申命記82-5節 「主の訓練と教育」

アウトライン

1A 覚えるべき荒野の全行程
2A 心の内にあるもの
   1B 苦しみによって
   2B 試みによって
3A 主からのマナ
4A 擦り切れない着物

本文

 申命記8章を開いてください、午後礼拝では8章から11章まで学んでみたいと思いますが、今朝は82-5節に注目したいと思います。

2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

 申命記において、モーセはたった一つのことをイスラエルに教えていますが、それが「主の命令を守り行なわなければならない」であります。その事をすることができるように、主はイスラエルの民に実施訓練を行なわれました。主がここで命じておられている言葉に注目してください、2節には「覚えていなけばならない」、そして3節の終わりには「あなたにわからせるためであった」、そして5節の最後は「知らなければならない」です。この言葉、私たちは学校で聞いていませんか?「覚えなさい」「理解しなさい」「知りなさい」です。父が子に教育と訓練を施すように、主がイスラエルの民に教えておられます。

1A 覚えるべき荒野の全行程
 初めに主が、「覚えていなければいけない」と言われたことに注目してみたいと思います。2節、「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない」私たちは出エジプト記、民数記、また申命記の始めにおいても、イスラエルがエジプトから救い出され、荒野の旅をしてきた話をずっと聞いてきています。そして一度ならず、何度も繰り返しこのことを思い起こさせています。

 出エジプトこそが、イスラエル民族の救いの出発点であり、この出来事に立ち戻って、それから今、自分たちが目前にしている課題に果敢に取り組むことができるのです。前回の学びにおいても、これから約束の地に入って、自分よりも強い民をどのようにして追い払うことができるようかと悩んでいるイスラエルの民に対して、718,19節ですがモーセはこう言っています。「彼らを恐れてはならない。あなたの神、主がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、主は、あなたを連れ出された。あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、主が同じようにされる。

 私たちキリスト者にとっての救いの原点とはどこにあるでしょうか?「キリストの十字架」ですね。ローマ人への手紙は、私たちが神によって義と認められることは信仰によるのだ、という主題を取り扱っています。1章から3章までに、全ての人が罪に定められることを論証し、3章から5章までは信じた者、義と認められた者たちが得ている状態について述べています。そして6章からですが、罪と肉の力にいかに克服するかについての、「聖め」あるいは「聖化」についての教えがあります。

 私たちはキリスト者としていつも悩むのは、「キリストの十字架によって罪が赦されたのは分かるが、天国に入るまでの間の今の私は、罪や肉の弱さがある。」ということです。けれども6章から8章までにおいて、パウロはいつも十字架に話を戻していくのを読むことができます。61-4節、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」パウロは「知らないのですか」と言っていますね。モーセが「覚えていなさい」「知りなさい」というのと同じです。

 そして7章において、自分が行いたい善を行なわず、憎んでいる悪を行なっていると言っているパウロは8章に入るとその悩みから解放されます。どうやって解放されたのでしょうか?81-4節を読みます。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:1-4

 分かりますか、再び十字架に戻ったのです。私たちはいつの間にか、十字架から離れて事を行おうとしてしまいます。主からの御力を得たいと願っているのに、そうしているうちに自分の罪だけでなくこの肉の弱さをも、その弱さを身にまとって十字架の上で神の処罰を受けられた、とあるのです。そこから出てくる喜び、平安、愛、それらのものに自分の思いをしっかりと留めることこそが、御霊に満たされることであり、肉の行いを殺すことができるのです。いつも、いつも、十字架に立ち戻らなければならず、これこそが私たちを救う力なのです。

2A 心の内にあるもの
1B 苦しみによって
 さらにモーセは、「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。」と言いました。まず、「苦しめる」という言葉から考えてみましょう。これは、「へりくだらせる」と訳すことのできる言葉です。

 私たちは、そのままの自分でいれば高慢になっています。主との親しい交わりを持つためには、かつてアダムが罪を犯す前に神と交わりを持っていたように、完全に神に拠りすがり、自らを神に明け渡していなければいけません。けれども、神のように賢くなると蛇がエバを騙して、それでエバが、次にアダムが善悪の知識の木を食べました。主は、二人をエデンの園から追放しましたが、「人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。(創世3:22」と言われています。神ではないのに神のようになった、ということです。自分が神であるかのように錯覚していることです。自らの力で生き、自らの知恵で判断し、神が自分を救うのではなく自分が自分を救おうとして生きることです。

 詩篇11971節には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。主は、その愛のゆえに時に私たち人間を、神にしか頼ることのできないところまで、人間の力が尽きるようにさせ、人間の知恵ではどうしようもならないところまで連れていかれます。そして、主の命令のみによりすがることができるようにしてくださいます。

 英語にある諺で、「人の窮地は神の契機」というものがあります。人が自分にある救いのための全ての手段を失った時に、その時こそ神がようやくのことでその人を救うことがおできになる、ということです。四十年間の全行程を覚えよと主は言われましたが、主はあえてイスラエルの民をエジプトから出たにも関わらず引きかえらせ、紅海の岸辺から逃げることのできないようなところで宿営を張るように命じられました。そしてあえて、パロの軍勢がそこにいくようにさせました。それは彼らに意地悪をしているのではなく、むしろ彼らを愛しているがゆえに、紅海を渡らせ、パロの軍勢を水中で滅ぼすという、偉大な神の御業と栄光を見させるためです。

 同じように、マラというところで苦い水を飲みましたが、それを神が甘い水に変えられることによって、主の命令に従うところには癒しがあることを知ることができました。次にオアシスにたどりつきましたが、マラがなければ決してその有難味が分からなかったのです。

 過越の祭りの食事において、ピンク色のわざびを挟んだパンを食べるように促されます。私はアメリカでユダヤ人信者が導く過越の食事に参加したのですが、"horse radish"というのを「わざび」ということをあまり理解せず食べましたら、口の中で火を噴きました。その後で司会者は、りんごとナッツを合わせたものがはさんでいるパンを食べるように促したので、食べると何とその辛さはそのまま甘さへと変わりました。単に後者だけを食べて甘いのではなく、辛いのを始めに食べていたからこそ、その辛さが甘さを引き立たせていたのです。

 これが神の与えられる苦しみです。その苦しみは私たちをもっと疲れさせるためにあるのではありません。その反対であり、私たちに癒しを与えるためのものです(ヘブル12:13参照)。

 パウロも、患難についての次のように積極的に話しています。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5」患難はとどのつまり、失望に終わりのことのない希望、そして聖霊による神の愛に至るのです。

2B 試みによって
 そして次に、「試み」るという言葉に注目しましょう。私たち人間の世界では、「試みる」あるいはもっと分かり易くいえば「テストをさせる」と言えば、先生が生徒の学力を知るために施すものであります。けれども、神が行なわれる試みは異なります。神はすでに私たちのことをすべて知っておられます。神があたかも私たちについて知らないから、その真実を知るために試みるのではなく、むしろ私たちが、私たちの心にあるものを知るためです。

 主は私についての全てのことを知っておられます。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。(詩篇139:1-4」知らないのは自分自身なのです。私たちは自分こそが自分を最もよく知っていると思い込んでいます。けれども、自分だけが知らないままで他の人が知っていることもあるのです。私の後頭の髪型がどうなっているか知っているのは、私より皆さんのほうです。私の地声がどうなっているか、実は私は録音された自分の声でしか知ることができませんが、いつもみなさんはその声を聞いています。周囲の人々には明らかなことでさえも、私の癖であるとか性格であるとか、周りのほうが知っていることがあるのです。

 そして、他の人間でさえも知ることがない、そしてもちろん自分自身も知ることのない深いところがあります。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9」だれも、その陰険な心を知ることができないと言っています。

 列王記第二8章に非常に興味深い出来事があります。アラム(古代のシリヤ名です)の王ベン・ハダデの家来にハザエルという人がいました。ベン・ハダデが病気だったので、ハザエルに贈り物を持たせて、イスラエルの預言者エリシャに直るかどうか問い合わせました。エリシャは、ハザエルを見ると、彼自身が恥じるほど、じっと彼を見つめ、そして泣き出したのです。そしてこう言いました。「私は、あなたがイスラエルの人々に害を加えようとしていることを知っているからだ。あなたは、彼らの要塞に火を放ち、その若い男たちを剣で切り殺し、幼子たちを八裂にし、妊婦たちを切り裂くだろう。(2列王8:12

 ハザエルは答えます。「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう。(13節)」彼は事実、王に仕える忠実なしもべで、どちらかといえば臆病な性格の持ち主でした。けれどもなんと王のところに帰って、その翌日、毛布をとって水に浸し、それを王の顔にかぶせて殺してしまいました。そして自分がアラムの王になりました。そしてエリシャが預言したように、イスラエルに危害を与える残虐な王となっていったのです。

 私たちは戦争の残虐行為や、人種差別などの姿を見て、ひどく怒りますが、あるキリスト者の歴史家がこう問いただしました?「私たちは黒人を奴隷にしていた人よりも、正しいのでしょうか?心がきれいだと言えるでしょうか?ナチスを支持した人たちよりも、心はできているのでしょうか?」私たちも、当時と同じような条件が整えられ、同じ環境が与えられていた時に、まったく同じことを行ないえる恐ろしい存在なのです。

 また、ある人はこう言いました。「私たちの心は、泥が下に沈んでいる水の入ったコップのようだ。」普段はきれいな水なのですが、何かのきっかけでかき回されると全体が濁るのです。何かかき回される時に内側から出てくるものが、私たちの真実な姿です。

 ですから私たちは次のダビデの祈りが必要です。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23-24」私たちは、私たち自身の心さえ知らないのです。ゆえにこの祈りが必要です。自分を試してくださるように、そして自分のありのままの姿を見ることができるように祈ります。このへりくだった、砕かれた心こそが、神との出会いができる心であり、主は砕かれた魂を決して見捨てられません。むしろ暖かく包み、深い慰めを与え、これまでにない愛と恵みを注ぎ、癒してくださるのです。

3A 主からのマナ
 そしてモーセは、イスラエルの荒野における全行程において、主の命令を守ることによってイスラエルが生きることのできた、最も代表的な例を思い出させています。それはマナです。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

 以前学んだように、目に見えない神と私たちはどのようにして交わることができるのでしょうか?いや、目に見える人間との間でさえ人格的な交わりをするのはどうすればよいのでしょうか?言葉に拠ります。私たちの肉体はあくまでも私たちの霊を表現する器であり、その霊は語る言葉と深く関わっています。

 したがって神の言葉に拠り頼むことは、霊的な命を維持させるのに死活的です。ところが私たちは目に見える物質的なものに左右されて、御言葉に拠り頼むことをなかなかしません。けれども、主が天からマナを与えられた時には、その物質的な備えと霊的真理が連動していたので、彼らは主の命令に従わなければ、自分の肉体をも生かすことができないことを学んだのです。

 マナは一日一回だけ、朝に露のように降ります。そしてそれを取り集めるのですが、貪って必要以上に多く集めた者がいました。そのために少なくしか集めることができない者もいました。ところがそれぞれの取ったものを集めると、まったく同じ分量であったのです。そこから、「神は必要のすべてを満たされる方である。けれども私たちの欲は満たすことはない。」という霊的原則を学ぶことがでいます。多すぎることもなく、少なすぎることもないのです。

 そして一日の食べる分量しか与えられません。次の日には、次の日の朝に取り集めなければいけません。けれども、それを信じることなしに、次の日まで取っておいた人がいました。そうしたら虫がわき、悪臭が漂いました。ここから学ぶことは、主は私たちが日々、主に拠り頼むことを願っておられるということです。日々、自分の必要を主に申し上げて、主からの助け、主からの備えを受け取る必要があるようにする、ということです。

 さらに安息日には働いてはいけないので、その日の朝は、マナは降りません。その代わりに、その前日の朝には、二日分のマナを集めることができます。そして安息日になっても、そのマナは腐ることもありませんでした。けれども、仕事を休めることを恐れた人々、あるいはもっと集められると貪欲になっている人々は、安息日の朝も外にでて集めようとしました。けれども、もちろんありません。そこから私たちは、「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」と言われたイエスの言葉を知ることができます。たとえ、人間的には損をすると思われても、それでも主に拠り頼むのです。主は必ず必要なものを加えて与えられます。

 これによって、「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」ということを学ぶことができたのです。イエス様が悪魔から誘惑を受けられた時に、石をパンに変えなさいという言葉を聞いた時に、この御言葉をもって対抗されました。

 私たちが試される時、それは幸せなことです。なぜならその時こそ、はっきりと、目に見える形で主が働かれることを確かめることができます。私がかつていた宣教地では、何人かの信者の救いの証しが、祈りによって奇蹟的に癒されたというものでした。なぜなら、医療技術が発達しておらず、ただ病状が悪化し、ひどければ死ぬのを待つしかないからです。私たち日本は、発達した医療技術があることを主に本当に感謝しなければいけませんが、その一方で、主の御言葉をそのまま信じることによって、目で見える形で変えられるということが少ないという切実な問題があります。未だに、神の御言葉によって生きなければいけないという認識が与えられておらず、その他のものに拠り頼むことができると錯覚していることです。

 私たちは震災からちょうど一年を迎えました。私たち日本が抱えている課題は山積しています。その中で私たちが最も切実に問題だと考えなければいけないのは、先ほど話した「人の窮地は神の契機」ということを体得していないことです。ある伝道者がこのように今の日本を語っておられます。その方は、震災を「第二の敗戦」と呼びました。
 

「第二の敗戦」で何に負けたのかということについて、「戦後の物質主義、物の豊かさを求めるという戦いが『砂上の楼閣』であったということ、成功哲学が人を幸せにするという考え方が破れたのです。そして戦後のエネルギー政策も敗北しました。第一回目の敗戦では、日本が『良き敗者』となることを認め、経済的に復興していく道を歩むことで国を建て上げていきました。しかし『第二の敗戦』においては、まだ『負けた』という感覚が、この国に満ちていません。そのため第一の敗戦よりも第二の敗戦の課題の方がさらに大きいという特徴があります。このまま(敗北を認めず)『頑張ろう日本』という掛け声のもとに、従来の路線を踏襲していくならば、個人的には日本の未来はないと思っています」(christiantoday.co.jp/article/4011.html

 主は、「いつになったら、あなたがたはわたしに立ち返るのか?」と日本の人々に問われているような気がします。

4A 擦り切れない着物
 そしてモーセは、「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」と言いました。主は試みと苦しみを与えられている中で、やみくもに苦しませているだけなのでしょうか?いいえ、むしろその反対です。その苦しみの中で主の真実と慈しみを知っていく過程でありました。考えてみてください、振り返ったら四十年の間、着物がすりきれていなかったのです。足も腫れていない、つまり履物も悪くなっていませんでした。

 私たちは苦しみの渦中にいる時は、多くの損害を受けていると思っていますが、振り返ってみると、何ら損害を受けていないことに気づきます。失われたものが補われているのを見ます。壊されたものは、いつの間にか直されているのをみます。そして自分は倒れていると思っていたところが、実はずっと立っていたことに気づきます。主の真実と慈しみは変わることがないのです。

 結婚するカップルが誓約の時に牧師が尋ねる言葉を思い出してみましょう。「良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い・・・」と言いますね。良き時だけでなく悪い時も、いや悪い時にこそ愛の真価が試されます。富んでいる時ではなく貧しい時に、真実な愛であるかが明らかにされます。健やかな時よりも病んでいる時にその夫婦の真実な愛が表れます。なおさらのこと、神と人との関係はそうなのです。

 「苦しみを与える神は理解できない」などと、安価な問いかけをするのをやめてしまいましょう。「苦しみにこそ、主の真実を知ることのできる貴重な機会なのだ」ということを知りましょう。

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