出エジプト記1−2章 「イスラエルを思い出す神」

アウトライン

1A 苦しむイスラエル人 1
   1B 強くなるイスラエル人 1−7
   2B 苦役を課すパロ 8−14
   3B 男子を殺すパロ 15−22
2A モーセの出現 2
   1B 水から引き出される子 1−10
   2B 失敗するイスラエル人救出 11−15
   3B ミデヤン人の夫 16−25

本文

 出エジプト記をこれから学び始めます。創世記に続いて再び、わくわくする書物です。それではさっそく1節から読んでみましょう。

1A 苦しむイスラエル人 1
1B 強くなるイスラエル人 1−7
1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。

 出エジプト記の原題は、「さて、名は次のとおりである。」です。この1節にある、初めの言葉がそのまま採用されています。つまり著者であるモーセは、創世記と出エジプト記を別の話として書いたのではなく、続きとして書いています。

 それは、私たちが創世記で学んだ、ヤコブの家族がエジプトに下ってきた所から始まります。

1:2 ルベン、シメオン、レビ、ユダ。1:3 イッサカル、ゼブルンと、ベニヤミン。1:4 ダンとナフタリ。ガドとアシェル。1:5 ヤコブから生まれた者の総数は七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。

 私たちの学びは、ヨセフが死んだところで終わりました。創世記の最後の箇所は、ヨセフが棺に納められたところで終わりました。そしてしばらくの時が経っています。彼が死んでから約三百年は経っているでしょう。ですから、ヨセフの時代の人たちはみな死んでしまいました。

1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。

 神に用いられた、すぐれた器であったヨセフがいなくなった後も、神は生きて働いておられました。神はご自分の約束を守っておられました。ヤコブがエジプトに下ろうとする前に、主がヤコブにこう語ってくださっていました。「エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にしよう。(創世46:3

 また、この約束はヤコブの父イサク、そしてイサクの父アブラハムに与えられたものであり、実は、ノアに対しても、そして世界の初めに、神が人を造られた時に与えてくださったものです。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。(創世1:28」ヤコブも、ヨセフも、自分たちが生きている間、子沢山に恵まれました。けれども、彼らがいなくなって、神の時代が過ぎ去ったのではなく、続けて神が生きておられたのです。

 私たちはとかく、自分の頭の中で「時代区分」をします。キリストがこの地上におられた時代は宗教の時代であり、その教えはその時に必要であったが今は時代が変わったのだ、と言います。いいえ、神は生きて働いておられます。時代に関係なくその約束は有効なのです。

2B 苦役を課すパロ 8−14
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。1:9 彼は民に言った。「見よ。イスラエルの民は、われわれよりも多く、また強い。1:10 さあ、彼らを賢く取り扱おう。彼らが多くなり、いざ戦いというときに、敵側についてわれわれと戦い、この地から出て行くといけないから。」

 「ヨセフのことを知らない新しい王」とありますが、ヨセフの時代のパロは、イスラエルの家族に対して非常によくしてくれました。神がヨセフと共におられることを異教徒であるパロもよく知っていたし、ヨセフのゆえにエジプト全体も繁栄したからです。けれども新しい王は、全能の神がそうしておられることを知らないので、イスラエルがただ多くなり、強くなっていることしか目に入りませんでした。

 その時代の前には、ヒクソス人というヘブル人と同じセム系の民族がエジプトを支配して、パロもヒクソス人がいた時期がありました。それで、エジプトはようやくのことで異民族の影響を取り払うことができたのですが、そのために、同じセム系であるヘブル人に警戒心を抱きました。異民族との戦いが起こったときに、彼らがエジプトに忠誠を尽くすのではなく、敵側に付くのではないかという懸念です。

 同時にパロは、彼らがエジプトから出て行ってもらいたくないという思惑がありました。それは、彼らの働きによってエジプトの生産力が維持でき、エジプト経済が成り立っていることを知っていたからです。けれども彼は、それは神が彼らと共におられるからであることを知りませんでした。神は彼らのゆえに、エジプト全体をも祝福してくださったことを知らなかったのです。

 全能の神がそうしておられることを認めずして、イスラエルの民に起こっていることを見ているという過ちをパロは犯しました。ですからパロは、イスラエルの民を取り扱っているとしながら、実は背後で働いている神ご自身に反対しているという過ちを犯しているのです。私たちが、自分たちの周りの状況が全能の神によって起こされていることを認めず、他の理由で片付けているのであれば、パロと同じ過ちを犯していることになります。

1:11 そこで、彼らを苦役で苦しめるために、彼らの上に労務の係長を置き、パロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。

 ピトムとラメセスは、かつてパロがヨセフを通してヤコブの家族に与えた、ナイル下流東部にあるゴシェンの地の中にあります。

1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

 神の働きは、人々の反対によって阻まれるものではありません。むしろ、反対や迫害によって、さらに清められて成長するのです。ある人はこう言いました、「殉教者は教会の種である」。

 ヨセフの生涯にもありました、兄たちが彼をエジプトに奴隷として売りましたが、それは兄たちがヨセフにひれ伏すという夢に反対したからです。けれども、むしろその対抗する行為が、後にヨセフをエジプトの支配者につけ、自分たちがその支配者にひれ伏すという神の計画の中に取り込まれていました。

1:13 それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、1:14 粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。

 神の働きに対して、さらに反対を強めています。これをパロは繰り返します。そして、ついに呪いを受けます。かつて神がアブラハムに、「あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世記12:3」と言われたように、パロの人生にも襲い掛かります。

3B 男子を殺すパロ 15−22
1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」

 パロは、初めはイスラエル人を何とか自分の手中で取り扱おうという程度の悪意だったでしょう。けれども、自分の手に負えないことが分かると、このように悪魔的な手段を取ります。彼がいつになったら悔い改めて、これらの状況に神がおられることを認めて、へりくだることができるのか?ということなのですが、彼はそれができません。

 私たちが一度神に反抗すると、良心がその分、麻痺してしまいます(1テモテ4:2)。エスカレートするのです。自分のしている悪が程度を増し、増幅します。けれども神はいつでも、私たちがへりくだり、悔い改めるときに憐れんで、罪を赦してくださる用意ができています。

1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。

 すばらしいですね、ここに「神を恐れ」とあります。私たちは、他の誰にも見られていなくても、一般には「これは行っても良いよ」とたとえ言われたとしても、「これはしてはいけないことではないか。」という良心があります。それは、神が私たちの良心に置いたものです。「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。(箴言8:13

 そして王が命じたことを行いませんでした。ここに、信仰者が抱える問題があります。なぜなら、神を信じる者はすべての権威が神から来ていることを知っているからです。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(ローマ13:1」したがって、私たちは人間に与えられている制度に従うべきであり、権威を持っている人々を敬いなさいという命令を受けています(2ペテロ2:13-17)。

 けれども、この助産婦たちは王の命令に従いませんでした。それは、その命令が神に与えられた明らかな命令に反するためです。ここでは、「命を取り上げてはならない」という神の掟です。紀元前六世紀に、バビロンにいたユダヤ人の三人は、王ネブカデネザルが立てた全身金の像を拝むことを拒みました。それは、「天地を創造された主である神以外に、他を神々としてはならない。」という掟があるからです。

 その時に私たちは、使徒ペテロが話した言葉を思い出す必要があります。「人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29」このような場合には、神が与えておられる権威者に対しては、その権威を認め、敬いつつ、神ご自身の命令に従うことに集中するのです。

 この原則は同じように職場においても適用されます。二重帳簿をつけるように上司から言いつけられたら、私たちは従うのでしょうか?また、夫婦にも適用されます。夫がひどく暴力をふるうときに、それでも妻は耐え忍ぶのでしょうか?「人に従うより、神に従う」のです。

1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」

 これが嘘であるのかどうか分かりません。この助産婦たちは、もちろん看護婦長のような存在で、自分たちの下に多くの助産婦がいたものと思われますが、「のろのろ作戦」を取ったのかもしれません。非常に遅く出て行って、病室に行ってみたらもう赤ちゃんが生まれていた、という方法を使ったものと思われます。

1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。

 迫害者によってもイスラエルの民は増え、強くなっていきましたが、このように神を畏れかしこむ人たちを通しても、神の約束は実現されていきます。

1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

 アブラハムへの神の約束を思い出します。「あなたを祝福する者をわたしは祝福し(創世12:3」助産婦たちは、イスラエルの民を祝福したので祝福されました。そしてまた神を畏れる者には、このような祝福と繁栄があるのだということも忘れはいけません。

1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」

 ついにパロは、狂気の沙汰になってしまいました。ここの「すべての民」とはエジプト人のことです。ここの箇所は、ヘブル人もエジプト人も男の子はすべてナイル川に投げ込まれなければいけない、という意味にも取れますが、それよりも、エジプト国民すべてに対して、ヘブル人の男の子を見つけたらナイル川に投げ込みなさい、という命令であると考えられます。

 つまり、これまでは五人組のような監視制度を設けたのです。互いに監視して、連帯責任にして、通告しなければ罰するようにしました。まさに全体主義です。

 けれども、出エジプト記の話を先に進めると、パロはエジプト軍と共に紅海の水の中で溺れ死ぬ運命を辿ります。イスラエルの民を水の中で殺すという呪いを与えたので、自分たちが水の中で溺れ死ぬという呪いを受けたのです。

2A モーセの出現 2
 ここまでして、神の御業は妨げられるのでしょうか?いいえ、神はイスラエルの民をこの苦境から救い出す計画を実行されます。

1B 水から引き出される子 1−10
2:1 さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。2:2 女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた。

 モーセの誕生です。ヤコブが生んだ三男がレビでしたが、レビ族にアムラムという人と妻にヨケベデという人がいました(出エジプト6:20)。彼らもまた、王の命令に従わず、子供をかくまっていました。ヘブル人への手紙11章では、信仰によって「王の命令をも恐れませんでした(23節)」とあります。

 箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:15」とあります。私たちが周りの人がどう思うか、自分の上にいる人がどう思うかを恐れていると、信仰を持つことはできません。けれども、主に信頼する決断をしますと、その後は主が守ってくださいます。

2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。

 赤ん坊は泣き声を出すし、隠し切れなくなりました。それでも彼らはモーセを水の中に捨てるふりをして、実は生かすことにしました。瀝青と樹脂で防水をして、ナイル川に浮かべたのです。

2:4 その子の姉が、その子がどうなるかを知ろうとして、遠く離れて立っていたとき、

 ミリヤムです。モーセより13歳年上です。

2:5 パロの娘が水浴びをしようとナイルに降りて来た。彼女の侍女たちはナイルの川辺を歩いていた。彼女は葦の茂みにかごがあるのを見、はしためをやって、それを取って来させた。2:6 それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い、「これはきっとヘブル人の子どもです。」と言った。

 これを神の導きと守りと言わずして、なんと言えばよいでしょうか。パロの娘がモーセを見つけました。そしてパロ自身は男の子を川に投げ入れて殺せと命じているのに、娘は哀れに思ったのです。ヨセフの時もそうでしたが、ヨセフはパロの廷臣ポティファルの家に奴隷として買われ、それによって彼が後にエジプトの支配者となりました。そして、それだけでなく異教徒であっても、憐れみの心を神が与えてくださいました。

 ところでこの娘は、あの有名なハトシェプストだと言われています。夫がトトメス二世でしたが、彼が死んだ後、息子のトトメス三世がまだ幼かったため共同統治をしていましたが、実質の権力は彼女が持っていたと言われています。古代エジプトできわめてまれな女性のパロです。

2:7 そのとき、その子の姉がパロの娘に言った。「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」2:8 パロの娘が「そうしておくれ。」と言ったので、おとめは行って、その子の母を呼んで来た。

 ミリヤムは実に機知に富んだ女の子です。乳母としてなんと実母を呼んできました。

2:9 パロの娘は彼女に言った。「この子を連れて行き、私に代わって乳を飲ませてください。私があなたの賃金を払いましょう。」それで、その女はその子を引き取って、乳を飲ませた。

 母はなんと賃金を受け取りながら実子を育てることができました。乳離れするときまで彼を育ていました。

 実は、この時がモーセにとって決定的な時期となります。なぜなら、この時に母親は彼に自分のルーツを教えたからです。彼はヘブル人であり、アブラハム、イサク、ヤコブの神を持っていることを伝えたに違いありません。この後、エジプトの宮廷で育てられる時もモーセは片時も自分がイスラエル人であることを忘れることはありませんでした。

 私たちはとかく、子供を軽視しがちです。子供に神のことを教えても、理解してくれない。自分で判断ができるようになってから知ればよいと言う人が多くいます。それは間違いです。むしろイエス様は、ご自分の所に来る子たちを妨げてはならないと強く戒めました。そして、幼い時に教えられた主の言葉は、後年になってもその人から離れることはありません。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6

2:10 その子が大きくなったとき、女はその子をパロの娘のもとに連れて行った。その子は王女の息子になった。彼女はその子をモーセと名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです。」と言ったからである。

 「モーセ」という名前は実はパロの娘がつけた名前でした。「引き出す」という意味があります。彼はその名にふさわしい人生をこれから歩みます。彼は、虐げられている人々を引き出す働きを行います。救いの手を差し伸べて、圧迫者を倒す働きを行っていきます。そしてそれが、神ご自身の計画の中で行われていたことでした。神はアブラハムにも、そしてヤコブにも必ずエジプトからイスラエルを連れ出して、約束の地に連れ戻されることを約束されていました。その導き手としてモーセが選ばれたのです。

 私たちは前回の学びで、ヤコブもそしてヨセフもエジプトを自分の故郷とせず、自分の遺体は約束の地で葬るようにとの指示をしたところを読みました。エジプトは自分の生きている場所ではあっても、そこに自分の心の居場所はないのです。これを聖書は「地上」と呼ぶし、さらに「世」とも呼びます。

 ところが、いざイスラエルが多くなって、強くなり、そしてエジプトを出るときになると、パロは何とかしてイスラエルを去らせまいとして留まらせようとします。けれども、神がパロを罰して、それによってイスラエルがエジプトを去り、神の所有の民となります。これを聖書では「救い」あるいは「贖い」と呼びます。この世にいる者たちを、神がご自分のものとするためにそこから救い出してくださることです。「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。(ガラテヤ1:4

 そしてパロは、言わばこの世における君、つまり悪魔と同じことを行っています。私たちをこの世の中に、また罪の奴隷の中に縛り付けて置こうとします。けれども、キリストがご自分の命を捨てられることによって、その代価を支払われることによって、私たちを買い戻し、神の民としてくださったのです。ですから、イスラエルがエジプトから贖い出される出来事は、キリストによってこの世から贖いだされることを示しているのです。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ1:13-14

2B 失敗するイスラエル人救出 11−15
2:11 こうして日がたち、モーセがおとなになったとき、彼は同胞のところへ出て行き、その苦役を見た。そのとき、自分の同胞であるひとりのヘブル人を、あるエジプト人が打っているのを見た。2:12 あたりを見回し、ほかにだれもいないのを見届けると、彼はそのエジプト人を打ち殺し、これを砂の中に隠した。

 第一礼拝でお話しましたように、このときモーセは40歳でした。パロの宮廷で育ち、エジプトの最高級の教育を受けました。能力のある人であり、発言もできる人でした。「モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。(使徒7:22

 けれども、彼はその名のとおりに、苦しめられている人を自分の手で救うことから離れることができませんでした。同胞が苦しめられています。神の民であるはずの人が、ひどい仕打ちを受けています。これではいけないと思い、苦しめているエジプト人を殺してしまいました。

2:13 次の日、また外に出てみると、なんと、ふたりのヘブル人が争っているではないか。そこで彼は悪いほうに「なぜ自分の仲間を打つのか。」と言った。

 私たちはしばしば、現実に直面します。社会的な弱者だと思われている人が、かえって他の弱者を苦しめていることが多々あることです。彼らは身体が奴隷であっただけでなく、その根性も奴隷でした。自分が虐げられているので、機会あらば自分も自分より弱い人を虐げているのです。

 これを見たモーセは、「仲間がこのようなことをしてはいけない。」と思いました。神の民である者たちは、互いに助けこそすれ争ってはいけない、一つにならなければいけないと思いました。

2:14 するとその男は、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか。あなたはエジプト人を殺したように、私も殺そうと言うのか。」と言った。そこでモーセは恐れて、きっとあのことが知れたのだと思った。

 なんとこのイスラエル人は、自分に指図をする人をひどく嫌いました。モーセが自分たちのことに干渉することを嫌いました。自分の悪を明らかにされたことを憎みました。それで、「だれがあなたを私たちの司や裁き司にしたのか。」と言っています。

 モーセはこの時、実は自分がイスラエルを救う者であることを理解してくれるものだと思っていたのです。使徒の働き7章で、ステパノがこう説明しています。「彼は、自分の手によって神が兄弟たちに救いを与えようとしておられることを、みなが理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした。(使徒7:25」モーセは今、宮廷の中にいます。ですから、自分がここに置かれていることは、実はその権力を使ってイスラエルをエジプトから救い出すためなのだ、と思っていました。ところが、彼はイスラエル人当人からそれをきっぱり断られて、さらにエジプト人を殺したことまでがばれてしまい、全然、イスラエルを救うことができなかったのです。

 ここに、私たちはこれから見ていくのは、「肉の力」と「御霊の導き」の違いです。モーセは、イスラエルを救いたいという願いは間違っていませんでした。いや、むしろそれは、神がモーセに与えられた使命でした。彼はまさに、生まれる前からイスラエルを救い出す指導者として選ばれていたのです。けれども、モーセは、それは自分がエジプトの宮廷にいるから、その働きをすることができるのだと考えました。自分の肉の力によって神の働きを成し遂げることができると思ったのです。

 けれども、結果は散々でした。一人のエジプト人をもきちんと打ち倒すことができなかったのです。ところがこの四十年後、モーセは羊飼いの身でエジプトに戻ります。そして、イスラエル人たちはその時はモーセを救出者として受け入れます。そして、イスラエルをエジプトから引き出したモーセとイスラエルの民は、水が分かれた紅海を渡り、そしてその中にエジプト軍が入ってきました。彼はただ、神から与えられた杖をあげているだけだったのです。そして次に海に手を差し伸ばせ、という主の声を聞いて、そうしたところ、水が元に戻りました。そしてエジプト軍はすべて溺死したのです。

 これが御霊の導きです。自分の力でイスラエル人を救い出したのではありません。自分はただ、神に命じられることを行っただけです。神がご自分の力でエジプト人を倒されたのです。一人の殺害も成功しなかったモーセは、数多くの精鋭のエジプト軍を倒すことができたのです。

 神は私たちに、召しを与えておられます。使命を与えておられます。救われることが初めに与えておられる召しですが、私たちはモーセのように、キリストの働きをするように召されています。それがモーセと同じように、いつ何をしても同じことをしているところで現れています。それが、初めは失敗だらけかもしれません。けれども、自分が自分に頼るのではなく、神の力に頼るにしたがって、その使命を神にあって果たすことができるのです。

 そして、神がイスラエルをエジプトから救い出されるためにモーセを選ばれましたが、最終的には、全て信じる者たちをキリストがこの世から、罪の束縛から救い出してくださいます。モーセは初めに救おうとした時には、彼はイスラエル人に受け入れられませんでした。けれども、四十年後に再び彼らの間に現れた時にはイスラエル人に受け入れられました。

 同じように、イエス・キリストは初めに来られた時にユダヤ人に拒まれました。そして、ご自分はユダヤ人の間ではなく、むしろ異邦人の間で受け入れられ始めます。けれども、ご自分が天から再び地上に来られるときには、そこにいるユダヤ人はイエスをメシヤとして心から受け入れることが約束されています。

 ユダヤ人でなくとも、私たち一人ひとりも同じです。私たちが今、イエス様が差し伸べてくださっている手を自らつかめば、イエス様は救ってくださいます。けれども、ここに出てきたイスラエル人のように、「なんで私の人生に関わってくるのか。なぜイエスを自分の支配者にしなければいけないのか。」と言って拒むのであれば、いずれ、公の形で、目で見える形で、世界の王として現れるのです。その時は救い主としてではなく、裁き主として現れます。

2:15 パロはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。

 モーセは、パロに命を狙われる身となりました。彼はこのことに後悔していませんでした。第一礼拝で学んだように、パロの娘と呼ばれることよりも、このそしりを受けたほうがずっと益になると思っていました。

 そして彼はミデヤンの地にいます。アブラハムがサラの死後、ケトラという女性をめとりましたが、彼女から産まれた一人が「ミデヤン」でした(創世25:2)。そして彼らは、アラビア半島の北部に住んでいました。そして、西方のシナイ半島にて放牧をしていました。モーセはエジプトからシナイ半島を大きく横切って、そしてミデヤン人の地に来たのです。

3B ミデヤン人の夫 16−25
2:16 ミデヤンの祭司に七人の娘がいた。彼女たちが父の羊の群れに水を飲ませるために来て、水を汲み、水ぶねに満たしていたとき、2:17 羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払った。すると、モーセは立ち上がり、彼女たちを救い、その羊の群れに水を飲ませた。

 リベカの時、またラケルの時と同じように、女性たちが羊飼いをしています。けれども、彼女たちは男の羊飼いたちに追い払われるような仕打ちを受けていました。モーセがどこに行っても変わりなく、虐げられている人々から弱い人々を救い出す働きをしていますね。私たちは、「私は神にこのことをするように命じられているのか、あのことをするように命じられているのか?」と悩みますが、結局、どこに行っても神に召されていることを行うのです。

 そしてミデヤンの祭司とありますが、おそらく彼らは、父祖アブラハムから、イスラエルの神、主について聞いていたものと思われます。彼らが、モーセを通してヤハウェなる神を知るようになります。

2:18 彼女たちが父レウエルのところに帰ったとき、父は言った。「どうしてきょうはこんなに早く帰って来たのか。」2:19 彼女たちは答えた。「ひとりのエジプト人が私たちを羊飼いたちの手から救い出してくれました。そのうえその人は、私たちのために水まで汲み、羊の群れに飲ませてくれました。」2:20 父は娘たちに言った。「その人はどこにいるのか。どうしてその人を置いて来てしまったのか。食事をあげるためにその人を呼んで来なさい。」2:21 モーセは、思い切ってこの人といっしょに住むようにした。そこでその人は娘のチッポラをモーセに与えた。

 モーセは、この異邦人の家に受け入れられることになりました。

2:22 彼女は男の子を産んだ。彼はその子をゲルショムと名づけた。「私は外国にいる寄留者だ。」と言ったからである。

 モーセも、ヤコブやヨセフと同じように自分が外国の寄留者であることを告白しています。そしてヨセフと同じように異邦人と結婚することになりました。

 興味深いことに、ヨセフもモーセも、自分の仲間のヘブル人から拒まれることによって、異邦人の間で生きるようになります。次にイスラエル人の前に現れるまでは異邦人の中にいるのです。これがキリストご自身に起こりました。イスラエルのためにイエス様は来られたのに、イスラエルがこの方をメシヤとして認めず、退けました。そのため、キリストの御名はユダヤ人の間ではなく、異邦人の間で唱えられるようになりました。キリスト教会のほとんどが異邦人です。人間としてはユダヤ人のイエス様を、私たち異邦人があがめているのです。ちょうどヨセフ、モーセと同じです。

2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。

 すばらしいですね、ここに再び神の慰めがあります。モーセの命を狙っているパロは死んだので、主はモーセを再びエジプトに引き戻されます。

 神は、イスラエル人たちの労役と喚き、叫びをすべて聞いておられました。もう四十年経っています。イスラエル人たちは、自分たちが神に顧みられているなど思ってもいませんでした。けれども、神は忘れておられません。ここに「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」とあります。既にこの時には、ヤコブがエジプトに下ってから430年ぐらい経っています。けれども、主は覚えておられました。

 私たちが、神に忘れられていると感じているとき、この御言葉を思い出してください。神はご自分の契約を決して忘れません。そして、何も聞かれていないと感じるとき、この御言葉を思い出してください。神はその叫びと嘆きをしっかり聞いておられます。そして、神は見ておられないとがっかりしているときにこの御言葉を思い出してください。神はしっかり見ておられます。私たちの神は、思い出してくださる方です。

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