申命記8−11章 「従順に伴う祝福」
アウトライン
1A 自分の力 8
1B 四十年間の苦しみ 1−10
2B 富の築き上げ 11−20
2A 自分の義 9−10
1B うなじのこわい民 9
1C カナン人の悪 1−6
2C ホレブでの根絶やし 7−29
2B 主の赦し 10
1C 執り成し 1−11
2C 偉大なる神 12−22
3A 祝福と呪い 11
1B 偉大な御業の目撃者 1−7
2B 乳と蜜の流れる地 8−25
3B 民の前に置かれた選択 26−32
本文
申命記8章を開いてください。申命記は、モーセが晩年にイスラエルの民に残した言葉です。主がこれまでモーセに与えられた律法を、民に対して「守り行ないなさい」と延々と命じている書物であります。私たちは前回から、主がイスラエルの民に十戒を与えられたところを読みました。そして十戒をさらにまとめると「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という命令になります。主がイスラエルの民に対して、ご自身が彼らを慈しみ、愛し慕い、その愛に対して応答しなさいという呼びかけになっているのを見ることができます。
1A 自分の力 8
主は彼らを約束の地に導きいれ、そして祝福したいと願っておられます。神はご自分の民を祝福したいと願っておられます。キリストにある者をも祝福したいと願っておられます。けれども、その祝福がかえって彼らが神から離れる原因になる懼れについて、主はイスラエルに語られます。
1B 四十年間の苦しみ 1−10
8:1 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
これは午前中に学んだとおりであります。荒野での生活は、苦しみと試みの生活でありました。けれども、その苦しみの中だからこそ知ることのできる、神の真実の愛がありました。富んでいる時には決して体得できない、神との愛の関係です。
8:6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。8:7 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。8:9 そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄でありその山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。8:10 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。
約束の地にある豊かさをモーセは説明しています。イスラエルがこれまで見たことのないものばかりです。「水の流れと泉」はもちろんエジプトにはありませんでした。ナイル川があるだけで、他は荒野であり、たまにオアシスが点在しているだけです。「谷間と山」もありませんでした。エジプトはだだっ広い平らな地があるだけでした。そして、穀物や果実が豊かに産出される地であります。それから鉱物も出て来ます。鉄や青銅を掘り出せると言っていますが、ネゲブの南部には赤銅の色になっているティムナ国立公園があります。
そしてこれらの豊かな地において、「あなたの神、主をほめたたえなければならない」と言っています。これが豊かさに対する、私たちの正しい反応です。ヤコブ書には、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 (5:13)」とあります。午前礼拝では、日本には医療技術が発達しているから、癒しのために祈って直接、神から癒していただくという証しが少ないことを話しましたが、だからといって日本では奇跡が起こらないとか、霊的に貧弱であるとは決して言いません。むしろ、感謝しなければいけません。主をほめたたえなければいけません。
こんなにもすばらしい豊かさを与えてくださった方に、栄光を帰さないといけません。定期健診やきめ細かい医療制度のおかげで日本では世界一の長寿を達成できているのです。これを感謝しているでしょうか?けれども今の日本に、この「感謝」または「賛美」がないのです。喜んでいないのです。閉塞感がいっぱいになっているのです。鬱の人、自殺する人がこれだけ多いのです。なぜでしょうか?すべての良き物の源であられる神に、栄光を与える道を知らないからです。ローマ1章にこう書いてあります。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(ローマ1:21)」
2B 富の築き上げ 11−20
8:11 気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。8:12 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、8:13
あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、8:14 あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、8:15 燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、8:16 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・8:17 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。8:18 あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。
私たちが試練の中にいる時よりも、さらに大きな危機は祝福の中にいることであることは、ここで分かるでしょう。物また富、またそれにまつわる名声も含めてよいでしょう。これらのものは、魔物のような力を持っています。この世は何によって支配されているのかと言えば、国の指導者ではなく「金」そのものであると言っても過言ではありません。黙示録によると、主イエスが再臨されるときに、そこにある世は、国の王たちと淫乱を行なっている売春婦が紫の衣をまとい、金の杯から酒を飲んでいる姿です。
イエス様は、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(マタイ6:24)」と言われました。そして、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(マルコ10:25)」と言われました。実に神のようになりやすい力を持っていて、富のゆえに神を信じることができないという力を持っています。
富また名声は、徐々に私たちの魂を蝕みます。高慢になっていくのは、自分が意図的に選び取ることではなく、自分自身を欺くようにして、なおも自分は主に仕えているのだと口では言い続けるような形でなっていきます。サウル王がそうでした。彼は高ぶっていたのに、自らは主の命令を守り、主に仕えていると思っていました。
そこで必要なのは、苦しかった時の自分を思い出すことです。主ご自身が水を与え、食べ物を与え、自分は塵や霧にしか過ぎないような弱い存在であるにも関わらず、主が恵んでくださったことを知ることのできる貴重な時間です。パウロも、肉体のとげで苦しんでいましたが、主が「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。(2コリント12:9)」と言われました。だからパウロは、「弱さを誇りましょう」と言いました。
8:19 あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。8:20 主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。
「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(箴言16:18)」とあります。そして、モーセは「あなたがたの前で滅ぼされる国々のように」と言っています。すでに彼らは、エモリ人のシホンとバシャンのオグを滅ぼしました。そしてこれからカナン人の王国を次々と滅ぼしていきます。けれども、あなたも彼らと同じようになるのだよ、という警告になっています。
パウロはユダヤ人も悔い改めなければ同じように滅ぶことを次のように話しました。「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。(ローマ2:9-11)」私たちは「自分だけは生き、救われる」という幻想を抱きがちです。日本では二人に一人が癌になる高確率なのですが、そう聞くと必ず「私は癌にならない一人だ」と思うだろう、とある医者が言っていました。神の裁きについても同じで、「他のあの人々であれば滅ぼされるかもしれないけれども、私は免れるだろう。」と心のどこかで思っています。けれども、自分が行ったことに対しては、必ず報いがあることを知らなければいけません。
2A 自分の義 9−10
1B うなじのこわい民 9
1C カナン人の悪 1−6
9:1 聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。9:2 その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」9:3 きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。
すばらしいですね、前回の学びでも主は同じことを約束されました。イスラエルは過去にアナク人を恐れて約束の地に入りませんでした。事態は四十年近く経た今でも変わっていません。けれども、主が戦ってくださるので勝利することができます。
9:4 あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。9:5 あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。9:6 知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。
先ほどは富による高慢の危険を知りましたが、同じように勝利による高慢の危険を知らなければいけません。ここに書かれているのはとても大切なことです。イスラエルがカナン人を根絶するのは、あくまでもカナン人の悪が神の前に積みあがったからです。その悪とは具体的には、性的倒錯を含む忌まわしい宗教儀式と、それにともなう子殺しであります。イスラエルはあくまでも、神の裁きの器として用いられるに過ぎません。
私たちは、ある人が収めた成果によってその人と神との関係を推し量ろうとします。数多くの人をイエス様に導いたある伝道者は、最後は同性愛行為によるエイズによって死にました。また、別の伝道者ですがカナダ人のビリーグラハムとまで言われた人だったのですが、彼は「神様にさようなら」という本を書いて、一貫して不可知論者としての主張を続けました。では、彼らを通して数多くイエス様を信じた人たちは、いったいどうなるのか?ということになります。それは、神がその伝道集会に来た人々を愛して、その人々を救いたいと願われたから人々が救われたのであって、彼らと主との関係の保証にはならなかったのです。
そしてモーセは、「あなたはうなじのこわい民であるから」とイスラエルを呼びました。乗馬で、まったく乗っている人の調教に従わない馬の姿に似ています。主が命じられているのに、まったくそれに従わないのです。私たちはここから、「自分の義」と「神の義」について学びます。私たちが信仰生活を送っていく中で、ただ信じたことによって神の祝福があるにも関わらず、自分が何か行ったから今の祝福があるのだ、あるいは、自分が何か行わなければ神の祝福はないと思ってしまう過ちについて学びます。
ここで必要なのは、先ほどの富と同じく「自分がどこから来たのか」という過去を思い出す必要があります。神の目から見た「自分」の本当の姿です。神からの祝福をいっぱいに受けるには、自分自身が、その義の行いがいかに頼りにならないかを知る必要があります。そして神からの一方的な憐れみによって今の自分がいるのだということを真に知る必要があります。
2C ホレブでの根絶やし 7−29
9:7 あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。
「逆らいどうしであった」とモーセは指摘しています。「いや、正しく従った時とそうでなかった時があったのではないか。」とイスラエルの民は思ったかもしれません。しかしそうではなかったのです。私たちも心のどこかで、「私には良いところがあるのではないか。」と思います。いいえ、ないのです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10-12)」神の慈しみによって、かろうじて立っていることができる者なのです。
9:8 あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。9:9 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。9:10 その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。9:11 こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。9:12 そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」9:13 さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。9:14 わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」
イスラエルの原点はもちろん、シナイ山における主の十戒の授与です。申命記において、モーセは何度もホレブにおける主の現れを思い起こしています。けれども、その時にイスラエルは早速堕落していたのです。そして、モーセの執り成しがなければ14節に書かれているように、彼らは根絶やしにされていたのです。私たちが決して忘れてはいけないのは、神の憐れみと恵みがなければ、「神のさばきに服する(ローマ3:19)」であること、「生まれながら御怒りを受けるべき子(エペソ2:3)」であることです。
9:15 私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。9:16 私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。9:17 それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。9:18 そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、9:19 主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。9:20 主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。9:21 私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。
モーセの執り成しによってかろうじて生き残ったのです。そして出エジプト記には記されていませんでしたが、民の圧力があったというものの金の子牛を造った張本人はアロンです。アロンも神は滅ぼそうとしておられました。
9:22 あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。9:23 主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。9:24 私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。
タブエラは、ホレブから旅立って間もなくしてからの出来事です。民がひどく不平を鳴らしていたので、主が宿営の端から火を起こされました。そしてマサは、イスラエルの民は水がなくてモーセと争ったところであり、モーセが岩を打って水を出したところです。キブロテ・ハタアワはもちろん、「肉が食いてえ!」と言って貪ったところです。そして留めは、カデシュ・バルネアにおいて約束の地に入ろうとしなかった不信の罪があります。
私たちはこう反論するかもしれません。「それは過去の話だ。私たちはもっと向上している。」いいえ、そうではないと断言しているのが聖書なのです。私たちが生まれながらに罪人で、アダムが犯した罪を受け継いでいる者であり、その罪のからだはイエス・キリストが再び戻ってこられて私たちの体を栄光の体に変えるまで、まったく変わることはなく、向上することはないのです。
だから私たちは、へりくだる必要があります。私たちの肉は向上していくものではなく、十字架につけるものなのです。肉をキリストと共に十字架につけられたものとみなし、よみがえられたキリストの命にあって生きることなのです。いつでも肉が私たちを支配しようと挑みかかっていることについて、いつも気をつけていなければいけません。
9:25 それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。9:26 私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。9:27 あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。9:28 そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。9:29 しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」
モーセの執り成しは、何に基づいているでしょうか?すべて神の名誉、神の約束、神の御心に訴えています。「あなたの所有の民」とモーセは言っています。そして、エジプトから力強い腕をもって連れ出された民です。そしてアブラハム、イサク、ヤコブへの約束と誓いがあります。そして、エジプトでは、主が途中でご自分の民を放棄したといって、神の名が嘲笑を受ける、と言っています。
ここに「神の義」があります。私たちは「神の義」ということを聞くときに、「神が私たちに要求している義」のことしか考えません。「これをしなさい、あれをしなさい、それをしてはいけない」という義しか考えません。それだけではないのです、神ご自身が義なる方なのだ、ということです。神が行なわれていること、神のご性質、神の御名、これらが神の義であります。
そして神はご自分の憐れみによって、いや恵みによって、その義をもって私たちを宣言してくださいます。これが「神の義」の三番目の側面であり、「信仰による義」なのです。キリストが十字架において、私たちの代わりに罪人とされました。そしてキリストを信じる者には、キリストの義が私たちに転嫁されたのです。私たちは自分が悪いのに他の人のせいにすることを「責任転嫁」と言いますが、神はその逆のことをしてくださったのです。私たちは何も良いことをしていないのに、あたかも私たちが成し遂げたようにしてしまうこと、それが「信仰による義」なのです。私たちはこの、とてつもない大きな神の恵みを受け入れなければいけません。
2B 主の赦し 10
1C 執り成し 1−11
10:1 そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。10:2 その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」10:3 そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。10:4 主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。10:5 私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。
主が与えておられるやり直しです。モーセは先の石の板を粉々に砕きましたが、それはイスラエルが十戒をことごとく破ったことを表していました。主が再び石の板に書き記してくださるというのは、再び主が彼らと関係を修復することを意味しています。
そして4節に注目してください、書き記されたのは主ご自身です。直接、主がこの石に書き込んでくださったのです。主が直接書き込まれたというのは、他の聖書の言葉にはありませんが、けれども人を通してであっても主が聖霊によってその著者を動かして、その著者が書いていることを知らなければいけません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:21)」
10:6 ・・イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。10:7 そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。10:8 そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。10:9 それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。・・
モーセが、挿入的にこの言葉を入れています。イスラエルの民には、祭司の仲介の働きがあって初めて主の前に出ることができる、ということです。イスラエルはそのままの姿では決して、神の前に立つことはできません。あくまでも祭司の奉仕によって、主の祝福と恵みが民に分け与えられるのです。
どうか私たちが、私たちだけの間の行いだけによって判断することがないようにしましょう。キリストが只中におられます。この方こそが私たちの仲介であり、和解であられます。この方にあって私たちは初めて平和と恵みと愛を互いに体験することができます。そして独り神の御前に近づくときも、キリストから離れた自分の中で苦しまないでください。あなたは既にキリストと共に十字架につけられたのです。この方の血の注ぎかけがあるので、私たちはしっかりと立つことができます。
10:10 私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。10:11 そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。
モーセの執り成し、祭司の務めによって神との関係が回復しました。主はすぐに次に行なわなければいけないことを教えられました。主は過去を引っ張るようなことをなされません。次を見なければいけません。主は私たちに命じられていることは、これからも沢山あります。
2C 偉大なる神 12−22
10:12 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、10:13 あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。
主は求めておられることで、「ただ」という言葉を使っています。私たちは自分がしなければならないことを数多く考えてしまいます。そして思い悩んだり、あるいはいろいろなことをして、それが主を喜ばせることだと思っています。けれども、主が求めておられるのは「ただ」なのです。主を恐れ、主の道に歩み、主に仕え、主を愛します。ミカ書にも似たような御言葉があります。「私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(6:6-8)」
10:14 見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。10:15 主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。10:16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。
主の偉大さとそして、主の限りないイスラエルの民への恋い慕う思いを伝えています。ゆえに、うなじのこわい者であってはならない、と言われます。私たちがどうしても固く握り締めているものはないでしょうか?捨ててください、そして主の愛の御腕の中で憩ってください。
そしてここに「心の包皮」とあります。主がアブラハムに命じられたのは、子孫が神の契約の中に入るために、子種が出てくる男性の性器の包皮を切り取る割礼であります。割礼を受けることによって、包皮がない分、刺激に対して敏感になります。同じように心の包皮を切り捨てるとは、神の御声を聞くことのできない鈍感な部分を切り捨てなさい、ということです。御霊の声が敏感に伝わってくるような心にしなさいということです。
10:17 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、10:18 みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。10:19 あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。
主がいかに偉大であり、素晴らしいかを述べた後で、「えこひいきすることのない神」について紹介しています。そして彼らを神が恋い慕われているのだから、彼らが今度は在留異国人を愛しなさいと神は命じておられます。私たちが神に良くしていただいているのだから、互いに親切にしなさいということです。特に弱い者に対してはその重荷を担わなければいけません。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エペソ4:32)」「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(ローマ15:1-2)」
10:20 あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。10:21 主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。10:22 あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。
モーセは、富に頼ったり、自分の正しさに頼ることの愚かさを語った後に、このように主ご自身のすばらしさを訴えています。アブラハムに対して約束されたように、七十人しかいなかったイスラエルの子らを、空の星のようにしてくださいました。この方こそが、頼りべきお方であり、ほめたたえるべきお方なのだ、と強調しています。
3A 祝福と呪い 11
1B 偉大な御業の目撃者 1−7
11:1 あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。11:2 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。11:3 これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、11:4 また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・11:5 また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、11:6 また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。11:7 これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。
続けてモーセは主の偉大な力について述べています。いま聞いている人々の中では、十代の時に分かれた紅海を渡った人もいました。まだ若いですが、目撃した人々がいます。それから、荒野においては、コラの反逆に出くわしました。共謀したダタンとアビラムまたその家族が生きたまま地が開いてそこに落ちていきました。主の救いについても裁きについても、その力を彼らは目撃しました。
分かりますか、モーセは続けて「主がなさったことを」を強調しています。モーセは、「主の掟を守りなさい」と命じていますが、それらはあくまでも主が行なわれた偉大なことへの応答であるのです。私たちはこの体と思いを持っていますから、どうしても私たちが行ったことに焦点が行きます。そして私たちが行ったことや感じたことの延長として、神を眺めてしまいます。けれども、聖書は順番が逆です。主が私たちのためにしてくださったこと、その恵みが前面にあります。そして次に、私たちが主に応答するという順番なのです。
2B 乳と蜜の流れる地 8−25
11:8 あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、11:9 また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。11:10 なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。11:11 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。11:12 そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。
約束の地の肥沃さを教えています。エジプトにおいては、ナイル川しかありませんから、必ず川から運んできた水を畑に流し込む作業が必要でした。10節の「自分の力」というのは、直訳は「足」です。足で水を汲み上げるポンプがあったものと思われます。けれどもカナン人の地は天からの潤いがありますからそのようなことをする必要はありません。
私たちには、御霊の水が約束されています。荒地に水が流れ出すように、私たちの心の奥底から生ける水が流れるという約束をイエス様はしてくださいました。この御霊の働きを待ち望みましょう。もちろん私たちは自分の手を動かし、祈り、奉仕をし、礼拝をし、そして伝道をします。けれども、その実を豊かに結ばせてくださるのは唯一、恵みの御霊のみなのです。
11:13 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、11:14 「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。11:15 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」
新共同訳ですと「先の雨」は「秋の雨」、「後の雨」は「春の雨」と訳しています。先の雨は、十月に完全に収穫が終わり、十一月、十二月に降る雨のことです。種を蒔く前にその土を柔らかくするために必ず必要な雨です。そして三月に降るのが「春の雨」です。四月から始まる春の収穫のため、実が結ばれるために勢いを与えるものです。この二つの雨があるために、かつてのエジプトのような灌漑が必要ない、ということです。
11:16 気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。11:17 主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。
カナン人の地において、農耕の神はバアルでした。バアルが雨を降らせると信じられていました。したがって、イスラエルが手っ取り早くバアルにお願いして、雨を降らせてもらうよう祈る誘惑がありました。けれどもそれを行なえば、ここに書いてあるように雨どころか旱魃がやって来ます。
モーセが強調しているのは、「すべての良きものは主から来ているのだ。主なる神こそがすべての源である。」ということです。いつも、目の前にある必要を満たそうとする誘惑を私たちは受けています。苦しかったらお酒に走る人がいるかもしれません。古い習慣に戻るかもしれません。けれども主を待ち望みましょう。その必要は主にあって満たされるということを期待しましょう。主の命令に従うことに集中しましょう。祈りによって、そして御言葉に触れて主により頼むのです。
11:18 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。11:19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。11:20 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。11:21 それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。
すごいですね、主の御言葉にしっかりとしがみつくならば、天が地をおおう日数のように寿命が長くなるという約束です。仮にヨシュア以降のイスラエルの民が律法のすべてを守っていたら、このようなエデンの園にあったような至福が与えられていたことでしょう。
エデンの園では、アダムは主の命令に完全に従っていました。主に完全により頼んでいました。神の国においては、神の御心を完全に行なっている民によって構成されています。ゆえに、そこには神の命と祝福が満ちあふれていたのです。そして、イスラエルは失敗したためにまだその至福を経験していませんが、主イエス・キリストが再臨されるときに彼らに御霊が注がれ、彼らは悔い改めて、イエス様を自分たちのメシヤとして受け入れます。その時に彼らの心は神と完全に一つになり、そこで千年間のキリストの王国が始まるのです。そこでは百歳で死ぬ者が呪われたとされるほど、長寿になります。ですから、ここの約束の完全な成就は再臨後で見ることができます。
11:22 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、11:23 主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。11:24 あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユ一フラテス川から西の海までとなる。11:25 だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。
この約束もとてつもないものです。確かに主は初めアブラハムを召しだされる時に、「あなたを大いなる国民とする」と約束されました。そしてユーフラテスからエジプトの川までを与えると約束されました。それがただ主の道によりすがるなら与えられる、と約束してくださっています。
3B 民の前に置かれた選択 26−32
11:26 見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。11:27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、11:28 もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。
モーセは二つの道をはっきりと示しました。これは選択であることを示しました。従順になって祝福を得る、あるいは不従順になって呪いを受ける、というものです。私たちは、この立場をあいまいにします。どこか中間があるのではないかと願います。従順でもなく、不従順でもない地点があるのではないか、と思うのです。けれども中立というのは存在しません。イエス様も同じことを宣言されました。信じて命を持つか、あるいはそのままでいて神の裁きを受けているかのどちらかです。
そして私たちは、主の命令に従順になっていないイスラエルの姿を実は歴史を通じて見ていくことになります。けれども主は、律法の呪いを取り除くためにご自分の子キリストに、その呪いを置かれました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13-14)」
したがって今、新しい契約の中にいる私たちは、キリストを信じる信仰によって祝福を期待することができます。キリスト者の信仰は祝福から出発します。もはや律法の時代の方法による祝福ではありません。従順によって祝福を得るのではなく、すでに備えられている祝福を信じることによって、その祝福を経験することができるのです。もっぱらキリストが成してくださった勲によります。
11:29 あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。11:30 それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。11:31 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、11:32 私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。
このことをヨシュアらが実行しました。エリコを倒し、次にアイを攻略した後に、そこに向かいました。かつてアブラハムが立ち止まり、そしてヤコブがとどまったシェケムにあります。イスラエルの地の中心部にあります。シェケムは、ゲリジム山とエバル山の間にあります。そこでモーセが教えた祝福と呪いの宣言を読み上げて、確かにイスラエルの全地に律法が行き渡ることを表したのです。
次回から私たちは、さらに具体的な生活の中における主の掟を学びます。十戒の延長なのですが、それを具体的な生活の中でどのように適用すればよいのかの教えになっていきます。