出エジプト記16−18章 「荒野での訓練」
アウトライン
1A 天からのマナ 16
1B 民のつぶやき 1−12
2B 一日の分 13−21
3B 安息の七日目 22−30
4B マナのつぼ 31−36
2A 荒野での戦い 17
1B 主への争い 1−7
2B アマレク人 8−16
3A イテロとの再会 18
1B 主の救いへの賛美 1−12
2B 役割分担 13−27
本文
出エジプト記16章を開いてください。18章まで学びたいと思いますが、ここでのテーマは「荒野での訓練」です。私たちは前回から、イスラエルの荒野の旅に入りました。紅海の水が分かれるという大いなる奇蹟を見たにも関わらず、三日後には水が苦いので、モーセに対してつぶやきました。けれども、木の枝を水の中に投げ入れなさい、と主が命じられたので、モーセがそのようにすると水が甘くなりました。
このように、緑豊かなエジプトの生活から荒野への生活に変わったイスラエルは、一歩一歩、主に拠り頼むことを学ばなければいけませんでした。
1A 天からのマナ 16
1B 民のつぶやき 1−12
16:1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にはいった。
時は「第二の月の十五日」すなわち、過越の祭りの一か月後です。過越の祭りは第一の月の十四日です。そして、「シンの荒野」に入っています。前回のマラは、「シュルの荒野」と呼ばれていました。シナイ半島の北部にあります。そしてシンの荒野は中部にあります。私たちは砂漠というと何でもかんでも一つに見えてしまいますが、実際に行くとその地形や地質は多様です。イスラエルの民は別の荒野の中に入りました。
16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
この頃になって、エジプトから持ってきた食糧は尽きてしまったのでしょう。けれども、イスラエルの民は「後悔」の言葉を継続的に話していますね。モーセとアロンが初めにパロのところに行って、労役がさらに激しくなった時から、「私たちには構わないでくれ。私たちはこのエジプトの生活で満足しているのだ。」という立場を取りました。そして、前回読んだ、紅海の手前で宿営してパロの率いる軍隊がやって来た時もそうでした。さらにマラでの苦い水の経験でもそうでした。
私たちは、今の苦しみや不便や試みを耐えようとしないために、過去の苦しみを自分のうちで忘れさせて、それがいかに良かったかといって不平を漏らします。過去の罪の生活が恋しくなるのです。その生活がいかに自分を苦しめていたのかを忘れています。パウロは、「罪に対しては死んだ者だとみなしなさい。(ローマ6:10参照)」と言いました。
16:4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。16:5 六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」
主は不平を鳴らすイスラエルの民のために、真実をもって応えてくださっています。主に拠り頼むことをまだ知らない民に心を広くし、忍耐してくださっているのです。私たちも新しく信仰を持つと、新しくやってくるあらゆる状況に対して、とまどい、時には不平を鳴らします。けれども、主は優しく接してくださいます。
主は「毎日、一日分を集めなければいけない」と言われます。一日、一日、主の真実に拠り頼むためです。私たちの家に一日分の食糧しかなかったら不安になりますね。けれども主に祈り、その糧を与えられるように祈ります。そのようして、主が確かに真実を尽くしてくださっていることを知ることができるのです。
そして「六日目には、集める分を二倍にする」と言われますが、それは七日目に働かないで、安息するためです。
16:6 それでモーセとアロンは、すべてのイスラエル人に言った。「夕方には、あなたがたは、主がエジプトの地からあなたがたを連れ出されたことを知り、16:7 朝には、主の栄光を見る。主に対するあなたがたのつぶやきを主が聞かれたのです。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」16:8 モーセはまた言った。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」
夕方には、うずらという鳥がイスラエルの民にところにやってきて、肉の食糧が与えられます。そして朝はマナが降ってきます。それで彼らは主の栄光を見るのです。私たちも、哀歌でエレミヤが歌ったように、「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。(3:22b-23a)」を経験します。
そして、ここで「あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」と言いました。モーセとアロンは繰り返し、「いったい私たちは何なのだろうか。」と言っています。まるでモーセとアロンが自分たちの思いでもってイスラエルの民をここまで連れて来たとでも言いたいのですか?という驚きです。そうではありません、明らかに主ご自身がイスラエルの民を導いておられるのです。
このような主の導きに対してイスラエルの民は文句を言っているのであって、モーセとアロンに対してではありません。これは私たちが、自分が今置かれている環境や状況に対して、そこに主を認めるのではなく、文句を言っているのに当てはまります。主に導かれたことによって、いろいろな問題に入ったのであれば、それに文句を言うことは主ご自身に文句を言っていることです。
主はあらゆる状況の中に私たちを招き入れます。それは、私たちをその状況を通して練り清め、神の性質を私たちの中で育てたいからです。ローマ5章4節に、「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とあります。また、例えで、主が陶器師で、私たちは主のろくろの上に置いてある器として出てきます。主がご自分の思うままに手を加えられるのですが、実際の陶器と異なり、私たちには自由意志があるので「そのように造らないでください。」と反抗してしまいます。すると、主は初めからそれを造り直さなければいけなくなります。その繰り返しによって、主が願われる姿に、それはすなわちキリストの似姿に変えられるのです。
16:9 モーセはアロンに言った。「イスラエル人の全会衆に、『主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたから。』と言いなさい。」16:10 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。16:11 主はモーセに告げて仰せられた。16:12 「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」
主が雲の中の輝きによって、ご自分の栄光をイスラエルの民に現されました。
2B 一日の分 13−21
16:13 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。
うずらは、その地域一帯に棲んでいるありふれた鳥です。
16:14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。16:15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
朝には露が降りて、白い霜のような細かいものがありました。名前は「マナ」と呼ばれるようになります。それはイスラエル人が、「これは何だろう」と言ったからです。マナは「これは何だろう」という意味です。
16:16 主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」16:17 そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。16:18 しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
私たちは、マナの説明を見ると、甘い白いせんべいのような、けれども綿菓子のようにすぐに溶けてしまうもののように感じます。けれども、これは明らかに地上にあるものとは異なります。なぜなら、多く集めたのに割り当ての分量だけになり、少なく集めても足りなくなることはなかったのです。
主が初めに言われましたね、4節ですが、「これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」とあります。目に見えない神の真理が、日常の生活の中でマナを通して目で見える形で現れているのです。
神は、私たちの必要を満たされますが、私たちの欲は満たされません。私たちが事欠いている時にその必要を充足してくださいますが、「神はあらゆる富を持っておられるのだから、私にもっとください。」とお願いしても、その願いをかなえることはなさいません。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:3)」けれども、私たちの必要はすべてご存知であり、神の国とその義を第一に求める者には、加えて必要なものを与えてくださいます。
それから、これは教会における分配の原則を表しています。パウロはこの出来事を思い出して、貧しい教会に、貧しい兄弟たちに分け与えるように勧めています。「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。こうして、平等になるのです。『多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった。』と書いてあるとおりです。(2コリント8:14-15)」
ですから私たちは、もし教会に余裕があれば、もっと困っている人々に分け与えるべきです。また、今事欠いているなら、主が他の兄弟たちを通して私たちに恵んでくださいます。今、私たちの教会は事欠いています。例えば礼拝讃美を導く人がいません。けれども、主がカルバリーチャペル所沢や西東京の兄弟たちを送ってきてくださっています。けれども今度、私たちが力を持っている時は、他の教会を助けていくべきなのです。
16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」16:20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。16:21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
一日一日、主から与えられたものだけで生きていくことの訓練をイスラエルの民は受けています。私たちも同じように、主から与えられた者は貯めておきたい誘惑にかられます。例えば、一日にたくさん祈りを積んでおけば、他の二・三日は祈らないでも良いだろうと思います。聖書を一気にたくさん読めば、もう読まなくても良いだろうと思います。けれども主は、日ごとに私たちが主に拠り頼むように仕向けられます。私たちが行った労苦を徒労に終わらせます。ちょうど日が熱くなって、マナが溶けたようにさせます。
3B 安息の七日目 22−30
16:22 六日目には、彼らは二倍のパン、すなわち、ひとり当たり二オメルずつ集めた。会衆の上に立つ者たちがみな、モーセのところに来て、告げたとき、16:23 モーセは彼らに言った。「主の語られたことはこうです。『あすは全き休みの日、主の聖なる安息である。あなたがたは、焼きたいものは焼き、煮たいものは煮よ。残ったものは、すべて朝まで保存するため、取っておけ。』」16:24 それで彼らはモーセの命じたとおりに、それを朝まで取っておいたが、それは臭くもならず、うじもわかなかった。
主は安息日の掟を、シナイ山のところで十戒の中で定められます。イスラエルの民は安息日には仕事をしてはならない、と命じられます。ですからマナを取りに集めるのも仕事とみなし、その日に休むことができるよう、六日目の朝は二日分のマナを神が与えてくださるというものです。けれども不思議なのは、七日目の朝になってもそれは腐りませんでした。ですからマナは単なる、地上にある食べ物ではないのです。主がご自分の命令を与え、イスラエルが聞き従うべく与えられた食物なのです。
ここから私たちが学ぶことのできる霊的原則は、「神の国とその義を第一に求めなさい」ということです。イエス様が、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい、「神の国とその義を求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」と言われました。
私たちが教会に通うのに、犠牲が伴います。私の妻は以前、通訳の仕事をしていました。土日が稼ぎ時です。一度仕事を断ると、仲介業者は他の通訳に仕事を回します。けれども、彼女は教会に通いました。それで仕事がなくなったかというとそうではなく、必要は十分に満たされました。だから主に関する事柄を優先事項にすれば、その他の事柄について心配する必要がなくなるのだよ、ということです。
16:25 それでモーセは言った。「きょうは、それを食べなさい。きょうは主の安息であるから。きょうはそれを野で見つけることはできません。16:26 六日の間はそれを集めることができます。しかし安息の七日目には、それは、ありません。」16:27 それなのに、民の中のある者は七日目に集めに出た。しかし、何も見つからなかった。16:28 そのとき、主はモーセに仰せられた。「あなたがたは、いつまでわたしの命令とおしえを守ろうとしないのか。16:29 主があなたがたに安息を与えられたことに、心せよ。それゆえ、六日目には、二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、あなたがたはそれぞれ自分の場所にとどまれ。その所からだれも出てはならない。」16:30 それで、民は七日目に休んだ。
興味深いですね、必ず命令したことに反したことをする人は必ず出てきます。けれども、これは私たちの姿です。主から命じられていることを、私たちも何度となく背いて、それでようやく教訓を得ます。主は忍耐深く、私たちが教育を受けるまで訓練なさいます。
4B マナのつぼ 31−36
16:31 イスラエルの家は、それをマナと名づけた。それはコエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。
コエンドロの種は大豆のように白いです。
16:32 モーセは言った。「主の命じられたことはこうです。『それを一オメルたっぷり、あなたがたの子孫のために保存せよ。わたしがあなたがたをエジプトの地から連れ出したとき、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らが見ることができるために。』」16:33 モーセはアロンに言った。「つぼを一つ持って来て、マナを一オメルたっぷりその中に入れ、それを主の前に置いて、あなたがたの子孫のために保存しなさい。」16:34 主がモーセに命じられたとおりである。そこでアロンはそれを保存するために、あかしの箱の前に置いた。16:35 イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。
マナは、単に一日余計に腐らずに済むだけではありません。イスラエルが荒野をさまよって四十年間、このつぼに入れられたマナは腐らずに保管されていました。「あかしの箱の前」とありますが、これは主が幕屋を造るように後に命じられ、その時に造れと命じられるものです。その箱の中には、その他に十戒が刻み込まれている石の板と、アーモンドの花を実が結ばれたアロンの杖も入ることになります。
この壺は、主がイスラエルが荒野にいる間、彼らをずっと守り続けることの表れでありました。申命記に、モーセが死ぬ前にイスラエルに対して語った言葉の中に、「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。(7:4)」とあります。彼らはそれにさえ気づいていなかったのかもしれません。けれども、よく考えてみると、自分の着ている物がすり切れておらず、足のサンダルも減っていません。主が彼らが約束の地に入るまで、真実を尽くして守ってくださったからです。先に読んだ哀歌にありましたね、「主のあわれみは尽きないからだ。(3:22)」
16:36 一オメルは一エパの十分の一である。
イスラエル人の集める一日分の量は一オメルですが、2.3リットルです。一エパが23リットルです。
2A 荒野での戦い 17
1B 主への争い 1−7
17:1 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。
「主の命により」とありますから、雲の柱が動いたのでしょう。さらに南下して、シナイ山に近づいてきました。レフィディムというところがあります。ここで三つの出来事が起こります、一つは水のために民が言い争った出来事、次に、アマレク人がイスラエルの民に戦った出来事、そして、舅イテロと妻チッポラ、そして息子二人がモーセに会いにやって来たことです。
17:2 それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。17:3 民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」
イスラエルは自分たちの飲む水だけでなく、子供に飲ませる水、家畜の水についても心配して、モーセとアロンに言い争っています。ここでは、単につぶやいただけでなく、モーセに突っかかって来ています。次の節を読むと彼らは石をモーセに投げそうになっているぐらい殺気立っています。これをモーセは、「主を試みている」と言いました。
彼らはまだ学習していません。主が必要を満たしてくださることを学習していません。それで、主はさらにモーセを通して真実を見せてくださいます。
17:4 そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」
興味深いことですが、民がモーセに言い争っているのに対して、モーセは主に叫んでいます。私たちは人相手にして言い争いをしてしまいますが、もっとも安全な場所は主に叫ぶことです。
17:5 主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
主はものすごいことをしてくださいました。ナイル川を血に変えたり、紅海を分れさせたりした時に主が用いられたこの杖を、今、岩を打つことによって水をほとばしり出るようにしてくださいました。詩篇には、「主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。(105:41)」とあるので、川になるほどの大いなる水がほとばしり出たのです。マラの時には、「木の枝を投げ入れなさい。」と主は命じられましたが、ここでも同じように人間の知性は反発するような命令です。けれども、モーセは聞き従いました。
私たちは、イスラエルの人たちに起こることは、私たちイエス・キリストを信じる者にとって教材であることを学びました。キリストにある関係、その目に見えない関係が、神がイスラエルという共同体を通して見せてくださる御業によって、見せてくださっています。前回は、紅海が分かれるのは水のバプテスマを表していることを学びました。
ではコリント第一10章を開いてください。1節から4節までをお読みします。「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」岩については、キリストを表しています。岩が杖によって打たれたのはキリストが打たれたことを表し、そしてそこから水が出てきたのは御霊の現れを表していたのです。
聖書にはしばしばメシヤあるいはキリストが「岩」として登場します。その地域には岩や石が多いので、安定や力、また洞窟であれば避ける所を表しています。そして、イザヤ書53章にはこう書いてあります。「彼への懲らしめが私たちのために平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(6節)」キリストがその体に鞭を打たれました。それが、モーセが杖で岩を打つことに表れていたのです。
そしてキリストが打たれて、死なれた、その後には御霊の水が流れ出します。主はよみがえり、天に昇られ、そして聖霊を私たちに送ってくださいました。主は、打たれて傷を負われたキリストに寄りすがる者には御霊による心と魂の潤いを与えてくださいます。「わたしが信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38)」
モーセはただ主の命令に従っただけなのですが、このようにしてキリストの証しを立てていました。同じように私たちも、自分の知性では納得できないことが起きても、主が言われることですからということで従う時に、キリストを現しているのです。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」と言って、主を試みたからである。
「主を試みる」という罪の問題です。これは、今自分が置かれている状況に耐えられなくなって、それであえてしてはいけないことを行うことを意味します。水が足りなければ、その水を与えてくださる主に願えばよいのですが、主が与えてくださると信じないで、「主は私から離れ去った」と断定します。そして、してはならないことをするのです。イスラエルの民のように怒り、争うこともあるでしょう。あるいは、神に対して心を冷たくして、静かに去っていくこともあるかもしれません。「他の人には神はいるのかもしれないが、自分にはいないさ!」という態度です。
もう一つ、聖書に出てくる「主を試みる」罪は、主がある約束をされているので、「それでは、その約束を自分のものとするために、一度、試してみるか。」と開き直ることです。罪が増し加わるところには、恵みが満ち溢れるというローマ5章の御言葉を使って、あえてたくさん罪を犯してみたり、あるいは、イエス様は悪魔の誘惑に対抗し、神殿の頂から飛び降りることを拒まれました。御使いが支えてくれるという詩篇の言葉を試すことになるからです。または、マルコ16章には、「毒蛇を掴んでも害を受けない。」という言葉によって、あえて毒蛇掴みを行ってみたりします。この罪を避けなければいけません。
2B アマレク人 8−16
私たちは霊的にも、荒野の旅をすると内側の格闘が起こります。主への信頼において自分の信仰が試されます。けれども物理的に、外側で起こる戦いもあります。次に同じレフィディムで、イスラエルの民は、アマレク人の攻撃を受けました。
17:8 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。
アマレク人は、ヤコブの兄エサウの孫アマレクを父祖としています。彼らは、ここシナイ半島に住んでいました。モーセは晩年にこの戦いのことを回想しています。申命記25章17-18節です、「あなたがたがエジプトから出て、その道中で、アマレクがあなたにした事を忘れないこと。彼は、神を恐れることなく、道であなたを襲い、あなたが疲れて弱っているときに、あなたのうしろの落後者をみな、切り倒したのである。」イスラエルの弱さに付け込んで挑発的な攻撃をしました。
17:9 モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」17:10 ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。
ここにモーセの後継者である、ヨシュアが初めて登場しました。彼の初めの務めは戦うことでした。後にカナン人と戦う指揮者となりましたが、若い時にこのように戦い始めています。そしてここの戦いの決め手は、ヨシュアたちの戦い以上にモーセの神の杖です。次をご覧ください。
17:11 モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。
モーセが手を上げている時、すなわちこの戦いのために主に祈りを捧げている時は優勢であり、そうでない時はアマレクが優勢なのです。
17:12 しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。17:13 ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。
モーセの他に、アロンとフルがいっしょに丘の頂に上ったのは、モーセの助手となるためでした。その助けは、単に手を上げることでした。けれども、これがとてつもなく大事な働きだったのです。勝敗はモーセの杖と手にかかっていたのです。これを支えることこそが、イスラエル全体を勝利に導くのです。
ここにキリスト者に対する神の霊的な教えがあります。それは、「祈りによる霊の戦い」です。私たちが荒野の旅をイスラエルが行うように、信仰の歩みをしている中で、信仰的に前進していく中で、反対勢力が動き始めます。悪魔や悪霊どもです。この堕落した天使の存在がいることを私たちは認めなければいけません。
エペソ6章10節から12節まで読みます。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」ですから、私たちが霊的に一歩前進すると、何か妨げが来ます。混乱であったり、恐れであったり、あるいは忙しさであったり、単なる用事であったり、主の働きがそれ以上前に進むことのないように、あらゆる形で仕向けてくるのです。
そこで私たちは、自分たちの力で行動に移すと、サタンの思う壺なのです。私たちは、キリストにあってすでに悪魔に勝利しています。したがって、自分の武器ではなく神の武器を持つべきです。その中の一つが「執り成しの祈り」です。18節を読みます。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」執り成しの祈りを捧げるには、忍耐が必要です。また目を覚ましていることが必要です。意識的に祈っていき、ちょうどモーセが疲れて手を上げられなくなるように、疲れもやってきます。
けれども、モーセをアロンとフルが手助けしました。つまり、祈りと御言葉に専念する人を支えていくことは大きな奉仕なのです。皆さんが互いに祈りによって、そして具体的な奉仕によって助けていくことは、霊の戦いに打ち勝つことのできる決め手になります。
17:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」17:15 モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、17:16 「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。
アドナイ・ニシあるいは「ヤハウェ・ニシ」は「主は我が旗」という意味です。主が戦ってくださるということです。覚えていますか、神の名前は、「わたしはある」というものであり、私たちの必要になってくださいます。ここでは戦いになってくださるのです。
そしてアマレクの名が永遠に消し去られるようにとモーセは願っています。なぜなら、これはその時の感情を話しているのではなく、アマレク人がイスラエルの歴史の中でいつまでもイスラエルを滅ぼそうとする敵になっていくからです。ダビデの時代まで、いや実にエステル記に出てくる、ユダヤ人全滅を企むハマンは、アマレク人の末裔でした。
3A イテロとの再会 18
この内側と外側の戦いの後は、すばらしい再会の時となります。かつてモーセがエジプトから逃げ、そして井戸でいじめられている娘たちを助け出し、その一人の娘と結婚したイテロの家族がモーセに会いに来たからです。
1B 主の救いへの賛美 1−12
18:1 さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。
ミデヤン人は偶像を拝んでいましたが、イテロは違いました。モーセを通して、イスラエルにはまことの神がおり、この方がエジプトからイスラエルの民を救い出してくださったことを聞いて喜びました。
18:2 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラと18:3 そのふたりの息子を連れて行った。そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ。」という意味である。18:4 もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた。」という意味である。
覚えていますか、モーセが神から、エジプトに戻るように命じられて、その旅を始めた時は妻のチッポラと息子といっしょでした。けれども、息子が割礼を受けていなかったので、モーセが主によって殺されようとしていました。それでチッポラは割礼を息子に授け、それをモーセの両足につけ、「あなたは血の花婿です。」と言ったのです(4:25)。その時に、チッポラと息子たちはイテロのところに戻っていたのです。
モーセは二人の息子がいて、その名前には意味を持っています。初めに生まれた子には、「外国にいる寄留者」という意味を持たせましたが、それにはイスラエルの民と離れた孤独感が示されています。けれども、信仰を取り戻し「エリエゼル」という名を二人目の子には付けました。「神は我が助け」という意味です。
18:5 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。
ホレブの山、シナイ山のことです。かつてモーセが、燃え尽きない柴を見ていたところです。
18:6 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」18:7 モーセは、しゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕にはいった。
当時の習慣から、モーセを舅を出迎えるようにさせました。
18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。18:9 イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手から救い出してくださったことを喜んだ。18:10 イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。18:11 今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」
すばらしいですね、イテロはミデヤン人の神々の祭司であったにも関わらず、今は完全にイスラエルの神、主を受け入れています。
18:12 モーセのしゅうとイテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た。
すばらしいですね、イスラエルの神のためにいけにえも用意しています。
2B 役割分担 13−27
そしてイテロが、知恵に満ちた助言を行います。
18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。18:14 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」18:15 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。18:16 彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」
イスラエルの民は成年男子だけで60万人いますから、当然のことながら相互間の諸々の問題が起こります。それをモーセが対処していました。
18:17 するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。18:18 あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。18:19 さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。18:20 あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。
イテロがモーセに助言を与えています。要は、自分だけですべての問題処理を行ってはならないという勧めです。モーセが専念しなければいけないのは、「彼らにおきてとおしえを与える」ことです。そして、事件を人の前で対処するのではなく、神の前に持っていくことです。つまり、御言葉と祈りに専念することです。
18:21 あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。
他に裁く人々を選出します。その基準がとても大事ですね。初めに「神を恐れる人」です。これが、神に属する事柄に従事する人の第一の特徴になっていなければなりません。どんなに能力のある人でも神を恐れるということをしていなければ、その人を神の働きの中に入れさせてはいけません。
次に「力のある人々」です。神から能力を与えられている人、賜物のある人です。そして次に「不正の利を憎む誠実な人々」です。人は権威が与えられると、腐敗する傾向を持っています。その権威を濫用するからです。けれども、それを憎むという特徴を持っている人でなければいけません。
新約聖書でも教会の指導者には、同じような資格が要求されています。例えばテトスの手紙には監督についてパウロがこう書いています。「監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。(1:7-9)」イテロがモーセに助言した資質と同じですね。
18:22 いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。18:23 もしあなたがこのことを行なえば、・・神があなたに命じられるのですが、・・あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。」
このような実際的な問題は、教会の中でも起こります。使徒たちが同じようにして、責任分担をして問題を解決しました。初代教会では、完全な共同生活、財産も共有している生活を送っていました。それで配給が、ギリシヤ系ユダヤ人のやもめが、ヘブル系のユダヤ人のやもめよりもなおざりにされていると感じたからです。
それで十二使徒は弟子たちを全員集めて、こう決めました。使徒の働き6章2節からです。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」(2-4節)」使徒たちも、モーセと同じように祈りと御言葉に専念しました。そしてその他のことは、御霊と知恵に満たされた、評判のよい人を選びます。彼らの働きは「執事」と呼ばれるようになります。
このように、私たちは、教会全員にとって益になるように重荷を担う必要があります。そして指導者である牧師が、祈りと御言葉の妨げにならないように、他の事柄を他の人々が受け持つ必要があります。また受け持つ人々は、ただ能力があるからではなく、主イエス様を愛し、御霊に関する事柄を追い求めている人、そしてそれにしたがって神の知恵をいただいている人でなければいけません。
18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。18:25 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。18:26 いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。18:27 それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った。
モーセはイテロの助言を素直に受け入れました。そしてイテロは故郷に戻っています。この時点でチッポラと息子二人はイスラエルの民と共にとどまります。
次回はついに、シナイ山のふもとに到着します。ここで彼らは、「旧約」とも呼ばれる、モーセを通しての契約を神と結ぶことになります。