伝道者の書5−8章 「見極められない御業」

アウトライン

1A 満足しない心 5
   1B 言葉多き宗教 1−7
   2B 金銭への愛 8−20
2A 心のあこがれ 6
   1B 無駄になる富 1−9
   2B 既に付けられた名 10−12
3A 善の追求 7
   1B 無駄な期待 1−14
   2B 適当な世渡り 15−22
   3B 複雑な人間 23−29
4A 人による人の支配 8
   1B 王の命令 1−5
   2B 報われない正しい人 6−17

本文

 伝道者の書5章を開いてください。今日は5章から8章までを学びます。ここでのテーマは、「見極められない御業」です。ソロモンが、どんなに知恵を尽くしても、世で起こっていることの意味を見出すことができない葛藤を、先週に続けて読むことになります。

 前回学びましたが、ソロモンの問題は、主との生きた関係を深めないまま、この世で起こっていることを探求しすぎたことにあります。伝道者の最後で、「多くの本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。(12:12」と言っています。クリスチャンにとって、主との関係を保つことの一つの警告、反面教師になっています。

 そしてソロモンの探求は、まさにこの世の人が人生の意味を見出そうとして追求しているものと同じです。学問による追求、宴会騒ぎなどの快楽、事業、仕事などをソロモンは全て試しました。けれども、すべては空しいことに気づきました。

1A 満足しない心 5
 今日は、「宗教」から始まります。宗教と聞けば、一般に、キリスト教もその一つとして数えるでしょう。けれども、キリスト教はいわゆる宗教ではありません。宗教は、人間が神に到達するために努力する教理と実践の体系です。けれどもそこには無理があります。有限である人間が、無限の神に到達することはできません。

 けれどもキリスト教は、無限の神が有限の人間に到達してくださった事実を教えています。神であられる方が、その身分に固執されずに人間の姿を取られました。いわゆる宗教としてのキリスト教はあります。けれども、教会に通いながらも、なおキリストにある神との生きた関係を持っていない人たちもたくさんいます。そして、そのような宗教は、他の世にある事柄と同様に人を空しくさせるだけです。

 ソロモンは次から、いわゆる宗教にありがちな過ちについて語ります。

1B 言葉多き宗教 1−7
5:1 神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ。

 多くの人は、教会に通うのを一つの習慣のようにしています。そして教会で行なわれる儀式に自分も参加して、その時間をいわば神にささげます。けれどもソロモンはそのような、何も考えずに教会に通うことを戒めています。「自分の足に気をつけよ」と言っています。

 宗教的なことは行なっているのに、自分の悪を正さないのであれば、それは神をないがしろにすることです。大事なのはここにあるように、「近寄って聞く」ことです。主が自分に何を語っておられるかに、耳を傾けることです。いけにえだけを捧げて、主の命令と正反対のことをしたサウルに対して預言者サムエルは、「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。(1サムエル15:22」と言いました。

5:2 神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。5:3 仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。

 私たちが神に対して熱心になると、言葉数が多くなります。主への賛美、感謝、また主の前での決意など、「アーメン」などと言っていろいろ声を出します。けれどもソロモンは、「軽々しく、心あせってことばを出すな。」と戒めています。表面的には熱心で、すばらしいクリスチャンのように見えても、もしよく考えないで言ったことであれば、単なる言葉だけの空しい掛け声にしか過ぎません。

 そして、そのような宗教的な活動は私たちを疲れさせます。仕事が多くなると、心配事が多くなり夢を見ることも多くなりぐっすりと眠れなくなるのと同じように、人に安息を与えるはずの宗教が必要以上の熱心さによって、自分を疲れさせます。

5:4 神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。5:5 誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい。

 宗教的に熱心になると、「私たちはこれこれを信じます!」「私たちは、これこれを行ないます!」という決意表明がたくさん出てきます。けれども、もし本当にそれを行なわなかったら、それは愚かであり、神を喜ばせることになりません。また、熱心なのに実際が伴わないなら、むしろ何も活動をしないほうがいい、ということをソロモンは言っています。

5:6 あなたの口が、あなたに罪を犯させないようにせよ。使者の前で「あれは過失だ。」と言ってはならない。神が、あなたの言うことを聞いて怒り、あなたの手のわざを滅ぼしてもよいだろうか。

 口で言っていることを行なっていないなら、神の怒りを招きます。

5:7 夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。

 ソロモンはここで、神にある希望を「」と言い表しています。そして、いわゆる信仰を表明する言葉を「むなしいことば」と言っています。これが、教会から離れてしまった人が見るような見方です。教会で起こっていることを斜めにしか観ることができません。冷淡で、冷笑的になっています。実質のともなった希望と、信仰の言葉を、むなしい言葉としか受け止めることができません。宗教に関しては、ただ神を恐れること、つまり「無言実行」で行きなさい、という考えです。

2B 金銭への愛 8−20
5:8 ある州で、貧しい者がしいたげられ、権利と正義がかすめられるのを見ても、そのことに驚いてはならない。その上役には、それを見張るもうひとりの上役がおり、彼らよりももっと高い者たちもいる。5:9 何にもまして、国の利益は農地を耕させる王である。

 ここから再び、富について話します。国の中で、役人が貧民を搾取して私腹を肥やすことがあっても、その役人の上にも役人がいるのでそのような役人は罰せられる、ということです。

 そして王の資質は、しっかりと土地を豊かにさせる、土地を農民が耕すことができるようにするところにかかっています。箴言にもありましたが、周りの賞賛や、おいしい話や、権力の拡大などに力や時間を費やしても、それは無くなるかもしれません。けれども自分の羊をしっかり守れば、決してそれは裏切られることはない、ということです(箴言27:2327参照)。

5:10 金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。

 多くの人が心の満足を金銭に求めます。けれども現実はその反対です。金銭を愛すると、いつまでも心が満たされません。もっと、もっと欲しいと願うようになります。

5:11 財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。

 自分が苦労して財産を積んでも、何も働かずに、ただ食べて暮らす者たちが増えるだけです。

5:12 働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる。

 いつ自分の財産が誰かに奪われるのではないか、失ってしまうのではないか、と思って不安のために眠ることができません。

5:13 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。5:14 その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。

 これはちょうど、ヨブに起こった災いのことを話しています。たとえ多くの財産を持っていても、盗賊に盗まれたり、天災によって失ったりして、子供に何も残すものがない状態です。

5:15 母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。5:16 これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。

 ヨブが似たようなことを言いました。しかしソロモンとは反対の反応をしています。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ1:21

 ソロモンは痛ましいことだ、と言っていますが、ヨブは、主の御名はほむべきかな、と言いました。ソロモンは、今、目に見えるものに焦点を合わせているので空しさを感じていますが、ヨブは主ご自身の主権に目を向けているので、賛美が出ています。

 私たちも、主にあって行なったことなのに、それがある出来事にとって一切なくなってしまった、ということが起こるかもしれません。その時、二つの反応ができます。一つはソロモンのように空しくなること。もう一つは、主がそのことをお許しになられているので、任せて、自分は主ご自身の中に休むことです。

5:17 しかも、人は一生、やみの中で食事をする。多くの苦痛、病気、そして怒り。

 金持ちの家に、苦痛、病気、怒りが絶えない、ということです。

5:18 見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。5:19 実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。5:20 こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。

 これが、ソロモンが何度も繰り返している、人生の哲学です。確かに、これは一理あるでしょう。一日の労苦は一日にして足れり、と教えられた主の御言葉とも合致しています。けれども、もしただこれだけが楽しみであれば、私たち人間が持っている、永遠への思いは決して満たされることはありません。もしソロモンが正しければ、ちょうど、サラリーマンが仕事帰りに屋台でおでんとお酒を飲んでいるのが人生の最大の喜び、ということになります。

 けれども彼が言ったように、動物とは違い人間には永遠への思いが与えられているのです。自分は何のために生きているのか、それを知りたいと願っているのです。けれどもそれは見極めることはできない、という立場をソロモンは取っています。永遠への思いは与えられているけれども、それを私たちが知るようにされていないのだ、というのがソロモンの立場です。

2A 心のあこがれ 6
 それでは続けて、ソロモンの人生哲学を読んでいきましょう。

1B 無駄になる富 1−9
6:1 私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。6:2 神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神は、この人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ。

 財産を蓄積するだけのむなしさです。自分はけちな生活をして、その莫大な財産が結局、まったく知らない人々によって費やされるという空しさです。ちょうど、自分の土地と不動産が差し押さえになり、競売にかけられる状態です。あるいは、革命が起こって資産家の財産が没収されて、国有のものとなってしまうような状態です。

6:3 もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。6:4 その子はむなしく生まれて来て、やみの中に去り、その名はやみの中に消される。6:5 太陽も見ず、何も知らずに。しかし、この子のほうが彼よりは安らかである。

 生きてきたのに、その生きている意味が見出せないのなら、生まれてこなかったほうがましだ、という立場です。ヨブも全ての財産を失い、自分の体まで病んでしまった後、自分の生まれた日を呪いましたね。

6:6 彼が千年の倍も生きても、・・しあわせな目に会わなければ、・・両者とも同じ所に行くのではないか。

 そうですね、寿命がいくら長くても、その命に幸せが見出せなければ全く意味がありません。命はその長さではなく質だからです。

6:7 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。

 人はみな食うために働いているのだ、ということです。けれども、食欲は満たされません。終わりなき労働、という意味です。

6:8 知恵ある者は、愚かな者より何がまさっていよう。人々の前での生き方を知っている貧しい人も、何がまさっていよう。6:9 目が見るところは、心があこがれることにまさる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。

 この世の中で現実的に生きよう、今、見えているものに満足しよう。今、自分のところにあるものを見つめよう、という勧めです。心の中で描く、あらゆる期待、夢、理想、そのようなものを求めれば必ず裏切られる、ということです。ソロモン自身も認めているとおり、相当むなしい生活ですね。

2B 既に付けられた名 10−12
6:10 今あるものは、何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている。彼は彼よりも力のある者と争うことはできない。6:11 多く語れば、それだけむなしさを増す。それは、人にとって何の益になるだろう。6:12 だれが知ろうか。影のように過ごすむなしいつかのまの人生で、何が人のために善であるかを。だれが人に告げることができようか。彼の後に、日の下で何が起こるかを。

 ここの箇所から、また新たな話題に移っています。宗教をやっても熱心になりすぎてはいけない、富も、日々与えられた食事で満足せよ。今あるもので満足し、上手に日々を生きなさい、ということですが、今度ソロモンが追求するのは、「善」です。この世で良い、正しいと呼ばれているものを求めることについての空しさです。

 この社会を良くしよう、善を求めようととしても、すでに名が付けられている、つまり全てが定まっている、ということです。自分がいくら訴えても、どんなに発言しても何も前進することはない、ということです。そしてたとえ何かを勝ち得たとしても、それが本当に善であったかをどうやって知ることができるか?ということです。

 例えば、裁判の場で真実を求めて、闘っている人たちがいます。多くの場合、勝訴することはできず、大きな権力の前で泣き寝入りします。仮に勝訴したところで、その過程であまりにも多くの犠牲があり、本当にこれで良かったのだろうか?という虚しさがあります。このような善を求めることに対する空しさを、ソロモンはこれから述べます。

3A 善の追求 7
1B 無駄な期待 1−14
7:1 良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。7:2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。

 生きていて何かを成し遂げようとする心、それを打ち砕くのが葬式の場です。人は死ねば、成果を挙げた人もそうでない人も同じ状態になります。この場面を見れば、人は何をしても変わることがないという現実を見つめることができる、とソロモンは言いたいわけです。

7:3 悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。7:4 知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。7:5 知恵ある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。7:6 愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい。

 心の空しさの現実を隠すかのように、笑いや楽しみでごまかそうとするのは愚かだ、ということです。

7:7 しいたげは知恵ある者を愚かにし、まいないは心を滅ぼす。

 しばしば試練によって、知恵を持っている者は自暴自棄になります。また、賄賂も人の心を滅ぼすきっかけとなります。

7:8 事の終わりは、その初めにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。7:9 軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。

 とにかく、これから何かをしようという、何かを作り出そうとする気力は無駄に終わる、ということです。初めて何かをするよりも、それが何にも役に立たないことを知る終わりのほうがまさっているし、自分で何かできると思うより、何もできないと我慢するほうがまさっているし、何かできなくて心をいらだたせるのは愚かだ、と言っているのです。

7:10 「どうして、昔のほうが今より良かったのか。」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。

 これは、今起こっていることは昔起こっていることであり、昔起こったことが今も起こる、世のものは何も変わりない、というソロモンの哲学に反することです。実際に、聖書を読んで、今、新たに始まったと思われる罪や悪は、実は聖書が書かれた時代から行なわれていることに気づきます。昔のほうが良かったというのは間違っています。

7:11 資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。7:12 知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。

 物事は逆境ばかりではない、ということです。何かを成し遂げようとしたら駄目になるが、物事が上手く運ぶときもあります。そして結論を述べます。

7:13 神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。7:14 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。

 自分が何かをして、その結果が出ることを思いとどませるために、神は逆境を与える。そして、自分が何もしていなくても物事が上手く運んでいるところで、これまた先がどうなるかわからないように神はさせている、ということをソロモンは言っています。

 だから今、自分が受けている経験が逆境のものであれば、自分が行き過ぎたことをしたと反省し、上手く言っていれば、「これは幸運だ。」と喜んでいればよい、ということです。

2B 適当な世渡り 15−22
 ソロモンの哲学はさらに、世的になっていきます。

7:15 私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。7:16 あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。7:17 悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。7:18 一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。

 いわゆる「上手に世渡りしなさい」ということです。ド派手に悪いことをすることもなく、また善を熱心に行なうこともなく、これもあれも、適当に行なっていれば、義人が滅び、悪者が長生きをするという痛みを味わなくても済む、ということです。

 けれども彼のような考えでは、誰も福音に触れることができません。パウロは恵みの福音の使徒になりましたが、彼が行なった迫害、そして回心後に受けた迫害、これらはソロモンに言わせるとすべて不条理で無意味なこと、ということになります。

7:19 知恵は町の十人の権力者よりも知恵者を力づける。7:20 この地上には、善を行ない、罪を犯さない正しい人はひとりもいないから。

 この世を上手に生きていくことのほうが、権力を持つよりも幸せだよということです。

7:21 人の語ることばにいちいち心を留めてはならない。あなたのしもべがあなたをのろうのを聞かないためだ。7:22 あなた自身も他人を何度ものろったことを知っているからだ。

 もう一つ、この世を上手に渡り歩くためには、人の言っている言葉をいちいち気にしない、ということです。呪う、つまり責めたり、批判したり、非難したりする理由は、自分の良心が責めたり弁明していたりするに他なりません(ローマ2:15参照)。人は正しくなれるという、かすかな望みを抱いているからこそ、不満が出てくる、ということです。

3B 複雑な人間 23−29
 そしてソロモンは自分がこれまで、物事の善悪を判断するために、自分がいろいろな努力をしたことを述べます。

7:23 私は、これらのいっさいを知恵によって試み、そして言った。「私は知恵ある者になりたい。」と。しかし、それは私の遠く及ばないことだった。7:24 今あることは、遠くて非常に深い。だれがそれを見きわめることができよう。

 何が良いことなのか見極める知恵を持ちたいと思ったが、それは無理でした。

7:25 私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、捜し求めた。愚かな者の悪行と狂った者の愚かさを学びとろうとした。7:26 私は女が死よりも苦々しいことに気がついた。女はわなであり、その心は網、その手はかせである。神に喜ばれる者は女からのがれるが、罪を犯す者は女に捕えられる。

 知恵を追求すると、知恵が得られないばかりでなく、愚かさと狂気を身につける結果になる、ということです。ソロモンは自分自身を反面教師にしています。

7:27 見よ。「私は道理を見いだそうとして、一つ一つに当たり、見いだしたことは次のとおりである。」と伝道者は言う。7:28 私はなおも捜し求めているが、見いださない。私は千人のうちに、ひとりの男を見いだしたが、そのすべてのうちに、ひとりの女も見いださなかった。

 多くの女と付き合うことによって、何一つ道理を見出すようなことはなかった、ということです。

7:29 私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。

 新共同訳では、「神は人間をまっすぐに造られたが/人間は複雑な考え方をしたがる」とあります。初めは単純で、わかりやすかったのに、人間が複雑にしてしまいました。だから知恵を尽くして考えても、わらかなくなってしまいました。これが罪の結果です。アダムとエバが罪を犯す前は、ただ主なる神により頼み生きればよかったのに、善悪の知識の木の実を食べることによって、神から独立して、自分自身で善悪を判断しなければいけなくなりました。

 このように堕落した人間に近づくために、主はモーセに律法をお与えになりましたが、罪ある人間に対する命令であるだけに、律法が複雑になったのです。例えば離婚状を出しなさい、という命令は、もともと離婚しなければなくても良かったのです。初めは男と女は一心同体になったのですから、それを引き離すという場合を考える必要がなかったのです。

4A 人による人の支配 8
1B 王の命令 1−5
8:1 だれが知恵ある者にふさわしいだろう。だれが事物の意義を知りえよう。人の知恵は、その人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる。8:2 私は言う。王の命令を守れ。神の誓約があるから。8:3 王の前からあわてて退出するな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを何でもするから。8:4 王のことばには権威がある。だれが彼に、「あなたは何をするのですか。」と言えようか。8:5 命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。

 私たちは権威というのを嫌がります。なぜ、そのような命令を下すのかと難癖をつけたくなります。けれどもソロモンは、物事を複雑にしたがる人間の性質を考えて、神が上の権威をお定めになったのだよ、ということを言っています。王からの命令は、そのまま従えばよいのです。ローマ13章にも、そのことが書かれています。

 そして権威に従えば、悪に対する制裁を受けずに済む、災いに遭わなくて済む、ということです。

2B 報われない正しい人 6−17
8:6 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいが多いからだ。8:7 何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。8:8 風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。

 人には、自分が裁かれることを神がお許しになられたら、どんな努力をしても変えられません。自分の財産を持ってしても、寿命を延ばすことさえできません。その一方、ソロモンは一つの不条理を見て、むなしくなります。

8:9 私はこのすべてを見て、日の下で行なわれるいっさいのわざ、人が人を支配して、わざわいを与える時について、私の心を用いた。8:10 そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行ないの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。

 人が人を支配していくとき、国の中で、悪人がきちんと裁かれることなく死んでいくのを見ます。また義人もきちんと報われることなく、死んでいきます。。

8:11 悪い行ないに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行なう思いで満ちている。

 人が人を支配するとき、必ず起こるのが不完全な裁きです。裁判が長引き、すぐに悪者が刑罰を受けません。そのことによって、悪者は悪を行なっても大丈夫だと思って、ますます悪を行ないます。

 私たちも、自分たちが罪を犯し続け、それでも何も裁きが下されないので、神は見ておられない、あるいは是認しておられると思い違いするときがあります。しかし、それはとんだ間違いです。

8:12 罪人が、百度悪事を犯しても、長生きしている。しかし私は、神を恐れる者も、神を敬って、しあわせであることを知っている。8:13 悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。8:14 しかし、むなしいことが地上で行なわれている。悪者の行ないに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行ないに対する報いを悪者がその身に受けることがある。これもまた、むなしい、と私は言いたい。

 確かに、正しい人は幸せに暮らしています。そして悪者は不幸せになっています。けれども、その反対のことも起こります。正しい人が悪人の報いを受け、悪人が正しい人の報いを受けることもあります。免罪事件や加害者の無罪判決などが、その例ですが、そのようなことを見ると、善を追求することはいったい何なのか、と思ってしまうわけです。そこでやはり、こうあるべきだと、ソロモンは自分の哲学を繰り返します。

8:15 私は快楽を賛美する。日の下では、食べて、飲んで、楽しむよりほかに、人にとって良いことはない。これは、日の下で、神が人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。

 この言い回しは、コリント人への手紙第一15章にも出てくるものです。こう書いてあります。「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(1コリント15:32-33」パウロは、この考えを責めて戒めています。なぜなら、良い習慣を損なっているからです。どうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないではないか、という考えです。

 けれどもパウロは、死者の復活はある、とここの箇所で主張します。キリストがよみがえられたのだから、キリストにつく者もよみがえるのだ、と主張します。死の後の命があるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があります。天からの報いを期待できます。地上だけを見たら、罪によって損なわれたものしかみないでしょう。そうです、ソロモンの言う通りです。けれども、これらの万物は滅び去り、新しい天と新しい地を神は造られるのです。ならば、今、ここで生きていることは永遠の運命に影響を与える重要なひと時なのです。たった今、飲み食いするだけが良いことではないのです。

8:16 私は一心に知恵を知り、昼も夜も眠らずに、地上で行なわれる人の仕事を見ようとしたとき、8:17 すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行なわれるみわざを見きわめることはできない。人は労苦して捜し求めても、見いだすことはない。知恵ある者が知っていると思っても、見きわめることはできない。

 すべてのものは自分たちで変えることはできない、つまり神が決めておられるからだ、ということです。でも、なぜそのように神がされているのか、については理解することができない、ということです。しかしソロモンの問題は、「日の下」のものしか見ていなかったことです。確かになぜか、は分かりません。けれども私たちは、良い意図で行なわれていることは知っているのです。神がおられて、永遠の計画をもっておられ、その計画は希望と将来を与えるものであることを知っています。この霊的な命を、ソロモンは見失っています。

 この世のものは一時的であり、その欲望も過ぎ去っていくものである。
いつまでも永らえるのは、神のみこころを行なう者たちである、とヨハネは言いました(1ヨハネ2:17)。この視点が必要なのです。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME