出エジプト記 16−17章 「信仰のテスト」

アウトライン

1A 日々の糧 16
   1B 主の教え 1−12
   2B 失敗するイスラエル 13−30
   3B 記念 31−36
2A ともにおられる主 17
   1B 打たれた岩からの水 1−7
   2B 主は我が旗 8−16

本文

 出エジプト記16章を開いてください。16章と17章を学びます。ここでのテーマは、「信仰のテスト」です。前回学んだところを思い出してください。イスラエルの民は荒野の旅をはじめました。荒野にいますから、飲む水と食べる物に事欠きました。彼らが初めに見つけた水は苦かったのですが、主がモーセに一本の木の枝を投げ入れることを命じられました。モーセは言われたとおりにすると、水が甘くなりました。

 このことをとおして主は彼に、「おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた(15:25)」とあります。主は、汚い、まずい水をおいしい水に変えられたように、いやす方であるが、それは、主が命じられたことに聞き従い、その命令を守り行なうときに、いやしが行なわれる、という約束です。棚ぼた式に神さまの祝福が与えられるのではなく、積極的に主のみことばに取り組む中で祝福されます。今回は、このこと、つまり、神のみことばによって生きることについて学びます。

1A 日々の糧 16
1B 主の教え 1−12
16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。

 イスラエルがエジプトを出たのは第一の月の15日ですから、ちょうど一ヶ月たったことになります。

16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

 エジプトで肉のなべを食べ、パンを満ち足りるまで食べたと言っています。けれども、これは真実ではありません。彼らは奴隷生活があまりにも酷かったので、日々叫び、うめいていたのです。私たちも試練がおとずれると、信じないほうが良かったと思うときがありますが、それは、古い生活がいかにひどかったかを忘れているために思うのです。使徒パウロは言っています。「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については自由にふるまっていました。その当時、今まではあなたがたが恥じているようなものから、何か良い実を得たでしょうか。そららのものの行き着く所は死です。(ローマ6:20−21)

 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」

 主は、天からのパン、マナをお与えになります。けれども一日分しか与えることをなさいません。けれども、安息日の前日には二日分与えます。これは、神がイスラエルに意地悪をされているのでしょうか?違います。「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」とあります。イスラエルが祝福されること、物質的な必要が満たされることは、実は二義的なことなのです。第一に大事にしたかったことは、イスラエルが神のみことばの中にとどまることでした。それによって、彼らが神の中に生きる、神の民になることが、マナを与える目的だったのです。

 イエスさまが悪魔に対して、申命記を引用されて「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。(マタイ4:4)」と言われたのをご存知だと思います。そしてイエスさまは、ご自分からパンを求めるユダヤ人の群衆に対して、こう言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」と言われました。イスラエルが天からのマナを食べることは、物理的に食べること以上に、主のみことばを自分のものとして、食べていくことであり、そして、イエスさまは、みことばを食べることは、わたし自身を食べることに他ならない、としているのです。

 私たちがクリスチャンになる目的は何でしょうか?病気がなおることでしょうか?幸せな結婚生活を営むことができるようになることでしょうか?会社で成功することでしょうか?いいえ、これらの祝福は後で二義的に伴うことがあるかもしれませんが、大事なのはキリストを知ることであり、キリストにあって、永遠のいのちを持つことです。そして、それは、神のみことばを聞いて、みことばに触れるときに可能となります。私たちが神さまのみことばに取り組むとき、キリストと交わりをすることができ、そして神は、みことばによるキリストとの交わりを可能にするために、この物質的世界をも動かされるのです。

16:6それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、16:7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」

 これから、夕方にイスラエルは肉を食うことになり、朝にはマナを食べます。そして、つぶやきはモーセとアロンに対するものではなく、主に対するものでした。なぜなら、荒野の旅を導いておられるのは、主ご自身だからです。主が、すべての状況を支配されているのですから、私たちがその状況につぶやくとき、それは主ご自身に文句を言っていることになります。

2B 失敗するイスラエル 13−30
16:13それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。

 うずらは、手でつかむことができるほど多かったのかもしれません。そのため、イスラエルは肉を食べることができました。また、朝には露が降りています。

16:14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。16:15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。

 後に、「これは何だ」という言葉がそのまま、この食物の名前となりました。「マナ」です。

16:16 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」

1オメルは2.3リットルです。すべての人が平等に同じ量のパンを集めることになります。また、だれかが他の家族のために集めることなく、各人が集めなければいけません。

16:17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。16:18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。

 彼らは、だいたいの目分量でパンを集めたのでしょう。そのため、多く集めた人も少なく集めた人もいました。ところが、計量カップではかってみると、なんとすべての人が1オメルずつしか集めていませんでした。このパンは単なる糧ではありません。いま話したように、主の真実にしたがった糧です。

 神はここで、とても大切な真理を教えておられます。つまり、神は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えています。そして、必要以上のものが与えられたら、それを必要が満たされていない人に分け与えることです。パウロが、この出エジプト記の聖書箇所を引用して、献金のことを話しました。「今あなたがたが彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。『多く集めたものも余ることなく、少し集めた者も足りないことがなかった。』と書いてあるとおりです。(2コリント8:14−15)

16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」16:20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。

 イスラエル人はなぜ残したのでしょうか?それは、いちいち主が命じられることを意識しないで、自分たちの必要を満たそうとするからです。一日分しか与えられなかったら、日々、主のことばを待ち望むでしょう。エレミヤはこう歌いました。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそ私の受ける分』とわたしの魂は言い、わたしは主を待ち望む。(哀歌3:23−24 新共同訳)」日ごとの、朝ごとに新たな主のいつくしみと恵みがあるのです。

16:21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

 私たちは主のところに行くのに、「面倒くさいから、二日ためて、一回だけ祈ろう」なんていうことはできません。充電池は私たちの霊にはふさわしくないのです。交流の電流が流れるように、時に応じて、一歩一歩、力が与えられなければいけません。ですから、朝ではなく昼に、と思っている人は、朝に主の前に出ることを怠ることになってしまうでしょう。

16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、16:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」16:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。

 週に一回だけはこのパンを保存することができた、というか、保存しなければなりませんでした。それは、その日が主の聖なる安息だからであります。その日には、自分の仕事から離れて主を礼拝するので、パンを集める必要はありません。

16:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。16:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」16:27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。16:28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。16:29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」16:30 それで、民は七日目に休んだ。

 7日目にも集めに出た人たちがいました。それをご覧になった主は、彼らが戒めを守らないことを責められて、彼らは7日目に休むようになりました。このように、主は安息日を非常に尊ばれました。イスラエルの民が自分の働きをやめることと、主を礼拝することをとても大切にされました。それで、彼らが休んだときに得られない分のパンの必要も、満たしてくださったのです。

 ここから私たちは、自分の日々の働きをやめ主に礼拝をささげるとき、主は必ず必要を満たしてくださることを知ることができます。勉学にしろ、仕事にしろ、私たちは礼拝を守る日にもそれを続けたくなる誘惑があります。7日目にパンを集めに行ったイスラエル人のようにです。けれども、礼拝を遵守するなら、私たちは日々の必要が奇蹟的に満たされるようになります。また、彼らは前日に2日分パンを集めなければなりませんでした。同じように、私たちも礼拝を守るために、前もって準備する必要があります。考えられる用事を前もって行ない、主を礼拝するために備えるのです。

3B 記念 31−36
16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。

 何となく想像できますね、お菓子のようなものです。

16:32 モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」

 今度、神は、二日分腐らずに保存できるようにしてくださるどころか、イスラエルが約束の地に住んでからも腐らずに残るようにされます。それは、その子孫がマナを見ることができるようにするためです。

16:33 モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」16:34 主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。

 あかしの箱とは、幕屋の至聖所にある契約の箱のことです。その中に、一日分のマナが入っているつぼを入れました。こうして、ずっとマナが保存されることになりますが、なぜ神はこんなことをさせるのでしょう?思い出させるためです。神がいかに真実を尽くされたかを思い出してもらうためです。ダビデは、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)」と言いました。

16:35 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。16:36 一オメルは一エパの十分の一である。

 なんと、40年間、神は彼らにマナをお与えになりました。カナンの地の境に来たときまで、一日たりとも、マナが与えられなかったことはなかったのです。ヨシュア記5章12節には、「彼らがその地の産物を食べたその翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた」とあります。主は真実を尽くして、彼らが飢え死にさせるようなことを決してなさいませんでした。確かに、イスラエルの民は毎日、同じマナを食べていてあきあきしたでしょう。荒野の旅は苦しみがあり、飢えと渇きがありました。しかし、過去を振り返ってみると、何一つ乏しくなることはなく、すべての必要が見事に満たされるのを見ることができます。神は、必要を備えてくださる方です。真実な方です。

2A ともにおられる主 17
 こうして、彼らは日々のパンを与えられました。必要が満たされて、落ち着くことができそうでありましたが、また問題が出てきます。

1B 打たれた岩からの水 1−7
17:1 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。

 彼らは再び水に困まったのです。場所はレフィディムという所であり、もうシナイ山に近づいています。

17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。

 試みるという言葉が出て来ています。先ほどは、主が民を試みられたとありますが、ここでは民が主を試みています。これは、どういうことでしょうか。7節をご覧ください。「『主は私たちの中におられるのか、おられないのか。』と言って、主を試みたのである。」つまり、民は、主が彼らの間におられることを疑って試みたのです。「水がないぞ。主は私たちに興味を失って、どこかに行ってしまわれたのではないか。本当にいるなら、ここで飲む水を出して見ろ。」と言ったわけです。聖書では人が主を試みることは罪と呼んでいます。

17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」17:4 そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」

 単なるつぶやきではなく、モーセを殺そうと威嚇さえしています。

17:5 主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

 「あの」杖というのが、いいですね。ナイル川を打ち、あらゆる災いをエジプトに引き起こしたあの杖です。モーセにとって、これは神の権威と御力を象徴していました。今、神は、ふたたびご自分の大いなる御業をお示しになろうとされています。

17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。

 モーセは、その杖を取って岩を打つように命じられました。そしてその岩から、彼らの欲しがった水を湧き出るようにされました。詩篇には、「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。(105:41)」とあります。川になるほどの大いなる水がほとばしり出たのです。けれども、この奇蹟はとても不思議であります。なぜ、岩を打つ必要があったのか、と思ってしまいます。民数記にある似たような出来事を知っている人は、さらに不思議に思うのです。そこでは、主は、「岩に語りなさい。」と言われました。けれども、モーセは主に聞き従わないで、岩を2度打ってしまいました。水はほとばしり出たのですが、主は、「あなたは約束の地に入ることはできない。」とモーセに言われたのです。つまり、主の御前にはとんでもないことをモーセがしでかしてしまったわけです。なぜでしょうか。

 コリント人への手紙第一10章をお開きください。10章の1節からお読みします。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストのことです。」イスラエルの民をついて来た方がおりました。イスラエルは、「主は私たちの中におられるのか。」と文句を言いましたが、実際はおられたのです。それがキリストであり、パウロは、「その岩とはキリストのことです。」と言っています。

 つまり、モーセが打った岩とはキリストの働きを示していました。キリストは、聖書の至るところで「岩」と「石」にたとえられています。教会の礎であり、かなめ石であり、終わりの日に世界の諸国をことごとく打ち砕く石であり、救いの岩です。そして、岩が打たれたということは、イザヤ書53章を見ると分かります。4節にこう書かれています。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」神に打たれました。これは何を意味しますか。キリストの死ですね。モーセが岩を打ったのは、キリストが十字架において死なれることを現わしていたのです。次、岩から水を出すときに打たないで、語らなければならなかったのは、キリストが再び死ぬ必要はなかったからです。キリストは、すべての人のために、ただ一度死なれました。

 そして、岩から水があふれ出ましたが、この水についても考えて見ましょう。パウロは、「御霊の飲み物」と呼んでいましたね。さらに、詳しく見るためにヨハネの福音書7章をお開きください。7章の37節です。「さて、祭りの終わりの大いなる日に、」これは仮庵の祭りの、最後の日のことです。「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』」そうです、キリストなる岩に来て水を飲むのです。「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者たちが後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」御霊のことです。岩から出た水は聖霊のことを表していました。キリストの十字架の御業を信じた者には、この聖霊の満たしを聖書が約束されています。

 つまり、こういうことです。イスラエルの民は不信仰になって神がおられるかどうか試しました。そこで、神は、ご自分が彼らの中におられることを示すために、キリストなる岩をお見せになり、キリストが打たれること示し、そこから聖霊があふれ出る事を現わされました。このことを信じる者は、聖霊に満たされ、神がともにおられることを絶えず経験することができます。主が自分とともにおられ、自分のうちにおられ、そして自分をとおして周りの人に潤いをもらたしてくださることを知ることができるのです。


2B 主は我が旗 8−16
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。

 アマレク人がイスラエルに戦いを仕掛けて来ました。同じレフィディムにおいてです。

17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」

 モーセは従者であったヨシュアに、アマレク人との戦いの指揮を命じます。

17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。

 アロンとフルはモーセが手を支えて、ついにイスラエルはアマレクを打ち破りました。不思議な光景ですね。先ほどの岩を打つことと同じように、ここでも霊的な真理が隠されています。祈りです。モーセが手を上げていたのは祈りです。聖書では、祈りのときに手を上げている箇所を見出します。詩篇に多くありますが、新約聖書にも、「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。(1テモテ2:8)」とあります。確かにヨシュアはアマレクと戦ったのですが、勝敗の鍵はモーセの祈りにあったのです。

 エペソ書には、霊の戦いの武器として、「すべての祈りと願いとを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。(6:18)」とあります。これは戦いです。モーセの手が重くなってきたように、祈ることは戦いであります。敵は、なんとかして私たちが祈るのを妨げようとしています。祈ることが勝利の決めてであると悟らせないようにしようとします。だからた戦いなのです。そして、モーセの手が重くなったときに、アロンとフルが手を支えましたね。私たちには祈りの支えが必要です。互いに祈り合うことが必要なのです。そして指導者であるモーセが支えられたように、教会の指導者は祈りによって支えられなければいけません。

 大事なことは、戦いはヨシュアにあったのではなくモーセにありました。教会生活でも、「これこれをしたら、人が来るだろう。」という私たちの思惑によって魂を勝ち取るのではないことを知るべきです。祈りによって勝ち取ります。「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)」とパウロは言いました。

17:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」

 主は、アマレク人を永遠に消し去ることを約束され、また命じられました。アマレク人は、絶えずイスラエルに戦いを仕掛けた民族です。士師記のギデオンのときにも現われ、サウルはアマレクを生かしておいたため王座から退けられました。アマレクはイスラエルの敵であり、これを絶滅しなければ、逆に彼らから絶滅されてしまうのです。そのため、聖書ではアマレク人は肉の型となっています。肉は完全に殺さなければいけません。肉を十字架につけてしまわなければいけません。私たちは自分を良くしようと思いますが、それは無理なのです。そうではなく、殺してしまわなければいけません。パウロは言いました。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)

17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。

 エホバ・ニシとは、「主はわが旗」ということです。勝利の旗であります。主が私たちに勝利をもたらしてくださいます。ですから、主は、私たちの日々の生活に必要な満たしと勝利を、ご自分がともにおられることによって、つまり聖霊によってもたらしてくださいます。

 こうしてイスラエルは試されました。初めに、生活の必要は神との交わりを第一とするなかで、付加的に与えられるのだということ。そして、キリストが打たれ、御霊が与えられたように、キリストのご臨在を自分たちの間で意識する、ということ。そして、祈りによって主が戦ってくださることを信じることです。


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