出エジプト記8章25-28節 10章8-11節, 24-27節 「妥協」
アウトライン
1A 国内のいけにえ
1B 古い生活を維持した信仰
2B 世の愛
3B 奴隷生活への回帰
2A 遠くないところでのいけにえ
1B 深入りしない信仰
2B 全き献身
3B 境界線クリスチャン
3A 壮年だけのいけにえ
1B 子供を教育しない信仰
2B 子供の救い
4A 家畜なしのいけにえ
1B 献金なしの信仰
2B 捧げ物による礼拝
3B 世の持ち物による危険
本文
私たちは出エジプト記8章まで学びましたが、明日は9章から11章まで読みたいと思います。私たちは出エジプト記に出てくる、パロ、そしてエジプトが極めて興味深い教訓を与えてくれることに気づきます。それは、「神の言葉を受け入れない者」の心の姿を如実に表していることです。
心をかたくなにして神の福音の言葉を受け入れない人の多くは、初めから「私は神の真理と言われている者を受け入れたくありません。」と言います。私も先日、未信者の方から「申し訳ありませんが、唯一神というのは絶対におかしいです。間違っています。それは排他的ですから。」ときっぱり言われました。パロも初めはそうでした。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。(5:2)」神の命令に対して、きっぱりと断ったのです。
ところが、主の不思議と奇蹟を彼は見るようになりました。自分の家にもかえるが入り込みました。地の塵がみなぶよとなりました。そしてあぶが襲ってきました。そうした中で、彼はその苦しみから免れたいために、「主に祈れ」とモーセに要請しました。けれども一度災いが取り除かれると、彼はすぐに心をかたくなにし、イスラエルの民を行かせることはなかったのです。
そしてパロが、折れたような発言をします。彼が出て行かせて良いという発言をします。それが細かく分けると四つあります。けれども、それらの妥協案は、まったく主を受け入れないのと同じ、または主ご自身に完全に反対しているのと結果的に変わらない申し出であることを知ります。
私たちが主の言葉を聞いて、それに信仰によって従い、主のために生きていく決断をするにあたって、まったく否定するのではなく、「中途半端」という方法をもって結果的に完全否定するという、この世の手法、その背後にいるサタンの手法を見ていきたいと思います。
1A 国内のいけにえ
まず、8章25-27節を見てください。「パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。『さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。』モーセは答えた。『そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。』」
1B 古い生活を維持した信仰
パロがどうして「国内でいけにえをささげよ」と言っているか、理由は分かりますね?パロは、イスラエルの民を自分の所有物として置きたいからです。前回学んだように、主なる神のご目的は、彼らを奴隷の身分という束縛から救い出し、ご自分の民にすることであります。確かに、ヘブル人の神に仕えてよいということを言っていますが、それは心の中だけで行い、物理的には私の奴隷としてとどまっていなさい、ということなのです。
つまり言い換えれば、「イエス・キリストを自分の救い主として信じていいが、古い以前からの生活を変えることなく信じなさい。」という誘いであります。
イエス・キリストを信じる、ということは簡単なことですが、多くの人にとって容易なことではありません。それは、これまでの罪に支配された生活そのものを捨てることに他ならないからです。神は、罪のある私たちのそのままの姿を受け入れてくださいます。けれども、この方に信仰によって近づこうとする時、これまでのやり方が間違っていたということを認めて、主に自分自身を明け渡さないと、信じることができないからです。自分の心にある今まで築き上げてきた誇りを、キリストの十字架のところで捨てなければ、「私は罪人です、救い主が必要です、だから自分中心の生き方を捨てて、これからイエス様を中心にして生きます。」と言えないのです。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。(ヨハネ3:18-21)」光にところに来れば、自分が暗闇で行ったことがすべて明らかにされます。それでも光の所に来るというのが、イエス・キリストを自分の救い主として信じる、ということです。
自分のこれまでの世的な生活を変えなくてよいと思いながら信仰生活を送るのは、信じている意味がありません。私たちは罪の中にいることを許容してくれる信仰を得たのではなく、罪から離れることのできる力を与えてくれる信仰を得たのです。悪いことを行うのを許す信仰ではなく、悪い行いを捨て、むしろ良い行いをするための信仰を得ました。自ずとエジプト国内、つまりこの世の価値観から出て行くのです。
2B 世の愛
ヨハネの手紙第一2章15-16節にはこうあります。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(1ヨハネ2:15-16)」世を愛しているか、神を愛しているかの二者択一です。どちらも愛することはできません。
そしてコリント第二6章17-18節には、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主は言われる。」とあります。この世とは一つのままでいることはできません。
3B 奴隷生活への回帰
私たちは、「心の中でイエス様を思っていさえすればよい」と思って、今の生活様式を変えることがなければ、いつしかその心の中のイエス様もいなくなってしまいます。自分の世の生活は、自分の思いを再び世のものに変えてしまうからです。イエスを主とするか、あるいは世において自分を主とするかは、はっきりとした決断であり、選択です。この選択をしていないと、「世の人として生きる」という選択を結果的に行うことになります。
2A 遠くないところでのいけにえ
そして興味深いのは、次のパロの誘いです。8章27-28節を読みましょう。「それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」(出エジプト記8:27-28」
国内ではいけにえを捧げられないとモーセが言ったところ、「荒野でささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない」ということです!どうしてでしょうか?もちろん、彼らがエジプトから逃げてしまっても、追いついて捕まえることができるようにするためです。つまり、「この世からそんなに遠く離れないで信仰生活をしなさい。」ということであります。
1B 深入りしない信仰
私たちがイエス様を心から受け入れて、その新しい信仰の中で喜んでいる時に、「そんなにのめり込まないでね。」という注意を、未信者の家族の人や友人から注意を受けます。それで、その言葉を聞き入れてしまい、自分が喜んで、感謝して、教会に通っているのに、その情熱をあえて覚まして、この世の事柄に再び戻ってしまうのです。
聖書には救いのことが、喜びにあふれる出来事であることを記しています。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」心からあふれ出てくる命の水です。そして、コロサイ書には「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。(2:6-7)」とあります。溢れるばかりに喜ぶのです。ペテロは救いについてこう言っています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(1ペテロ1:8-9)」
ですから熱心に聖書を読み、祈りをささげ、そして教会にも通うというのは、新しく信じた人たちにとってごく自然なことなのです。いや、信仰の年数が経っても、この新鮮さをどれだけ保っていられるのかが私たち信仰者の課題であります。
これを未信者の人たちは理解できないので、あやまって忠告するのです。あまりにも変化しているので、その熱を冷まそうとします。そして「中庸」という言葉は私たちを魅了します。確かに賢いように聞こえます。けれどもそれは聖書の中では、「塩が塩気をなくす」という言葉になります。救われた人が救われた喜びを半減させて、どうやってクリスチャンとして生きられるのか?塩気を取ってしまったらその塩は全く役に立たないように、救いの喜びをなくしてしまったクリスチャンは、むしろ世の人たちよりも惨めなのです。
2B 全き献身
聖書では、全き心で主に仕えるように教えています。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 (マタイ6:33)」この世についての心配は無用だという教えです。第一に神の国と義を求めれば、それらの必要は加えて与えられます。
そして、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ12:30)」とあります。心と思いと力を尽くした愛が神に受け入れられるものです。そしてこの熾烈な愛は、家族への愛にまさります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37-38)」
3B 境界線クリスチャン
世の楽しみからさほど離れていない人々の信仰生活は、しばしば「境界線クリスチャン」と呼ばれます。この世の生活をきっぱりやめることはできないけれども、十分に楽しむこともできていないという状態です。この世に属しているか、キリストに属しているかのどちらかであるのに、この世の国と、キリストの御国の境界線に立っています。
いかにこれが危険であるかを考えてみてください。二つの国が戦争していて、前線で戦っている時に、相手がどちらでもいいからどちらか側に付いていないといけないですね。もしどちらでもなかったら、どちら側からも銃が飛んできます。この世もキリストもほしいと思っているかもしれませんが、どちらも失ってしまうのです。
実際に考えてみてください。キリストにあるすばらしい霊的祝福を味わえませんね。自分にやましいことがあるから、どうしても純粋に神の恵みに浸かることができず、いつも罪意識をもって、自分はきちんとできていないクリスチャンだと責めています。だからと言って、この世の人たちと同じようにこの世を楽しむことができません。ちょっと楽しむと信仰を持っていますから罪の咎めを感じて、満喫できないのです。これが境界線クリスチャンの特徴です。
3A 壮年だけのいけにえ
そして次に、10章8節から11節までを読んでみましょう。「モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。『行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。』モーセは答えた。『私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。』パロは彼らに言った。『私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。』こうして彼らをパロの前から追い出した。(出エジプト10:8-11)」
この妥協案も非常に興味深いです。パロはこの時点で、8章の時よりさらに甚大な天災を受けています。それで、イスラエルの民に国内でいけにえをささげよ、遠くへ行ってはならない、という言葉は取り下げました。けれども、壮年、つまり成年男子だけ主に仕えなさい、と言いました。なぜだかは分かりますね、「いけにえを捧げるなんていう考えは大人が考え付いたこと。それを子供に強要するなんて言語道断」ということです。
1B 子供を教育しない信仰
いかがでしょうか?今の時流でもっともとされる考えではないでしょうか?「子供に権利を与えなければいけない。」「子供に選ばせなければいけない。」そして、子供に自分の価値観を押し付けてはいけない、と言って、自分の信仰を子息に継承するのは間違っていると感じます。
あるいは、全般的に「自分の信仰は自分の心の問題であり、他の人たちにまで伝えるのは強要である。他の人たちを巻き込んではいけない。」という考えもありますね。
聖書には、モーセによって与えられた十戒があります。初めの四つの戒めは神と人との関係を取り扱っていますが、第五から第十の戒めは対人関係です。この第五の戒めに来るのは、「あなたの父と母を敬え。」です。なぜでしょうか?それは、神は親をご自分の権威を任せる代理者にされたからです。両親の言うことを聞くということは、多くの場合、神ご自身に聞き従うということに他なりません。彼らは親の権威の下にいることによって、神の権威を知ることができます。
エペソ書6章2-4節にはこう書いてあります。「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。』という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。(エペソ6:2-4)」これを文字通り受け入れて、仕事の帰りが早かった時には、夜、子供たちを寝付かせる前に、聖書の話を読み、訓戒を与える父親がいます。すばらし働きです。「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 (箴言22:6)」とあります。
子供をほおっておく親は、子供を自由にさせているようで、実は苦しめています。子供は境界線を欲しています。何が良く何が悪いのかを教えてくれ、という叫びを持っています。ですから、親は一貫性のある境界線を設けるべきであり、それは親自身の主への信仰が確立し、その中から知恵が与えられて設けるものなのです。それがなければ彼らは苦しんでしまうのです。
子供をしつけることは、自分を戒めることです。子供を戒めることができるのは、自分自身がつねに神の前に、また子供の前でさらされていることになります。自分がそんなことを言っていて、自分が間違ったことをしているいいう偽善になってしまうからです。
2B 子供の救い
ロトがソドムにいた時に、御使いが彼とその家族を救い出そうとしました。彼自身は主を信じていましたが、嫁にいった娘の家族はもちろんのこと、自分の妻さえがこの世の影響を受けて、塩の柱になってしまいました。さらに生き残った未婚の娘も、父と寝ることによって子を宿すという忌まわしいことを行いました。もともとロトがソドムという町に近づかなければそうならなかったのです。
私たちは自分だけ信仰を持っていればよいでは、いけないのです。周りの人々に影響を与えるような生活へと導かれなければいけません。
4A 家畜なしのいけにえ
そして今度は10章を開いてください。24節です。「パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」幼子も連れて行って良い、と言っていますね!ところが、「羊と牛はとどめておけ」と言っています。奴隷であったけれども、イスラエルの民はその労働の対価として家畜は受け取って当然であったし、何よりもその家畜をもって後に彼らはいけにえを捧げます。
ですからパロが言っているのは、「信仰生活を送るのは良い。けれども献金はするな。」と言っているのと等しいのです。
1B 献金なしの信仰
いかがでしょうか、多くの悪い宗教団体が、また教会までもがお金をせびる事件を起こしています。けれども、それを言い訳にして「私は献金をしません。」ということはできません。私たちの信仰は、心と思いのみならず、いや心と思いが正しい方法に向いているのであれば、自分の財産自体が主のものであることを知っているはずです。
そして、「お金がなくなる」という気持ちも働きます。「ただでさえ国に税金を支払っているのに、さらに教会税なるものもあるのか!」と感じるのかもしれません。その人が持っているお金の概念は、「自分で取っておかないとお金はなくなってしまう。」というものです。与えれば、受けられるという神が与えられた原則を知らないのです。
お金と言うのは不思議な力を持っています。「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。(マタイ6:20-21)」私たちが自分の心と財産を分けることができないのは、財産のあるところに心も引き寄せられるからです。ですから、心から主を礼拝したいと思う時は、時間や自分の能力のみならず、金銭においても神に捧げるのです。そうすることによって、自分の信仰が生活そのものになります。礼拝において自分の心が集中できます。自分のお金をかけているのですから、祈りも、御言葉を聞くことも真剣になります。それは、宝を天に蓄えると、心も天に向うからです。
ましてや、私たちは自分のすべてものが、自分の思いや体だけでなく、自分の財産そのものが神のものなのです。ですから献金するときは、それは返金すると言って良いでしょう。神にお返しするのです。
2B 捧げ物による礼拝
信仰というのは、ある意味で実践による体験です。神が約束されたことをその通りに行って、それを体験していくことです。その一つが献金です。マラキ書にこう書いてあります。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。(マラキ3:10)」与えれば、受けることができるのです。ちょうどこれは、目に見えない法則のようなもので、私たちの目に見える所ではお金を与えたらなくなるのですが、神は何らかの方法で私たちの不足分を満たしてくださる方です。
そしてここに十分の一とありますが、旧約聖書の律法の中にはその割合がずっと残っています。これは私たち教会が主に捧げる時にも良い基準となります。しばしば「什一献金」と呼ばれます。
そして喜んで捧げる人を神は愛してくださいます。「私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9:6-7)」ぜひ実行してみてください、主が豊かに刈り取りを行わせてくださいます。
3B 世の持ち物による危険
もう一つ、献金をするというのは、私たちが、富の惑わしから避けるよい方法です。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(1テモテ6:9-10)」私たちが神から与えられたお金を上手に運用すれば、主にあって経済においても健全に生きることができます。
いかがでしょうか?みなさんはいま、どの段階におられるでしょうか?ただ心の中で主イエスを信じればよいと思っていますか?生活を変えなくてよいと考えているでしょうか?あるいは、あまりのめり込めないで、適当にこの世のことを楽しもうと考えておられるでしょうか?あるいは、自分自身は信仰を守っているけれども、自分の子供や周囲の人には信仰のことは伝えたくないな、と思っていますか?そして最後に、自分の財産を捧げてまで信仰生活は送りたくないと思っているでしょうか?これらをすべて克服した信仰こそが、主に祝福された真の信仰になるのです。