出エジプト記14章26-31節 「紅海のバプテスマ」
アウトライン
1A 水の裁き
2A 海に沈む死体
3A 主とモーセへの浸し
4A 新しい命
本文
出エジプト記を開いてください、明日は出エジプト記14章以降を学びますが、今晩は14章の最後の部分、26節から31節までに注目してみたいと思います。
14:26 このとき主はモーセに仰せられた。「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」14:27 モーセが手を海の上に差し伸べたとき、夜明け前に、海がもとの状態に戻った。エジプト人は水が迫って来るので逃げたが、主はエジプト人を海の真中に投げ込まれた。14:28 水はもとに戻り、あとを追って海にはいったパロの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残された者はひとりもいなかった。14:29 イスラエル人は海の真中のかわいた地を歩き、水は彼らのために、右と左で壁となったのである。14:30 こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われた。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。14:31 イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。
前回私たちは、エジプトを出たばかりのイスラエルの民の姿を読みました。けれども主は、モーセに紅海のそばで宿営しなさいと、引き返すような道筋を取られました。そこは、山と山、そして紅海に囲まれたところであり、それを知ってパロは、「イスラエルをまた捕まえてやろう。」と思いました。袋小路に入ってしまった、と思ったのです。けれども、それは主のおとりでした。彼らを完膚なきまで滅ぼすためだったのです。
海に阻まれたイスラエルの民ですが、神がその紅海に風を吹きつけられて右と左に分けられました。そして、その乾いたところを民は渡りました。向こう岸に渡り切った後に、追いかけてきたエジプト軍がまだ分かれた海の底にいました。そこで主がモーセに命じられたのです。「あなたの手を海に差し伸べ、水がエジプト人と、その戦車、その騎兵の上に返るようにせよ。」と。そして、イスラエルの民は、海の中にエジプト軍が沈んだのを見て、初めて主とモーセとを信じたのです。
神の御力が大きく現れた、この壮大な出来事を、新約聖書では霊の出来事として解釈しています。コリント第一10章を開いてください、1-4節を読みます。
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
海を通って行ったことを、「モーセにつくバプテスマ」だと言っています。「バプテスマ」は「浸かる」という意味で、一般に「洗礼」として知られている単語です。けれども、洗礼は頭に水滴を垂らす滴礼をしばしば表すので、正確には「浸かる儀式」ということで「浸礼」と言ったほうが良いでしょう。
聖書には、「バプテスマ」が大きな出来事して何度も出てきます。これを紅海の中を通って行った事から学んでみましょう。
1A 水の裁き
パロが率いるエジプト軍が水の中で死んだのは、もちろん彼らに対する神の裁きの現れです。パロは、神の所有の民であるイスラエル人を、自分の所有物とし、彼らを苦役に服させました。主なる神が命じられるとおりにエジプトを出て行かせなければならなかったのに、言うことを聞かず彼らを奴隷のままにしておこうとしたのです。このことに対して、神がパロに鉄槌を下されました。
神は、水による裁きを出エジプト以前にも行われました。そうです、ノアの時代の洪水です。「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。(創世6:11-12)」とあります。この暴虐と堕落のゆえに、水をもって彼らを地上から消し去ることをお決めになりました。
そして出エジプトのイスラエルの民と同じように、ノアの家族は箱舟によって水の裁きから救い出されたのです。したがって、使徒ペテロは第一の手紙の中で、これをバプテスマの型であると話しています。「昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。(3:20-21)」
ですからバプテスマは第一に、「水をもって裁く」ことを意味します。出エジプト記14章では、イスラエルを奴隷のままにしておこうとするパロの力が裁かれたのです。イスラエルが自由になるのを阻む力を無効にされたのです。
イエス様は、この力を悪魔から来ているものとしています。私たちをいつまでも罪の中に置き、罪にがんじがらめにしている悪魔が、もはやその人の生活を支配することがないように、決定打を加えられました。「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16:11)」とイエス様は言われました。私たちではどうすることもできない罪の支配を、神は悪魔の頭をこなごなに打ち砕くことによって、解放してくださったのです。
イエス様は、ご自分を信じたというユダヤ人に対して、「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32)」と言われました。それに対してユダヤ人は、「私たちが奴隷にされたことはない。」と答えました。「アブラハムの子どもだからだ」と言いました。けれどもイエス様は、「アブラハムの子どもならば、そのようにふるまいなさい。けれども、あなたはわたしを殺そうとしている。あなたの父はアブラハムでも、神でもない。悪魔があなたがたの父なのだ。」と言われました。
イエス様は、ご自分をねたみ殺そうとしている者たちがユダヤ人の中にいるのを知って、そう言われたのです。彼らは、イエスを妬む思いから解放されることはできませんでした。それは、悪魔が自分の殺意の源だったからです。皆さんはいかがでしょうか?どうしても湧き上がってくる悪い思い、ねたみや怒り、そねみ、悪口、高慢、こうしたものから解放されているでしょうか?その背後には、私たちの罪に働く悪魔の力があるのです。
そこでキリストは罪のために死なれました。この悪魔の力を滅ぼすためです。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15)」
もう一つ、バプテスマにあるすばらしい霊的出来事について書いてある箇所があります。コロサイ2章12-15節です。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」
私たちの主、イエス・キリストが死なれた時に、このように悪魔は裁かれたのです。このように武装が解除させられ、さらしものとされています!したがって、紅海の中でイスラエルを苦しめていたパロが滅んだように、私たちを苦しめていた悪魔がその効力を失いました。
2A 海に沈む死体
次に、エジプト軍が死んだことそのものに注目してみましょう。イスラエル人は、自分たちがエジプトを出てからも追跡をするエジプト軍を非常に恐れました。エジプトから出てからも、自分たちをストーカーのように執拗に追い続けることに、恐怖を味わったことでしょう。けれども、イスラエルは仮にエジプトが追いかけてこなかったとしても、エジプトが容易に自分たちを追ってくるという懸念や不安はいつまでも持っていなければならなかったはずです。
けれども、今、このようにして目の前で、彼らが死んだのを見ました。「イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見た。」とあります。確かに死んで、自分たちを苦しめることはなくなったことを見ました。
心理学の用語で「トラウマ」という言葉があります。「心的外傷」と訳される言葉ですが、ある衝撃的な出来事を受けると、それが心理的不安定状態となって、あるいは肉体に症状が現れると言うものです。私は心理学にこのような用語があるかどうかまったくわからないし、新しい造語ですが、対抗として「逆トラウマ」現象があると癒えるのではないか、と思いました。つまり、そのトラウマを打ち消すに値する、その反対の出来事を目撃することです。自分を苦しめていた人が、夢の中でも自分を襲ってくるのから解放されるためには、その苦しめてきた人が自分の目の前で消されることを見れば、その悪夢からも解放されるのではないかと、勝手に想像しています。
主が行われたのはまさに、「逆トラウマ」現象でした。エジプト軍が海の中に沈むのをイスラエルに目撃させたのです。このことによって、エジプト人は自分を絶対に支配することはないと確信することができました。
バプテスマの表すもう一つの霊的救いは、「死んだ」ということであります。罪に対して生きてきた自分が死んでしまった、ということです。水のバプテスマにおいては、その水が墓を意味します。そして罪に対して生きてきた自分がその中に葬られたことを表すのです。「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:2-4)」
キリストが私たちの罪のために死なれて、葬られました。同じように、罪に対して生きていた古い自分がキリストと共に死に、葬られたのです。エジプト軍が水の中で沈み、死に絶えたように、罪に支配された自分は死に絶えてしまったのです。
けれども私たちは悩みます。それは過去の出来事が今でも現実であるかのように自分の思いに舞い戻ってくるからです。そのために、私たちはいつもバプテスマを思い起こさなければいけません。水に沈められた時に、もはや古い自分は死んだのだと思い起こし、いくらその罪が生き生きとしていても、それは死んでしまったのだとみなさないといけないのです。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6:11)」死んだ者であると、みなしていくのです。イエス・キリストを自分の救い主として心に迎え入れているのであれば、あなたはもはや罪の支配の下にいません。もうその古い自分は死んでしまいました。今は新しく生かされているのです。
3A 主とモーセへの浸し
そして、31節で「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」とあります。これをコリント第一10章では、「モーセにつくバプテスマ」と呼んでいます。英語で読むともっと分かりやすいですが、”baptized into Moses”つまり、「モーセの中にバプタイズされた」あるいは「モーセの中に浸された」と訳すことができます。
バプテスマの元々の意味は「浸す」ですが、真っ白い布が紫の染料の中に入れられると、その布は紫になります。これが「布は紫染料につくバプテスマを受けた」と言い換えることができる、というものです。つまり、その相手と一体化するという意味を持っています。
モーセにつくバプテスマを受けたとは、モーセが主に出会い、主から聞き、主の約束を信じてエジプトを出たことを、自らも経験したことを表します。彼は四十歳の時にエジプトを出ました。エジプトの君子になるべき地位に着いていたにも関わらず、イスラエルの民の苦しみと一体となり、エジプトのパロに追われる身となって、羊飼いとなったのです。エジプトの富と地位を享受していましたが、それははかない罪の楽しみだとみなし、キリストの苦しみをさらにまさる富だと思ったのです。
そしてモーセは、主がイスラエルの民をエジプトから救い出し、イスラエルを約束の地に導き入れることを堅く信じました。この、主とモーセにある関係の中に、イスラエルの民も入ってきた、という意味です。ですから、モーセを単に自分の良き先生という存在ではなく、モーセのいうことは神の言われることである、という一体感をもって彼を預言者として仰いでいるということです。
つまり、私たちが水のバプテスマを受ける時に、キリストにつくバプテスマを受けるのですが、キリストの死と復活に自分も一体化させることを意味します。キリストがもはや自分の先生であるとか、自分の助言者であるという客観的な存在ではなく、自分がキリストをかしらとして、キリストに結びついている者だという認識です。キリストが、自分を教えるのではなく、キリストが自分の内におられるという事実です。パウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)」と言いました。
モルモン教徒の人と会話をしたことがあります。モルモン教というのは、キリスト教の異端と呼ばれていて、キリストを神の独り子ではなくルシファーの兄弟であるとします。私自身が、ハワイのポリネシアセンターで、そこで働いている日本語を話す人が、「私は日本の宣教師でした。」と言いました。彼はもちろんモルモン教徒としての宣教師です。彼は、「日本人には良い人が必要です。」と言ったのです。私は言いかえしました。「良い人は必要ではありません。主なるイエス・キリストが必要なのです。」
もう一つ、私の友人の牧師の家に、モルモン教徒の宣教師が訪問して、「イエス・キリストはすばらしい人ですね。」というような話をしました。彼は、「キリストは良い人であるとか、そういう存在ではなく、私にとっては自分のすべてなのですが。」と答えました。
私の場合も、友人の牧師の場合も、そしてすべてのクリスチャンにとって、キリストが自分の主であり、自分と一体になってくださった方です。この方の道筋を共に歩んでいくように召された者たちなのです。キリストと一つにされたのであり、キリストの死と復活も自分も追体験するように召されたのです。
ですから、私たちが再び罪を犯しそうになった時に、キリストが十字架につけられたことを思い出します。この方と共に十字架につけられたのですから、その罪も十字架につけられていたのです。そうすれば罪を犯さなくても良いことに気づきます。そして、今の自分はキリストと共によみがえったのであり、新しい人にしていただいたのです。
パウロは自分の生き方についてこう話しています。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11)」キリストと一つにされているのですから、今、このようにして生きている私たちが、何らかの形でキリストの苦しみと死、そして復活を現します。それは自分がことさら、これから特別なことを行うのではなく、もうすでに一体化されているのですから、いやがおうにもそうされていきます。私たちも主が祈られたように、「私の願うようにではなく、父の御心がなりますように。」という祈りを捧げるのです。
4A 新しい命
そして紅海を渡ったことについて、バプテスマについての最後の点は、「新しくされた」ということです。もうエジプトの生活は過ぎ去りました。自分の前にはまったく新しい生活が待っています。荒野を歩いて、そして約束の地に向かうのみです。
使徒パウロは言いました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」
カルバリーチャペルの牧師の一人に、ラウル・リースと言う人がいます。彼は父がアル中で暴力をふるう人で、その父への怒りが発展して、彼は怒りを制御することのできない人となってしまいました。高校では喧嘩で有名になり、警察のやっかいにもなりました。そして、彼は裁判官から刑務所に入るか、ベトナム戦争に従軍するかの選択を迫られ、後者を選択しました。彼はそこで数多くの人を殺し、恐ろしい体験もしました。
そしてクリスチャンの女性と結婚しました。けれども、彼女への虐待が始まり、彼はついに彼女と子供たちを殺して無理心中しようと思いました。ところが、妻と子供が戻ってくるのを待っている時にテレビをつけると、チャック・スミス牧師が説教をしていました。その言葉に打たれて、その場で主イエス・キリストを心に受け入れたのです。
それから、妻を探しに外に出て、また家に戻ってくると彼女がいました。ラウルは、「僕は新しく生まれた。イエス様を信じたのだ。」と言っても信じてもらえません。彼女は、彼が本当に変わったのを信じるまで一年かかったそうです。そして彼は元いた高校にも戻って伝道を始めました。彼の経歴を知っている地元警察は彼がやってきたので、警戒しました。そこでラウルが言ったのです。「私は古いラウルではない。新しく造られたのです。新しいラウルになりました。」
だれでもキリストのうちにある者は、新しく造られたのです。古いものは過ぎ去りました、すべてが新しくされたのです!
イスラエルは、このように過去の自分に死に、新しい自分に行き、主との生活を始める体験をしました。皆さんは、新しい命にある歩みは始められたでしょうか?古い自分と新しくされた自分とにはっきりとした境界線を持っているでしょうか?イスラエルが、元に戻った海を見たように、どうか古い自分が水の中に葬られていることを思ってください。そして今の自分は、キリストにあって新しく造られたのだ。だから、新しい歩みを始めるのだという決断を行ってください。