1A 新しいもの 1
1B 無益な労苦 1−3
2B いつまでも変わらない地 4−11
2B 知恵の追求 12−18
2A 快楽 2
1B 事業 1−11
2B 偉業 12−23
3B 飲み食い 24−26
3A 定められた時 3
1B すべての営み 1−8
2B 永遠への思い 9−15
3B 人間の不正 16−22
4A 孤独 4
1B 虐げ 1−3
2B 仕事の成功 4−12
3B 先頭に立つ若者 13−16
本文
伝道者の書1章を開いてください。今日は1章から4章までを学びたいと思います。今日のメッセージ題は「空の空」です。
「伝道者の書」は、箴言に引き続いてソロモン王が書き記したものです。この書物を読むときに必要な知識があります。ソロモンが辿った道、彼の人生について知る必要があります。
彼は、若くして王になりました。そして主に何が欲しいかと尋ねられ、人々をきちんとさばくことができるように知恵を与えて欲しいと願いました。主はその願いを聞いてくださり、それに加えて富と名声をお与えになりました。
彼の知恵は海のように広くなりました。また彼の財宝は金を石ころのように使っていたほどになりました。周囲の国々を治め、その国は強大になりました。けれども、周囲の国々と平和を保つために、その国々の王の娘など、多くの妻を持ちました。そして彼は心が転じて、その女たちが持ち込んできた偶像を拝むようになりました。
ソロモンの生涯は、一言で言い表すなら「世の思い煩い」です。彼は主を愛していました。本当に愛していました。けれども、いつの間にか、彼自身気づかないうちに、富や権力、女など、この世の思い煩いが心に入り込んできて、最後まで信仰の競争を走ることができませんでした。四つの種類の土のたとえの、いばらの生えた土に落ちた種のように、良い実を結ばせることができませんでした。
私たちにも身に覚えがあると思います。「主を愛していますか?」と聞かれれば、もちろん「愛しています。」と答えます。けれども、いつの間にか信仰生活に疲れが生じてきたり、虚無感が襲ってきたり、初めに信じた時の喜びがどこかに行ってしまったような状態になったことはありませんか?その原因は、世を見続けたからです。この地上で起こっていることをじっくりと見続けたために、その不条理と皮肉をいっぱい身に受けてしまったからです。
伝道者の書は、そのような状態になったソロモンが書いたものです。おそらく彼の生涯の晩年に書いたものでしょう。彼は、知恵が与えられました。それで世で起こっていることをじっくりと見ました。けれどもいつの間にか、上から与えられた知恵であることを忘れ、上を見上げることを忘れました。そのために、世には空しさしかない、という結論に達し、それ以上を見ることはありませんでした。伝道者の書は、そのようなソロモンの苦しみと痛みを吐露した内容になっています。
1A 新しいもの 1
1B 無益な労苦 1−3
1:1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
「伝道者」と言っても、いのちの道を伝えるのではありません。むしろ、この世のすべてを調べつくした後に出た結論を述べています。
1:2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
単なる「空」ではなく、「空の空」です。一時的に感じる虚無感以上の空しさです。この世に何か生きる意味があるのではないかと思い、求め、捜し続けた結果、そこには何も無い、という空しさです。何かを達成したかに見えたとしても、やはり何も残っていないという空しさです。この究極の空しさについて、ソロモンは伝道者の書全体に、具体例を挙げて述べています。
そして、ここに「日の下」という言葉があります。これが伝道者の書を理解するための鍵です。彼が導き出す結論は、日の下にあること、この地上で起こっていることだけを見た結果として、与えられたものです。したがって、彼は上にあるもの、天にあるものを見ていません。
この世にある事柄であれば、もちろんソロモンが言っているようにすべては空しいです。けれども、いや、だからこそ、私たちは天に望みをおいているのです。コロサイ書3章1節から3節までを読んでみましょう。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」天には神がおられ、その右にキリストがおられ、そしていのちが、キリストと共に神のうちに隠されています。
2B いつまでも変わらない地 4−11
1:4 一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。1:5 日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。1:6 風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。1:7 川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
ソロモンは実に、観察力がすぐれています。科学者ぐらいの知識はあったのでしょう。水の循環について学校での理科の授業を思い出してください。山で降った雨が小川となって、それが川となり海に流れ出ます。そこで水が蒸発して空気中で雲となります。そして雲からまた雨が降る、という循環です。ですから、「雨が降った」「風が吹いた」と思っても、移り変わっているだけで、実質的には何ら変わりない、ということです。
実際にこれは今の自然界だけを見ればそうです。けれども、上を見上げればそうではありません。万物はそのままの状態でずっといるのではなく、崩れ去る時が来ます。そして神は新しい天と地をお造りになられます(2ペテロ3:12‐13)。
1:8 すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。
「ああ、これでいいのだ。満足した。」と言う事ができない、ということです。もっと、もっと、何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとします。けれども、すべての事はものういですから、満足することはできないのです。
1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。1:10 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
科学技術が発展して、あたかも自分たちが新しい時代、新しい考えを切り開いているかのような錯覚をしています。けれども、その中身をよく見ると、昔考え出した方法と大した差はないのです。例えば、不妊治療。アブラハムがハガルを通して、サラに子を与えました。
また新しい技術が発達したと言っても、やっていることは昔と変わらないのが現状です。むしろ退化していることもありますね。コンピューターやインターネットのおかげで、文章を書くときや通信手段が便利になりましたが、文章を書く本人が漢字が書けなくなったり、また通信が便利になったためにかえって、必要もないことも書いてかえって時間を失ったり、という具合です。
技術だけでなく流行も同じことが言えます。新しいファッションは、実は昔あったものと同じことが多いです。またキリスト教の中で吹く流行は、新しいものであるかのように宣伝されますが、すでに以前あったものばかりです。アメリカで一番大きい教会の牧師は、肯定的な考え方をすることについての本を書いていますが、ちょっと前に積極的思考についての本が流行りましたね。
けれども、これもまた日の下にあるものだけに言える事柄です。私たちは、「身よ。これは新しい。」と本当に、心から言えるものはあります。そうです、新しい霊の誕生です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」万物も新しく造りかえられますが、その前に御霊の初穂である私たちが、新しく造られました。
1:11 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
例えば、1894年の日本の首相の名前を言ってください、と聞かれたら、答えられるでしょうか?研究者でもないかぎり、誰も覚えていませんね。私たちが今話題にしていること、注目していることも、少し時間が過ぎれば、その後の時代の人には何も思い出してもらえないのです。
2B 知恵の追求 12−18
1:12 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。1:13 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。1:14 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
列王記第一4章によりますと、ソロモンの知恵は世界のあらゆる人々の知恵にまさっていた、とあります。当時すぐれていたと言われる東の人々の知恵、また超大国エジプトの知恵よりもまさっていました。今で言うならば、アメリカの科学界よりもすぐれている、みたいなものでしょう。そして彼が知っている分野は人生論である箴言、詩歌、そして植物学、動物学にまで及びました。百科事典が書けるほどでした。
その結果彼が得た結論は、「すべてがむなしい」でした。ここで彼は、知恵を探ることが「神が与えたつらい仕事だ」と言っています。ここに霊の知恵と肉の知恵の違いがあります。御霊の賜物による知恵には、命があります。人を疲れさせるのではなく、生かします。
1:15 曲がっているものを、まっすぐにはできない。なくなっているものを、数えることはできない。
これを言い換えると、「救いようがない」ということです。罪によって壊されてしまった人間像は、回復させることはできない、ということです。かつてギリシヤ哲学もそうでした。グノーシス主義は、肉体は本質的に悪でありそれ以上修復することはできない、という考えがあったので、神の御子であられるキリストが肉体を宿しておられたとは信じなかったのです。
私たちもともすると、このように考えるのではないでしょうか。クリスチャンになっても、自分の性格は変えられない。環境によってこのようになってしまったのだ。ホモの人は遺伝的な病気なのだから、変わることはできないのだ、など。
けれども、変わることができるのです。曲がっているものをまっすぐにすることはできるのです。それが、イエス・キリストの十字架の言葉です。福音です。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(1コリント2:18)」私の父母を見たとき、私は本当にこの二人は私の両親なのか、と疑うぐらい顔の表情が変わっていました。私は、ホモだったのに、ある説教者から御言葉を聞いて、同性愛から解放された人を知っています。
この世においては、そうです、曲がっているものはまっすぐにできません。もうなくなったものは、数えるこことはできません。けれども、キリストにあって救いはあるのです。
1:16 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」1:17 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。
天才や知識人に、このようになる人が多いですね。近代文学の巨匠で、自殺しなかった人を探すほうが難しいです。ソロモンのように上を見ることなく、日の下にあることばかりを見てしまったからでしょう。一般の人々には気づかないこと、先のことまでずっと見えてしまうので、それだけ絶望することも多いのです。
だからここでソロモンは、知恵と知識の次に、狂気と愚かさを加えています。この世の知恵は、狂気と愚かさに私たちを導きます。
2A 快楽 2
1B 事業 1−11
2:1 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。
自分の心を満たすために、人々はいろいろなことを試しますが、一つは学問でしょう。ソロモンのように知識と知恵を追求します。また他に心を満たそうとする試みとして、快楽があります。ソロモンは、単に自堕落になったのではなく、知恵を追求しても満たされることがなかったので、今度、快楽に自分の身を任せたらどうなるかを試してみたのです。
2:2 笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。
パーティーや宴会でばか騒ぎをしたときに、どうでしょうか?心が満たされますか?満たされませんね。テレビのバラエティー番組を見ていると、いかに作り笑いをしているのかに気づきます。
2:3 私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。
心と体の分離です。御霊から来る知恵は、私たちの体をも制御します。けれども、知識のある人々にありがちな行動は、高尚な学問や芸術を追求しながら、酒びたりになったり女と遊んだりします。知恵や知識の追求から来る痛みや悲しみを和らげようとして、あえて愚かな行動に出ます。
2:4 私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、2:5 庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。2:6 木の茂った森を潤すために池も造った。
いわゆる豪邸生活を楽しむためです。
2:7 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
ソロモンの一日の食事に、肥えた牛十頭、放牧の牛二十頭、羊百頭の家畜が使われていることが書かれています。一日の食料
2:8 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
女にも手を出しました。覚えていますね、妻が700人いましたがその他に側女を300人迎え入れました。そのために彼の心は転じた、と列王記第一11章に書いています。
2:9 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。2:10 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
心のおもむくままに、です。私たちはいくら心のおもむくままにやりたくても、金銭的な制約があるし、社会的な制約、法的な制約があるでしょう。けれども、第一の権力者であったソロモンにはありません。何でもやってみました。
そして、それは数々の事業を手かげた報いであると彼は言っています。そうですね、この世の事業家は、ただならぬ苦労をしています。ものすごく働いています。それに見合った報いとして、多くの人は豪勢な生活をしています。
2:11 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
次から、自分が手かげた業績が今後どのようになっていくかを直視して、いかに事業も空しいことかを語り始めます。
2B 偉業 12−23
2:12 私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。
後でソロモンが詳しく説明しますが、自分が偉業を成し遂げても、自分の後を継ぐ子たちがそれらを台無しにしてしまうのではないか、という憂いです。
2:13 私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。2:14 知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。2:15 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。
確かに知恵のある者が、愚かな者にまさって生きています。良い生活をしています。けれども、結局どちらも死ぬのだ。同じ運命を辿るのだ、ということです。これでは知恵を尽くして良い生活をしたところで意味がないではないか、ということです。
2:16 事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。
死ねば、人はその死んだ人のことを忘れていきます。
2:17 私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべては空しく、風を追うようなものだから。
生きていることを憎んでいるのは、生きている意味が見出さされないからです。死というものによって、すべてが無にされてしまいます。
2:18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。2:19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
ソロモンの息子はレハブアムです。彼が賢くソロモンが残した遺産や偉業を用いていくことができるかわかりません。せめて自分が死んだ後に、自分の労苦が報われればよいのだが、と考えますが、それも保証されていません。
2:20 私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。2:21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
次の世代の人たちは、何も苦労して得たものではないので、遺産や偉業を無駄に使います。このことを思うと、いったい自分は何で苦労したのか、と落胆します。
このことも、キリストにある命を持っている人にとっては、問題ありません。すべて主に対して行なったことは、天において主が報いてくださいます。天における宝は、腐ることも、朽ちることも、盗まれることもありません。
2:22 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。2:23 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。
これがこの世だけを生きてきた人の行き着くところです。御霊にしたがって生きれば、そこには満たしと栄光がありますが、肉にしたがって生きる人には空しさと葛藤だけが残ります。
3B 飲み食い 24−26
2:24 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。2:25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
ここは「神」ではなく「わたし」が元々です。遺産を残しても、他の人に無駄に使われるだけですが、食べる楽しみは自分が食べるのですから、自分から離れることはありません。
2:26 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
ソロモンは今、自分がみこころにかなっていないことを知っているのでしょうか?ここに書かれていることは箴言にもあり、事実です。この世の富は、神の国が建てられる時に、正しい者にすべて任されます。悪者が築いた資産は、みな正しい人たちの管轄下に入ります。
ソロモンは、みこころにかなう人ではなく罪人と自分をみなしているので、自分の仕事が空しい、と言っているのかもしれません。晩年のソロモンは、救いの確信も失われてしまった悲しい状態です。
3A 定められた時 3
ここまでが、ソロモンが1章4節で話した、「一つの時代は去り、次の時代が来る」の部分でした。次は1節にある、「定まった時がある」ことについての話です。
1B すべての営み 1−8
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
すべての営みには、移り変わりがあります。先の二章分で学んだとおり、物事は新しく造られ、いつまでも残っているのではなく、移り変わり、また繰り返されます。けれども、その変化や移動は、すべて神によって定められた時がある、というのが、ここでソロモンが言いたいことです。
2B 永遠への思い 9−15
3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
先ほどソロモンは、他の人が無駄に自分の偉業を使い果たしてしまうので、労苦は無益であると論じましたが、ここでは理由が違います。神が定められた時があり、それを自分たちの働きかけによって変えることはできない、ということです。
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
ソロモンは、物事が移り変わっていくさまを見て、その変化のタイミング、時期を見て、それが美しいことに気づきました。主が何かをされる時、それは時宜にかなっています。その時間のデザインは美しいです。
そしてソロモンは、人の他の生き物との違いを述べています。「神は、人の心に永遠への思いを与えられた。」という部分です。人間は単なる物質であり、他の動物と同じように生理的機能しか持ち合わせていない、と考える人たちが、まともに人間らしい生き方をすることができるでしょうか?物事はすべて物質であると考える共産主義の国では、人間として当たり前として持っている良心や人格が歪められています。
人間には動物と違い、生理的機能だけでなく、霊的機能を持っています。死んだ後どうなるのだろうか、という疑問を誰もが持っています。そして、今、自分がなぜ生きているのだろうか、という意味探しをしています。これは人間が神のかたちに造られたからであり、神の息を吹き込まれた霊の存在だからです。
けれども、神への信仰が後退してしまったソロモンは、神への想いも非常に悲観的、厭世的になっています。「しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」と言っています。今、目の前にあることは、神が何かをされていることを認めることはでき、また永遠への思いを神が置いてくださっているのだが、その永遠の計画の全貌を見させてもらうことはできない、ということです。永遠があると教えてくださっているのに、それを教えてくださらない。その葛藤、フラストレーションを述べています。
けれども、神は私たちに、ご自分のことを明らかにしてくださいました。特に新約時代に入って、神はご自分のうちに秘められていた計画を、使徒たちを通して御霊によって明らかにしてくださいました。私たちは今、初めはどうなっていたのか、そして終わりはどうなるのか。その終わりに向かって、神はどのようにご自分の計画を実行されるのか、について明らかにしてくださっています。ちょうど、映画のネタばれを読んでから映画を観るように、私たちは何が起こるか分かりながら、今を生きることが許されているのです。
けれども、日の下で起こっていることだけを追い求めたソロモンは、ついにそうした上からの啓示、永遠の神の御霊による触発を受けることはなくなってしまいました。ですから、結論はこうなります。
3:12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。3:13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
確かに主イエス様は、一日の労苦は一日だけで十分である、と言われました。一日を楽しみ、そして与えられた食事を楽しむことは大事です。けれども、もしこれだけだったらどうなるでしょうか?コリントにある教会の人たちがこの哲学を受け入れました。使徒パウロがこう言っています。「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。(1コリント15:32b-34a)」今しかないのだから、今を楽しもう、ということで罪の生活を送っているコリントの人々を戒めました。
そしてこの箇所はパウロが、死者の復活について述べている時に言った言葉です。人間は死で終わるのではない。死者からの復活がある。だから永遠の命の希望がある、ということです。もしこれを否定したのなら、今しか楽しめない、ということになります。ソロモンが初めと終わりは知ることはできないと決め付けたために、今の楽しみしかないと考えたのでした。
3:14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。
人間がいかに労苦して、一つの偉業を成し遂げようとしても、それは徒労に終わる。それは、神は永遠の計画を持っておられ、それを人間が付け足すことも取り去ることもできないのだ、ということです。だから、すべてを決め、定めておられる神を恐れなければいけない、と言っています。
ソロモンは、信仰的に後退していましたが、この部分だけの信仰は保っていたようです。自分で何かをしようとしてもそれは空しいだけだ。神がすべての営みを支配しておられる、という信仰です。
3:15 今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。
これが永遠についての良い定義です。永遠というのは、時間がずっと続く以上のことです。時間の制約を超えたところにあるものです。二千年前の出来事と、今現在の出来事と、二千年後の出来事を同時に、一つの時点で眺めることができる領域です。だから、現在は過去なのです。また未来も過去なのです。はるか前にあったものを、今、実行されているにしか過ぎません。
3B 人間の不正 16−22
3:16 さらに私は日の下で、さばきの場に不正があり、正義の場に不正があるのを見た。3:17 私は心の中で言った。「神は正しい人も悪者もさばく。そこでは、すべての営みと、すべてのわざには、時があるからだ。」
ソロモンは、人間の不条理についても、神に拠り頼んでいました。裁判と称しながらその裁判の中で不正があるという不条理を見て、けれども神がすべて裁かれる、と信じていました。今は、何も起こっているように思えないが、神は裁く時を定めておられます。
3:18 私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。」
裁判の中にさえ不正を持ち込む人間を見て、ソロモンはこれでは人間は獣と同じだと結論づけました。
3:19 人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。
このソロモンの言葉は、進化論の人たちが言っていることですね。人間は進化した動物にしか過ぎない、と彼らは言います。霊的に死んでいる人には、人間に肉体と本能しか認めることができません。霊があることを認められません。だから動物と同じように生きても構わないと考えるのです。
3:20 みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。
確かに、人の体は土の要素と同じものを持っています。そして人間が死んだらちりに帰ります。動物も同じです。けれども、人には死と、死んだ後にさばきが定められている(ヘブル9:27参照)という死後の世界を、ソロモンは見ていません。
3:21 だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。
これは、人が希望的観測で、人が天国に行くと言うことを否定している発言です。誰か家族の人が死に、「今、天国にいるんだよ。」と、何の確証もないのに話しますね。それを知っているのか、とソロモンは論じているのです。
3:22 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。
これはもちろん、先ほど話したとおり、神が人にこれから後に起こることを見せてくださっています。けれどもこれが分からなければ、今の仕事を楽しむほか、良いことはありません。ああ、なんと空しい生活でしょうか!
4A 孤独 4
4章は、人の孤独の問題について語られています。
1B 虐げ 1−3
4:1 私は再び、日の下で行なわれるいっさいのしいたげを見た。見よ、しいたげられている者の涙を。彼らには慰める者がいない。しいたげる者が権力をふるう。しかし、彼らには慰める者がいない。
箴言において、虐げられている者には神がついておられる、という教えがありました。けれどもその信仰がなければ、虐げられている人は非常に孤独です。本当に同じ立場になって、その涙を共有してくれる人はまれです。
人間は交わりを持つために造られました。神ご自身が三位一体という、交わりを持っておられる神です。神のかたちに造られた人間は、神との交わり、そして互いの交わりを必要としています。けれどももしそれがなかったら、人間はおかしくなります。孤独というのは、人間にとって死に等しいです。そこでソロモンは次のように論じます。
4:2 私は、まだいのちがあって生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。4:3 また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行なわれる悪いわざを見なかった者だ。
生きているより死んだほうがよい、いやもともと生まれていないほうが良かった、と絶望的になるのです。
2B 仕事の成功 4−12
孤独は虐げだけではなく、仕事の成功の中にも見られます。
4:4 私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
すばらしい業績を残した人がいても、それは人との競争、ねたみによってであることが分かると、本当にむなしくなります。競争だけでなく、例えば裁判において、真実を追究するのではなく、合法的な復讐だと考えている原告の人を見ると、空しくなります。せっかく一生懸命しているのに、その動機が悪いのです。
4:5 愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。4:6 片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。
愚か者は自分の体を蝕むほどに貧しくなります。けれども、そのような愚か者のほうが、ねたみによって仕事を成功させる人より、まだましだ、ということです。
4:7 私は再び、日の下にむなしさのあるのを見た。4:8 ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。そして、「私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか。」とも言わない。これもまた、むなしく、つらい仕事だ。
仕事のために家族も顧みず、友人も顧みない人がいますね。そして自分を孤独にしています。そしてソロモンは二人がいることの大切さを教えています。
4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。4:11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。
興味深いことに、二人の話をしているときに三つの撚り糸と言っているところです。二人がいるところには、二人がもたれあうのではなく、そこに新たな一本が生まれます。希望という一本、信念という一本、支柱となる一本ができます。そこに二人が絡まり合うことによって強くなることができるのです。
私たちにはイエス・キリストがいます。この方を一本にして、二人が助け合えば私たちは強くなることができます。信仰者の結婚生活の奥義です。
3B 先頭に立つ若者 13−16
4:13 貧しくても知恵のある若者は、もう忠言を受けつけない年とった愚かな王にまさる。4:14 たとい、彼が牢獄から出て来て王になったにしても、たとい、彼が王国で貧しく生まれた者であったにしても。
箴言の中で、知恵を得ることの大切さが書かれていましたが、ここでも同じです。知恵は歳や経済的な環境を超越して、その人を引き上げることができます。
4:15 私は、日の下に生息するすべての生きものが、王に代わって立つ後継の若者の側につくのを見た。4:16 すべての民には果てしがない。彼が今あるすべての民の先頭に立っても、これから後の者たちは、彼を喜ばないであろう。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
民衆というのは、実に勝手なものです。カリスマ的な指導者が現れれることを望みますが、たとえ現われても不満足なのです。
ここの話は、孤独の話につながっています。知恵をもったカリスマ的な若者は孤独です。自分で判断して、自分で行動していかなければいけません。その中で彼が頼れるのは民衆だけなのに、その民衆は彼を裏切ります。
では来週、続きを学びます。この世で人々が満足を得るために追求するものについて、ソロモンは続けて論じます。