出エジプトと荒野の生活
エジプトからの脱出
約束の地へ
エジプトからの脱出 2003/07/26
(以下は、「幸いな人」9月号に掲載された記事の元原稿です。)
私たちは今、教会学校の中で、子供たちに創世記から順番に聖書を教えています。アブラハムの生涯から始まり、ヤコブの家族がエジプトに移住すること、そして後にパロから苦役が課せられ、モーセを通して脱出し荒野の旅を始めること。シナイ山にて律法が授けられ、それから約束の地に向けて旅をしたことなど、神さまの不思議と奇蹟がいっぱいでスリルがあり、子供たちも楽しく聞いています。
けれども彼らに教えながら最もうれしいことは、イスラエルが移動するこの歴史そのものがイエス・キリストの福音になっており、イエスさまと私たちとの関係を教えることができることです。主は、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」と言われました。私たちが読む、聖書の初めの五冊であるモーセ五書は、神の福音そのものになっています。ちょうど子供たちが絵本を読むように、私たちはイスラエル人がいたその地理的関係の中に、福音を視覚的に見ていくことができます。
イスラエルがエジプトを出てからの旅程は、次のように大きく分類することができます。
1. エジプトからシナイ山まで (出エジプト記)
2. シナイ山のふもとにて (レビ記)
3. シナイ山からヨルダン川東岸まで (民数記)
4. ヨルダン川東岸にて (申命記)
この順番に従って、イスラエルの道程がどのようにクリスチャン生活に当てはまるのかを見ていきたいと思います。
いのちにある新しい歩み
イスラエル民族の誕生は、神の約束から始まります。「ヤコブから生まれた者の総数は70人であった。またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。(出エジプト1:7)」アブラハム、イサク、ヤコブに与えられた神の約束は、子孫が空の星のようにふえ、大いなる国民となるということでしたが、神がご自分の主権の中で実行しておられました。けれどもエジプトの王パロは、その動きを阻止しようとし、イスラエルを苦役に課しました。けれども、「苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がった(同1:12)」とあります。人の仕業によって、神の働きを止めることはできないのです。
その後モーセが誕生し、40歳のときにエジプトから逃げて荒野へと行き、ホレブの山で主に会い、80歳のときに再びエジプトに戻ってきました。なぜなら、「神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた(同2:24)」とあります。神は、ご自分が選ばれた者にあわれみをかけ、その者をお救いになります。私たちは、自分たちが神を選び取って、神にしがみつくことによってクリスチャンになったと思うかもしれませんが、そうではなく、神が私たちを引き寄せてくださり、私たちがこの方を信じるように、信じる前から導いてくださっています。使徒パウロは、神のことを「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方(ガラテヤ1:15)」と言いました。
それから、モーセとアロンがパロに、イスラエルの民を出て行かせるようにとの主のことばを告げますが、パロは強情になり、決して出て行かせようとしませんでした。けれども、エジプトの初子を打つことにより、また、血が鴨居と門柱にぬられたイスラエルの家に対してその災いを過ぎ越させることにより、パロがイスラエルを無理にでも追い出すようにされました。これは、「永遠のおきて(出エジプト12:14)」として祝わなければいけないとのことですが、なぜなら、イスラエルの民がこの出来事をもって、自分が贖われた民であることを意味するからです。クリスチャンは、過越の小羊と呼ばれるイエス・キリストの血をもって贖い出されました。それは永遠の救いをもたらすものであり、私たちはとこしえに、この方が血を流してくださったことを、この地上においても、また天においても思い出し、ほめたたえるのです。
エジプトという国はイスラエルを奴隷にしていましたが、同じように人間は、罪の奴隷状態にあります。エジプトはこの世を表しており、パロは、この世の君である悪魔を表しています。彼は、いろいろな妥協案を出して、イスラエルがエジプトから贖い出されることを阻止しようとしました。「遠くへ行ってはいけない(出エジプト1:28)」「壮年の男だけ行って、主に仕えよ。(同10:11)」「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。(同10:24)」などです。これは、イスラエルが自分のすべてをささげて、主に仕えるのを止めさせることです。私たちがキリストを信じ、また仕えようとするとき、家族から、友人から、会社の同僚から、パロと似たような内容のアドバイスを受けたことはないでしょうか?
けれども、パロとエジプトが死に絶えます。それは、紅海の水が分かれたことによってです。イスラエルがそこを通り、追いかけてきたエジプト軍の上に、水が戻って彼らは溺れ死にました。興味深いのは、主がこの出来事を故意に設定されたことです。エジプトから脱出したイスラエルを引き返らせ、そしてパロが、イスラエルを追いかけるようにさせました(出エジプト14:1−4)。それは、ただイスラエルがエジプトからそのまま出て行く以上の重要な意味が、紅海を渡るという出来事に存在していたからです。
新約聖書の中に、この出来事の真義が書かれています。「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け」ました(1コリント10:1−2)。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:4)」海の中を通るという出来事は、つまり、自分たちを支配し、苦しめていたパロがもはや自分を支配しなくなったこと、そして、これから、神につながれた新しい歩みをすることを意味していたのです。イエスを信じて心に受け入れた人は、同じように、罪に支配された古い人が十字架につけられ死んでしまったこと、キリストとともによみがえり、いのちにある新しい歩みが与えられたことを、バプテスマを受けることによって表明します。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」という真理は、その後のクリスチャンの歩みを決定的なものにします。私たちが気分的にそう思えなくても、また断固として否定しようとも、キリストにある者は新しく造られており、古いものは過ぎ去ったという事実は変わらないのです。私たちは、肉との戦い、罪との戦いを経験しますが、けれどもそれは肉と罪に敗北しているということではなく、まったく反対であり、事実はすでに勝利しているのです。イスラエルは、もうすでに紅海の向こう岸、エジプトから出た地点にいます。彼らがいくらあがいても、自分はエジプトの中にいると叫んだとしても、それは嘘であり、事実はエジプトから出たのです。これと私たちのキリストにある位置は同じです。
神の所有とされた民
それからイスラエル人たちは、奴隷でありながらも肥沃な土地に定住していたところから、水もパンもない荒野で移動しながら生きる生活に変わりました。彼らは、単にエジプトから出ただけではなく、神の所有される民へと変わっていきます。ですから、生活のすべての領域において、神に拠り頼み、神に聞き、神のいのちの中で生きていかなければいけません。そこで、マラの水が苦かったとき、神の戒めによって甘くしていただき、天から一日分ずつマナを降らせていただき、岩から水を出していただくという行程を通りました。イエスさまは、「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)」と言われました。クリスチャンもイスラエル人と同じように、イエスさまから離れては何もできないような者にされました。神の所有とされた民だからです(1ペテロ2:9)。
けれども、私たちは個人生活において、これまで自分で何とか生活をやってきたのと同じように、自分でなんとかやりくりしようとしてしまいます。そうすると、これまで上手く行っていたのに、空回りしていることに気づき、焦りはじめます。「こんな簡単なことも?」と思うような些細なことさえ、できなくなります。それは私たちが、もはやこの世に属さない者となったためであり、すべての生活の必要が神から与えられるように変えられているからです。ですからクリスチャンがしなければいけない仕事は、神とキリストを信じることです(ヨハネ6:28−29)。行ないではなく、御霊によって、信仰によって生きます。
こうしてシナイ山に至るまでのイスラエルの生活を見てきましたが、次回はシナイ山のふもとからヨルダン川東岸までの旅を見ていきたいと思います。
出エジプトと荒野の生活 2
約束の地へ
(以下は、「幸いな人」10月号の記事の元原稿です)
前回、イスラエルがエジプトから脱出して、シナイ山に向かったところまでを見ました。そこには、罪の奴隷であった人間が、キリストが流された血によって贖い出され、新たないのちにある歩みを始めることが示されていました。今回は、シナイ山から約束の地に入る直前のところまで見ていきます。
恵みによる聖化
イスラエルの民は、シナイ山のふもとにほぼ一年間、宿営していました。モーセは山の上で主から律法を授けられ、幕屋を造ることも命じられました。幕屋が完成された後、栄光の雲がそこに満ち、そこで主はモーセを天幕に呼び寄せてお語りになりました。その言葉は、レビ記に記録されています(レビ2:1)。
この書のテーマは「聖め」です。主は幾度となく「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」と言われました(11:45等)。そして、聖めについて二つのことをお語りになっています。一つは1章から16章まで、「いけにえによって、主に近づく」ことです。もう一つは17章から最後までに書かれている、「聖別による、主との歩み」です。汚れたものから離れることで聖く歩むことが語られています。
ここで大切な点は、「聖め」は第一に、私たちが行なうことではなく主がすでに行なってくださったことに基づいていることです。いけにえには様々な種類がありますが、それらはみなキリストを表しており、十字架によって成し遂げてくださった御業を指し示しています。したがって、神さまから受け入れられるために、自分を清めようとしたり、宗教的活動を行なう必要はありません。キリストが行なってくださったことを信じることが、神に近づく道です。
実際、聖化について教えているロマ6章に書かれてあることを注意して読むと、「罪に対して死んだ」「キリストとともに葬られた」「キリストとともに十字架につけられた」、「イエス・キリストにあって生きた者」など、すべて時制が完了形になっていることがわかります。つまり、これから聖められるのではなく、“既に”聖められたのです。そして、この完了した事実を信仰によって受け取ることによって、聖潔に進むことができます。義と認められることが神の恵みによるのと同じように、聖めも一方的な神の恵みなのです(ローマ6:14)。
レビ記における第二のポイントは、十字架のみわざによって神に近づいた私たちが、神とともにいることで罪や汚れから離れることです。主と時間を過ごし、主との交わりを妨げるものに近づかないことで、それが可能となります。例えば、お酒を飲まずにいられない人が、仕事からの帰宅途中、酒屋でお酒を買ってしまう誘惑があるとします。その人がお酒を買う誘惑に打ち勝つ方法は、徹夜祈祷することでも、アル中克服のための十のステップでもなく、ただ「違う道を通って家に帰る」ことです。複雑な方法や戦略を要するのではありません。ただ御霊に導かれるときに、肉の行ないを殺すことができるのです。
キリストのわざによって神に近づき、神のうちにとどまることによって、私たちは聖化されていきます。イスラエルはシナイ山のふもとに宿営していましたが、私たちもキリストのみもとに宿営するのです。
教会とこの世での歩み
イスラエルはシナイから北上し、約束の地に向かって旅を始めます。主はモーセに命じて、成人男子とレビ人の人口を数えさせ、各部族の宿営する方角と位置を教えられた後に、雲によってイスラエルを出発させました。ところが民は、出発した矢先からひどく不平を鳴らし、肉が食べたいと言ってむさぼり、カデシュ・バルネアでは、向こう側に巨人がいるという理由でエジプトに帰ろうとする不信の罪を犯しました。そのため主は、二十歳以上の者たちがみな倒れて死ぬまで、イスラエルが四十年間荒野をさまよわせるようにさせました。約束の地に入ることができるのは、古い世代ではヨシュアとカレブのみで、他はみな新しい世代でした。
このように、モーセ五書の三番目の書物である民数記は、古い世代が死に、新しい世代だけが約束のものを受け続く過程を描いています。私たちが神の約束を受け継ぐのは、血や肉によってではなく、御霊によるのと同じです。
私たちの具体的な歩みは、学生なら学校、主婦なら家庭、社会人なら会社という現場で行なわれます。イスラエルが主から聞いたことを、荒野の旅で生かしていったように、私たちは自分の信仰を日常生活の場で生かしていきます。そして信仰生活は個人生活だけではなく、信者たちがいっしょに集まる教会において強められます。イスラエルが共同生活をしながら約束の地へ向かったように、私たちも神の国に入るまで教会生活をしながら前進するのです。
けれども教会生活において、私たちはとかく今までの古い価値やこの世的な考え方によって問題を起こしてしまいます。イスラエルの民と同じです。問題というと否定的に考えがちですが、それは成長していることの徴であり、教会が前進していることの現われでもあります。聖書的に問題に対処していくことによって、私たちはさらにキリストにあって成熟することができます。
ここで大事なのは問題から逃げないことです。イスラエルの民は約束の地にいる巨人に立ち向かうことをせず、逃避しました。しかしエジプトに戻ることもできず、結局その狭間の荒野をさまよいました。私たちにも同じことが当てはまります。例えば、ある教会に自分と反りが合わない人がいるという理由から他の教会に移ったとしても、移った先の教会にも結局、似た人がいたりするのです。神は、私たちが成長するためにそのような状況に私たちを置き、私たちが新しい御霊の生活を選び取るときまで、古い自己が死に絶えるのを待っておられます。
新しい世代のイスラエル人は、ガデシュ・バルネア方面から迂回して、ヨルダン川の東側を北上しましたが、古い世代とは違うところがありました。同じように罪を犯し、不満を述べましたが、燃える蛇にかまれたときは罪を犯したことを認め、イスラエル人がミデヤン人の女と宿営の中で不品行の罪を犯しているときにはその者を殺しました。罪の告白、内側の罪を取り除くという聖書的対応をしました。こうした対応は、健全な教会のために必要です。
神との愛の関係
そしてイスラエルはヨルダン川の東にいる王たちとの戦いで連勝し、ついに約束の地の手前、モアブの草原まで来ました。モーセは、自分が死ぬ直前に最後に残す言葉として、長い説教をイスラエル人に聞かせました。それが申命記です。申命記の元々の意味は「第二の律法」です。その意味の通り、内容はモーセが以前語ったことの繰り返しであり、全く新しい情報はさほどありません。けれども強調点が違います。モーセは繰り返し「主のおきてと定めとを聞いて、それを守り行いなさい。」と言いました。主の命令に聞き従うことが自分たちの生死を決め、約束の地における祝福とのろいを決定することを強調しました。
また、主の命令に聞き従うに当たって大事な言葉が申命記に書かれています。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)」です。機械的に戒律を守るのではなく、主ご自身を知って、その愛を知って、神への応答として神の命令に従います。主がイスラエルを選び、エジプトから連れ出されたとき、彼らを「恋い慕っていた」とモーセは語っています(7:7)。男が女を恋い慕い、結婚し、契りを結ぶように、主はイスラエルと夫婦の契約関係を結ばれました。出エジプト記から主はモーセを通して多くをお語りになりましたが、それは二者の関係を親密にし、豊かにするためでした。
クリスチャンも同じです。神の愛を知り、自分を愛してくださる神が語っておられることを知れば、私たちは自ずとその命令に聞き従います。神の愛を知れば、この方に全幅の信頼を寄せることができ、自分のすべてを任せることができます。主の命令が重荷とはならず、生きた神の御声として自然に聞き従うことができます。使徒ヨハネが、「みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。(1ヨハネ2:5)」と言ったとおりです。教会の中で伝道、礼拝、デボーション、奉仕などいろいろな語られますが、その目的はただ一つ、キリストにある愛の関係を育むことです。
こうして出エジプトから約束の地への旅を見てきました。パウロは、イスラエルの旅について語ったとき、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。(1コリント10:6)」と言いました。キリストについて、救いについて、聖化、奉仕、愛について知りたかったら、私たちの前にイスラエルという教材があります。ここから多くを学び、その中に生きていきましょう。
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