身です。この方が自分のためにその罪を背負って死んでくださったことを信じて、この方を受け入れることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17」そこから人は主を愛する命令を守り行なうようになっていきます。

2B ひたむきな心
 けれども、私たちは新しい心を神から与えられても、まだ古いものを持っています。イスラエルの民がエジプトで生きていて、そこにあるあらゆる偶像に慣れ親しんでいたので、新しい約束の地にいっても大いに、先住民の偶像に引き込まれる可能性がありました。それで主が何度も、モーセを通して、偶像を破壊しなさい、住民を聖絶しなさい、契約を結んではならないと強く命じられているのです。

 一方は主に心が向いているけれども、他方は自分の慣れ親しんでいた古いものを欲しています。約束の地に入ってからのイスラエル人は、間もなくして、主の御名は唱えましたが、バアルの名を唱え、アシュタロテの名を唱えました。心が二つに分かれていたのです。私たちはいかがでしょうか?私たちが情熱を傾けられるものを、一度確かめてみましょう。我をも忘れて熱心に行なっていることは何でしょうか?主なる神以外で、これをやってやめられないというものはあるでしょうか?取り上げられると、必死になってそれを取り戻すことに全神経を傾けるものは何でしょうか?

 知的なものを求めて飽くなき探求をしているとしたら、知識を得ることで何時間も費やしていたら、当時の社会では「バアル」が拝まれていました。バアルとは「主」という意味で、知識や権力を表すカナン人の神です。木や石の偶像を持っていなくても、実質的にその神を心に宿していることになります。

 快楽を求めて飽くなき追及をしているでしょうか?休日に出かける自分の趣味のために、その時に得られる興奮のために、月曜から金曜まで働き、待ちあこがれていることはないでしょうか?それは「モレク」と呼ばれる神を、当時の人々は拝んでいました。それではお金はどうでしょうか?「お金」と呼ばず、自分の持ち物を求めて、もっと優雅で安楽な生活を求めることが自分の強い欲求になっていませんか?それは「マモン」という神で拝まれていました。興奮や持ち物のためならお金をたくさん使うけれども、主のために自分の財産を捧げるときには非常な苦痛を覚えていないでしょうか?主を愛していながら、実はモレクやマモンも愛しているのです。

 そして肉体の快楽、すなわち情欲は「アシュタロテ」という女神が拝まれていました。現在の全世界における年間のインターネットにおけるポルノ産業収益はどんな情報関係企業よりも大きく、いやそれらの企業の収益を合わせても及ぶことはないと言われています。この偶像への愛は計り知れません。

 このように一方で主に仕え、もう一方で世にあるものに仕えると、私たちの心は分かれてしまいます。これを聖書では「二心」と呼んでいます。私たちは、かつてエリヤがイスラエルの民に、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。(1列王18:21」と言いました。どちらか側につかなければいけません。ダビデはこう祈りました。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86:11」そして、ヤコブはこう叱責しています。「二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:8-10

3B 最愛の心
 そして私たちの心はいつの間にか、主への愛から離れてしまっています。ちょうど漂流した舟のように、まだ岸辺に近いと思っていたら潮によって沖に流されてしまうように、自分は主に従っていると思いながら、どこか違うところに行ってしまうことがあります。もしかしたら祈ることもするし、聖書を読むこともするし、そして教会にも通っているかもしれません。けれども、主への燃えるような愛がなくなってしまっている時があります。

 モーセは、この命令の後に、イスラエルが約束の地で豊かになったときに主を忘れないように気をつけなさい、と警告しています。主に拠り頼まなければいけないのですが、その祝福の中にいることによってそれが当たり前のように感じてしまうのです。これもすぐにではなく、少しずつ、いつの間にかそうなってしまう、という危険です。その時、私たちはイエス様がエペソにある教会に対して言われたように、初めの愛に戻る必要があります。悔い改めで、どこで落ちたかを思い出し、そして初めの行いをするのです。

 ルカによる福音書で、パリサイ人シモンの家でイエス様が食事をしている場面があります。そこに不道徳な女がやってきました(ルカ736節以降)。イエス様の足に涙を流し、そして髪の毛でその涙を拭い、口づけして、そして香油を塗りました。シモンは、不道徳な汚れた女をさげすみ、彼女が触れるのを任せるイエス様を心の中で批判しました。けれどもイエス様はその心を知っておられてこう言われたのです。「あなたはわたしが家に入ってきたときに、足を洗わなかったが、彼女は足を濡らした。口づけをしなかったが、彼女は口づけしてやまなかった。私の頭に香油を塗ってくれなかったが、彼女は足に塗ってくれた。」当時は、足を洗うこと、口づけすること、そして香油を塗ることは客をもてなすのに必要な行為だったのです。シモンはそれらのことをしませんでした。そしてイエス様は言われました。「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。(ルカ7:47

 つまり、自分の罪が赦されたという強い思いがある人であれば、それだけ主への愛が強くなる、ということです。道徳的になっている時に、私たちは自分の心を騙します。「わたしは、これこれのことができない。」と、何か性格の弱さのように語ります。いいえ、反抗的な心、反抗的な自分の肉と罪があることを認める必要があります。主の前でへりくだり、悔い改める時に、私たちの心は生ぬるさから、熱さへと変えられるのです。

 私たちが行っていることは、必ずしも偶像のように悪いものではないものかもしれません。例えば仕事自体はすばらしいものです。けれどもイエス様は、ご自分が復活された後に漁に出て行ったペテロに会ってくださいました。一匹も釣れなかったけれども、大漁を与えてくださったペテロに会われました。彼はイエス様に、本当の意味で出会ったのは、まったく同じ出来事であって、大漁の奇跡のときです。彼は、「罪人である」と主の前に告白しました。そしてイエス様は、「人の漁をする漁師にする」と言われたのです。それにも関わらず、彼は漁に戻っていってしまったのです。それでイエス様は、153匹のとれた魚の前で「これら以上に、わたしを愛しますか。(ヨハネ21:15)」と問われました。「これら」というのは「この人たち」と訳してもいいし、「これら」でもいいのですが、「これら」であれば、ペテロによって漁をすることのほうがイエス様より情熱を傾けることができていたのです。 

 家族にしても、同じです。私たちは父母を敬えという命令を受けています。けれども、イエス様は「「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26」と言われました。「憎む」という強い言葉をイエス様は使われていますが、それは家族への愛と絆というのはものすごい強いことを表しています。それ自体はすばらしいのですが、イエス様への愛はそれ以上になる必要がある。つまり、ものすごい強い意志でイエス様を第一にし、イエス様に従うことを選び取ることをしなければいけません。イエス様への愛が、何物にもまして最高のものとなっていなければならないのです。

4B 燃えた心
 この前の恵比寿バイブルスタディで、生ける主に語られる、また生きた主に出会うにはどうすればよいのか、という分かち合いがありました。その時にある姉妹が、「旧約聖書の話を聞いているけれども、新約から関連する聖書箇所の引用を聞き、そのつながりが分かって、それで感動を受けているときに、その時に神が自分に語っておられることをに気づく。」と仰っていました。福音書には、同じように沈んでいた心を再び燃やされた弟子たちがいます。主の十字架の後、エルサレムから離れてエマオという村に行く途上にあった弟子二人です。

 彼らは、これまで説明したように主への愛の心が冷めていました。この方こそキリストではないかと思って付いてきていたのに、ユダヤ人指導者が十字架につけてしまった。心がとてつもなく落胆していたのです。けれども、すでに復活されたイエス様を目撃していた人々が何人かいました。それでも信じることができずに、そのままエルサレムから離れて行っていたのです。そこに、なんと主ご自身が歩いておられました。そしてその弟子二人に、こう言われたのです。「『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。』それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24:25-27

 聖書全体の中から主はご自身のことを説き明かされたのです。預言者のすべてを信じないことをイエス様は責められました。私たちの心には愚かさがあります。主イエスを信じていると言っていながら、試練や思い煩いによって心を冷やしてしまうのです。その時に起こっていることは、預言者のすべてを信じない、つまり聖書の約束の一部は信じているかもしれないけれども、どんどん忘れていっている、という問題です。

 けれども彼らのほうから、イエス様を引き止めていっしょに宿に泊まるよう要請しました。そしてイエス様がパンを裂かれた時にその場から消えられました。そこで彼らは気づいたのです、この方がイエス様であることを。そしてこう言っています。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカ24:32」聖書の説明を聞いているだけで心が燃えていました。自分の生活に、主の御言葉が回復されるときに私たちの心は燃えます。

5B 変えられた心
 ですから、私たちの心は変えられることができるのです。使徒パウロは、「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2」と言いましたが、聖霊の助けで変えることができるのです。どうか忘れないでください、これは内に住んでおられる聖霊の働きです。私たちが、「主のこの掟を守ることができない。また同じ過ちを犯している。」という思いになって、焦燥感に陥らないでください。「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3」と使徒ヨハネは言いました。神との愛の関係に触発されたのであれば、神の命令を守ることは重荷にはなりません。イエス様はまた、「わたしのくびきは軽い」と言われました。神から与えられたくびきだと思って、それが重かったらそれは神からのものではないことを知ってください。

 聖霊の実を思い出してください。それは「愛」です。その愛の特徴が、ガラテヤ522節以降に書かれています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23」みなさんに主にある喜びが回復されるときに、主への愛が回復されています。平安が心を満たしてくるとき、主への愛が回復されています。そして人に対して寛容であるとき、忍耐できるときも、主への愛が回復されています。親切にできているときも、そのとおりです。善を行なうことに喜びがあるとき、感謝の思いで満たされているときにも、主への愛がそこにあります。誠実、つまり表の自分と素の自分に乖離が起こっていないときも、主への愛があるのです。そして柔和、これは嫌なことをされても仕返ししようと思わなくなっているときです。そして自制があります。これは、主との愛の関わりがあまりにもすばらしいので、自分の体にある欲求を過度に満たす必要がなくなった、情欲におぼれずすむようになった自制心であります。

 そして「これらを禁ずる律法はない」と言います。律法の柱は、この愛の動機に支えられているのです。主は、私たちが「この方のみが私の神」と言えるような関係を持ちたいと願っておられます。

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