出エジプト記15―18章 「主の備え」

アウトライン

1A 動機 − 主の慈愛 15
   1B 賛美 1−21
      1C 歌 1−19
         1D 勝利 1−10
         2D 確信 11−18
      2C 踊り 20−21
   2B いやし 22−27
2A 特徴 − 主の真実 16
   1B 約束 1−12
      1C 民の不平 1−3
      2C 主の答え 4−12
   2B 方法 13−36
      1C 日々 13−21
      2C 安息日 22−30
      3C 保存 31−36
3A 方法 − 主の臨在 17
   1B 満たし 1−7

   2B 勝利 8−16
4A 土台 − 主の知恵 18
   1B 敬虔な人 1−12
      1C 邂逅 1−7
      2C 報告 8−12
   2B 助言 13−27
      1C 計画 13−23
      2C 実践 24−27

本文

 出エジプト記15章を開いてください。今日は、15章から18章までを学びます。ここでのテーマは、「主の備え」です。神はご自分が贖われた者たちの必要を満たしてくだることがテーマです。私たちは出エジプト記で、「贖い」という神の真理を学んでいます。イスラエルがエジプトから救い出されたことを通して、私たちクリスチャンが罪から救われることについて知ることができます。前回は、イスラエルが生かされて、エジプト人が殺された記事を読みました。エジプトの初子はみな殺されたのに、イスラエルの家では犬がうなりもしないほど平穏でした。そして、エジプト軍はみな紅海の中に沈みましたが、イスラエルは分かれた紅海を渡って救われました。この出来事を目の当たりにしたとき、イスラエルは神を信じ、モーセを信じました。つまり回心したのです。同じように、私たちも、イエス・キリストの十字架のみわざと復活の出来事を見るとき、神が自分のためにしくくださったことを思って、信仰へと導かれるのです。

1A 動機 − 主の慈愛 15
 そして今日は、彼らが紅海を通って、エジプト軍がみな海の中に沈んでしまった直後の話を読んでいきます。エジプトから救われたことによって、彼らの心にあふれ出てきたのは賛美です。自分を救ってくださった神をほめたたえました。

1B 賛美 1−21
1C 歌 1−19
1D 勝利 1−12
 そこで、モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。彼らは言った。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。

 賛美とは必ずしも歌を歌うことではありませんが、歌は賛美するのに最も良い方法です。神が私に良くしてくださったことを思うとき、私たちは感謝と畏敬の念を持ちます。また、神の偉大さ、すばらしさを思うとき、私たちは主をほめたたえずにはいられなくなります。でも、自分の心にある思いを十分に言い表すことは難しいです。もっと適切に主をほめたたえたいと思います。そこで歌があるのです。歌は、私たちの心の思いを十分に表現してくれます。自分の愛している人に、「愛しているよ。」と言うよりも、ラブ・ソングを歌って、メロディーをつけて、いろいろな表現を使って愛していることを伝えたほうが効果的ですよね。同じように、主に対しても、歌を歌うことによって賛美するのです。詩篇には、「全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。(95:4)」とあります。使徒パウロは、「詩と賛美と霊の歌をもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:19)」と勧めました。

 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。主はいくさびと。その御名は主。

 
神が自分たちにしてくださったことから、神がどのような方なのかを表現しています。私の力、ほめ歌、私の救い、わが神、私の父の神、いくさびと、そしてヤハウェです。このように、賛美は、主が私たちに良くしてくださったことに反応として、心からあふれてくるものです。ですから、これは、礼拝の中でこなさなければいけない儀式として、その歌詞を追って歌うことではありません。そうではなく、主が自分のためにしてくださったことを思い、自然に心から湧き出るものを歌うことなのです。

 4節から10節までは、主がエジプトに対してなされたことを歌っています。主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも紅海におぼれて死んだ。大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。主よ。あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威力によって、あなたに立ち向かう者どもを打ち破られる。あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。あなたの鼻の息で、水は積み上げられ、流れはせきのように、まっすぐ立ち、大いなる水は海の真中で固まった。敵は言った。『私は追って、追いついて、略奪した物を分けよう。おのれの望みを彼らによってかなえよう。剣を抜いて、この手で彼らを滅ぼそう。』あなたが風を吹かせられると、海は彼らを包んでしまった。彼らは大いなる水の中に鉛のように沈んだ。

 エジプトは、石のように、鉛のように沈みました。誰一人として、水から這い上がって生き残ったものはいません。

 主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。

 主なる神と他の神々と言われているものを比較して、主なる神がはるかに優っていることを歌っています。海が分けられて、その乾いた地を何百万人もの人が通りすぎたなどというのは、どんな科学技術をもってしても実現できません。預言者サムエルの母ハンナも、こう祈りました。「主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。(1サム2:2)

 あなたが右の手を伸ばされると、地は彼らをのみこんだ。

2D 確信 13−18
 ここまでが、神がエジプトに対し行なわれたことについて歌われていました。次からは、イスラエルが、敵によって倒されることなく、無事に約束の地にたどりつくことについて歌われています。

 あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き、御力をもって、聖なる御住まいに伴われた。
聖なる御住まいとは、約束の地のことです。国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕えた。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。

 紅海の中にエジプト人が沈み込んだ話はすぐに地域の住民に広まりました。それで、彼らは自分たちも滅ぼされることを考え、恐れ震えるようになります。

 恐れとおののきが彼らを襲い、あなたの偉大な御腕により、彼らが石のように黙りますように。主よ。あなたの民が通り過ぎるまで。あなたが買い取られたこの民が通り過ぎるまで。

 
実際に、イスラエルは通り過ぎて、約束の地に入っていきました。ところで、この歌はエジプト人が紅海の中に沈んでいった直後に歌われたものです。したがって、これは将来のことを歌っているばずです。けれども、あたかも実際に起こったかのような歌われ方がされています。特に13節、14節には、「伴われた」「捕らえた」と過去形になっています。マリヤがイエスを身ごもったときの賛歌もそうでしたが、将来の出来事を過去の出来事のように歌っているのです。なぜでしょうか。ぜったい起こるという確信があるからです。ぜったいに起こることがわかっているので、それがあたかも起こったかのように表現しているのです。でも、なぜ、ぜったい起こることが分かるのでしょうか。主が彼らにあまりにも大いなることを行なわれたからです。あまりにも絶大で偉大なことをしてくださったので、将来について絶大なる信頼を抱くように促されたのです。同じように、神はキリストにおいて、ものすごい、とてつもないことを私たちのためにして下さいました。そのことを悟るとき、私たちは将来の行く末についてものすごい強い確信を持つことができるのです。また、日々の生活の中で主がしてくださっていることに気づくと、将来も良くしてくださることを信頼できるようになってきます。

 あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。主よ。あなたの御手が堅く建てた聖所に。

 あなたご自身の山とは、エルサレムのことでしょう。さらに、そこに建てられる神殿のことも語られています。主はとこしえまでも統べ治められる。」これは、永遠の御国のことです。主は、カナンの地にイスラエルを導かれたあと、エルサレムの神殿にお住まいになり、そこから永遠に統べ治められます。今、イスラエルにユダヤ人が次々と帰還しています。主イエス・キリストが再び来られるときその帰還は完了します。そして、エルサレムに神殿が建てられ、イエスはその神殿から世界を治められるのです。

 パロの馬が戦車や騎兵とともに海の中にはいったとき、主は海の水を彼らの上に返されたのであった。しかしイスラエル人は海の真中のかわいた土の上を歩いて行った。

 
この出来事に基づいて、この歌がうたわれましたが、聖書全体をとおしてこの出来事が思い出されています。とくに詩篇ではこの出来事について多くが歌われています。また、この出来事に基づいて、神の救いのご計画も語られます。申命記、ヨシュア記、イザヤ書、新約聖書、黙示録などの書物で、この紅海が分かれた出来事が原型となって神の救いを語っています。だから、これは永遠に思い出すべき出来事なのです。

2C 踊り 20−21
  アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。

 歌をうったっただけではなく、踊って主を賛美しました。ミリヤムは、このとき90を越えたおばあさんですが、イスラエルの女たち全員を導いて、タンバリンを使って主をほめたたえています。

 ミリヤムは人々に答えて歌った。「主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」

 これは、1節に出てくる歌詞と同じになっています。つまり、この歌はコーラスになっていたのでした。おそらく、男たちがまず一節を歌って、それに続き女性たちが同じ節を歌ったのでしょう。こうして女預言者ミリヤムは、主の御前で踊りました。けれども、次に彼女が出てくるときは、モーセに逆らい、主が彼女をらい病にされています。これほどまでに主を賛美したのに、時間が経って心が変わり、主に反抗したのです。残念なことですが、心に喜びが満ちあふれて主を賛美しているその人が、次の瞬間に主に逆らうような発言や行動を取ることがあります。

 けれども、こうしてイスラエルの民は、主が良くしてくださったことを喜び、賛美しました。

2B いやし 22−27
 そして、彼らは旅立ちます。モーセはイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

 この記事を読んで、私たちは、「エッ!主へ賛美は、たった3日間しか持たなかったの?」と思ってしまいます。そうなんです、3日間しか持たなかったのです。でも、彼らのことを非難することはできません。第一に、彼らが歩いていたのは灼熱の、草一つ生えていない砂漠です。それに、体力のある男性だけが歩いていたのではなく、子どもも老人もいっしょに歩いています。水も尽きました。ようやく水にありつけたと思ったら、苦かったのです。文句が出るのも無理からぬことです。第二に、こんな大変な状況にならなくても、私たちは常々、不平をもらしています。月曜日の朝目が覚めると、「なんで、仕事なんかに行かなければいけないんだ。」と思ってしまいます。人から、「お元気ですか?」と聞かれて、元気じゃないのに、「はい、元気ですよ。」と答えてしまいます。なぜなら、生活は、疲れと忙しさに取り囲まれているからですね。だから、不平が出るのです。

 けれども、イスラエルは、不平をもらすことが習慣になってしまいました。何か辛いことが起こると、きまってモーセとアロンを非難しました。その不平の内容は次第に悪化し、エジプトを恋い慕うようになり、ついには、モーセの代わりに他の指導者を立ててエジプトに戻ろうとさえします。そこで神は、彼らにさばきを下されました。あるときは疫病を送られ、あるときは火事が宿営の中に起こるようにされました。そして最後には、彼らを40年間荒野でさまよわせたのです。なぜでしょうか?なぜこのようになってしまったのでしょうか?それは、彼らが不信の罪に陥ったからです。神が自分たちに良くしてくださっていることを信せず、逆に意地悪をしていると思ったからです。彼らは、口で神をのろうようなことをは言いませんでした。けれども、指導者のモーセを非難することによって、実は神を非難していたのです。

 これは、実に大勢のクリスチャンが持っている不満でもあります。魂の救いを得て、喜びに満たされます。けれども、その後の歩みが、救われたように感じることができません。むしろ、生活は辛く、苦しく、問題だらけです。だから、神が本当に、心の奥底から自分を愛してくださっていると信じることができていないのです。しかし、それは、救いの意味を履き違えているところから出てくる悩みであります。私たちの救いは、神の御国に入ることのできる救いです。天に国籍があり、自分が御国の市民になる救いであります。この世の者であったところから、神のものに変わったのです。つまり、この世においては外国人になったのであり、住みにくいところとなったのです。だから、この世では苦しみが伴わなければおかしいのです。この世で痛みがなければおかしいのです。苦しみがあり、試練があり、困難があるのは、むしろ自分が救われていることのしるしであります。なのに、私たちはいったん魂の救いを得て、喜びに満たされると、その事実をすっかり忘れてしまい、この世において幸せが訪れると勘違いしてしまいます。そして、不信者の人たちが祝福されいるのを見て、うらやましくなって、自分がクリスチャンであることが重荷に感じてしまうのです。イスラエルは、この過ちに陥りました。まだ約束の地に到着していないのに、荒野における生活の辛さを経験して、神の慈愛を疑ったのです。

 モーセは主に叫んだ。

 民がモーセに文句を言ったのに対し、モーセは主に叫びました。ここにモーセが神の人であることがわかります。自分で考え思い悩むことなく、その重荷と思い煩いを包み隠さず、主に申し上げたのです。主は、あらゆる思い煩いを神に知っていただくように願いなさいと命じておられます。そのとき、私たちの考えにまさる神の平安が、私たちの心を守ってくれるのです(ピリピ4:6、7)。

 すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。


 主がモーセに一本の木を水に投げ入れなさいと命じられたとき、モーセは、「主よ。そんなことをしても、水は甘くなりませんよ。」と言うことはできたでしょう。しかし、モーセは従いました。モーセも信仰を試されていました。

 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

 こうして、神は、イスラエルの反抗にもかかららず彼らに良くしてくださいました。イスラエルをエジプトから救い出された神は、荒野においても同じ神なのです。同じように私たちに益となることをしてくださるのです。神は、この世のもので私たちを満たすことは決してなさいません。しかし、この世で生きていくための必要は満たしてくださいます。だから、私たちは何がなんでも、主の愛を疑ってはなりません。神がなされることはみな、このあわれみの心、いつくしみの心から出てくるものなのです。私たちが直面するすべてのことは、この神の慈愛から流れ出てくるものなのです。一時的に悲しむべきことはあります。しかし、それらを永遠の益とするために用いられます。

 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

 彼らはオアシスに到着しました。12部族にぴったりの、12の泉がありました。苦しみのあとの潤いです。困難の後の祝福です。彼らはマラで苦い思いをしましたが、エリムまで来て恵みがありました。これが神のくださる信仰生活です。マラがありますが、その後でエリムがあります。だから、マラでとどまることなく、エリムに向かって進んでいかなければなりません。

2A 特徴 − 主の真実 16
1B 約束 1−12
1C 民の不平 1−3
 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。

 イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の15日ですから、ちょうど一ヶ月たったことになります。彼らは再び荒野における旅を続けました。

 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。一部ではなく、全会衆がつぶやきました。イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

 先ほどのつぶやきよりも、さらにひどくなっているのがわかるでしょうか。エジプトで肉のなべを食べ、パンを満ち足りるまで食べたと言っています。けれども、これは真実ではありません。彼らは奴隷生活があまりにも酷かったので、日々叫び、うめいていたのです。私たちも試練がおとずれると、信じないほうが良かったと思うときがありますが、それは、古い生活がいかにひどかったかを忘れているために思うのです。使徒パウロは言っています。「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については自由にふるまっていました。その当時、今まではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。そららのものの行き着く所は死です。(ローマ6:20−21)

2C 主の答え 4−12
 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

 主は、マラの水につづいて、パンを与えることによってイスラエルをいつくしもうとされています。ただ、一日分しか与えることをなさいません。安息日の前日には2日分与えます。これは、神がイスラエルに悪く考えておられるからでしょうか?違います。「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」とありますねイスラエルがいつまでも、神を信じて生きることができるように神が配慮してくださっているのです。一日ではなく、一年分の食糧が与えられたらどうなるでしょうか?彼らはそれらの食糧に満足し、神を忘れ、エジプト人と同じように偶像を拝むようになることでしょう。そうしたら飢え死にするよりも、はるかに恐ろしい結果を招きます。ですから、神はイスラエルのことを配慮して、一日分だけのパンを与えられたのです。箴言を読むと、アグルという人がこう祈っています。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(30:9)

 すべての命の源は神から来ます。ですから、私たちは日々神を求めなければいけません。けれども、私たち人間は、どうしても、神以外のものを求めて、必要を満たそうとしてしまうのです。預言者エレミヤを通して、神がこう仰せになりました。「わたしの民は二つの悪を行なっている。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(2:13)」湧き水の泉ではなく、これれた水ためを求めてしまうのです。ですから神は、私たちに信仰の試練を送られることによって、そうした過ちから私たちを守ろうとされます。私たちがいつも主を求めることができるように、試練を送られます。私たちは、困った時になると真剣に祈り願います。そして、主がその度に願いを聞いてくださるので、主は自分を決して見捨てることはない、主はほんとうに真実な方であると分かるのです。主は私たちに良くしてくださいますが、それは救いのとき一回限りのことではなくずっと、毎日、恵みを注いでくださるのです。

 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、朝には、主の栄光を見る。」

 彼らは、朝にパンが与えられるのを見て、自分たちをエジプトから救い出された神は今も生きておられることを知るようになります。

 主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。モーセは彼らがつぶやいたことを責めています。モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。」パンだけでなく、肉も与えられるようです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。

 
見てください、つぶやきはモーセとアロンに対するものではなく、主に対するものでした。なぜなら、荒野の旅を導いておられるのは、主ご自身だからです。主が、すべての状況を支配されているのですから、私たちがその状況につぶやくとき、それは主ご自身に文句を言っていることになります。

 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』と言いなさい。」アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。主は、イスラエルの会衆にご自身がおられることを現わされました。主はモーセに告げて仰せられた。「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」

 
こうして、主ご自身がイスラエルをお叱りになりました。けれども、それは父が子を懲らしめるようなものです。ソロモンは言いました。「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(3:12−13)」ですから、この叱責は主の愛の現われです。

2B 方法 13−36
 次から実際に主がパンと肉をくださる場面が出てきます。

1C 日々 13−21
 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。

 うずらが飛んで来て、それが彼らのところをおおいました。手でつかむことができるほど多かったのかもしれません。そのため、イスラエルは肉を食べることができました。また、朝には露が降りています。

 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。


 神は、天から直接パンをお与えになりました。

 
次から、このパンについて具体的な指示を与えられます。主が命じられたことはこうです。「各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。」

 
1オメルは2.3リットルです。すべての人が平等に同じ量のパンを集めることになります。また、だれかが他の家族のために集めることなく、各人が集めなければいけません。つまり、主は、ひとりひとりのイスラエル人が神が生きておられ、神が真実な方であることを知ってほしかったのです。

 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。


 彼らは、だいたいの目分量でパンを集めたのでしょう。そのため、多く集めた人も少なく集めた人もいました。ところが、計量カップではかってみると、なんとすべての人が1オメルずつしか集めていませんでした。このパンは単なるパンではなさそうです。神はここで、とても大切な真理を教えておられます。つまり、神は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えているのです。そして、必要以上のものが与えられたら、それを必要が満たされていない人に分け与えることです。パウロが、この出エジプト記の聖書箇所を引用して、献金のことを話しました。「今あなたがたが彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。『多く集めたものも余ることなく、少し集めた者も足りないことがなかった。』と書いてあるとおりです。(2コリント8:14−15)

 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」一日分しか集めていけないのですから、朝まで残してはいけません。彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。残した分は、くさりました。そこでモーセは彼らに向かって怒った。彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

 
朝に集めることのなかったパンは、昼には溶けてしまいました。つまり、彼らは朝という決まった時間に外に行ってパンを集め、必要な分を食べることしかできなかったのです。これは何を意味しているのでしょうか。主は、朝ごとに新しい恵みを与えられ、真実を尽くしてくださるということです。エレミヤはこう歌いました。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌3:23−24 新共同訳)」私たちも、朝ごとに主の慈しみと憐れみを受け取る必要があります。一日の仕事を終えて残った時間を主とともに過ごすのではなく、活動の始まりである朝に主とともに過ごす必要があるのです。

 また、モーセはマナと呼ばれるこのパンについて、イスラエルが約束の地に入る直前にこう言いました。「主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせた。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためである。(申命8:3)」イスラエルの民は、マナを食べることによって、実際は主のことばによって生きたことになります。主の言われたとおりのことを信じ、それに聞き従うことによって生きることができたからです。私たちは、書かれた神のことばを持っています。私たちも、日ごとに、聖書のことばを心に蓄えて、それを信じ、それに聞き従うことによって命を得ることができます。

2C 安息日 22−30
 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。

 
週に一回だけはこのパンを保存することができた、というか、保存しなければなりませんでした。それは、その日が主の聖なる安息だからであります。その日には、自分の仕事から離れて主を礼拝するので、パンを集める必要はありません。

 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」
実際、安息日にはパンは降りませんでした。

 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」それで、民は七日目に休んだ。

 7日目にも集めに出た人たちがいました。それをご覧になった主は、彼らが戒めを守らないことを責められて、彼らは7日目に休むようになりました。このように、主は安息日を非常に尊ばれました。イスラエルの民が自分の働きをやめることと、主を礼拝することをとても大切にされました。それで、彼らが休んだときに得られない分のパンの必要も、満たしてくださったのです。ここから私たちは、自分の日々の働きをやめ主に礼拝をささげるとき、主は必ず必要を満たしてくださることを知ることができます。勉学にしろ、仕事にしろ、私たちは礼拝を守る日にもそれを続けたくなる誘惑があります。7日目にパンを集めに行ったイスラエル人のようにです。けれども、礼拝を遵守するなら、私たちは日々の必要が奇蹟的に満たされるようになります。また、彼らは前日に2日分パンを集めなければなりませんでした。同じように、私たちも礼拝を守るために、前もって準備する必要があります。考えられる用事を前もって行ない、主を礼拝するために備えるのです。

3C 保存 31−36
 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」

 今度、神は、二日分腐らずに保存できるようにしてくださるどころか、イスラエルが約束の地に住んでからも腐らずに残るようにされます。それは、その子孫がマナを見ることができるようにするためです。

 モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。


 あかしの箱とは、幕屋の至聖所にある契約の箱のことです。その中に、一日分のマナが入っているつぼを入れました。こうして、ずっとマナが保存されることになりますが、なぜ神はこんなことをさせるのでしょう?思い出させるためです。神がいかに真実を尽くされたかを思い出してもらうためです。ダビデは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」と言いました。

 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。一オメルは一エパの十分の一である。

 なんと、40年間、神は彼らにマナをお与えになりました。カナンの地の境に来たときまで、一日たりとも、マナが与えられなかったことはなかったのです。ヨシュア記5章12節には、「彼らがその地の産物を食べたその翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた」とあります。主は真実を尽くして、彼らが飢え死にさせるようなことを決してなさいませんでした。確かに、イスラエルの民は毎日、同じマナを食べていてあきあきしたでしょう。荒野の旅は苦しみがあり、飢えと渇きがありました。しかし、過去を振り返ってみると、何一つ乏しくなることはなく、すべての必要が見事に満たされるのを見ることができます。神は、必要を備えてくださる方です。真実な方です。

 そして、最後に、非常に大切な霊的な真理が、この話の背後にあることを紹介いたします。実は、このマナは、後に来るイエス・キリストご自身のことを指し示していました。ヨハネの6章全体に、そのことが書かれています。35節では、こう言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」また、53節では、こう言われました。「人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。」イエスを信じ、イエスとの交わることは、日々行ない、また、礼拝のときに行ない、そして、約束の神の国に入るまでずっと行なうのです。イエス・キリストがまことのマナであります。

3A 方法 − 主の臨在 17
 こうして、彼らは日々のパンを与えられました。必要が満たされて、落ち着くことができそうでありましたが、また問題が出てきます。

1B 満たし 1−7
 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。

 彼らは再び水に困まったのです。場所はレフィディムという所であり、もうシナイ山に近づいています。

 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。


 私たちに飲む水をください、というのはお願いと言うよりも、ここにあるとおり「争い」です。彼らはモーセに口論をしかけたのです。

 モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。

 試みるという言葉が出て来ています。先ほどは、主が民を試みられたとありますが、ここでは民が主を試みています。これは、どういうことでしょうか。7節をご覧ください。「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか。』と言って、主を試みたのである。」つまり、民は、主が彼らの間におられることを疑って試みたのです。「水がないぞ。主は私たちに興味を失って、どこかに行ってしまわれたのではないか。本当にいるなら、ここで飲む水を出して見ろ。」と言ったわけです。聖書では人が主を試みることは罪と呼んでいます。

 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」つぶやいた、とありますがぶつぶつ言ったのではないようです。次を見てください。そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」彼らは、石で打ち殺そうと威嚇していたのです。モーセはとにかく主に叫びました。主により頼んでいます。主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。

 
「あの」杖というのが、いいですね。ナイル川を打ち、あらゆる災いをエジプトに引き起こしたあの杖です。モーセにとって、これは神の権威と御力を象徴していました。今、神は、ふたたびご自分の大いなる御業をお示しになろうとされています。長老たちとありますが、これは文字通り、年寄りのことです。イスラエルでは、神から年寄りの人たちが指導的な役割を担うように命じられていました。それは、年寄りには、年輪から来る知恵があるからです。

 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

 
モーセは、その杖を取って岩を打つように命じられました。そしてその岩から、彼らの欲しがった水を湧き出るようにされました。詩篇には、「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。(105:41)」とあります。川になるほどの大いなる水がほとばしり出たのです。けれども、この奇蹟はとても不思議であります。なぜ、岩を打つ必要があったのか、と思ってしまいます。民数記にある似たような出来事を知っている人は、さらに不思議に思うのです。そこでは、主は、「岩に語りなさい。」と言われました。けれども、モーセは主に聞き従わないで、岩を2度打ってしまいました。水はほとばしり出たのですが、主は、「あなたは約束の地に入ることはできない。」とモーセに言われたのです。つまり、主の御前にはとんでもないことをモーセがしでかしてしまったわけです。なぜでしょうか。

 コリント人への手紙第一10章をお開きください。10章の1節からお読みします。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストのことです。」イスラエルの民をついて来た方がおりました。イスラエルは、「主は私たちの中におられるのか。」と文句を言いましたが、実際はおられたのです。それがキリストであり、パウロは、「その岩とはキリストのことです。」と言っています。つまり、モーセが打った岩とはキリストの働きを示していました。キリストは、聖書の至るところで「岩」と「石」にたとえられています。教会の礎であり、かなめ石であり、終わりの日に世界の諸国をことごとく打ち砕く石であり、救いの岩です。そして、岩が打たれたということは、イザヤ書53章を見ると分かります。4節にこう書かれています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」神に打たれました。これは何を意味しますか。キリストの死ですね。モーセが岩を打ったのは、キリストが十字架において死なれることを現わしていたのです。次、岩から水を出すときに打たないで、語らなければならなかったのは、キリストが再び死ぬ必要はなかったからです。キリストは、すべての人のために、ただ一度死なれました。

 そして、岩から水があふれ出ましたが、この水についても考えて見ましょう。パウロは、「御霊の飲み物」と呼んでいましたね。さらに、詳しく見るためにヨハネの福音書7章をお開きください。7章の37節です。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、」これは仮庵の祭りの、最後の日のことです。「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」そうです、キリストなる岩に来て水を飲むのです。「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者たちが後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」御霊のことです。岩から出た水は聖霊のことを表していました。キリストの十字架の御業を信じた者には、この聖霊の満たしを聖書が約束されています。つまり、こういうことです。イスラエルの民は不信仰になって神がおられるかどうか試しました。そこで、神は、ご自分が彼らの中におられることを示すために、キリストなる岩をお見せになり、キリストが打たれること示し、そこから聖霊があふれ出る事を現わされました。このことを信じる者は、聖霊に満たされ、神がともにおられることを絶えず経験することができます。主が自分とともにおられ、自分のうちにおられ、そして自分をとおして周りの人に潤いをもらたしてくださることを知ることができるのです。

 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

 こうして、主はイスラエルの反抗にもかかわらず、ご自分が彼らの中におられることをお示しになりました。彼らは、主がともにおられることを理解して、喉の渇きをいやすことができました。同じように、私たちは、主ご自身がともにおられることによって満たしを受けます。私たちが、主を信じて生きるとき、主の御霊に満たされ充足感を得ることができるのです。

2B 勝利 8−16
 こうしてイスラエルは恵みを受けましたが、次を見てください。さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

 
アマレク人がイスラエルに戦いを仕掛けて来ました。同じレフィディムにおいてです。恵みのあとにすぐ戦いが起こりました。私たちの生活も同じです。大いなる祝福を受けたその翌日に、大いなる試練に出くわす事があります。

 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。」ヨシュアがとつぜん出て来ています。彼は、モーセのそばにいた従者でした。アマレクと戦うことをモーセから命じられました。

 「あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ここからふたたび不思議な場面を見ます。アマレク人と戦わなければいけないのに、モーセは丘の頂に行きました。ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。モーセはただ手を上げているだけなのに、それによってイスラエルが優勢になりました。手を降ろすとアマレクが優勢になっているのです。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

 アロンとフルはモーセが手を支えて、ついにイスラエルはアマレクを打ち破りました。不思議な光景ですね。先ほどの岩を打つことと同じように、ここでも霊的な真理が隠されています。祈りです。モーセが手を上げていたのは祈りです。聖書では、祈りのときに手を上げている箇所を見出します。詩篇に多くありますが、新約聖書にも、「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2:8)」とあります。確かにヨシュアはアマレクと戦ったのですが、勝敗の鍵はモーセの祈りにあったのです。

 これは先ほどの、「主は私たちの中におられる。」という真理にも通じるものがあります。つまり、私たちは主がともにおられることによって満たされるように、主がともにおられることによって勝利することができるということです。主がおられるのですから、私たちが戦うのではなく主が戦ってくださいます。そのためには、モーセのように祈る必要があります。エペソ書には、霊の戦いの武器として、「すべての祈りと願いとを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(6:18)」とあります。聖霊に満たされて祈るのです。これは戦いです。モーセの手が重くなってきたように、祈ることは戦いであります。敵は、なんとかして私たちが祈るのを妨げようとしています。祈ることが勝利の決めてであると悟らせないようにしようとします。だからた戦いなのです。そして、モーセの手が重くなったときに、アロンとフルが手を支えましたね。私たちには祈りの支えが必要です。互いに祈り合うことが必要なのです。そして指導者であるモーセが支えられたように、教会の指導者は祈りによって支えられなければいけません。大事なことは、戦いはヨシュアにあったのではなくモーセにありました。教会生活でも、「これこれをしたら、人が来るだろう。」という私たちの思惑によって魂を勝ち取るのではないことを知るべきです。祈りによって勝ち取ります。「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」とパウロは言いました。

 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」

 主は、アマレク人を永遠に消し去ることを約束され、また命じられました。アマレク人は、絶えずイスラエルに戦いを仕掛けた民族です。士師記のギデオンのときにも現れ、サウルはアマレクを生かしておいたため王座から退けられました。アマレクはイスラエルの敵であり、これを絶滅しなければ、逆に彼らから絶滅されてしまうのです。そのため、聖書ではアマレク人は肉の型となっています。肉は完全に殺さなければいけません。肉を十字架につけてしまわなければいけません。私たちは自分を良くしようと思いますが、それは無理なのです。そうではなく、殺してしまわなければいけません。パウロは言いました。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)

 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシあるいは、エホバ・ニシと呼び、「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

 エホバ・ニシとは、「主はわが旗」ということです。勝利の旗であります。主が私たちに勝利をもたらしてくださいます。ですから、主は、私たちの日々の生活に必要な満たしと勝利を、ご自分がともにおられることによって、つまり聖霊によってもたらしてくださいます。

4A 土台 − 主の知恵 18
 そして、レフィディムにおいて、もう一つ重要な出来事が起こります。モーセの姑イテロとの再会です。

1B 敬虔な人 1−12
1C 邂逅 1−7
 さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて行った。

 イテロは、ちょうどレフィディムの当たりに住んでいました。モーセはこの場所で羊を飼っているとき、柴が燃えているのを見たのです。そして、イテロは、エジプトに対し主がしてくださったことを聞きました。彼はミデアンの祭司でしたがヤハウェなる神を信じる敬虔な人でした。それで、モーセのことを気づかい、しばらくの間はなれていた妻のチッポラと息子2人を連れて来ます。チッポラは、モーセが主に殺されそうになったとき、息子の包皮を切りとって、モーセの足に置いた人です。「まことにあなたは私にとって血の花婿です。」と言いました。それから、おそらくは、しばらく離れることにして、モーセがエジプトからイスラエルを解放に導くと言う大役を果たしてくるのを待っていたのです。

 そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ。」という意味である。もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた。」という意味である。

 
二人の息子の名前はまさに、モーセの生涯そのものを現わしています。ミデアンが自分の国ではないことを表明するために、「私は外国にいる寄留者だ。」と名づけました。そして、エジプトからイスラエルをお救いになった神を思って、「パロの剣から私を救われた。」と名づけました。私たちの救いも同じですね。この世では寄留者であり、外国人です。そして、神によって悪魔のくびきから解放された者たちです。

 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。神の山とはホレブの山のことです。そして、次に喜びの再会が描かれています。イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」モーセは、しゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕にはいった。

 何百万人の指導者であるモーセは、姑に対して身をかがめ敬意を示しました。モーセは謙遜な人でした。

2C 報告 8−12
 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手から救い出してくださったことを喜んだ。

 見てください、彼は異邦人でありながら、ヤハウェなる神がしてくださったことを聞いて喜んでいます。

 イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」

 この賛美からも、イテロが信仰者ばかりでなく、敬虔な信仰者であることがわかります。主が行なわれた救いをほめたたえています。

 モーセのしゅうとイテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た。

 
こうして、イテロは神の御前で祝会を設けました。ただお祝いしたのではなく、神を礼拝する中でお祝いしたのです。

2B 助言 13−27
 そして、次の話が始まります。モーセに対するイテロの助言です。箴言には、「密議をこらさなければ、計画は破れ、多くの助言者によって、成功する。(15:22)」とあります。私たちがクリスチャンとして生活して行くときに、必要なのは多くの助言です。これは人の意見を聞くことではありません。神を恐れ、主を愛している敬虔な人たちから聞くのであり、それは主ご自身の意見でもあるのです。私たちはとくに罪を犯しているとか、肉に従っているとか言えないときでも、知恵がないために間違った行動を取ってしまうことがあります。知恵は主から来るのですが、私たちは日々、この知恵を必要としています。

1C 計画 13−23
 それではまず、モーセの問題について見ていきましょう。翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」

 モーセは、自分ひとりで民のためにさばきをしていていましたが、それが問題でした。彼は、主に与えられた任務を果たさなければならないと考えて一生懸命だったのでしょう。けれども、聖書ではまじめは必ずしも美徳と考えられていません。まじめになって、真剣になって、自分だけが責任を負わなければいけないと考えることは間違いなのです。

 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。ひとりで負うことは、モーセだけでなく民にとっても負担になることでした。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。ここからイテロの提案が始まります。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。

 
まず、モーセの役目を伝えました。一つは、民に代わって神の前に行く、つまり神に祈るということです。もう一つは、おきてとおしえとを与える、つまり、神のみことばを伝えることです。モーセは祈りとみことばとの奉仕に専念しなさい、という提案でした。

 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。

 
イテロは次に、モーセの責任を分担してもらうように奨めました。長を見つけて、彼らに小さな事件をさばいてもらうのです。長を見つけるさいの資格に注目しましょう。一つは、神を恐れる人です。神を恐れて、罪を憎む人です。二つ目は、力のある人々、つまり特別な才能が神から与えられていることです。三つ目として、不正の利を憎む、つまり金銭において潔癖な人を見つけなければいけません。今日の教会の、指導者の資格としても、この3つは当てはまるでしょう。

 もしあなたがこのことを行なえば、・・神があなたに命じられるのですが、・・あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」これらのことをすれば、余計な緊張感がなくなり、民が平穏に旅を続けることができます。

2C 実践 24−27

 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。

 すごいですね、モーセはすべてを聞き入れ、その通りにしました。何百万人を率いる指導者ですから、一老人の意見を無視して、「あなたには分かっていません。何の経験もないのですから。」と言うことはできたでしょう。でも聞き入れています。ここに、神の知恵をもって生きる秘訣があるのかもしれません。

 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。モーセは、イテロの助言をみな行ないました。

 それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った。

 ミデアンの国に帰りました。そして、19章に入って、モーセがシナイ山に上って神から律法を受ける場面に入ります。イテロがモーセに提案したことは、ほんとうに大切なことでした。モーセがシナイ山にいる間、日常の裁判を他のだれかに任せなければいけないのですが、イテロの存在でそれがみな整えられたのです。これは主から来た知恵です。私たちが日々の生活を歩んでいるとき、具体的に何をしなければならないかという知恵を必要とします。そのとき、私たちは主から知恵を求めることによって、主は私たちを導いてくださるのです。ヤコブは言いました。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることもなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(1:5)

 ですから、主はご自分の知恵によって私たちを導いてくださいます。また、私たちをいつくしまれて、良いことをしたいと願われて必要を満たされます。しかも、一日も休むことなく、真実を尽くして私たちに恵みを与えてくださるのです。また、主は私たちとともにいてくださり、心の満たしと罪への勝利を与えてくださいます。こんな風にして、主は、私たちが約束の御国にいくための行程を守り、支え、導いてくださるのです。だから、心配することはありません。何事もつぶやかないで、思い煩いを主にゆだねて、日々の生活を歩んで行きましょう。


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