出エジプト記1−2章 「救出の始まり」


アウトライン

1A ふえて、強くなる民 1
   1B ヤコブの子孫 1−7
   2B 苦しめるパロ 8−22
      1C 過酷な労働 8−14
      2C 乳児殺害 15−22
2A 王家の息子、モーセ 2
   1B パロの娘との出会い 1−10
      1C 母の勇気 1−3
      2C 神の主権 4−10
   2B ヘブル人魂 11−15
   3B 異邦人の中の生活 16−25

本文

 出エジプト記1章を開いてください。今日は、1章から2章までを学びます。ここでのテーマは、「救出の始まり」です。それでは早速、本文を読んでいきます。

1A ふえて、強くなる民 1
1B ヤコブの子孫 1−7
 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ。イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。ダンとナフタリ。ガドとアシェル。ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。

 出エジプト記の最初の言葉が、「さて」となっています。これは、「そして」と訳すこともできる言葉ですが、出エジプト記はその手前の創世記からの続きになっています。実際、創世記と出エジプト記、またその後のレビ記、民数記、申命記を書いたときに、これを別の五つの書物として書いたわけではありません。そのまま、続きの話として書いているにしか過ぎません。

 そこで私たちは、出エジプト記の話が、創世記の話から続く、神さまによる、一つの壮大な計画の中に進んでいることに気づきます。それは、神がアブラハムに与えられた約束に基づくもので、その子イサク、そしてイサクの子ヤコブに受け継がれたところの約束です。神は、アブラハムに約束されました。「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(創世記22:17」アブラハムは、その子孫によって祝福されます。子孫が空の星のようにふえて、そして一人の子孫がメシヤ、キリストであること、「敵の門を勝ち取る」方でることを主は約束されました。そしてイサクも、「わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。(創世26:24」との約束を受けました。そしてヤコブも、同じ約束を受けます。

 これら族長たちは、カナン人が住む土地が神から与えられたものであり、そこから離れることは、神のみこころではないことを知っていました。アブラハムが、カナン人の土地における飢饉のために、エジプトに下りましたが、そのために大変なことが起こりました。エジプト人のハガルを女奴隷として得て、そのためイシュマエルが生まれ、兄弟同士が敵対関係の中に入りました。エジプトは、神ではなく、この世の象徴でありました。

 けれども不思議なことに、主はアブラハムに子孫がエジプトに下るという予告も与えられていました。「あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。(創世記15:13-14」それが、ヤコブの息子の一人、ヨセフを通して実現しました。兄たちがヨセフを貿易商人に売り渡して、ヨセフはエジプトで奴隷となりました。それから彼は、主がともにおられることによって、エジプトの支配者となり、その時に兄たちが食料を買うためエジプトに下って来ました。世界中で飢饉が襲っていたからです。ヨセフは自分のことを明かして、ヤコブお父さんにカナン人の地からエジプトに下るようにお願いします。

 ヤコブはエジプトに降りることを少し躊躇しました。神が与えられた約束の地から離れることになるからです。けれども彼は祈りの中で神から、次の祈りの答えが与えられました。「すると仰せられた。『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。(創世記46:3-4』ヤコブは神からエジプトに下ることをかえって命じられ、そこで大いなる国民にすることを約束されました。そしてヨセフもまた臨終の時に、信仰によって、「神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。(創世記50:24」と預言しました。

 ですから、創世記は、神がイスラエルについての壮大なご計画についての約束を見ることができますが、それに続く出エジプト記はその約束がエジプトの地から出てゆき、大きな国民となることで実現する話を載せているのです。

 ヤコブがエジプトに下りてきた時のその家族の人数は70人です。エジプトで生まれたヨセフの孫を加えると合計75人しかいませんでした(使徒7:14参照)。けれども、イスラエル人たちがエジプトを出るとき、民数記1章46節には、約60万の成年男子がいたとありますから、女子供合わせて、200万、300万人になっていたことでしょう。エジプトに滞在していた期間は、出エジプト12章40節によりますと430年間ですから、この間に確かに神は、お約束どおりに彼らを増やし、大きな国民にしてくださっていたのです。

 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

 ヤコブがエジプトに下ってきてからなお17年間生きました。その間も、イスラエルの子らはどんどん増えていきました。そしてヨセフが死んでからもなお増えています。その理由の一つに、イスラエル人がゴシェンの地に住んでいたことが挙げられます。羊を飼うのにそこは非常に良い土地でしたが、エジプト人は羊を飼うことをひどく忌み嫌っていました。またヘブル人と食事をすることも忌み嫌っていました。エジプト人たちのそうした性癖が手伝って、イスラエル人たちはエジプト人と結婚する誘惑もかなり少ない状態で、子を産むことができたのです。主は、私たちにとっては否定的な要素に思われるようなことをさえ用いて、ご自分の計画を達成されることが分かります。すべてのことを働かせて、益にしてくださる神です(ローマ8:28)。

2B 苦しめるパロ 8−22
1C 過酷な労働 8−14
 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

 ヨセフが死んでから、おおよそ300年ぐらい後のことです。ヨセフのことさえ知らない、新しい王がエジプトに起こりました。ヨセフがエジプトのパロから、非常によく思われていたことを思い出してください。そしてヨセフのことを知っているその後の王たちは、ヤコブの家族のこともよく思っていたことでしょう。けれども今は違います。

 この新しい王は、在留外国人であるイスラエル人に対して脅威を抱きました。彼らが非常に数が多く、社会的にも強さを持っていたからです。実際の古代エジプト史において、ヘブル人と同じセム系のヒクソス人がエジプトの北半分を支配していた時期があったことが記録されています。けれども、そのことを嫌がったエジプト人たちによって、ヒクソス人を追放して、エジプト人による王朝が始まりました。その最初の王がアーメス(Ahmose)一世と言います。彼が恐れたのは、ヒクソス人がエジプトに戦いをしかけてきたとき、イスラエル人が同じセム系のヒクソス人について、自分たちと戦って、この地から出て行くのではないかと、懸念したのです。

 興味深いことに、エジプトは、ヒクソス人ではなく神ご自身から戦いを仕掛けられて、その結果、イスラエル人がこの国から出て行くことになります。

 そして彼は、イスラエル人を自分の地に残しておきたかったのです。覚えていますか、ヤコブがおじのラバンの家にいたとき、そこの家畜は非常に多くなり、ラバンの家は非常に栄えました。ヤコブは自分の故郷に戻りたいと言いましたが、ラバンはヤコブによって利益を得ているのを知っていたので、あらゆる方法を使って、ヤコブを利用し、ヤコブをとどまらせ続けました。それはみな、主がヤコブとともにおられて、ヤコブを祝福しておられたこと、それをラバンが知っていたからです。エジプトのパロも、イスラエルがいてくれることによって自分の国が成り立っていることをよく知っていたのでしょう、それで彼らをとどまらせるために、何か方策を考えなければいけないと思いました。

 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

 パロが考えたのは、苦役でした。苦役によってイスラエルの力をおさえて、彼らがこれ以上強くなることのないようにしました。

 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

 恐るべきことです。イスラエルは、苦しめられれば、苦しめられるほど、人数が少なくなるどころか、ますますふえ広がりました。ここに、神のご計画は絶対に、敵によって妨げられることはないことを教えられます。また、敵の妨げがあればあるほど、神は不思議な方法で、逆のご自分の計画をさらに前進させることがあるのです。

 これは神を信じる人々、キリストの福音を信じるクリスチャンたちも同じです。私たちは、イエス・キリストを信じて、この方についていく決断をしたときから、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている悪魔の存在を知ります。キリストの教会がいのちを持つと、必ずその働きを止めさせようとする動きが起こります。けれども、反対や迫害が起こると、かえって教会はきよめられ、みことばが前進していく様子を、私たちは使徒行伝の中から見出すことができます。現在でも、教会指導者が捕まえられている共産主義中国の中で、前代未聞のリバイバルが静かに推進していると聞きます。

 そしてこのような悪魔の働きは、教会内だけでなく、イエスさまを信じていない人が、みことばを聞き始めるときから始まります。永遠のいのちというすばらしい約束が、悪魔によって、そのすばらしさが見えないようにされます(2コリント4:4)。イスラエル人たちも、大きな国民となるという神の約束が実現するときに、パロを通しての悪魔の攻撃を受けたのです。

 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 彼らに課せられた労役は、ますますひどくなりました。ちなみに、エジプトはピラミッドをつくる時代はとっくに過ぎていましたので、イスラエル人は他の建物をたてていました。

2C 乳児殺害 15−22
 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

 エジプト王の悪意はますますひどくなりました。苦役では人数を減らすことができなければ、今度は乳児殺しを思いつきました。そこで、ヘブル人の助産婦たちを管理しているシフラとプアに、分娩台での指導を与えました。

 イスラエルはこの時から、自分たちが絶滅される危機に遭いました。イスラエルの存在権を否定する反ユダヤ主義は今日まで続いていますが、それはイスラエルが神からの使命を受けているからです。神の祝福を他の民族に押し流す民として選ばれ、またメシヤをこの世に送り出すために選ばれた民ですから、悪魔がなんとかしてこれを滅ぼそうとするのです。

 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

 ここに、信仰者に与えられた良心と、国やその他の権威によって課せられた義務の間の選択、という問題が書かれています。ローマ13章1節には、権威はすべて神から来るものである、上にたつ人は神によって立てられていることが書かれています。ですから信仰者は、為政者を敬い、その立てた制度に従う良心的市民とならねばいけません。けれどももし、神の命令に反対することを国が命令したらどうでしょうか?その時は、ペテロがサドカイ派の者たちに言ったように、人に従うよりも、神に従うべきです。(使徒5:29)」という姿勢を取らなければいけません。昔、初代クリスチャンは、カエザルを主であるということを拒んで、殉教しました。戦時中は、韓国と日本で、天皇が現人神であり、キリストよりも偉いと言うことを拒んだために、投獄されて、ある人たちは殉教しました。助産婦たちも神を恐れて、男の子を生かしておきました。

 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 これが本当のことなのか、嘘だったのかは分かりません。けれども大事なのは、男の子を生かしていく、という神への恐れです。

 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

 神はかつてアブラハムに、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世記12:3」と言われましたが、イスラエルを祝福した助産婦は、神によって祝福されました。

 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 エジプトのパロは、ほとんど気が狂っています。ヘブル人だけでなく、エジプト人を含めた男子の乳児をすべて、ナイル川に投げ込め、と命じています。再び、イスラエル滅亡の危機です。けれども、そこで神は一人の人物を起こして、イスラエルを救われる計画を実行されます。

 2章にはいる前に一つ気づくことは、イスラエルが通ってきた道は、その子孫イエス・キリストの生涯にも起こったことです。世の王ヘロデは、東方からの博士がユダヤ人の王を拝みに来たということで、非常に恐れ、ついにベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をすべて殺すよう命令しました。

2A 王家の息子、モーセ 2
1B パロの娘との出会い 1−10
1C 母の勇気 1−3
 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。

 レビ族に属する一夫婦が、男の子を産みました。親の名前は父がアムラムであり、母がヨケベデであると、出エジプト記6章20節に書いてあります。彼らは、この子をナイル川に投げ込まなければいけませんでした。けれども、隠しておきました。この行為は、男の子がかわいいということもありましたが、ヘブル書11章によると助産婦たちと同じように、神を恐れていたからだと分かります。「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。(ヘブル11:23

 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。

 母親ヨケベデは、赤ちゃんの泣き声が外に聞こえるのでもう隠しきれなくなったのでしょう、ついに、パロの命令であるナイル川に投げ込むことに従います。けれども、かごの中にいれて、ぷかぷか浮かせることによって、です。防水塗料を塗って、そのかごをナイル川の岸の葦の茂みの中に入れました。

2C 神の主権 4−10
 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。

 モーセに姉がいました。ミリヤムです。モーセが生まれたとき、彼女は13歳でした。お母さんから、弟がどうなるか見ておきなさい、と言いつけられたのでしょうか、遠くから見ていました。そうしたら、なんと、パロの娘が水浴びのためにナイル川にやって来ました。

 彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです。」と言った。

 ヘブル人は殺されなければいけないのが、パロの意図でしたが、なんと娘にはあわれみの心が出てきました。エジプトのパロトトメス一世の娘に、ハトシェプストという人がいました。彼女はトトメス二世のときと、トトメス三世の最初の20年間を、実質上治めていた女王でした。彼女は最大で、最強のパロの一人と言われています。もしかしたら彼女かもしれません。いずれにしても、神は不信者の心にまで働きかけて、ご自分のことを推し進められるのです。

 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。

 なんと、その現場を見ていたミリヤムが、パロの娘のところに出てきました。そして、ヘブル人のうばが必要ですね、と提案して、なんと自分のお母さんを連れてきました!

 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

 ヨケベデは、自分の息子が取り戻されただけでなく、その養育のために賃金まで支払ってもらうことができました。

 
その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。

 この子は大きくなってから、王家を相続する王女の息子になりました。彼の名前はモーセで、その意味は、「引き出された者」であります。まさに、後にモーセがイスラエルをエジプトから引き出すために用いられる人物になります。

2B ヘブル人魂 11−15
 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。

 話は三十数年後に飛びます。モーセはこのとき40歳でした。彼がどのように育ったのか、その様子を、ステパノがサンヘドリンで話したことがあります。「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。(使徒7:22」彼は王家の中において、エジプト最高の、いや当時エジプトが超大国でしたから、世界最高の教育を受けました。あらゆる学問を教え込まれ、演説をさせても、またプロジェクトに取り込ませても有能な人でした。

 けれども彼の魂には、自分の同胞を愛する思いが埋め込まれていました。幼いとき、まだ母親に育てられていたとき、アブラハム、イサク、ヤコブの神について聞かされていたのでしょう。彼は、エジプトの栄華の中に取り囲まれながらも、決して同胞のことを忘れていなかったのです。

 そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

 ここの部分からすでに、モーセが将来どのような人物になるのか、どのようなことのために神に用いられるのかをうかがい知ることができます。ヘブル人が苦しめられているのを、エジプト人から救い出すという働きです。彼は勢い余って、エジプト人を殺してしまいました。そして、だれにも気づかれないように、四方をきょろきょろ見回しながら砂の中にエジプト人を埋めました。

 
次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。

 ヘブル人を愛していたモーセは、ヘブル人同士が争っているのは考えられないことでした。それで、自分の正義感で、いじめているであろうヘブル人のほうに抗議しました。

 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。

 だれも見ていないと思っていたけれども、実は見られていました。ヘブル4章13節には、「神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。」と書いてあります。隠すことは、できないのです。

 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

 ミデヤンの地とは、シナイ半島のところです。エジプトから南東に下っていくと、そこにミデヤン人が住んでいました。後で40年後に、イスラエル人たちとともにこの地域に戻ってきます。

 モーセの野望はもろくも崩れ去ってしまいました。使徒行伝のステパノの説教によると、「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。(7:25」とあります。モーセは、自分が神から、イスラエルを救うために用いられる人物なのだ、という自覚があったのです。それで、ヘブル人を助けて、エジプト人を殺したのです。けれども、イスラエル人たちは理解しませんでした。かえって、モーセを拒みました。

 モーセは、おそらくは、自分がエジプトの王家にいるという戦略的な場所に置かれていると思っていたことでしょう。自分が何かしら働きかければ、ヘブル人を救い出すことができるかもしれない、ヘブル人を解放できる、と思ったに違いありません。しかし、自分の力では無理なのです。王子の身分においても、無理なのです。イエスさまは、「わたしから離れては、あなたがたは何もすることができません。」と言われましたが、本当に何もできないのです。できるのは、自分の肉の力ではなく、神の御霊によってです。モーセは40年後、イスラエル人すべてを率いて、エジプト人の全軍を水の中に溺れさせて、殺すことができました。これがたった一人のエジプト人を殺すのに失敗した肉の力と、御霊の力の違いです。

 また、モーセの生涯は、イエス・キリストのことも表しています。モーセは、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。(申命18:15)」と言いましたが、イエスさまがモーセのような預言者として現われました。モーセが一度目、同胞の民を救おうとしたけれども拒まれたように、イエスさまは、肉においては同胞の民ユダヤ人のために来られたのに、拒まれ、十字架につけられました。けれどもモーセは、二回目イスラエル人の前に現われるとき、神がともにいるということで認められました。同じようにイエスさまは、二回目現われるとき、再臨のときに、国民レベルでイスラエル人からメシヤ、キリストとして認められます。

3B 異邦人の中の生活 16−25
 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 ミデヤン人の祭司ですが、彼の名はレウエル、またイテロと言います。ミデヤン人は、アブラハムの妻の一人でした。サラが亡くなってから、ケトラをめとりました。彼女からミデヤン人が出てきました。ですから、レウエルは、同じ天地創造の神を信じていた祭司だったかもしれません。

 その娘が羊を飼っていましたが、男の羊飼いたちがいつものように意地悪をしました。せっかくくみ上げた水を彼女たちから取り上げて、自分たちの羊に飲ませようとしていました。そこでモーセは彼女たちを助けます。ここにもモーセの、虐げられ、苦しんでいる人々を助けるその特質を見ることができます。

 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。」彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。

 こうしてモーセは、ミデヤン人の地に住むことになりました。80歳になるまで、40年間、この地で羊飼いをしていました。

 そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ。」と言ったからである。

 モーセは妻と子供が与えられましたが、それでも彼は、息子の名前に、「外国のいる寄留者だ」と名づけることによって、自分がミデヤン人ではなくヘブル人であることを証ししました。

 面白いことに、イエスさまがユダヤ人のために来られて、拒まれて、十字架につけられた後、その福音は異邦人に広がっていきました。ユダヤ人が福音に敵対したために、救い主は異邦人の中で受け入れられていったのです。モーセが異邦人の中に受け入れられたように、イエスさまも、現在、多くの異邦人、非ユダヤ人に受け入れられています。

 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。

 死んだエジプトの王とは、トトメス三世のことでしょう。彼がイスラエル人をひどく苦しめました。

 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 ここにすばらしい言葉があります。イスラエル人は、ヤコブを通して神から語られてからずっと、400年以上も神からの語りかけを受けていませんでした。そしてイスラエル人は、神の祝福どころか、ひどい苦しみの中に入れられていました。もう神から見捨てられたのでは?と思ってもおかしくないような状況でした。けれども、神は彼らのうめき、わめき、叫びを聞いておられました。そして、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を決して忘れておられませんでした。神はこれから、先祖たちに与えられた約束を、この世代のイスラエル人によって実現しようとされているのです。

 私たちにも、同じように約束が与えられています。永遠のいのちの約束です。そして私たちは、約束を待ち望み、それが実現するのを期待しています。けれども、この世にいれば、祝福とや豊かないのち、とは見た目には認めることができない、苦しみ、反対、迫害があります。敵がいるからです。敵がなんとかして、信仰者と神との関係を切り離そうとするのです。そして、神はいったいどこにいるのか、と私たちも叫びたくなるときがありますが、その時に思い出してください。神は、聞いておられます。御心に留めておかれています。一人一人を、主にあって高価で尊いと言ってくださっています。そして必ず約束を実現してくださいます。

 そして、エジプトでの苦しみは、罪の中で束縛状態になっている、奴隷状態になっていることも表しています。聖書には、私たちは罪をもって生まれてきて、罪の奴隷状態になっており、神の怒りを受ける、と書かれています。けれども神は、救い主イエス・キリストによって、その状態から開放するご計画をお持ちです。どうか救いを神に、そしてキリストに求めてください。


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