出エジプト記12章1‐14節 「過越祭」
1A エジプトを裁かれる主
1B 忍耐された神
2B エジプトの神々
3B 審判者
2A 裁きの過ぎ越し
1B 傷のない子羊
2B 門柱と鴨居の血
3B 血を見る神
3A 小羊なるキリスト
1B 新約における成就
2B 血による救い
1C 代替物
2C 神の方法
3C 全人類に対する贖罪
本文
私たちは、聖書通読の学びを出エジプト記11章まで来ました。明日の第二礼拝にて出エジプト記12章と13章まで学んでみたいと思いますが、今晩は12章1節から14節までに注目してみたいと思います。
12:1 主は、エジプトの国でモーセとアロンに仰せられた。12:2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。12:3 イスラエルの全会衆に告げて言え。この月の十日に、おのおのその父祖の家ごとに、羊一頭を、すなわち、家族ごとに羊一頭を用意しなさい。12:4 もし家族が羊一頭の分より少ないなら、その人はその家のすぐ隣の人と、人数に応じて一頭を取り、めいめいが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。12:5 あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
12:6 あなたがたはこの月の十四日までそれをよく見守る。そしてイスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。12:9 それを、生のままで、または、水で煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。12:10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは、火で焼かなければならない。12:11 あなたがたは、このようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。12:13 あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。
私たちは、キリスト教の祭りについて主に二つの祭りを知っています。いや、日本では一つしか知らないかもしれません。一つはクリスマスですね。イエス・キリストがお生まれになったことを祝う祭りです。そして、もう一つはイースターです。日本語にすれば「復活祭」です。イエス・キリストが十字架にかけられ死なれて、墓に葬られてから、三日目によみがえったことをお祝いする日です。
けれども私たちには、全くと言ってよいほど知られていない祭りがありますが、それが過越の祭りです。英語ですと”Passover”です。三月の終わりから四月の初めに、ユダヤ人の間で祝われます。そしてそれが、キリストが死なれた受難日と同じ時期にあります。アメリカではユダヤ人の多いニューヨークの地区では、その時期は、スーパーマーケットにイースターの商品と同じぐらい数多く過越祭の商品が並んでいます。その過越の祭りの始まりを、私たちは今読みました。ここにあるとおり、永遠のおきてとして今日に至るまで祝われているのです。
1A エジプトを裁かれる主
神はこれから、大きな裁きをエジプトに下されます。それは、エジプトにいるすべての初子を殺すというものです。家畜であれ、人間であれ、初めに生まれた男の子を初子が一夜にして死に絶えるというものです。
1B 忍耐された神
このような恐ろしい裁きを神は行われますが、ここに至るまでものすごい期間を要していることを私たちは知らなければなりません。イスラエルがエジプトに来てから既に四百三十年が経っています。ヨセフがいなくなってから、ヨセフのことを知らないエジプトの王が出てきて、それからエジプト人はイスラエル人を奴隷として扱ってきました。
それから、パロはヘブル人の男の赤ん坊をすべて殺さなければいけないと命じて、なんとエジプト人に対して、へブル人の男の子を見たらナイル川に投げ入れなければいけないと命じたのです。そのような大虐殺をパロは執行していたのです。そして、その頃モーセが生まれました。彼が80歳になった今も、エジプトはイスラエル人を奴隷として酷使していたのです。
そしてモーセを通して神がエジプトに災いを下されましたが、この初子を殺す災いの前に九つの災いがありました。神はパロに対して、「わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。(9:15)」と言われました。一瞬のうちに神は彼らを滅ぼすことがおできになったのです。けれども神は、その手を自らとどめ、彼らが悔い改めて、まことの神に立ち返ることができる機会を与えておられました。
ですから神は、エジプトへの裁きをとてつもない忍耐で控えておられたのです。そして神は、忍耐をもって人間が悔い改めるのを待っておられる方です。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)」
人はみな死に、死んだ後で裁きを受ける定めの中にあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・(へブル9:27)」今回の津波によって、数多くの人が「なぜ神がこれだけ多くの人を死ぬようにされたのか?」という質問をします。けれども、私は反対に次の疑問を抱いています。「なぜ、これだけ多くの人を神はまだ生かしておられるのだろうか?」
人は必ず死にます。そしてどんなに長く生きても、日本が世界一の長寿国と言えども、せいぜい百歳です。そして日本人が癌に発病する確率は二分の一とまで言われています。ある人は二十代で死に、ある人は二十代、三十代で早く死んでいます。けれども、まるで私たちがすべて末永く生きるのが当然であるかのように、「なぜ神は人々をそのように殺したのか。」と神を非難するのです。まるですべての人が病気もせず、事故にも遭わず、長生きするかのように仮定していること自体、現実に即していません。必ず死ぬ存在であるのですから、むしろ、「なぜ、私は今、死なずにこのようにして生かされているのか?」を問わなければいけないのです。人は自分の寿命を延ばすことはできません。命というのは、それを造られた神の手の中にあるのです。
そして、人は必ず裁きを受けます。人間は意図的に犯している罪、また知らずに犯している罪があります。法律で裁かれないことも、また社会や文化の中では許されていることも、実は悪いことであり、許されないことがたくさんあります。例えば、誰かが人の物を盗めば、警察に捕まえられるかもしれません。けれども、自分の知人や友人の噂話をしたら、法律に問われるでしょうか?けれども、物が盗まれても自殺する人はほとんどいませんが、信頼している友人が自分の悪口を言っているのを知って自殺に追い込まれる人は数多くいるでしょう。これらの自分が何気なく行っていることによって、とてつもない罪を犯していることもあり得るのです。
これらの総清算を、私たちは死後に受けるように定められているのです。
けれども、私たちは普段、そのように神に裁かれることを意識していません。なぜでしょうか?それは、神がすぐに私たちを裁いておられないからです。ちょうどエジプトを神が長いこと忍耐しておられたように、私たちが滅びることを望まず、悔い改めるのを待っておられるのです。けれども、それを私たちは自分に都合の良いように解釈します。
一つは、「神は存在しない」と思っていることです。パロは、「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないとは。(5:2)」と言いましたが、自分が悪いことをしていても、特に悪いことが起こらないので神はいない、と思っています。
もう一つは、「神がいたとしても、自分に対しては何もすることのできない弱い存在だ。」と思っていることです。自分が悪いことをしても、自分を裁く能力がないから何も起こっていないのだと解釈しているのです。
さらに、「神は自分の行っていることを是認しておられる。」と思うこともあります。自分が悪いことを行っているのは、神がそうされているからだ、と開き直るのです。
2B エジプトの神々
そして、エジプトの初子を殺されるに当たって、神はエジプトの神々に裁きを下そうと言われました。12章12節をご覧ください。「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。」
なぜエジプト人が、生きているまことの神、主を信じなかったのでしょうか?それは、天地を造られたイスラエルの神以外に、自分たちが頼ることのできる神々が自分たちにいたからです。これらの神々は、同時に、エジプト人の誇りでもありました。ナイル川はエジプト文明の源ですが、ナイル川が神として拝まれていました。川に棲息する蛙は、エジプトの豊かさを表し、神として崇められていました。そして牛は、農耕や運搬などで活躍していたので、ミイラにされ棺桶に保存されるまで神聖なものでした。そして、王であるパロ自身が、太陽神ラーの化身であるとされていました。
ですから、「神々」というのは、まことの神、天地万物を造られた、生きている神以外の、あらゆる拠り所なのです。自分にとって自分の仕事がその安心感を与えるものであれば、仕事が神です。趣味がなければとてつもなく不安になるのであれば、その趣味が神です。しばしば言われることですが、アメリカでは危機が来ると信頼すべきもの、拠り所として教会を挙げます。確かに同時多発テロが起こった時に、教会に人数が増えました。けれども日本では「主要新聞の情報」が拠り所だそうです。マスコミを神にしているのです。
または自分の生き方、哲学、またこれまでの自分の功績を拠り所にしているかもしれません。それらがいかに頼りにならないかを、生けるまことの神は強い腕によって示されるのです。
3B 審判者
神の裁きは免れることはできません。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:3‐5)」
そして神の裁きは、とこしえに続きます。この裁きは最高裁判所のそれであり、永遠の定めの中に入ります。「そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。(黙示14:11)」そして、神の裁きは正しいです。「神のさばきは真実で、正しいからである。(同19:2)」そして神の裁きは厳罰であります。「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(ヘブル10:31)」
2A 裁きの過ぎ越し
しかし、神は、裁きを免れることのできる救いの道を与えられました。それが過越の祭りの意味です。13節をご覧ください。「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」ここの「通り越そう」が、「過ぎ越す」であり、英語では、”Pass-over”です。神の裁きが通り越すのです。子羊が代わりに神の裁きを受け、血を流すことによって、その裁きを受けなくても良いようにしてくださる道を神は備えてくださいました。
1B 傷のない子羊
この子羊に注目しましょう。5節をご覧ください。「あなたがたの羊は傷のない一歳の雄でなければならない。」傷のない子羊、つまり完全なものを備えなければいけません。
2B 門柱と鴨居の血
神はこの月をイスラエルにとっての初めの月に定め、その十日に羊一頭を用意します。そして十四日に、これをほふって、7節には、「その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。」とあります。大事なのはこの血を、家の入口である門柱と鴨居に付けることです。
3B 血を見る神
そしてその羊を火で焼いて食べますが、その夜に死をもたらす天使がエジプト中を巡ります。そして、家々に入って初子を打ち殺すのです。けれども、13節を再び見てください、「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」と神は約束してくださっています。ご覧になるのは「血」なのです。
イスラエル人であるか、エジプト人であるかの区別ではありません。またその家の中にどんな人が住んでいるかの尺度ではありません。また何を行っているかどうかの違いでもありません。専ら、門柱と鴨居に血が付いているかにかかっているのです!したがって、中にいる男の子は自分の命がその血にすべて拠っていることを身をもって体験したことでしょう。家族の人たちは、自分の愛する子がその血のみに寄りかかっていることを実感したことでしょう。
3A 小羊なるキリスト
1B 新約における成就
先ほど、すべての人は死に、神の裁きを受けなければいけないことを強調しました。けれども、イスラエル人だけではなく、人類全ての人たちに神は、同じように裁きを過ぎ越す備えを与えてくださっています。「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。(1コリント5:7)」過越の子羊はまさに、イエス・キリストを予め表していたのです。
イエス・キリストがなぜ死ななければならなかったのか?なぜ、その血が流されなければならなかったのか?それは専ら、この血に私たち人間の救いの全てが掛かっているからです。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18‐19)」
なぜ、キリスト教においてキリストの血がそんなに強調されるのでしょか?なぜ、あのような残酷でむごい、おぞましいことを強調するのでしょうか?それは、神の裁きが背後にあるからです。私たちが死ななければならない神の罰があります。それは厳しく、恐ろしく、永遠のものです。けれども、神はご自分の子の血をご覧になることによって、キリストの内にいる者たちへの裁きを過ぎ越してくださるのです。それゆえ強調されるのです。この方の流された血こそが、私たちの罪を赦し、洗い清め、古い生き方から救い出す力を持っているのです。
イエス様は、弟子たちと過越の祭りの食事を、十字架につけられる最後の夜に取られました。イエス・キリストは、実に過越の祭りの日に、その祭りが表している贖いを成し遂げられました。過越の食事には、イースト菌の入っていないパンを裂いて食べる儀式があります。それを食べる時にイエス様は言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。(ルカ22:19)」そして、ぶどう酒の杯を食事の間に合計4杯飲みますが、三杯目の杯は「贖いの杯」と呼ばれます。それを飲むときに、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(同20節)」と言われました。子羊がほふられるのが、まさにイエス様ご自身のからだがほふられ、血を流される意味として弟子たちに教えられたのです。
2B 血による救い
1C 代替物
ですから、私たちは死と裁きから救われるためには、キリストの血の注ぎかけを受けなければいけません。ちょうど、キリストという家の中にいて、その入り口にはキリストの血が付けられていなければいけません。
しかし、それ以外のものを私たちは代替物として持ってこようとします。先ほど話していた、自分が大切にしているものです。ある人は、キリストの血を拒んで、「私はそれでも、自分の特技を生かした仕事に熱中します。」と言います。またある人は、「私には大事な人がいます。キリストの血は必要ありません、何ならその人を家の入口に立たせておいてもいいです。」と言います。ある人は、「キリストの血は受け入れられない。私がこれまで成し遂げた功績でも戸口に刻み込んでおこう。」と言います。
2C 神の方法
しかし、私たちの行ってきたこと、私たちが持っている物、私たちの側にあるものによって、神は裁きを免れさせることはなさらないのです。私たちではなく、私たちの罪のために代わりに流されたキリストの血なのです。私たちが神に近づくときに、私たちの良いと思う方法ではなく、神の方法によって近づかなければいけません。これが、自分の行いではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められる方法です。
3C 全人類に対する贖罪
そして、これがすべての人に対する神の贖いであることに気づいてください。神は、エジプト人の中で差別を設けませんでした。パロの息子から奴隷の息子まですべてが死にました。「すべての人は、罪を犯した(ローマ3:23)」とあります。全ての人なのです。
そして、神は愛です。私たちが一人として滅びることを願っておられません。けれども神は義なる方です。罪を罰せずにいることはできない方です。ゆえに、神は私たちを愛するがゆえに、ご自分の義にしたがって、キリストをもって裁かれたのです。どうか、イスラエルの民と同じように、迫りくる神の裁きに対して、キリストの血をもって救われてください。この方の流された血が、まさに自分の罪のために流されたものであることを受け入れてください。神は救ってくださいます。死から、裁きから救ってくださいます。